学位論文要旨



No 117662
著者(漢字) 木村,理子
著者(英字)
著者(カナ) キムラ,アヤコ
標題(和) モンゴル演劇成立史 : 1920-30年代、革命の演劇期
標題(洋)
報告番号 117662
報告番号 甲17662
学位授与日 2002.11.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第393号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 刈間,文俊
 東京大学 教授 浦,雅春
 東京大学 教授 松岡,心平
 東京大学 助教授 河合,祥一郎
 東京外国語大学 教授 中見,立夫
内容要旨 要旨を表示する

 モンゴル演劇とは何か。モンゴル近代演劇の成立と同時に、演劇がモンゴル国民の政治と文化の形成過程に果たした役割とは、どのようなものであったのだろうか。

 ソビエト=ロシアは、モンゴルにソビエト政策を実施するにあたり、革命初期の10年間、モンゴル全域にわたる現地調査に力を入れている。モンゴルの自然、風土、文化遺産、仏教文化、地質学、遊牧民生活などについて念入りな現場調査を行ない、その調査資料に基づいて、対モンゴル政策を練り上げた。すなわち、何よりもまず、念入りな現地調査が前提にあってこそ、的確な考察が実現し得えるのである。

 本論文の目的は、モンゴル演劇成立の歴史、ソ連によるモンゴル演劇形成の意義と政策状況、モンゴル演劇の活動内容を解明し、ソビエト宣伝政策と演劇活動、伝統文化の破壊と再生の問題について、1920年代における演劇成立の過程を中心に、ソビエト=ロシアの対モンゴル政策が作り上げたモンゴル演劇とは何か、また、ソビエト政策の基本原則、社会主義政策のパターンから体制を経ても継承される伝統文化について考察することである。また、その考察の基になるフィールド・ワークは、1989年から2000年までの10年間、論者がモンゴルの演劇活動の現場にて行なったものである。

 モンゴル演劇の研究は、日本では未だ全く研究されていない分野であり、本論文は、日本で初めてのモンゴル演劇研究となる。1920年代の演劇資料の処分、史実の書き換え、公文書資料の極秘性などで、研究が進まない分野ではある。本論文は、モンゴル国立歴史中央公文書館及びモンゴル国立演劇博物館収蔵のモンゴル演劇関係資料の他、近年、公刊された『コミンテルンとモンゴル』(1996年)、『モンゴル-ソ連の文化・科学・技術交流(1921-1960)』(2000年)などの対モンゴル政策に関する旧ソ連の公文書史料に基づき、現地でのフィールド・ワークからの考察と合わせ、モンゴルで出版されたモンゴル演劇史関係のほぼすべての文献を照合し、論述している。

 モンゴル演劇は、ソビエト政策の産物である。1920年代の人民革命初期に、コミンテルンの政策に則り、「青年同盟演劇サークル」が民衆に<革命の歴史>を演じて見せたのが、モンゴル演劇の起源であり、モンゴル演劇の成立過程は、社会主義国家のアジテーション活動の歴史でもある。青年同盟演劇サークルとは、コミンテルンによって成立した、「パフォーマンス(演劇)」と「印刷物(新聞、ビラ、文学)」を用いて、イデオロギー宣伝活動を行なう「宣伝部隊」のことである。青年同盟演劇サークルの活動は、ソビエト=ロシアが非ロシア民族共和国において施行した政策と同様に、ロシア革命期のアジプロ演劇をモデルにしている。

 ロシア革命期という「革命を主観的原動力とした革命の実験的時代」に、近代劇場がもつ約束事の枷をはずすことによって成立したソビエト=ロシアのアジプロ演劇に対し、近代劇場が存在しなかったモンゴルでは、イデオロギー宣伝活動において、ソビエト=ロシアのアマチュア・アジプロ演劇のモデルを模倣することが、近代化と西洋化、民族主義につながるものとして受容されていった。

 1920年代のモンゴル演劇は、伝統的「掛け合い歌」による歌劇であった。当時のモンゴル革命青年同盟演劇サークルの演劇活動の「モデル」は、同時期のロシアのコムソモール演劇サークル(1925年以降、トラム[労働者青年劇場])のアマチュア・アジプロ演劇であったと考えられ、演劇に演説と集会が伴ったものであった。また、人民革命期の演劇活動は、文学の役割も担っていたとされ、1920年代の戯曲は、初期のモンゴル近代文学の一つに数えられている。1920年代のモンゴル演劇は、中国演劇の舞台技術、モンゴルの伝統的口承文芸の詩歌形式、ロシア赤軍の宣伝隊の方式をモデルにして作られた<民族文化>であったが、それは、旧社会において育成された人材を用い、中国文化の土壌の上に、ソビエト政策によって形成されたく外来文化の混成物>であった。

