No | 117683 | |
著者(漢字) | 柳尾,朋洋 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | ヤナオ,トモヒロ | |
標題(和) | クラスターの構造転移ダイナミクスに関するゲージ理論的研究 | |
標題(洋) | Gauge-Theoretical Study on Structural Isomerization Dynamics of Clusters | |
報告番号 | 117683 | |
報告番号 | 甲17683 | |
学位授与日 | 2003.01.23 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(学術) | |
学位記番号 | 博総合第399号 | |
研究科 | 総合文化研究科 | |
専攻 | 広域科学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 1.はじめに 複数の構成要素が協同的に振舞うことによって多体系が全体として大きく形を変える運動は、一般に大振幅集団運動と呼ばれ、原子核から原子・分子、天体系に至る自然界のあらゆる階層において普遍的に見られる重要な現象である。特に、近年の化学物理の発展においては、小さな分子の内部転換(異性化)や結晶の成長、生体高分子の折り畳み、組織化および機能発現など、集団運動に伴う分子構造の大規模な変化が本質的な役割を果たす現象が多くの注目を集めている。本論文では、多原子分子の大振幅集団運動の典型的プロトタイプとして、数個の同種粒子から構成される原子クラスター(アルゴンクラスター)の構造転移運動を取り上げ、その動的機構を主として以下の2つの主題に沿って明らかにする。第一の主題は、高エネルギー・多チャンネルのクラスター構造転移運動に関する統計的反応速度理論を構築し、それを新たな「温度」概念に基づいて熱力学的に定式化することである。これらは第2章、第3章において展開される。第二の主題は、変形体一般の内部運動を正確に記述するゲージ理論の枠組みに基づいて、クラスター構造転移運動のメカニズムを明らかにし、多原子分子の反応を考える際にはポテンシャル曲面の構造のみならず、キネマティックな効果(質量効果)が重要な役割を果たすことを明らかにする。これらは第4章、第5章において詳細に議論されるものである。以下では、各章ごとにその要旨を述べる。 2.高エネルギー・多チャンネルのクラスター構造転移運動に関する統計的反応速度論 Lennard-Jonesポテンシャルによって2体間相互作用する7つの同種粒子からなるクラスター(Ar7クラスター)には、図1に示すような4つの局所平衡構造が存在し、内部エネルギーの高い「液体類似相」と呼ばれる状態においては、これらの平衡構造の間をマルコフ的に乗り移りながら構造転移運動を繰り返す。この反応はどれも、系を構成する全粒子が協同的に関与しているため、特定の核間距離や結合角を反応座標として定義することが困難である。そこで、本研究では「反応座標」や「遷移状態」といった従来の概念に頼らない新しいタイプの統計的反応速度理論を定式化した。 この理論は、「同種粒子からなるクラスターの多次元ポテンシャル曲面の等高線は高エネルギー領域においては等方的に膨張する」という幾何学的な仮説を主張するもので、各安定構造に対応したポテンシャルベイスンの状態密度と構造転移を支配するベイスン境界領域の状態密度とを簡単なスケーリング則によって関係づけ、反応速度を評価するものである。数値実験により、この理論が液体類似相におけるクラスター構造転移反応の速度の内部エネルギーに対する依存性を正しく説明づけることを確認した[1]。 3.クラスター構造転移運動におけるマイクロカノニカル温度とアレニウス関係式 前章の結果を受け、本章ではクラスターの構造転移反応速度論の熱力学的な定式化を行った。上述のAr7クラスターは、全エネルギーE一定の条件で規定されるマイクロカノニカルアンサンブルである。統計力学の基礎となる等重率の仮定のもとでは、位相空間内の等エネルギー領域上の微視的状態は全て等しい実現確率をもつことになるが、ポテンシャルエネルギー値εに対する状態密度の分布を考えると、ある値ε*のまわりに鋭いピークをもつ単峰型の分布が得られる。この分布のピークを与える最も確からしいポテンシャルエネルギーε*に対して、最も確からしい運動エネルギー(E-ε*)を「マイクロカノニカル温度」として定義すると、この温度とAr7クラスターの構造転移反応の時間スケールとの間にはアレニウス型の関係が成立することがSekoとTakatsukaによって数値的に見出されていた[2]。 本章では、このようなアレニウス型の反応速度式が成立する理論的根拠を明らかにし、最終的に次式ような一般則を導出した。ここで、 4.クラスター構造転移運動における集団座標とキネマティックな内力の抽出 一般に、3個以上の原子からなる系は、全角運動量がゼロであっても内部運動の履歴に依存して外部の空間に対する「向き」を変えていく。これは「落下猫の宙返り」運動として知られる現象で、回転自由度と内部自由度を一意的に分離することが不可能であることを反映するものである。この非一意性のために、系の3n-6個(nは原子数)の内部変数によって構成される内部運動の空間(以後、「形空間」と呼ぶ)には、分子固定座標系(bodyフレーム)の定義の仕方に依存するゲージ場が不可避的に発生し、この形空間は本質的に非ユークリッド空間となる[4]。従って、多原子分子の構造変化のダイナミクスは、本来この形空間の潜在的な「非ユークリッド性(歪み)」に由来した動的効果(計量的なカ)を常に受けているのである。ところが、従来の化学反応理論やエネルギーランドスケープの理論では、形空間上のポテンシャル曲面の構造のみが重要視される傾向にあり、形空間そのものの非ユークリッド性に起因するキネマティックな効果はほとんど考慮されていない。 