学位論文要旨



No 117665
著者(漢字) 伊藤,智ゆき
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,チユキ
標題(和) 朝鮮漢字音研究
標題(洋)
報告番号 117665
報告番号 甲17665
学位授与日 2002.12.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第381号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 福井,玲
 東京大学 教授 上野,善道
 東京大学 教授 熊本,裕
 岡山大学 教授 辻,星児
 早稲田大学 教授 古屋,昭弘
内容要旨 要旨を表示する

 朝鮮漢字音とは,朝鮮語によって中国語を写した借用音の体系であり,日本漢字音・ベトナム漢字音などと並んで,中国語音韻史研究の重要な資料であるとともに,朝鮮語の音韻史研究においても大きな役割を果たすものである。

 本稿で扱う朝鮮漢字音は,主に15世紀末〜16世紀末までの中期朝鮮語文献において使用されているものである。この朝鮮漢字音については,これまで多くの人によって研究が行われてきたが,朝鮮漢字音がいつの時代,どの地方の中国語を写したものであるのか,という点については,さまざまな見解が出されながらも,今なお定説はない。

 一方,中期朝鮮語当時に使われていた朝鮮漢字音は,現代韓国語の漢字音と異なる点が多いだけでなく,文献によっても(時には同じ文献の中でも)異なった字音で現れることが多いが,このような点はまだ十分には明らかにされていない。また従来の研究では,朝鮮漢字音のアクセントについての詳細な研究はほとんど行われていないという問題点もある。つまり,朝鮮漢字音の具体的なデータは十分に整理されているとは言えず,朝鮮漢字音は今なおその全体像が明らかになっていないと言える。したがって,朝鮮漢字音について研究するためには,まず各文献の漢字音を調査・整理することにより,朝鮮漢字音のデータベースを作成することから始めなければならない。

 そのために筆者は,15世紀末〜16世紀末に刊行された26の文献(異本も含む)について,その一つ一つに記載されている漢字音すべてを,可能な限り原本に直接当たって調査し,それらを整理して朝鮮漢字音の一覧表を作成した。これが本研究の添付資料である「漢字音表」であり,各漢字の字音について,文献間の比較・対照が行えるようになっている。

 そしてこの資料に基づき,本稿では次の2点について検討する。

 まず1つ目は,朝鮮漢字音を通して見た各文献の性質の検討である。中期朝鮮語の各文献について書誌学的,音韻的に研究したものは多いが,それらに記載されている漢字音に特に注目して検討しているものは少ないと言える。この検討の結果,次のような結論が得られた。

(1)『六祖法主壇経諺解』と『真言勧供』『三壇施食文諺解』は,同一の人物によって作成されたと言われるが,漢字音においてさまざまな違いを見せる。

(2)『真言勧供』と『三壇施食文諺解』とは、少なくとも陀羅尼部分に関しては,別々に作成されたと考えられる。

(3)『翻訳小学』は,複数の刻手によって作成されたものであるというが,『翻訳小学』における漢字音の傍点の正確度と刻手との間には,あまり目立った相関性はない。むしろ,傍点の正確度は巻によって異なり,版下の作成者との相関性が考えられる。具体的には,8巻・10巻において,傍点の正確度が高い。傍点以外のさまざまな音韻的性質においても,これらの巻は保守的である。

(4)『訓蒙字会』諸異本の制作年代と,異本間における漢字音傍点の違い,及び漢字音傍点の正確度の違いには,相関性がある。

(5)『小学諺解』陶山書院本と宮城県図書館本とでは,前者の方が傍点が正確であったと推測される。

(6)『孝経諺解』・四書諺解(『大学諺解』,『中庸諺解』,『論語諺解』『孟子諺解』,ただし筆者が調査したのは『大学諺解』,.『中庸諺解』,『論語諺解』)には,中国音韻学の観点から見て正しいと考えられる漢字音を採用しようとする「訂正傾向」が見られる。

(7)『分門瘟疫易解方』の漢字音のアクセントは,漢字語のアクセント規則に従ったものとなっている。

(8)『誠初心学人文』『発心修行革』『野雲自警序』(松広寺版)のうち,口蓋化(漢字音に多く現れる)の現象は『誠初心学人文』にかなり集中している。

(9)『蒙山法語諺解』(松広寺版)・改刊『法華経諺解』には人為的性質をもつ「東国王韻武漢字音」が含まれる。

(10)改刊『法華経諺解』の傍点は,原則的にすべて中国語の四声と一致している。

(11)改刊『法華経諺解』は,刊記の1500年とは異なり,後の時代に復刻されたものと考えられる。

(12)『長寿経諺解』は『翻訳小学』よりも後の時代に刊行されたものと推定される。

 朝鮮漢字音は文献ごとに異なっていることが多いが,その違いは必ずしも個別的なものではなく,上で挙げた「訂正傾向」「東国王韻武漢字音の採用」というような,漢字音を記述する方針の違いによってももたらされるものである。

