学位論文要旨



No 117666
著者(漢字) 小泉,悟
著者(英字)
著者(カナ) コイズミ,サトル
標題(和) 第一原理計算によるSi(100)表面の非接触原子間力顕微鏡像
標題(洋)
報告番号 117666
報告番号 甲17666
学位授与日 2002.12.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4261号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 ��山,一
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 助教授 福山,寛
 東京大学 助教授 渡邉,聡
 東京大学 助教授 小森,文夫
内容要旨 要旨を表示する

原子間力顕微鏡(Atomic Force Microscopy;AFM)は、1986年にBin-nigらによって開発され心走査トンネル顕微鏡(Scanning Tunneling Mi-croscopy;STM)とは異なり、AFMは探針先端と試料表面との間に働く原子間の力を検出するため、STMでは観察できない絶縁性の試料においても、その表面の構造を高分解能に測定できる装置として期待された。

しかし、当初開発された接触方式のAFMでは、真の原子分解能の証明となる単原子観察は達成されなかった。そこで、さまざまな改良や工夫が試みられ、ようやく1995年になって、Albrechtらにより提案された非接触AFMを用いて、GiessiblがSi(111)7×7再構成表面の単原子観察に初めて成功した。それ以降、非接触AFMで単原子の観察に成功したという報告が相次いだ。これらの結果より、現在では非接触AFMが表面や表面上のナノ構造を原子尺度で観察するための優れた方法であると考えられている。また、今後も物質科学や生物科学など様々な分野において、一層の発展が期待されている。だが、実験法そのものは普及しているが、原理、特に見ている情報量の本質、原子尺度分解能の機構などは必ずしもよく理解されていない。このように、理論的には未解明な部分が多いのは、非接触AFMでは、表面だけを考慮して探針の存在を無視するというSTMで非常に有効な近似を行なうわけにはいかず、探針と表面の間の相互作用の情報が必要になるからである。

 最近、非接触AFMにより、Si(100)表面に関して興味深い実験結果が得られている。一つは室温での測定結果である。温度揺らぎによってc(4×2)構造が平均化されて、p(2×1)対称構造が見えているのであるが、実験結果からダイマーの長さを見積もると、理論から予想される値よりも20%以上長くなる。もう一つは、低温での表面構造の変化である。室温から温度を下げていくと、温度揺らぎが抑制されて、c(4×2)構造が見えるようになる。これはSTMでの測定結果と同じである。しかし、さらに温度を下げていくと非接触AFMとSTMでは見える像が異なってくるという報告がある。

 このようにSi(100)再構成表面はよく知られている表面でありながら、まだ完全に理解されているわけではない。さらには、量子細線などのナノデバイスを作成する場合の基板としての利用も期待されており、Si(100)再構成表面それ自体も興味のつきない対象である。

 そこで、本論文では、顕微鏡で見る対象としてSi(100)再構成表面、顕微鏡として硅素製の探針というどちらも構造の良く知られたものを選んだ。硅素製探針の模型としてSiH3をとり、探針とSi(100)-p(2×2)再構成表面の間に働く相互作用を表面全体に渡って高さを変えて第一原理計算により求め、非接触AFMの画像化の機構に関して知見を得ることを目標とした。

 第一原理計算の概要は次の通りである。密度汎関数法に基づいて系の全エネルギーを最小化することにより構造最適化を行ない、探針・表面間の相互作用を求めた。ここでの近似は、局所密度近似と擬ポテンシャル近似の二つであり、局所密度近似ではPerdewとZungerがパラメータ化したCeperley-Alder型のものを、擬ポテンシャル近似ではTroullierとMartinsが提案した方法で構成された分離型擬ポテンシャルを用いた。全エネルギーの最小化は共役勾配(CG)法を用いて行なった。

 主要な結果は以下の通りである。非接触AFMは「非接触」と呼ばれているものの表面の構造を全く変化させないというわけではない。とくにSi(100)再構成表面のダイマーの傾きのように、比較的まわりの環境とは独立して変化できる自由度があれば、探針の影響で表面の構造が複雑に変化する可能性がある。今回計算したSi(100)p(2×2)表面では、探針の水平位置の違いにより、表面は次の三つのような異なる反応を示すことが分かった。

 1.表面は連続的に変形する。そのため、探針に掛かる力も連続的に変化する。

 2.探針を表面に近づけていくと、表面が不連続的に変形する。探針を表面から離していくときには、不連続的な変形は起こらない。そのため、探針に掛かる力は、探針を表面に近づけていくときには不連続的に変化するところがあるが、探針を表面から離していくときには連続的に変化する(図1)。

