学位論文要旨



No 117660
著者(漢字) 土田,宏成
著者(英字)
著者(カナ) ツチダ,ヒロシゲ
標題(和) 近代日本の「国民防空」体制の形成
標題(洋)
報告番号 117660
報告番号 甲17660
学位授与日 2002.11.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第379号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 野島,陽子
 東京大学 助教授 鈴木,淳
 東京大学 教授 北岡,伸一
 東京大学 助教授 広田,照幸
 国学院大学 教授 上山,和雄
内容要旨 要旨を表示する

 本稿は、20世紀の戦争における空襲という新たな戦闘形態の出現が、その後の社会や政治にいかなる影響を及ぼしたのかという問題を、近代日本の「国民防空」体制の形成をテーマとして論じたものである。

 第一次世界大戦以降の総力戦化した戦争においては、戦場にいる敵軍を撃滅するだけでなく、敵国内の産業や敵国民に攻撃を加えることが、勝利への道と考えられるようになった。そうした考え方と、航空兵器の発達が結びつくことで、空襲という新しい戦闘形態が生まれた。空襲による国土の戦場化という事態に対しては、軍だけでなく、一般国民も軍に協力して灯火管制や消防などの活動(「国民防空」)に従事しなければならなかった。

 多くの研究によって、「国民防空」が戦争に向けての国民の組織化や動員に大きなカを発揮したことが指摘されているが、その実態は明らかでない。そこで本稿では、「国民防空」の機構や組織がどのように出来上がっていったのかを、その起源である第一次世界大戦にまでさかのぼり、詳細に検討することにする。

 日本は、一次大戦で空襲を経験しなかった。このことを根拠にしばしば日本は防空に無関心であったといわれるが、1923年に発生した関東大震災は空襲の被害を連想させ、震災によって人々は地震の恐怖を再認識しただけでなく、空襲の恐怖をも実感することになった。空襲の経験は関東大震災によって代替されていたのである。以後、震災と空襲の恐怖は、常にセットで語られるようになる。

 関東大震災では、各公的機関の間の連携が上手くいかず、また、民間の自警団も無統制に流れ、混乱を助長する結果となった。戒厳令下で警備の主体となった陸軍は、こうした反省から、震災などの大規模災害時や戦時の空襲の際における他の公的機関との連携、および自警団を改良した形での国民の組織的動員を考えるようになった(以上、第一章)。

 そうした備えが第一に求められたのは、大都市においてであった。特に関東大震災後、次に大地震が襲来すると考えられていた大阪で、その整備が進み、大阪府、大阪市、陸軍の間の協議により、1924年に「大阪市非常変災要務規約」が作られた。この事実は今まで全く注目されていないが、同規約によって、「非常変災」発生時に、各公的機関の代表を集めた委員会によって、各機関の間の連携を確保し、その下に市民を組織的に動員する態勢が出来たことは画期的なことであった(以上、第二章)。

 昭和の初期、陸軍は新たな事業として防空に力を入れ始める。もっとも当初陸軍は防空を軍縮下における予算獲得の名目程度にしか考えていなかったが、次第にそこにさまざまなメリットを見出していく。防空では国土の戦場化が前提とされるため、その関係する範囲は、治安維持、都市計画、電気・通信など広く国内の一般行政分野にわたっていた。陸軍は防空を通じた社会の軍事的再編成を構想するようになる(以上、第三章第一節)。

 こうして陸軍は防空演習の実施を積極的に進めていくが、軍部外の協力なしにこうした演習を行うのは不可能なことであった。軍縮時代の防空演習において陸軍がどうやって軍部外の協力を取り付けたのかについては、従来説明がなされてこなかった。実はその頃大都市では、空襲だけでなく大地震やストライキなど、治安問題一般への関心が高まっており、陸軍はそうした大都市自治体の関心を利用し、その協力を引き出していたのであった。大都市自治体は、防空演習に、空襲のみならず都市を脅かす様々な危機への対策を期待したのである。例えば、1928年の大阪防空演習のべースには、大阪への大地震襲来に備えて作られた前述の大阪市非常変災要務規約の存在があった。

