学位論文要旨



No 117652
著者(漢字) 松尾,美希
著者(英字)
著者(カナ) マツオ,ミキ
標題(和) ガラス熱力学
標題(洋) Thermodynamics of Glass
報告番号 117652
報告番号 甲17652
学位授与日 2002.10.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第392号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 佐々,真一
 東京大学 教授 金子,邦彦
 東京大学 助教授 加藤,雄介
 東京大学 教授 高山,一
 東京大学 教授 佐野,雅己
内容要旨 要旨を表示する

 外界からの情報を記憶し、自立的なを発展し、そして多様な構造を生み出す。そのような性質を持つシステムは、非線形非平衡の状況下において普遍的で自然な動力学過程である。このような動力学過程を生み出す基本法則、これを探求するにはどうしたらよいのであろうか。本論における著者独自の信念は、この問題に挑むためのヒントがGlassにある、と考えていることだ。なぜならばGlassはその最低限必要な要素であると思われる『記憶』および『多様性』をその性質として保持しているからだ。おそらく、Glassはこの二つの性質をもつ系のなかで、最も単純な系である。そのことは、これまで主に無機的世界の記述に成功してきた物理学を、重い腰を上げさせてその記述に向けて駆り立てようとする力強い要素の一つである。無論有機的世界の記述を視野に入れるべきことは当然であるが、そのまず一歩としてGlassを探求することは、地道な進歩を歩むことを運命づけられている科学の為すべきことではないだろうか。それ故にこそ、本論ではGlassの研究を公表し、議論する。特に我々は本論では、Glass状態の巨視的法則、すなわちGlass熱力学を形式化できるかを問い、Glassとは何かについての形式的理解を目指す。

 本論で思考のてこに用いるのは、操作論的思考法であり、単純なrugged energy landscape (REL)描像への帰依からの脱却である。REL描像は、非常にシンプルでわかりやすいGlass描像だ。これが重要な観点を提供するときがあることは確かである。しかしこの描像は操作論的思考法とは直接にはつながっておらず、操作論的な意味でのGlassとは何かという問いには答えられない。操作論的な意味でのGlassを考える上でのキーワードは、安定性概念による状態の区別である。REL描像では、過冷却液体とGlassとの間に安定性概念からの区別は存在しない。我々が為すべきことの一つは、Glassの安定性を表現する新しい安定性概念を構成することである。

 我々はまず、Glass状態の熱力学的性質を問題にする。Glassの操作論的意味での重要な性質をまず取り出そうというのだ。Glass状態を保有するモデルを数値的に動かし、そこに巨視的操作を加えることによって、Glass状態の熱力学的性質を実測する。その数値計算の対象としてまずbinary latticegas modelを導入する。まずこのモデルがGlass転移を経験することをモンテカルロシュミレーションによってしめす。次にその熱力学的性質を調べために、ピストンをあらわすポテンシャルをモデルに導入する。〓で与えられる。特に我々はピストンを次の2次関数の形で表現する。〓このピストンによりGlassを圧縮および膨張させる循環操作を行う。この操作に必要な仕事をGlass状態にある系に対して測ると、準静的極限においても有限の値を持つことがしめされる。すなわちGlass状態では、平衡熱力学における要請の一つである準静的操作の可逆性が破綻し、準静的操作に対しても不可逆仕事が必要であることをしめしている。これはRheologyの言葉で言えば、Glass転移によって系に降伏応力が発生することを意味する。

 次に熱力学をしてゆらぎの理論からの概念分析によって、この不可逆性の巨視的起源を知る上で、揺動散逸関係が重要な鍵となっていることがわかる。よってGlassにおけるゆらぎと応答の関係を考察する。第2章で導入したbinary lattice gas modelを再び用いて、Glass状態においてゆらぎと応答がどのような関係になっているか数値的に調べる。ここにおいて我々は平衡状態ならば成立する揺動散逸関係が、Glass状態において破綻していることを見る。この揺動散逸関係の破綻が、Glass状態における準静的極限でも無視できない不可逆性に結びつけられる。揺動散逸関係の破綻は、系を構成する粒子の間の集団運動によって引き起こされていることを推察する。そしてさらに考察を重ねることによって、Glassの応答には2つのplateau scaleが存在が示唆され、Glass現象論を構成できる可能性が見出される。

 このようなGlassの重要な性質が見出されたわけだが、それらすべてマクロに閉じた形で記述できる可能性を示唆する方法が存在する。次にはそれを概観しその適切な解釈方法を提供する。理論解析にとって前章までで用いてきた離散モデルは非常に扱いにくいので、ここでは性質を共有していると思われる連続系Glassモデルを導入する。このモデルを古典確率動力学を経路積分法の考え方から定式化したMartin、Siggia、RoseおよびDeDominicis、Janssenの系統的方法を用いて解析する。この適用はSompolinsky-Zippeliusに習う。それによって得られた巨視的方程式をいかに解釈すべきか考え、前章まで得られたGlassの重要な性質を説明することを試みる。そしてそこからGlass性によって生み出される新しい概念を汲み取る。例えば、非線形記憶力学系としてのGlassが見出され、Glassを安定化させている要因として記憶に誘起された安定性(Memory Induced Stability: MIS)が見出され、Glass状態を記述する分岐として疑似分岐が見出され、奴隷化原理へのGlass的反乱が見出される。