 1928年の第7回党大会以後、1920年代の<民族文化>を撲滅するために、政策転換が図られた結果、モンゴル演劇は、1929年から導入された《生きた新聞》によって台詞劇へと作り変えられたことになる。これは、プロの演劇の礎となり、モンゴル近代演劇が形成されていくことになる。つまり、モンゴル演劇とは、ソビエト政策の転換期に齎された<モデル・チェンジ>によって、新たに導入された「ロシア演劇のモデル」を模倣する行為により、段階的に形成されてきたものである。1921年から1925年までは、ロシア革命期の「共産主義的スペクタクル」、「群集劇」、「アジテーション劇場」、1926年から1928年までは、ネップ期の「商業演劇」、1929年の政策転換期より《生きた新聞》、1937年の粛清以降は「社会主義リアリズム演劇」がモンゴル演劇の「モデル」である。また、1920年代の革命青年同盟の演劇サークルは、1929年の政策転換を受け、1930年代に入ると、アジテーション活動(革命青年同盟)、演劇(国立中央劇場)、文学(革命作家協会)の三部門に分離する。1931年の「国立中央劇場」設立が「モンゴル近代演劇」の出発点とされているが、モンゴル近代演劇とは、1920年代の革命青年同盟のアジテーション活動を起源にし、1930年代のスターリン政策による<西洋化>という名の「ソビエト化」によって形成され始めた「モンゴル=ソビエト民族演劇」のことである。

 モンゴルにとっての<西洋化>とは、近代化のための「ヨーロッパ文明の享受」のことであったが、ソビエト政策の<西洋化>とは、「ヨーロッパ文明の享受」ではなく、「旧来の伝統文化を破壊し、新しいソビエト文化を再生すること」であった。1930年代よりロシア人指導員によって、<西洋化>が導入され、「ソビエト化」が押し進められたが、更に、1937年の粛清によって、「1920年代の民族文化」が一掃された後、「社会主義リアリズム演劇」という新しいモデルの模倣によって、「モンゴル=ソビエト民族演劇」という「ソビエト文化」が形成され、今日のモンゴル演劇に至っている。

 モンゴルの「社会主義リアリズム」とは、過去の歴史や日常生活の<架空の現実>を現実の社会において実演することによって、<現実社会の現実>と倒錯させ、自前の政治現象を現実の社会に作り上げるアジテーション活動における<架空の現実>のことである。特に、政策転換期になると、国家権力は自前の政治現象を現実の社会に作り出すために、<架空の現実>を実社会で演じさせている。1920年代の演劇サークルの活動を起源にする、作家協会、劇場、青年同盟は、いずれも、党中央委員会イデオロギー宣伝局の指導監督下に置かれていたが、作家が政策に見合った<架空の現実>のシナリオを書き、劇場がそれを社会主義リアリズム演劇として舞台上で試行する。そして、そのシナリオと演出経験をモデルにし、青年同盟が現実の社会でアジテーション活動として実演していたといえる。「社会主義リアリズム」は、社会主義国家のアジテーション活動の基本方式であり、モンゴルにおいては、常に「ソビエト=ロシアの経験をモデルにして模倣する」というソビエト政策の原則に則って施行されていた。

 1990年のモンゴルの民主化運動とは、社会主義リアリズムの方式と原則に則り、「レーニンによるロシア革命の経験に基づいた1921年の人民革命」をモデルにして、民主同盟が実行した国家的アジテーション活動のことである。「民主同盟」とは、人民革命期の青年同盟演劇サークルを起源にし、「刷新」への政策転換期に、党中央委員会によって組織された、革命青年同盟中央委員会の「イデオロギー宣伝部隊」であった。モンゴルの民主化運動は、ロシア革命期に市の中心、政庁舎前広場で行なわれた「大衆的プロパガンダ」の形式を用い、「刷新」への政策転換を目的として、現実の社会において実演された《生きた新聞》であり、形式はそのままで内容を作り替える「プロレタリア文化」の定義に則り、「人民革命」をモデルにし、レーニン時代の「プロレタリア革命」を再現したものであったといえる。

審査要旨 要旨を表示する

 木村理子氏の博士学位請求論文「モンゴル演劇成立史:1920〜1930年代革命の演劇期」は、日本において空白であったモンゴル近代演劇に関する最初の通史的研究であり、今後の同分野の研究に対する雛型を提示した画期的な試みである。1920年代から1930年代におけるモンゴル演劇の成立過程を中心に、1990年代以降の民主化をも視野に入れて、モンゴルにおける演劇実践とソビエト化とその脱却という錯綜する現代史との関係を、伝統文化の破壊と再生をキーワードとして考察した意欲的な作業と言えるだろう。

