学位論文要旨



No 117664
著者(漢字) 渕上,壮太郎
著者(英字)
著者(カナ) フチガミ,ソウタロウ
標題(和) 古典力学から見た水素分子イオンH2+の断熱および非断熱ダイナミクス
標題(洋)
報告番号 117664
報告番号 甲17664
学位授与日 2002.11.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第395号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高塚,和夫
 東京大学 教授 遠藤,泰樹
 東京大学 教授 金子,邦彦
 東京大学 助教授 佐々,真一
 東京大学 助教授 清水,明
内容要旨 要旨を表示する

【序論】

 化学反応を理解するには,分子の運動を量子力学にもとづいて解析する必要がある.このとき,断熱近似(または,Born-Oppenheimer近似)を用いて分子の運動を核の遅い運動と電子の速い運動とに分離するのが常套手段である.しかし,断熱近似にもとづいて化学反応のすべてが理解できるわけではない.断熱近似の破れである「非断熱遷移」の重要性も広く認識されている.しかし,非断熱遷移の動的機構についてはほとんど議論されていない.本研究の目的は,この未解明である非断熱遷移の動的機構について明らかにすることである.

 非断熱遷移の動的機構について調べるには,核の運動と電子の運動を同時に取り扱わなければならない.しかし,量子力学にもとづいてこれを行うことは非常に困難であり,ごく一部の簡単な分子を除いて現実的でない.そこで本研究では,核と電子をともに古典粒子とみなし,古典力学にもとづいてその運動を解析する,古典力学においても,量子力学と同様に,遅い運動と速い運動を分離するという近似概念が存し,同じく断熱近似と呼ばれる.よって,この断熱近似の破れとして「非断熱運動」を定義することができる.この非断熱運動は量子力学における非断熱遷移に対応するものと考えられる.したがって,非断熱運動を抽出しそのダイナミクスを特徴づけることにより,非断熱遷移の動的機構を定性的に理解することを目指す.

 古典力学において断熱近似を実際に実行するための指導原理として,Hakenによる隷従化原理がよく知られている.この原理によれば,異なる時間スケールの運動が混在する系において,速い運動を記述する変数は断熱的に消去することができ,遅い運動を記述する変数のみを用いて系の運動を議論することができる.しかし,この隷従化原理はカオス系において破綻することが知られている.

 分子は核と電子からなるクーロン多体系であり,核と電子の大きな質量差ゆえ,核の遅い運動と電子の速い運動が混在する。しかし,その振舞いは一般にカオス的であるので,隷従化原理を適用することができない.よって,分子に断熱近似を適用するには,隷従化原理に取って代わる新しい指導原理が必要である.本研究では,この新しい指導原理を探求するとともに,分子における断熱運動がどのようなメカニズムによって実現されるのかを明らかにする.

【水素分子イオンH2+】

 本研究では,対象系として,最も簡単な分子である水素分子イオンH2+を取り上げる,水素分子イオンH2+は2核1電子からなるクーロン3体系であり,重力3体系と同様にそのダイナミクスはカオス的である.ここで,核は空間に固定された分子軸上のみを動くと仮定する.また,電子が2次元平面上を動く場合のみを考える.したがって,系の自由度は核1自由度,電子2自由度の計3自由度である.

 この系の古典軌道計算を行った.核間にはたらくクーロン斥力により分子が解離してしまう場合と,電子が媒介となって核間に引力がはたらき,分子が解離することなく結合が維持される場合とが見られる.結合が維持されているとき分子は振動するが,ほぼ周期的な振動を示す場合と,振幅・振動の中心がともに大きく変動する場合とがある.前者は断熱描像がよく成り立っている場合,後者は非断熱運動が顕著な場合に相当すると考えられる.

【断熱不変量にもとづく断熱ダイナミクス】

 古典力学においても,量子力学と同様に,断熱ポテンシャルを考えることができる.具体的には,断熱パラメータの各値に対して断熱不変量が常に一定となる,という条件にもとづき構成する.このようにして構成された断熱ポテンシャルは,断熱パラメータの時間変化が緩やかである限り,妥当なものであることが断熱定理により保証されている.よって,断熱ダイナミクスは,断熱ポテンシャル上の運動として,断熱パラメータの時間発展によって記述される.

 今考えている系では,断熱パラメータは核間距離Rである.核間距離を固定したとき,水素分子イオンH2+は2自由度可積分系となる.したがって,2つの作用変数Jξ,Jηを定義することができる.このJξ,Jηは断熱不変量であるので,その値を一定に保つという条件によって,断熱ポテンシャルを構成することができる.

 しかし,この構成法では,ある範囲の核間距離に対して断熱ポテンシャルが定義できず,断熱ポテンシャルが不連続となってしまう.そこで本研究では,断熱ポテンシャルの構成法を改良することにより,断熱ポテンシャルの連続性を回復させた.図1に断熱ポテンシャルの例を示す.実際の古典軌道の数値計算結果は,断熱ポテンシャルが有効であることを示唆している.

