学位論文要旨



No 117654
著者(漢字) ナンダ バハドゥラ シン
著者(英字) Nanda Bahadur Singh
著者(カナ) ナンダ バハドゥラ シン
標題(和) ネパールの先住民族に関する民族遺伝学及び民族生物学的研究
標題(洋) Ethno-genetic and ethno-biological studies of Nepalese indigenous populations
報告番号 117654
報告番号 甲17654
学位授与日 2002.10.31
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4259号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 石田,貴文
 東京大学 教授 青木,健一
 東京大学 教授 木村,賛
 東京大学 教授 平井,百樹
 東京大学 助教授 植田,信太郎
内容要旨 要旨を表示する

 ネパールは中国とインドの間に位置し、その人口は2001年7月の時点でおよそ2千5百万人で、75を越える言語および方言を話す61の民族集団で構成されている。その民族集団は、主としてコーカソイド系(アーリア系)とモンゴロイド系を背景とし、歴史的に前者はネパール南部に、後者は北・東北部に展開している。これら民族集団の形成過程については伝記・史書に記されているものの、自然科学的検証あるいは遺伝学的検討はなされて来なかった。本研究では、異なる民族分類上の背景を持ち、比較的隔離されたネパールの先住6民族について、遺伝学的解析と疫学的検索からそれらの民族の、環境への適応と民族形成時における他民族との関わりを知ることを目的とした。

 本研究で対象としたのは、Chepang(チェパン)族、Chidimar(チディマール)族、Gurung(グルン)族、Munda(ムンダ)族、Raute(ラウテ)族とThakali(タカリ)族である。言語学的視点からは、チディマール族はインドヨーロッパ語族に分類され、チェパン・グルン・ラウテおよびタカリ族はシナ・チベット語族のチベット・ビルマ諸語に、ムンダ族はオーストロ-アジア語族のムンダ諸語に分類される。コーカソイド系とモンゴロイド系先住民の混血によると言われるタカリ、その外見からドラヴィダ系とも言われるムンダ、最も他から隔離されてきたネパール唯一の非定住狩猟採集民であるラウテ等、その由来には不明な点が多い。

試料提供者の同意承諾を得た後、チェパン72人、チディマール35人、ムンダ88人、ラウテ102人から血液試料を、グルン68人、タカリ91人から爪試料を採取し、以下の検索に用いた。

熱帯熱マラリア抵抗性を示すことが知られるグルコース-6-リン酸脱水素酵素(G6PD)欠損の有無を、フォルマザンリング法を用い4集団297の血液試料について検索した。その結果、ラウテで25.5%、ムンダで7.7%、チェパンで3.0%の欠損が確認された(男性試料による)。チディマールには欠損は見られなかった。前3集団の欠損頻度は、その居住する高度が高いと下がる傾向が見られ、高度依存的分布を示すマラリア症による選択が考えられた。フォルマザンリング法で見いだされた31のG6PD欠損個体について、その分子背景を明らかにするためPCR法とシーケンシング法による遺伝子解析をおこなった。その結果、G6PD欠損をになうCoimbra、Mahidol、Mediterranean及びOrissa型突然変異を見いだした。インドの非アーリアンに分布するOrissa型と、主としてコーカソイド系に見いだされるMediterranean型がムンダに、東南アジアのモンゴロイド系に見られるMahidol型がラウテに、主に中国で見いだされるCoimbra型がムンダとチェパンに存在した。これら集団特異的な突然変異のネパールの先住民族における分布は以下のことを示唆している。すなわち、ラウテにMahidol型、チェパンにCoimbra型が存在したことは、これら2集団のモンゴロイド系出自に合致するが、ムンダの民族形成には複数の異なる民族の混合・流入が示唆された。

ダフィー抗原は三日熱マラリア原虫の受容体で、非発現型のアフリカのダフィー・ヌル型は三日熱マラリアに抵抗性を示す。アジア型ダフィー・ヌルの検索過程において、ダフィー遺伝子のプロモータ領域とコード領域に新たな変異を見いだした。それらの多型性を東南アジアのモンゴロイド集団で確認した後ネパールの6先住民族に適用した。プロモータ領域に見いだされた1塩基Tの挿入は6集団全てに見られ、その起源の古さを示した。コドン69にロイシンからフェニルアラニンへの置換をもたらすCからTへの塩基置換が見いだされた。この置換はダフィーA型とハプロタイプを構成し、コーカソイド系のチディマールでは見いだされなかった。

バンド3タンパクは赤血球膜タンパクの1つで、その9アミノ酸残基欠失は、マラリア抵抗性を示すと言われる東南アジア型卵形赤血球症を惹起する。9アミノ酸残基欠失、すなわち、27塩基対欠失はオーストロネシア語族を話す集団特有と考えられている。ネパールの4モンゴロイド系を含む6集団でこの欠失が全く見いだされなかったことは、民族形成過程におけるオーストロネシア語族の非関与を支持した。