 本論文の独自性は、モンゴルにおいて1930年代の粛清によって演劇資料が廃棄され、その演劇史でも無視されていた史実を、広範な文献調査と長期のフィールド・ワークにもとづく考察によって掘り起こした実証性にある。モンゴル国立歴史中央公文書館などの収蔵資料や1990年代以降に公開された旧ソビエトのモンゴル関連資料、さらにはモンゴルで出版された演劇関係のほぼすべての文献を照合し、論述が行われている。本論にはモンゴル国立ドラマ劇場における上映作品年表や多数の図版資料が附され、さらに主要な戯曲と歌曲の歌詞を翻訳した資料集が付録として編まれており、なかにはモンゴルで一部失われたものも含まれている。欧米を含めて先行研究のない分野だけに、その資料的価値は高い。また、モンゴル社会におけるソビエト化の影響を多面的に分析し、民族文化とされるものにも屈折した背景があるとし、1990年代以降の民主化の過程で演劇が果たした役割を1920年代の演劇体験との構造的な平行性として解明したが、そこにはフィールド・ワークによる成果が活かされている。

 本論文は全四章からなる。まず、序文において、モンゴル人民革命の概略が記述され、モンゴルにおける社会主義政策とは、ソビエト=ロシアの提供したモデルを模倣することであり、演劇も外的強制力によって「ソビエト民族文化」が形成され、伝統文化が破壊されるが、この一種の植民地文化が伝統文化を再生させ、それによって伝統文化の存続がもたらされると主張する。この屈折した視点は、モンゴル現代史を考える上での重要な示唆を与えている。

 第一章「人民革命以前の状況」では、木村氏のモンゴルでの博士学位取得論文である「仏教儀礼チャムの研究」をもとに、人民革命以前のモンゴルにおける演劇文化がまとめられている。清朝の禁令によりモンゴル語による演劇行為が存在せず、演劇文化は仏教儀礼と一部の寺院で上演された宗教劇や草原で歌われる口承文芸の世界であり、都市には中国人による芝居があったにすぎないとする。資料も少なく、モンゴルにおいてもまとまった記述のない部分であり、論証を支える深い知識は高く評価されるところだが、すでに失われた演劇を記述する点でさらなる工夫を要するという意見が、審査委員から出された。

 第二章「人民革命と演劇サークル」は、1920年代にアジ=プロ演劇を行うアマチュア団体が軍官学校に結成され、宣伝活動として上演を行う過程でモンゴル演劇が形成されていった経緯を記述する。それはソビエト政策によって形成された外来文化ではあったが、口承文芸と伝統的な詩歌の形式に、中国の舞台技術とロシア赤軍の宣伝隊の混成であり、そこにソビエト文化による新たな民族文化の雛型があったとする。第二章の記述は、モンゴルでは1930年代の粛清によってほぼ抹殺された歴史を扱い、本論文の重要な要素となっている。モンゴル演劇は、ソビエトの社会主義政策によって導入されるモデルを模倣することで段階的に形成されてきたと本論文は主張するが、モンゴルの演劇青年らが混沌としたなかで作り上げていったアジ=プロ演劇の軌跡は、粛清以降の社会主義演劇を考える際にも重要であるという指摘は、肯定されよう。

 第三章の「ソビエト演劇への道程-消えた1920年代の演劇史」では、1929年のコミンテルンの政策転換を受け、ロシア人指導員による西洋演劇の本格的な導入と劇場の時代が詳述される。さらに1937年の粛清により、それ以前の演劇が一掃され、社会主義リアリズム演劇をモデルとするソビエト文化が形成され、今日のモンゴル演劇に至る歩みが示される。粛清による破壊が単純化を生み、「ロシアの経験をモデルにして模倣する」という原則が機能するに至るという主張は、説得力をもつと言えよう。

 第四章「人民革命と民主化運動-モンゴルの「生きた新聞」」は、1989年のモンゴル民主化運動と、その後の10年にわたる民主化への移行期が、演劇的行為との関連で分析される。大衆的プロパガンダの動きや広場でのパフォーマンスなど、民主化を促した一連の運動は1920年代のアジ=プロ演劇やネップ期の演劇の再来を連想させるもので、そこに構造的な平行性があると指摘している。この章は、木村氏のフィールド・ワークの成果が十分に発揮された部分であり、広い視野と深い見識が評価されたところである。

 最後に本論文は、1920年代から1930年代のモンゴル演劇活動の分析から、民主化以降のモンゴル社会の発展を考察する上でも有効なモデルを導き出し、そのアジテーション活動の型がモンゴル社会と文化の形成に影響を与えていると結論づけている。

 全般的にみて、粛清など政治的なさまざま制約から通史的に語られることのなかったモンゴルの演劇史を、アジテーション活動のモデルとして概括し、初めての通史として記述した功績は高く評価される。その点で、審査委員の意見は一致した。モンゴルでも類書のないものであり、ソ連の衛星国における民族文化を考察する上でも、一定の参考価値をもつものであろう。文献資料によって演劇状況を記述するという困難さは、本論文でも散見され、一部に適切とは言えない表現があるとの指摘もなされたが、それらは瑕疵にすぎず、本論文の成果を大きく損なうものではないという点でも、審査委員の意見は一致をみた。

 したがって、本審査委員会は全員一致で、木村理子氏の提出論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定した。

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