学位論文要旨



No 117673
著者(漢字) デボア,ジョン
著者(英字) DEBOER,JOHN
著者(カナ) デボア,ジョン
標題(和) イスラエルの対日政策1952年〜1956年 : イスラエル国立文書館資料を中心に
標題(洋) Israel's Foreign Policy towards Japan between 1952-1956 : A Study based on Israel State Archives
報告番号 117673
報告番号 甲17673
学位授与日 2002.12.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第396号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山内,昌之
 東京大学 教授 恒川,惠市
 東京大学 教授 長澤,栄治
 防衛大学校 教授 立山,良司
 東洋英和女学院大学 教授 池田,明史
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、イスラエルが1952年から1956年にかけての対日政策の根拠と戦略、そしてその成果を全五章にわたって論じたものである。イスラエルの国立文書館の資料を中心に行ったこの研究は、イスラエルがアラブ・イスラエル紛争に際してアジアとアラブ諸国の連帯を阻止するために、いかに日本が重要だったかを明らかにしようとした。そして、イスラエルが日本とアジア諸国と有効な関係を構築することができなかった理由の解明を試みている。

 このテーマは、今日まで国際的にも議論の対象に含まれることはなかった。しかし、イスラエルの国立文書館所蔵の資料が近年新たに公開されたことによって、このテーマの具体的な研究が可能になったのである。本論文は、当時のイ・日関係を「中立」、「正常」と位置付けているこれまでの一般的解釈を疑問視し、日本がアラブ・イスラエル紛争において親アラブ政策を意図的に実行し、すべての分野においてアラブ諸国との関係を優先したことを明確に提示している。本論文は、この時期におけるイ・日関係の意味を新たに検討する試みでもある。

 第一章では、まず1948年から1952年の期間を対象としてイスラエルの対アジア外交を概括している。1947年のパレスチナ分離決議案、イスラエルの独立、そしてイスラエルの国連加盟等に対するアジア諸国の否定的な態度を、将来に向けて反転させようとしたイスラエルの対アジア諸国政策とその戦略を中心に取り上げている。次に、イスラエルがアジアにおける孤立という事態を乗り越えるために唱えた反植民地主義や社会主義、そして中立主義的な政策が成功しなかった理由について論じている。特に、イスラエルが朝鮮戦争と東西紛争において米国を支持し中立を放棄したことによって、アジアにおけるその存在を孤立させる結果に至った経緯を検討し、アジア諸国との関係の悪化の原因に迫る。

 第二章では、日本が国際社会への復帰を図った1952年以降の時期について、イスラエルの対日政策の新たな展開を分析している。当時の対日政策を担当していたイスラエル政府関係者、特に外務省のアジア局長を務めたYaacov Shimoni氏や外務大臣のMoshe Sharett氏の日本に対する考え方とその期待感を紹介しながら、イスラエルと日本の国交樹立に関する歴史を考察している。中でも議論の中心となるのは、イ・日間のレシプロシティー問題である。イスラエルは1952年12月に在日本公使館を開設したにも関わらず、日本側はレシプロケートを行うのに約三年を要している。本章はその原因とイスラエル側の対応を詳細に分析している。当時の日本政府は、経済発展のためにアラブ諸国との関係構築に心血を注ぎ、あるいはアラブ・ボイコットを懸念して、イスラエルとの関係を重要視することはなかった。そこで本章は、日本におけるイスラエルのプレゼンスを高めようとしたイスラエル政府の活動に注目し、レシプロシティー問題への対応を中心に取り上げたのである。

 第三章では、1954年から1955年の間に日本とイスラエルとの間で交渉された公使館に関する妥協案を中心に論じている。二年連続で在イスラエル公使館の開設を見送った日本政府に対抗する手段として、イスラエルの在日公使リントン氏の召還を検討したイスラエル政府が、どの様に日本政府と交渉しレシプロシティー問題を解決したかを取り上げている。結果として、日本はトルコ駐在の上村大使を不在公使としてイスラエルに任命し、アジア諸国の中では最初にイスラエルで公使館を開設した国となった。しかし、イスラエル国内では称賛されたこの行為はアラブ諸国で批判を招き、日本はアラブ・イスラエル紛争の渦中に置かれるという結果に至った。本章は、日本がこのような国際環境において、いかにしてイスラエルとの関係についてアラブ諸国に対して沈黙を守ろうとしたかを検討し、それに対するイスラエル側の対応を分析している。

 第四章では1955年に入って悪化したイ・日関係を取り上げ、その原因を考察している。三年という月日をかけてレシプロシティー問題を解決したイスラエルは、日本との政治、経済、そして文化的交流の拡大を図った。しかし、日本は続けてアラブ諸国との関係を重視し、イスラエルとの取引を最小限に押さえることでアラブ諸国との協力関係を深めたのである。そこで本章は、1955年にバンドンで行われたアジア・アフリカ会議に焦点を当てながら、本会議がイ・日関係に与えた影響を検討することでイ・日関係を悪化させた過程を解明する。さらに、イスラエルがアジアとアラブ諸国の連帯を阻止するために実行した政策を紹介し、そこからイスラエルが日本へ期待した事柄を解明している。加えて、日本がエジプトやシリアに武器を供給しているとイスラエル側が抱いた疑惑に関しても、一次資料を用いた分析によって検討している。