 昭和初期の防空演習において陸軍は試行錯誤を繰り返しながら、(1)軍と軍部外機関の代表者をメンバーとする委員会を組織し、関係機関の間の連携を確保する、(2)市長の下に在郷軍人会や青年団などの各種団体を統合し、それを地域行政区画に従って組織的に動員する、という軍部外官民の動員・統制システムを確立する。ただし、それは防空演習に際して作られた、あくまでも臨時のものであった(以上、第三章第二節)。

 1930年には陸軍と東京市の協力を軸として、東京府、東京市、警視庁、陸軍の間で、「東京非常変災要務規約」が結ばれた。内容は、大阪の規約を発展させたもので、それまでの防空演習の経験が活かされ、「国民防空」に関する事項が新たに加えられたほか、市長の下に在郷軍人会、青年団などの諸団体を「防護団」として統合組織し、平時から訓練しておくことになっていた。陸軍は軍部外官民の動員・統制システムを恒常的なものにしようとしたのである。しかし、軍縮世論がなお強かったことや費用の問題などにより、防護団の組織も防空演習の実施もなされないまま、1931年の満州事変を迎えることになった(以上、 第四章第一節)。

 満州事変の勃発は防空をめぐる環境を一変させた。満州事変を契機とした防空への関心の高まりを利用して、陸軍は東京市と協力し、防護団の設立、防空演習の実施を具体化していく。そして、1932年に日本で最初の本格的な「国民防空」団体である「東京市連合防護団」が設立され、1933年には東京を中心とする関東防空演習が実施された。

関東防空演習以後、全国的に大規模な防空演習が行われるようになり、それとともに防護団も全国で結成されていく。東京での防空演習は1933年以降も毎年実施され、防護団の訓練から、さらに進んで一般市民の訓練へと発達を遂げる。

 1934年陸軍科学研究所の研究によって、日本にとって最も危険な焼夷弾攻撃への対処法が確立された。それは、全市民が逃げることなく、なるべく早い段階で焼夷弾を発見し、その附近の可燃物への注水によって延焼を防ぐというものだった。これは実際の空襲でも試みられた方法であり、いわば日本型「国民防空」の原型がここに誕生したといえる。以後、それまで灯火管制が主であった防空演習に、重点項目として一般市民による焼夷弾に対する消防訓練も加えられるようになる。これを契機に一般市民の動員が強化され、全国民を防空へ動員していく「国民防空」への道がいよいよ本格的に開かれはじめる。

 焼夷弾による同時多発火災に対する各家庭での防火が課題となるなか、警視庁消防部の提唱により、1937年に「家庭防火群組織要綱」がまとめられた。その内容は、各家庭を近隣の5戸〜20戸をブロックとして「防火群」に組織し、その「防火群」内で協力して消火に当たらせるというものであった。「防火群」は、さらに「町家庭防火団」に組織され、「町家庭防火団」の統制には、防護分団が当たることとされた。こうして「家庭防火群」は既設の防護団機構の下に組み込まれ、東京市連合防護団-各区防護団-防護分団-町家庭防入団-(部)-防火群-各家庭という系統で、市全体の統制が行われることになった。ここに全市民を網羅する「国民防空」システムの骨格が完成した(以上、第四章第二節)。

 さて、「防空演習」を通じて実態としての「国民防空」システムが出来上がっていくなかで、これらを法制化していこうとする動きも起こってくる。

 陸軍は、1933年頃から防空法の制定準備に着手した。ところが「国民防空」の所管をめぐって陸軍と内務省との間で対立が生じた。内務省は、防空を名目とした陸軍の国内行政への介入に強い警戒を抱いたのである。陸軍と内務省の対立の基調には国務と統帥の分立という近代日本が抱える制度的な問題があり、その解決は極めて困難であった。結局、陸軍の譲歩により、最終的には内務省自身の手によって防空法が作り上げられ、1937年4月に公布された「国民防空」は内務省の主管するところとなった。