 そして最後に、Glass性の思考応用として、粉体、アルゴリズム複雑性、Glass普遍性、初期化学進化過程について考える。

審査要旨 要旨を表示する

 ガラス状態における物性がその状態に至る履歴に依存することは古くから知られている。近年のスピングラス研究の発展やモード結合理論のガラス状態への適用により、統計理論として扱える領域はひろがってきたが、履歴依存性を正面から扱うのは難しい問題として現在に至っている。提出された松尾美希氏の博士論文は、ガラスの巨視的性質に関する操作論的な特徴づけを考察し、ガラス状態のみならず記憶をもつ非平衡系に対する新しい展望を切り開こうとするものである。

 本論文は6章130ページからなる。第1章では、ガラス状態を記憶の存在によって維持される非平衡状態として位置づけ、その形式化が完成するなら、ガラスの問題を越えて、ひろく非平衡世界の新しい見方ができるだろう、という壮大な動機がのべられる。そして、ガラスの巨視的性質の操作論的な特徴づけが最初に考えるべき問題だと説明される。

 第2章では、2成分格子気体モデルの数値実験の結果が述べられる。このモデルは、ランダムネスを最初から仮定せずにガラス転移が確認でき、エネルギー論的な対応が可能なもっとも簡単なものとして松尾氏が提案したものである。系の実効的な体積を変化させるようなポテンシャルの時間変化をつかって、体積変化にともなう仕事とガラス転移の関係が議論され、ガラス状態を経由すると準静的極限においても不可逆仕事が有限に残ることが見出される。

 第3章で議論されるように、この事実はいくつかの基本的な問題をなげかけることになる。まず、準静的極限における不可逆仕事の存在は、レオロジー論の立場からは、降伏応力の発生を意味することになる。降伏応力をもつ現象論的なモデルとしてビンガム流体が知られているが、そのミクロな機構としてガラス転移が関わる可能性が示唆されることになる。第2に、ガラス状態を熱力学系として記述しようとすると、熱力学安定性を与える重要な公理である比較仮説が失われることになる。ことことから、ガラス状態のもっている安定性について深く考える必要が生じる。第3に、熱力学系としての記述ができないことから揺らぎの理論、とくに、揺動散逸関係の存在に疑問がもたれることになる。

 最後の点について具体的な考察をすすめたのが第4章である。通常の揺動散逸定理のガラス系への拡張は既に提案されており、その定理にもとづいて熱力学関数の存在を主張する研究もある。これらの先行研究と松尾氏が見出した準静的極限で残る不可逆仕事の関係は一見して矛盾するもである。そこで、2成分格子気体モデルにおける揺動散逸関係が数値的に調べられることになる。その結果、数値実験として実際に実現される応答関数には、提案されている揺動散逸定理で表現されない部分が寄与し、そのことが揺動散逸関係の破れにつながることが示唆される。

 以上の数値実験の結果をうけて、第5章で、動的平均場理論で導出された密度、応答関数、相関関数の閉じた時間発展方程式が議論される。具体的には、先行研究との関係を明確にするために、揺動散逸関係が閉じた形で導出されているモデルが解析される。この時間発展方程式は、非線形な記憶項をもつ無限自由度力学系であり、力学系として非自明なものである。ここで、力学系の変数である応答関数は、線形応答を先に考えてから熱力学極限をとったものであり、微視的応答関数とよばれる。それとは別に、力学系における無限小外場に対する密度の応答を考えることができる。熱力学極限を先にとって外場に対する密度の線形応答をみたものに相当するので巨視的応答関数とよばれる。ガラス状態では、このふたつの応答関数が一致しないことが示される。

 つまり、揺動散逸関係を満たす解はたしかに存在するのだが、無限小の外場でこの解は実現されない、というある種の構造不安定性が存在することが示されたことになる。第4章の数値実験で示唆された結果は、このような明確な形で理解されることになる。さらに、この力学系にもとづいて、第2章で議論した準静的過程の残る不可逆仕事の存在も確認され、不可逆仕事と揺動散逸関係の破れの定量的な関係が予想される。

 以上のように、松尾氏はその論文において、ガラス状態の操作論的な特徴づけに関して重要な知見をみいだした。実験との関係やより完全な理論に関しては、今後明らかにされるべきであるが、論文で見出された事実やそれがもたらす新しい問題提起だけでも科学の発展に十分な寄与をしている。

 また、第6章で議論されているように、この論文は、ガラス状態の理解をおしすすめるだけでなく、そこからひろく非平衡系への新しい研究の方向性を与えている。既に具体的に問題とされはじめている摩擦や粉体との関係だけでなく、アルゴリズム論的複雑性との関係や化学反応ネットワークを介した生命の起源の問題まで触れられる。これらは多くの人が論じてきたテーマであるが、松尾氏が自分自身のガラス状態の研究を通じて独自に培ってきたものであり、新しい研究への駆動力を与えることになる可能性を秘めている。

 なお、本論文の内容は、第2章が論文として出版されており、第4章が論文投稿中であり、第5章に関連した投稿論文を準備中である。

 以上の点から本論文は博士(学術)の学位を与えるのにふさわしい内容であると審査委員会は全員一致で判定した。

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