 その次に行ったのが,朝鮮漢字音の音韻体系についての研究である。声母・韻母(声調以外)・声調の3つの観点から朝鮮漢字音についての検討を行う。なお,朝鮮漢字音の分析に際しては,朝鮮漢字音とほぼ同時代の中国語を写したものであると推定される他の外国倍音(日本漢音,ベトナム漢字音,蔵漢対音,ウイグル漢字音等)や,『慧琳音義』,『皇極経世声音唱和図』等の中国語資料,現代中国語諸方言の資料も参考にする。

 まず声母については,音節偏向という傾向が漢字音の現れ方に大きく作用していることを中心に検討する。音節偏向とは,中国原音での区別に関係なく,ある特定の音節に漢字音が偏って現れる傾向のことを指す。例えば,朝鮮漢字音(中期朝鮮語)においては,有気音/無気音の区別や,高平調/上昇調というアクセントの区別が見られるが,そのような区別が行われず,どちらか一方だけで現れる音節というものがある。この音節偏向の現象によって,朝鮮漢字音における音節の対立数は減少しており,記憶がより容易になっているが,中国原音との対応という面からは,例外的なものとして扱われるものが増えている。

 なおこのような音節偏向がとりわけ有気音/無気音の区別を無視することでしばしば生じているのは,朝鮮漢字音導入当時の朝鮮語において,有気音/無気音の対立が開音節に限られていたためではないかと考えられる。

 この音節偏向により,朝鮮漢字音は音節体系という特殊な体系を形成している。朝鮮漢字音の音節には,音節として可能なものと不可能なものがあるだけでなく,有力なものとそうでないものとがあり,有力でないものは,類似する,より有力な音節へと形を変えたり,音変化を起こしやすくなっている。従来,朝鮮漢字音において泥母の字がnでなくrで現れる現象は,朝鮮語においてnとrが非弁別的であることによるものと解釈されてきたが,このことにもこの音節体系の働きが作用している。

 以上のように,朝鮮漢字音の声母は,朝鮮語自身の内的な圧力によって決定されてきた面が大きいが,中国語における微妙な音声的違いを反映していることもある。例えば朝鮮漢字音においては羊母は通常ゼロ子音で現れるが,一部rで写されているものがある。これは,羊母の摩擦性を反映したものであると考えられる。また『切韻』とは異なるが現代北京方言等とは一致する現象が多く見られるなど,中国原音の性質を忠実に反映している面も見られる。

 韻母については,各摂ごとに,中国語中古音の音韻体系に照らして検討を行う。

 先行研究には,主に朝鮮漢字音の韻母の体系に基づき,朝鮮漢字音は複数の時代の中国語を反映した複層的なものであるという見解があるが,本研究においては,以下のような観点から検討を加えた結果,朝鮮漢字音は原則的にほぼ同時代の中国語を反映した均一的な体系を成すものであると推定する。

 まず,従来例外的対応であると解釈されてきた字音や,主要層とは別層のものと考えられてきた現象の多くが,他の外国倍音や現代中国語諸方言にも並行的に現れていることを指摘する。例えば止摂開口精粗字・荘組字が他の止摂開口字と異なる対応で現れている現象は,従来朝鮮漢字音の比較的新しい特徴として捉えられてきたが,少なくとも精粗字に関しては,他の多くの外国倍音にも同様の現象が反映されている。また,通常-。で現れる遇摂魚韻荘組字において,例外的な対応を示す「鋤se_」の字音については,古層に属すものであるという解釈があるが,ベトナム漢字音や現代中国語諸方言を見る限り,この字は特別に例外的対応をする傾向があることが分かる。

 また,朝鮮漢字音において複数字音で現れることが,中国語における層別を反映しているのではなく,声調の違いを反映していると考えられる場合について検討する。大まかに言って,平声では介音が強調され主母音・韻尾の性質が捨象される傾向があるのに対し,上声・去声では主母音・韻尾が強調され介音の性質が捨象される傾向がある。

 その他,同一表記で現れる字音について,それらを文字通りに解釈することの問題点なども指摘する。例えば,朝鮮漢字音において-ieiのように現れているものには,元々-ieiであったものと,本来は*-iaiであったと考えられるものが含まれていると考えられ,このようなものは区別して扱う必要がある。