ケモカイン受容体遺伝子CCR5には、コーカソイド系に偏在する32塩基対の欠失型対立遺伝子が見つかっている。CCR5はヒト免疫不全ウイルス(HIV)の補助受容体であり、変異型ホモ接合体はHIV感染が阻止される。今回の検索で、欠失型はコーカソイド系チディマール(遺伝子頻度0.086)に見いだされたのに加え、過去に混血があったとされるタカリでも低頻度(0.016)ではあるが存在した。他4集団では皆無であった。

ストローマ細胞由来因子(SDF1)の遺伝子には、人類集団で多型性を示すSDF1-3'G/3'A変異が知られ、SDF1-3'Aの頻度はメラネシアで高い。ネパールの6集団全てにSDF1-3'Aが見いだされ、その頻度は0.064(ラウテ)〜0.287(タカリ)であった。これらの頻度は概ねコーカソイド系及びアジア大陸部モンゴロイド系と同等であった。

癌抑制遺伝子p53のコドン72には、プロリン型とアルギニン型の2つの対立遺伝子が存在し、人類集団で広く多型性を示している。また、遺伝子型によって癌の罹患率が変わるという報告もある。検索の対象とした6集団ではプロリン対立遺伝子頻度は、コーカソイド系のチディマールで高く(0.786)、ムンダを中間に(0.500)、モンゴロイド系のタカリ、チェパンおよびグルンにおいて低かった(0.220-9.353)。モンゴロイド系のラウテが0.627と高い頻度を示したのは、隔離小集団のためと推測された。

 近年、メダカの体色変異を説明する遺伝子の1つとして同定されたAIM1遺伝子は、ヒトにおいてコドン374の変異(ロイシンからフェニルアラニン)とその多型性が相次いで報告された。いわゆる人種レベルでは、白人のみに高頻度にフェニルアラニン型が報告されているが、皮膚色との関連は不明であった。本研究において、有色のコーカソイド系のチディマールでフェニルアラニン型の対立遺伝子頻度は0.114と存在はするものの低い値を示した。モンゴロイド系のチェパン、タカリ、グルンおよびラウテで、フェニルアラニン型は皆無であった。ムンダにおいてフェニルアラニン型が低頻度で見いだされたことは、G6PD同様コーカソイドからの遺伝子拡散を示唆した。いわゆる白人コーカソイドと対極的に、有色のコーカソイド系でフェニルアラニン型の対立遺伝子頻度が低い値を示したことは、ヒトの皮膚色変異に対しAIM1遺伝子多型の関与を示唆することが出来た。

 アルデヒド脱水素酵素2型(ALDH2)はアルコール代謝に関与し、その変異型対立遺伝子ALDH2*2はモンゴロイド系民族に分布する。対象とした6集団で、ALDH2*2はモンゴロイド系のチェパン、グルン、ラウテおよびタカリにのみ見いだされ、チディマールはもとより、ムンダでも存在しなかった。前4集団でのALDH2*2の頻度は、東北アジア(中国・韓国・日本)より東南アジア及びチベットのモンゴロイド集団に類似した。

 上記7遺伝子座の遺伝子頻度データを用いNei及びCavalli-Sforzaの遺伝距離を算出した。それら遺伝距離をもとに6集団の類縁関係を調べた。系統樹の作成には、近隣結合法と平均距離法を用いた。いずれの遺伝距離を用いてもモンゴロイド系のグルン、タカリ、チェパンは1クラスターを形成し、ムンダとラウテをはさみ、コーカソイド系のチディマールは他端に位置した。この、遺伝子頻度に基づく系統関係のトポロジーは言語による民族の分類と良く一致した。その、使用言語・外見から独立した分類をされてきたムンダがモンゴロイド系の内側に位置したことは、民族形成にかかわる主要な骨子がモンゴロイド系であることを示している。

B型肝炎ウイルス(HBV)、C型肝炎ウイルス(HCV)、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)、及び、ヒトT細胞指向性レトロウイルス(HTLV-1)のチェパン、ムンダ、ラウテにおける感染状況を血清疫学的に検索した。HCVおよびHTLV-1は調査された3集団には見いだされなかった。HBV感染歴は、ラウテで31.4%、ムンダで5.7%であった。ラウテに1名1HIV-1抗体陽性者が見いだされたことは、遺伝子解析の結果が、ラウテが従来隔離されてきた集団であることを示しているのに対し、近年の外界からの接触を示した。前述のp53多型がHCV感染に影響するとの報告がなされたのに対し、本研究ではHBV保持者と多型について関連の有無を調べた。HBV保持者は特定の対立遺伝子を保有することは無かった。