 3.探針を表面に近づけていくときにも探針を表面から離していくときにも、表面は不連続的な変形を起こす。そのため、探針に掛かる力は、探針を表面に近づけていくときにも探針を表面から離していくときにも、不連続的に変化するところがある。不連続的な変化が起こるときの探針の高さは、探針を近付けていったときと探針を離していったときで異なっている。

 以上より、低温では最接近時の探針・表面間の距離が少し違うだけで、非接触AFM像が大きく変化する可能性を指摘した。また、2は、非接触AFMが表面の観察にだけではなく、表面の原子構造を力学的に制御することにも利用できることを示唆していると考えられ、その機構を応用したものをいくつか挙げた。また、3は力曲線が履歴を持つため、散逸の原因となることが考えられる。現在、非接触AFMで散逸を測定できるのではないかと指摘されている。そこで、今回の計算結果から、もしそのような「散逸顕微鏡」が実現した場合に得られるSi(100)表面の像を予測した(図2)。

図1:2に対応する力曲線。

図2:「散逸顕微鏡」により得られると考えられるSi(100)表面の像。

審査要旨 要旨を表示する

 1986年にBennigらによって開発された原子間力顕微鏡(Atomic Force Microscopy;AFM)は、探針先端と試料表面との間に働く原子間の力の検出により、試料表面の構造を原子尺度で測定できる装置として期待された。しかし、当初開発された接触方式のAFMでは真の原子分解能は達成されず、ようやく1995年になって、Albrechtらによる非接触AFMを用いて、GiessiblがSi再構成表面の単原子観察に初めて成功した。それ以降、非接触AFMの実験法は急速に進展し、現在では表面や表面上のナノ構造を原子尺度で観察するための優れた手法と考えられている。しかしながら、非接触AFMの原理、特に、観測される顕微鏡像の本質、原子尺度分解能の機構などはまだ必ずしもよく理解されていない。

 本論文提出者小泉悟は、非接触AFMの画像化機構の解明を目指して、顕微鏡でみる対象と顕微鏡探針として、どちらも構造のよく知られているSi再構成表面、Si探針を選び、両者の間に働く相互作用について第一原理計算による解析を行った。より具体的には、探針先端の模型としてSiH3、表面模型としてSi(100)-P(2×2)再構成表面を選び、表面P(2×2)単位格子の全域にわたって探針先端の高さを変えた計算を行った。

 本論文は4章と付録Aからなる。序章に続く第2章では、解析に用いた計算手法が説明されている。第一原理計算では、密度汎関数法に基づき、探針先端と表面からなる系について、共役勾配法によって全エネルギーを最小にする構造最適化を行い、探針先端・表面間の相互作用を算出する。具体的には、Ceperley-Alder型の局所密度近似、および、TroullierとMartinsの方法で構成された分離型擬ポテンシャルを用いる。こうして算出した原子尺度の力は、佐々木らの理論を用いて、探針(カンチレバー)の固有振動の周波数シフトに変換され、非接触AFM像の観測結果と比較される。

 第3章では、得られた計算結果が詳しく議論されている。本研究では、相対位置が固定され3個の終端水素に繋がる探針先端の1個のSi原子、および、表面模型として裏面が水素終端された5層のSi原子が、探針の位置ごとに構造最適化される。この計算によって、Si(100)-P(2×2)表面では、探針の影響で表面構造が複雑に変化すること、すなわち、探針の水平位置の違いにより、探針の高さの変化に応じて以下の三つの特徴的な振舞いが見出された。1)表面は連続的に変形し、探針に掛かる力も連続的に変化する。2)探針を表面に近づけていくとき、表面構造および探針に掛かる力が不連続に変化するが、探針を表面から遠ざけていくときは両者とも連続的な変化を示す。3)探針を表面に近づけていくときも、表面から遠ざけていくときも、表面構造および探針に掛かる力が不連続に変化する。ただし、両者が不連続な変化を示す探針の高さは、探針を近づけていったときと遠ざけていったときとで異なっている。

 これらの結果は、Si(100)-p(2×2)再構成表面における、隣接する表面Si原子が形成するダイマー構造に密接に関係するものであり、特に結果2)は、非接触AFMの原理が表面の観察にだけでなく、表面の原子構造の力学的な制御にも利用できること、また結果3)は、力曲線が履歴をもち、原子尺度での散逸機構の一つであることが指摘されている。なお、付録Aでは、探針先端をSi4H9とした場合について計算を行い、上記の結果が探針の大きさにあまり依存しないことが確かめられている。

 以上に述べた本論文の研究成果は、全Si原子の構造最適化を第一原理計算手法を用いて実行することにより、Si再構成表面に対する探針の効果を解析し、非接触AFM像の出現機構を明らかにしたものである。「散逸顕微鏡」の提起を含め、本研究で得られた多くの新たな知見が当該分野の研究進展に果たした貢献は十分なものがあり、学位論文として高く評価される。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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