 第五章では、1955年から1957年まで続いたイスラエルの労働党(MAPAI)と日本社会民主党との関係を検討している。長年にわたって最もイスラエル寄りの党として位置付けられてきた社会党に対してMAPAIが示した政策を解説し、その戦略を分析している。特に分析の中心となるのは、イスラエルが両党の友好関係を利用してアジア社会主義者会議においてアラブ・プロパガンダに対抗しようとした戦略である。これを明らかにしたうえで、スエズ運河の国営化、「国際社会主義者会議」におけるチューリッヒ決議案、そして第二次中東戦争等の問題がイ・日関係に与えた影響の分析にいたるまで、論文の考察範囲を拡大している。最後に、MAPAI党が日本社会民主党との関係を利用して、アジア諸国の親アラブ感情を中和させようとした試みが失敗した要因を提示している。

 結論として本論文は、1952年から1956年の間をイ・日関係の重要な時期として位置付けている。この時期から、イスラエルはアラブ・イスラエル紛争に関する日本の立場がイスラエルの国益に敵対するものとして解釈するようになった。本論文の主張は、日本が貿易、政治そして軍事面でアラブ側を支持したことを立証した。これは、イスラエルと日本の未公刊の外交文書を含む一次資料の分析によって導き出された結論である。

 本論文は、イ・日関係史において今日まで議論の対象とならなかった時期を中心に検討することによって学問的な貢献を試みた研究である。現在まで公開、分析されていなかった多くの資料を検証したことによって、1952年から1956年の間のイ・日関係の一般的解釈の再評価を促す成果を得たものと考えている。本論文は、現在にまで至るイ・日関係の「薄さ」、そしてアジア地域におけるイスラエルの「孤立した存在」を説明する上で重要な見解を提示したのである。さらに、ここで紹介されている資料と見解は今後のイスラエル外交、そしてイ・日関係に関する学問的研究において、イスラエルと日本においてはもとより、国際的な発展にも貢献するものと自負している。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文の提出者は、イスラエルにおける1952年から1956年にかけての対日政策の根拠と戦略、そしてその成果を全五章にわたって論じている。イスラエルの国立文書館の資料を中心に行ったこの研究は、イスラエルがアラブ・イスラエル紛争に際してアジアとアラブ諸国の連帯を阻止するために、いかに日本が重要だったかを明らかにしようとした。そして、イスラエルが日本とアジア諸国と有効な関係を構築することができなかった理由の解明を試みている。

 このテーマは、今日まで日本はもとより国際的にも議論の対象に含まれることはなかった意味において、大変貴重な学問的貢献である。イスラエルの国立文書館所蔵の資料が近年新たに公開されたことによって、このテーマの具体的な研究が可能になったとはいえ、提出者の努力は並々ならぬものがある。本論文は、当時のイ・日関係を「中立」、「正常」と位置付けているこれまでの一般的解釈を疑問視し、日本がアラブ・イスラエル紛争において親アラブ政策を実行し、すべての分野においてアラブ諸国との関係を優先したことを明確に提示している。本論文は、この時期におけるイ・日関係の意味を新たに検討する試みともなっている。

 第一章では、まず1948年から1952年の期間を対象としてイスラエルの対アジア外交を概括している。1947年のパレスチナ分離決議案、イスラエルの独立、そしてイスラエルの国連加盟等に対するアジア諸国の否定的な態度を、将来に向けて反転させようとしたイスラエルの対アジア諸国政策とその戦略を中心に取り上げている。次に、イスラエルがアジアにおける孤立という事態を乗り越えるために唱えた反植民地主義や社会主義、そして中立主義的な政策が成功しなかった理由について論じている。特に、イスラエルが朝鮮戦争と東西紛争において米国を支持し中立を放棄したことによって、アジアにおけるその存在を孤立させる結果に至った経緯を検討し、アジア諸国との関係の悪化の原因に迫っており、その実証努力はおおむね説得力に足るものである。

 第二章では、日本が国際社会への復帰を図った1952年以降の時期について、イスラエルの対日政策の新たな展開を分析している。当時の対日政策を担当していたイスラエル政府関係者、特に外務省のアジア局長を務めたYaacov Shimoniや外務大臣のMoshe Sharettの日本に対する考え方とその期待感を紹介しながら、イスラエルと日本の国交樹立に関する歴史を考察している。中でも議論の中心となるのは、イ・日間のレシプロシティー問題である。イスラエルは1952年12月に在日本公使館を開設したにも関わらず、日本側はレシプロケートを行うのに約三年を要している。本章はその原因とイスラエル側の対応を詳細に分析している。当時の日本政府は、経済発展のためにアラブ諸国との関係構築に心血を注ぎ、あるいはアラブ・ボイコットを懸念して、イスラエルとの関係を重要視することはなかった。そこで本章は、日本におけるイスラエルのプレゼンスを高めようとしたイスラエル政府の活動に注目し、レシプロシティー問題への対応を中心に取り上げたのである。