 図1に示した古典軌道には,一定間隔でスパイク構造が見られる.このスパイク構造は,電子が核のごく近くを,高速で,しかも急激に向きを変えながら通り過ぎていくというスイング・バイ運動によるものである.断熱ポテンシャル上の断熱運動に対して,電子の速い運動はノイズのように作用するのではないことがわかる.つまり,隷従化原理で述べられているような遅い運動が速い運動を支配するという描像は成り立っていない.むしろ,遅い運動と速い運動が時間スケールの違いを超えて,協調しあうことによって断熱運動が維持されている.このような時間スケールの異なる運動間の協調は,不安定な遅い運動を安定に維持するための新しいメカニズムであると考えられる.

【断熱不変量で見る非断熱ダイナミクス】

 系が断熱運動をしているとき,その定義から断熱不変量は一定である.したがって,断熱不変量の変化が非断熱運動を表していることになる.図2に断熱不変量Jξ,Jηの時間発展の例を示す.この図より,Jξ,Jηがブラウン運動のような確率過程的な挙動を示していることがわかる.このことは,平均2乗変位の時間発展が線形に増加することからも確かめることができる.非断熱運動が決定論的な挙動を示しているならば,平均2乗変位の時間発展は時間の2乗に比例して増加するはずである.つまり,非断熱運動は決定論的な運動方程式に従っているにもかかわらず,核の運動の時間スケールでは確率過程的な運動として捉えることができる.この確率過程的な挙動の駆動力は,電子のスイング・バイ運動である.電子のスイング・バイ運動はとても速い運動であるので,断熱運動に対して檄力的に作用するとみなすことができる.つまり,この檄力によって断熱運動がカオス的になり,非断熱運動はそれにともなう拡散現象と考えることができる.

 また,図2より,(2Jξ+Jη)/3の時間変化がJξ,Jηの変動に比べてはるかに小さく,近似保存量とみなせることがわかる.実際には,電子がスイング・バイ運動をしている最中には,この近似保存量は保存量とみなすことができないのであるが,電子が高速に運動することからそのような時間はごくわずかであり,電子が核から遠ざかると,再び保存量とみなせるようになる.つまり,この近似保存量はまったく新しいタイプの近似保存量であるということができる.

 この近似保存量の存在により,電子の2つの自由度が非断熱運動を担っているのではなく,「非断熱自由度」と呼ぶべき1つの自由度のみが非断熱運動を担っていることがわかる.残りの1自由度は断熱運動を乱すことのない自由度であり,断熱運動を協調的につくり出す電子の運動を記述している.

【埋め込み手法で見る断熱・非断熱ダイナミクス】

 一般に,断熱ポテンシャルを構成するのに必要な数だけの断熱不変量が見つかることは稀である.したがって,断熱不変量を用いずに断熱・非断熱運動の解析を行いたい.そこで,相空間の構造によって断熱・非断熱ダイナミクスを直接特徴づけることを試みた.

 ポアンカレ断面により離散化した核間距離の時系列データに対し,時間遅れ座標系への埋め込みという手法(埋め込み手法と呼ぶことにする)を適用することにより,相空間の構造を再構成した.図3に再構成された相空間の構造の例を示す.得られた構造はある軸(非断熱軸と呼ぶことにする)周りの回転と軸方向の運動から構成されていると解釈できる.前者が断熱運動である核間振動を,後者が非断熱運動を表していると考えられる.

 再構成相空間内の軌道を非断熱軸へ射影することにより非断熱運動と考えられる運動を抽出することができる.この抽出された運動は断熱不変量の時間発展と良い線形関係が成り立つ.これより,非断熱軸への射影によって抽出された運動が確かに目的とする非断熱運動であることが確認できた.抽出された非断熱運動に対しても,断熱不変量に対する解析と同様の解析を行い,確率拡散的な挙動を示すことがわかった.

 以上のように,散逸系においてアトラクタの構造を調べるための強力な解析手法である埋め込み手法が,時間スケールの異なる運動が混在するハミルトン系においても有力な解析手法となり得ることがわかった.

図1:断熱ポテンシャル(破線)と実際の古典軌道(実線).

断熱ポテンシャルの接続点はR=2.30[a.u.]である.

図2:非断熱運動(Jξ:実線,Jη:破線)と近似保存量(2Jξ+Jη)/3(点線).

図3:埋め込み手法による相空間の構造の再構成.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は5章からなり,第1章では研究の背景説明と研究目的が,第2章から第4章では理論解析の結果が記述されている.第5章は結論を要約した章である.

研究の背景と目的

 分子科学はボルン=オッペンハイマー近似を基礎としている.すなわち,分子振動あるいは化学反応過程での原子核の動きは,断熱ポテンシャル曲面に支配されていると考える.一方,多くの化学反応,特に電荷移動反応や励起移動反応では,ボルン=オッペンハイマー近似の破れが重要な役割を果たすことも知られている.ボルン=オッペンハイマー近似の破れは非断熱遷移,すなわち断熱ポテンシャル曲面の間の遷移として記述される.電荷移動反応や励起移動反応では,反応の前後で電子状態,すなわち電子の運動の形態が変化している.現在の理論化学における非断熱遷移理論では,電子の運動に注意を払うのではなく,むしろ電子の運動を消去して,非断熱遷移の遷移確率を算出するという方針が採用されている.