 防空法によって、「国民防空」のための計画を立てること、そしてその計画に基づいて準備と訓練を行うことが、法的に定められたことは画期的なことであった。こうして「国民防空」の制度的条件が整いつつあったとき、日中戦争が勃発し、その後、防空法(同年10月施行)に基いて防空体制の整備が進められていった(以上、第五章)。

 防空体制の整備が進められていく過程で、末端の「国民防空」活動を担う人的組織(団体)の問題が浮上してきた。それまでの防空演習では、陸軍が市町村を指導して作らせた「国民防空」団体である防護団が活動の中心になっていた。しかし、そうした体制は内務省(警察)によって陸軍による警察権の侵害と認識され、防護団と警察・消防組との間で摩擦を生んだ。そして、内務省(警察)は、防空法によって「国民防空」の主管官庁が内務省とされた後、1939年には警防団令を制定し、警察の管轄下に防護団と消防組を統合した警防団を設置した。日中戦争がいよいよ総力戦の色合いを濃くしていくなか、警防団には、警察補助組織以上の国民動員組織としての役割も期待され、主に防空訓練などの「国民防空」活動を通じて、国民を戦争へと動員していった(以上、第六章)。

 このように「国民防空」体制は長期にわたって段階的に整備され、最終的には文字通り全国民を動員していく巨大なシステムとなり、戦争遂行体制を支えたのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、第一次世界大戦後から第二次世界大戦勃発前までの戦間期を対象とし、20世紀に出現した空襲という新しい戦闘形態が、その後の社会や政治にいかなる影響を及ぼしたのかという問題について「国民防空」の観点から論じたものである。ここにいう「国民防空」とは、空襲の危害を防止し、またはそれによる被害を軽減するため、陸海軍の行う防衛に即応して、国民が行う行為である。

 近代国家が国民に要請した「国民防空」という視角から国家と国民の関係を見ていくことは、性別、年齢、職業、居住地の区別無くすべての国民と軍との関係を考察できるというメリットをもつ。また空襲による国土の戦場化が予想された当該期においては、戦場=軍、銃後=一般行政という、それまで自明のこととされてきた区別がなくなる。「国民防空」を論ずることで、国務と統帥双方の領域にまたがる問題の運用実態についてのより深い解明が可能となるのである。

 上記のような分析視角とメリットをもつ本論文は、以下の点を明らかにし、研究史上に新たな意義を加えたといえる。

1.第一次世界大戦で戦場とならなかった日本においては空襲の危険感は薄かったが、程なく起こった関東大震災の恐怖は、空襲の恐怖を容易に想像させるものであった。こうした点に着目した筆者は、戒厳令下で警備の主体となった陸軍が、震災時の反省から大規模災害時や戦時の空襲の際における地方行政機関との連携の必要性をいち早く自覚し、自警団を改良した形での国民の組織的動員体制整備に着手していった様態を、戦間期を対象として実証的制度史的に明らかにした。

2.各地で展開された都市型の防空演習の実施過程において陸軍は、i)軍と軍部外機関の代表者をメンバーとする委員会を組織し、関係機関の連携を確保する方法、ii)市長の下に在郷軍人会や青年団などを統合し、小学校通学区域を最小単位とする地域行政区画に従ってそれらの団体を組織的に動員するシステム、の確立に成功していった。しかし「国民防空」システムを法制化する作業の中で陸軍は、国務と統帥の境界領域である「国民防空」の所管をめぐり、内務省と競合するようになってゆく。筆者は、陸軍省と内務省の競合関係について、1937年に成立した防空法、1939年に組織された警防団の2例をケーススタディとして取り上げ分析を加えた。

 一方、国民防空に対比されるべき軍防空について必要十分な説明がなかったために、全体として国民防空についての統一的なイメージを結びにくいという点などは問題点として指摘できよう。しかしながら、上記のような成果をあげていることを考慮すれば、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に十分に相当する論文であると判断する。

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