本研究は、ネパールの先住6民族を特徴づけるために民族遺伝学・生物学的研究をおこなった。これら先住民は比較的隔離されてきたことが示されたが、その民族形成過程において他集団からの遺伝子流入も示された。すなわち、コーカソイド系とモンゴロイド系との混血によると言い伝えられるタカリには、コーカソイド系遺伝的特徴の混入が見られた。言語からモンゴロイド系に該当するラウテは、遺伝的にも全くモンゴロイドの特徴を示していた。ムンダに関しては、モンゴロイド系の基盤の上にコーカソイド的遺伝子の流入が見られた。以上より、これまで自然科学的手法がとられてこなかったネパールの民族集団の位置づけを遺伝的背景からおこない、今後の民族集団遺伝学的研究の基礎となった。

審査要旨 要旨を表示する

 ネパールの人口は75を越える言語および方言を話す61の民族集団で構成されている。これら民族集団の形成過程については伝記。史書に記されているものの、自然科学的検証あるいは遺伝学的検討はこれまでなされて来なかった。異なる民族分類上の背景を持ち、比較的隔離されたネパールの先住6民族、Chepang(チェパン)族、Chidimar(チディマール)族、Gurung(グルン)族、Munda(ムンダ)族、Raute(ラウテ)族とThakali(タカリ)族について、遺伝学的解析と疫学的検索からそれら民族形成時における他民族との関わりを研究したのが本論文である。

本論文の第1章で研究全体の背景の説明と位置づけがなされている。第2章は、材料と方法に、第3章は結果、第4章は考察、第5章は全体のまとめにあてられている。

 本研究では、グルコース-6-リン酸脱水素酵素(G6PD)、ダフィー血液型、バンド3タンパク、ケモカイン受容体(CCR5)、ストローマ細胞由来因子(SDF1)、癌抑制遺伝子(p53)、メラノーマ由来抗原(AIM1)、アルデヒド脱水素酵素2型(ALDH2)の8つの遺伝指標を選び、民族特異的遺伝子変異を定性的指標として、多型性を示す変異を定量的指標として検索を進めている。中でも、ダフィー血液型遺伝子のプロモータ領域とコード領域の多型部位は、本研究で新たに見いだされたもので、アジア系の遺伝標識となりうるもので高く評価される。

まず、グルコース-6-リン酸脱水素酵素(G6PD)欠損を惹起する集団特異的分布を示す突然変異を調べ、ラウテ・チェパンの2集団についてはモンゴロイド系出自を示し、ムンダの民族形成における複数の異なる民族の混合・流入を示唆した。

 検索した6集団で、非欠質型バンド3タンパク遺伝子のみ分布していたことは、民族形成過程におけるオーストロネシア語族の非関与を支持した。他6遺伝子7座位では多型性が見られ、(1)タカリ及びムンダにおけるコーカソイド系の遺伝子流入、(2)対照的にチディマールでの非コーカソイドからの隔離が認められた。

 上記7遺伝子座の遺伝子頻度データを用い算出した遺伝距離をもとに6集団の系統樹を作成し類縁関係を調べた。モンゴロイド系のグルン、タカリ、チェパンは1クラスターを形成し、ムンダとラウテをはさみ、コーカソイド系のチディマールは他端に位置した。この、遺伝子頻度に基づく系統関係のトポロジーは言語に基づく民族の分類と良く一致した。その、使用言語・外見から独立した分類をされてきたムンダがモンゴロイド系の内側に位置したことは、民族形成にかかわる主要な骨子がモンゴロイド系であることを示した。

 遺伝形質が集団に固定されるのには比較的長い時間を必要とするのに対し、感染症を起こす病原体の分布は同時代的に他集団との接触の証拠となることがある。本研究め4つのウイルスに関するチェパン、ムンダ、ラウテにおける検索から、遺伝子解析の結果が、ラウテが従来隔離されてきた集団であることを示しているのに対し、近年の外界からの接触を示すこともできた。

 本研究は、ネパールの先住6民族を特徴づけるために民族遺伝学・生物学的研究をおこなった。その民族形成過程において他集団からの遺伝子流入が示された。すなわち、コーカソイド系とモンゴロイド系との混血によると伝わるタカリには、コーカソイド系遺伝的特徴の混入が見られた。言語からモンゴロイド系に該当するラウテは、遺伝的にも全くモンゴロイドの特徴を示していた。ムンダに関しては、モンゴロイド系の基盤の上にコーカソイド的遺伝子の流入が見られた。

 今後は、調査する集団、及び、検索遺伝子数を増やし、より精度の高いデータをもとにネパールの多民族の成立を解明することが望まれる。

 以上より、本論文では、これまで自然科学的手法がとられてこなかったネパールの民族集団の位置づけに関し、遺伝的・疫学的視点からからアプローチし、今後の民族集団遺伝学的研究のさきがけとなったことは高く評価できるものである。

 本論文は、石田貴文・高雄さとみ・木村正子・白川卓・西山馨・Wannapa Settheetham-Ishida・Tiwawech Danai・木村亮介・西岡朋生・清水裕子・中山一大との共著であるが、石田は指導教員として、他は試料提供者、あるいは、材料調製者として共同研究者として名を連ねているもので、本論文にかかわる調査・実験・解析は論文提出者が終始主体となっておこない、その論文への寄与は十分と判断される。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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