 本論文の目的は,非断熱遷移は電子のダイナミクスであるという観点から,非断熱遷移に伴う電子の運動形態を明らかにすることである.本論文では問題を限定し,最も簡単な分子である水素分子イオンの分子振動におけるボルン=オッペンハイマー近似の破れ,すなわち非断熱過程を,非線形力学の枠組みから明らかにすることを目的に設定している.原子核の運動を止めたときに生ずる電子運動の古典断熱不変量が、原子核の運動によって破れる過程を究明することに本論分の独創性を認めることができる.

論文の内容

第2章では水素分子イオンの電子の運動を古典力学で扱うことを提案している.非断熱過程を解析する準備として,古典水素分子イオンが安定な分子として存在し得るか否かを,数値計算にもとづいて検討している.その結果,電子の古典軌跡の初期条件を適切に設定すれば,古典水素分子イオンは分子振動周期の数十倍の寿命を持つことが確認された.また,準安定な分子を形成するような電子の初期条件を系統的に調べ上げている.

 第3章は本論文の中核をなす章である.まず,準安定な古典水素分子イオンの分子振動が,多くの場合,断熱不変量を維持する運動からずれていく,という数値計算結果の観察から解析が開始される.非断熱過程は,電子運動が持つ二つの断熱不変量の時間変化を追跡することで直接検知できるが,それらの時間変化は鋭いスパイク構造を持つことが見出された.このスパイク構造は電子が原子核に急接近することに由来するが,分子振動の時間スケールにくらべ非常に短い時間で起こり,分子振動の非断熱過程そのものではないと本論文では断定している.そして,分子の振動周期に対応する長い時間スケールの挙動だけを取り出すために,電子の断熱不変量のポアンカレ写像を定義している.ポアンカレ写像の時間発展の解析から,二つの断熱不変量の長い時間スケールでの時間変化,すなわち非断熱過程を抽出している.統計的解析の結果,その振舞は確率過程的であることが示された.また,二つの断熱不変量は独立ではなく,その整数倍の線型結合が近似的に保存することが見出された.更なる解析から,この近似保存量は二つの電子自由度が核間振動によって結合した非線形共鳴に由来することが示された.以上の解析結果は以下のような結論にまとめられる.電子の運動は非線形共鳴に支配されている.その結果,電子の二つの自由度は(1)近似的保存量となる一つの自由度と(2)非断熱過程に対応するもう一つの自由度に分割して考えることができる.後者の運動は非線形共鳴に沿ったアーノルド拡散である.電子の運動が非線形共鳴に沿って断熱運動から外れていく様子は,適切に選ばれたパラメタ空間の中で描かれた断熱ポテンシャルと非線形共鳴の交差により簡明に理解され,また予測することができる.また,そのようなアーノルド拡散としての非断熱運動はランダムで確率過程的な振舞を示す.

 第4章では埋め込み手法による,核間振動の非断熱運動に対する解析結果が報告されている.ポアンカレ断面により離散化された核間距離の時系列データに対し,時間遅れ座標系への埋め込みという手法を適用することにより,核間振動を断熱過程と非断熱過程の成分に分離できることが示された.

 第5章では結論が要約されている.また,本論文で扱われた問題が,一般的な非断熱過程の中で占める位置について言及されている.

論文の意義

 ボルン=オッペンハイマー近似およびその破れである非断熱過程は,化学反応,とりわけ電荷移動反応および励起移動反応を理解する上で極めて重要な概念である.理論化学の現状では,非断熱遷移の確率の算出のみに意が注がれ,非断熱過程の物理的化学的描像は閑却されてきた.本論文で提案された,非断熱過程を電子の古典ダイナミクスとして理解する,という視点は独創的であるとともに将来的な発展が期待されるものである.そして,本論文では,一電子系二原子分子という狭く限定された問題設定の中ではあるが,非断熱過程にともなう電子の運動形態を,非線形力学の理論体系にもとづいて,明瞭な形で示している.すなわち,電子の運動形態の変化という物理的化学的描像にもとづいて非断熱過程を体系的に理解するという新しい理論化学のアプローチに端緒をつけるものである.化学反応に対する現状の理論化学の方法論は個々のケースの大規模数値計算に頼りがちであるが,物理的化学的描像にもとづいた体系的な理論の構築が望まれる.本論文は,特に電荷移動反応および励起移動反応に対するそのような体系的理論の構築に貢献すると考えられる.

 一方,本論文で取り上げられた水素分子イオンは,古典カオス系の量子古典対応を研究する上で重要な位置を占める.本論文で明らかにされた電子の古典ダイナミクスには,水素分子イオンの半古典量子化に不可欠な情報が含まれており,量子古典対応の研究にも寄与すると考えられる.

結び

 なお本論文中の第3章は,染田清彦氏との共同研究であるが,論文の提出者が主体となって理論解析を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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