 とくに、ベングリオンの右腕であり後継者とも目されたシャレットの考えを国際的に紹介した点の功績は大きい。

 第三章では、1954年から1955年の間に日本とイスラエルとの間で交渉された公使館に関する妥協案を中心に論じている。二年連続で在イスラエル公使館の開設を見送った日本政府に対抗する手段として、イスラエルの在日公使リントン氏の召還を検討したイスラエル政府が、どの様に日本政府と交渉しレシプロシティー問題を解決したかを取り上げている。結果として、日本はトルコ駐在の上村大使を不在公使としてイスラエルに任命し、アジア諸国の中では最初にイスラエルで公使館を開設した国となった。しかし、イスラエル国内では称賛されたこの行為はアラブ諸国で批判を招き、日本はアラブ・イスラエル紛争の渦中に置かれるという結果に至った。本章は、日本がこのような国際環境において、いかにしてイスラエルとの関係についてアラブ諸国に対して沈黙を守ろうとしたかを検討し、それに対するイスラエル側の対応を分析している。とくに日本政府の公式文書や私的書簡を可能な限り読み込むことによって、以上の成果が得られた意味は大きい。正字や本字をくずした文章を読み込むカはすばらしいものであり、資料分析と解読力が渾然一体となって生かされた章である。

 第四章では1955年に入って悪化したイ・日関係を取り上げ、その原因を考察している。三年という月日をかけてレシプロシティー問題を解決したイスラエルは、日本との政治、経済、そして文化的交流の拡大を図った。しかし、日本は続けてアラブ諸国との関係を重視し、イスラエルとの取引を最小限に押さえることでアラブ諸国との協力関係を深めたのである。そこで本章は、1955年にバンドンで行われたアジア・アフリカ会議に焦点を当てながら、本会議がイ・日関係に与えた影響を検討することでイ・日関係を悪化させた過程を解明する。さらに、イスラエルがアジアとアラブ諸国の連帯を阻止するために実行した政策を紹介し、そこからイスラエルが日本へ期待した事柄を解明している。加えて、日本がエジプトやシリアに武器を供給しているとイスラエル側が抱いた疑惑に関しても、一次資料を用いた分析によって検討している。ここでも日本とイスラエルの資料の探索と吟味は申し分なく提出者の主張には十分な根拠が認められる。

 第五章では、1955年から1957年まで続いたイスラエルの労働党(MAPAI)と日本の社会党との関係を検討している。長年にわたって最もイスラエル寄りの党として位置付けられてきた社会党に対してMAPAIが示した政策を解説し、その戦略を分析している。特に分析の中心となるのは、イスラエルが両党の友好関係を利用してアジア社会主義者会議においてアラブ・プロパガンダに対抗しようとした戦略である。これを明らかにしたうえで、スエズ運河の国営化、「国際社会主義者会議」におけるチューリッヒ決議案、そして第二次中東戦争等の問題がイ・日関係に与えた影響の分析にいたるまで、論文の考察範囲を拡大している。最後に、MAPAI党が社会党との関係を利用して、アジア諸国の親アラブ感情を中和させようとした試みが失敗した要因を説得的に提示している。

 結論として本論文は、1952年から1956年の間をイ・日関係の重要な時期として位置付けている。この時期から、イスラエルがアラブ・イスラエル紛争に関する日本の立場をイスラエルの国益に敵対するものとして解釈するようになったと結論づけている。提出者は、日本が貿易、政治そして軍事面でアラブ側を支持したことを立証しているが、イスラエルと日本の未公刊の外交文書を含む一次資料の分析によって導き出された結論である点に大きな意味がある。

 本論文は、イ・日関係史において今日まで議論の対象とならなかった時期を中心に検討することによって学問的な貢献を試みた研究である。現在まで公開、分析されていなかった多くの資料を検証したことによって、1952年から1956年の間のイ・日関係の一般的解釈の再評価を促す成果を得た意味は学界に対する大きな貢献である。本論文は、現在にまで至るイ・日関係の「薄さ」、そしてアジア地域におけるイスラエルの「孤立した存在」を説明する上で貴重な視座を提供したのである。さらに、ここで紹介されている資料と見解は今後のイスラエル外交、そしてイ・日関係に関する学問的研究において、イスラエルと日本においてはもとより、国際的な発展にも大きく貢献するにちがいない。

 全体として、資料の読み方の一、二に不注意な読み方があることも指摘されたが、大きな問題点ではない。日本人もよく果たしえない正字や本字の文書を広く読み込み、イスラエルの未刊行文書をよく渉猟して適切かつ斬新な結論を引き出した功績は大きい。

 したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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