 このように,朝鮮漢字音の韻母の体系を検討する一方で,朝鮮漢字音導入当時の朝鮮語母音体系の再構も行う。従来,古代朝鮮語のo,uはそれぞれ後舌円唇母音,前舌乃至中音円唇母音であると解釈されることが多かったが,本稿ではo,uはそれぞれ[o],[u]の音価をもつものであったと推定する。また,いわゆるアレアについては,音声的実現範囲の広い弱い母音であり,母音を伴わない子音のみの音声を表す際に用いられた母音であることなどを提示する。

 声調については,中古音の平声は低平調,上声・去声は上昇調または高平調,入声は高平調で現れるという原則に基づき,各声調ごとに対応の例外を検討する。各声調ともこのような例外は少なく,それらは主に諸声符の類推や傍点の付け間違い,音節偏向等によって説明される。一方上声・去声が上昇調または高平調に分岐する条件については,音声学的に説明することが困難であり,むしろ,後部要素として用いられやすい,固有名詞として用いられる,といった,各漢字の使われ方が大きく関わっていることを指摘する。

 以上,朝鮮漢字音の音韻体系をさまざまな面から検討した結果,朝鮮漢字音の元となった中国原音についての仮説を立てる。先行研究には,朝鮮漢字音の母胎音が,中国語上古音であるという説,切韻音であるという説,『慧琳音義』に代表される唐代長安音を反映するものであるという説,宋代開封音であるという説などがあるが,本研究では,朝鮮漢字音は『慧琳音義』の音韻体系から,更に新しい段階の中国語へと変化が進んだ,唐末の長安音を反映していると推定する。

審査要旨 要旨を表示する

 論文『朝鮮漢字音研究』は、中期朝鮮語(15〜16世紀)の漢字音について、当時の文献を綿密に調査することにより、その体系と中国語の中古音などとの対応を明らかにし、それに基づいてその母胎となった中国語の方言がどの時代のものであるかについて独自の見解を打ち出したものである。

 この分野では、従来、河野六郎博士による『朝鮮漢字音の研究』(1964_1967)がきわめて有名であり、朝鮮語のみならず中国語音韻史の研究者などにとっても必読の文献になっていたが、伊藤氏の論文はそれに比べて次のような点において大きな進展が見られる。

(1)河野博士の研究で扱われていた資料は16世紀後半から18世紀に至る比較的新しい時代のものが多く、また、その種類も韻書など規範的な文献が多かったのに対して、伊藤氏の論文はそれより古い15世紀末から16世紀末の文献を中心としている。

(2)それらの文献1つ1つについて、異なる版がある場合はそれらもすべて含め、また、可能な限り原典に直接当たりつつ、丹念に文献学的考察を行なって、それらの資料的価値を明確にしている。

(3)河野博士の研究では、中国語の中古音および唐代長安音との比較が中心になっているのに対し、伊藤氏の研究では、それに加えて、ベトナム漢字音、日本漢字音、蔵漢対音、中国各地の方言音なども考慮に入れられており、それによって朝鮮漢字音の母胎に関する議論がより精密になっている。

(4)河野博士の研究ではあまり扱われていなかった、声調に関する詳細な議論がなされ、かつ、それと声母、韻母が組み合わされて、個々の字音についてより総合的な検討が行なわれている。

 このようにして多くの検討を経た上で伊藤氏の出した主な結論は次の通りである。(1)朝鮮漢字音は河野博士の考えていたような、慧林音義に反映されている唐代長安音よりは若干新しい唐末の長安音に基づくものであるということ、(2)河野博士が時代の異なるいくつかの層が重なったものと解釈していたのに対して、比較的均質な体系をなす、ということである。

 これらの結論や、その背景をなす考え方については、例えば、単なる借用語とは異なる「字音」の性質という点や、「層別」に関するより深い議論が必要ではないかとの意見も出されたが、伊藤氏が、河野博士の論点に対して反論している個々の事例は説得力の大きいものが多く、全体としてこの研究がきわめて優れたものである点はゆるぎないものであり、この分野に対する非常に大きな貢献であるというのが本委員会の結論である。また本論文の附録資料である漢字音の対応表は朝鮮語のみならず中国語やアジア各地の漢字音研究者にとって極めて有意義なものであり、この論文の一日も早い公刊がまたれるというのが審査委員の一致した意見であった。また伊藤氏が朝鮮語を扱いながらも中国語音韻史に関する深い理解と正確な知識を有する点は称賛に値するとの意見が審査委員会の中の中国語の専門家から寄せられた。以上のことから、本論文は博士(文学)論文として十分な評価に値すると判断する。

UTokyo Repositoryリンク