そこで本研究では、この内部空間がもつ潜在的な「歪み」の効果を的確に抽出でき、さらに多原子分子の構造転移を支配する少数の集団変数をも同時に抽出できる座標系として「主軸超球座標」と呼ばれる座標系[5]を用い、3原子および4原子クラスターの構造転移運動の解析を行った。この座標系は、bodyフレームとして各時点における系の慣性モーメントテンソルの主軸を参照し、系の内部運動を「各主軸方向への質量バランス」を表す動径変数(gyration-radii)と「粒子同士の相互関係」を表す角度変数(hyper-angles)によって記述するものである。本研究において明らかになったことは、(1)クラスターの構造転移運動の際には角度変数が全て凍結し、少数の動径変数が運動を支配する集団変数として明瞭に抽出できること、さらに、(2)角度変数の変化に相当するデモクラティック回転と呼ばれる内部運動に伴って、動径変数の空間には「デモクラティック遠心力」と呼ぶ内的なカが発生し、分子の各主軸方向の質量バランスは常に自発的に破れる傾向にあることである。特に後者のデモクラティック遠心力は角運動量ゼロの系においても発生するため、通常の遠心力とは異なるもので、形空間の計量構造に起因する純粋な内力である。さらに、デモクラティック遠心力が引き起こす重要な効果として、3原子および4原子クラスターの平衡構造(それぞれ正三角形構造および正四面体構造)は、等方的な質量バランスを持つために、ポテンシャルエネルギーの最小点であるにもかかわらず避けられる傾向にあること、また、逆に偏った質量バランスをもつ遷移状態構造(3原子では直線構造、4原子では平面菱形構造)近傍が安定化され、ポテンシャル曲面の鞍点であるにもかかわらずこの領域に長時間滞在して再交差を繰り返す傾向があることが明らかになった[6]。4原子クラスターに関する一例を図2に示す。 5.内部空間に生じるゲージ場が構造転移反応の速度に及ぼす効果の解明 従来の分子振動の理論[7]や反応経路ハミルトニアンの理論[8]では、内部自由度と回転自由度を形式的に分離する際に参照する分子固定座標系としてEckartフレーム[9]がしばしば用いられてきた。その主な理由は、Eckartフレームを参照することによって、並進運動の自由度を除去した3n-3次元の配位空間の中に、3n-6次元の内部運動を記述するためのユークリッド的な部分空間(Eckart部分空間と呼ぶ)を形式的に構成することができるため、基準振動解析に適しているからである。ところが実際にはEckart部分空間上にはEckartフレームを参照したことに伴うゲージ場が生じるため、このゲージ場が分子ダイナミクスに及ぼす動的な効果まで含めなければ、多原子分子の内部運動を正しく記述することはできないのである。 本研究では、この分子固定座標系に付随するゲージ場の動的な効果が従来の反応速度理論においては十分に考慮されていない現状を踏まえて、特にEckartフレームに伴うゲージ場がクラスターの構造転移反応の速度に与える影響を定量的に解析した。その結果、3原子、4原子、7原子クラスターのいずれの構造転移反応においても、このゲージ場は反応を妨げるように作用することが明らかになった。このゲージ場による新たな「反応障壁」は、通常のポテンシャル障壁とは全く異なるものであり、その効果を考慮しない反応速度論は、反応速度を実際よりも10%から30%程度は「速く」見積もってしまう可能性があることを数値実験によって明らかにした。さらに、この「反応障壁」のメカニズムとして、このゲージ場は反応経路に沿って進む軌道を、鞍点近傍において反応経路とは垂直な方向に逸れさせるように常に作用することを明らかにした[10]。 参考文献 [1]T. Yanao and K. Takatsuka, Chem. Phys. Lett. 313,633(1999). [2]C. Seko and K. Takatsuka, J. Chem. Phys.104,8613(1996). [3]K. Takatsuka and T. Yanao, J. Chem. Phys.113,2552(2000). [4]R. G. Littlejohn and M. Reinsch, Rev. Mod. Phys.69,213(1997). [5]X. Chapuisat and A. Nauts, Phys. Rev. A 44,1328(1991). [6]T. Yanao and K. Takatsuka, Phys. Rev. A投稿中 [7]E. B. Wilson, J. C. Decius, and P. C. Cross, Molecular Vibrations(McGraw-Hill, New York1955). [8]W. H. Miller, N. C. Handy, and J. E. Adams, J. Chem. Phys.72,99(1980). [9]C. Eckart, Phys. Rev.47,552(1935). [10]T. Yanao and K. Takatsuka,投稿準備中 図1:Ar7クラスターの4つの局所平衡構造。 図2(a)は、主軸超球座標の動径変数の2次元平面に抽出した4原子クラスターの反応経路(ポテンシャル曲面)。このクラスターは正四面体の局所平衡構造を2つ(置換異性体)もち、この間を平面菱形構造の鞍点(6通り)近傍を経由して乗り移る。(b)、(c)は、(a)に「デモクラティック遠心力」のポテンシャルを加味した有効ポテンシャル曲面。(c)は(b)よりも、デモクラティック回転の角速度が大きい場合の一例である。どちらもデモクラティック回転によって遷移状態近傍にベイスン構造が現れて、系がこの領域に比較的長時間拘束され、ポテンシャルエネルギーのいわゆる「分割面」を再交差する傾向をもつことが理解できる。 | |
審査要旨 | 序 本論文は原子クラスターの構造転移反応の理論解析を取り扱ったものであり、内容は、序説(第1章)と総括(第6章)を除けば4章にわたって展開されている。最初の2章は、構造転移を高エネルギー多チャンネルの反応として捉え、クラスターの新しい動力学的性質を発見するとともに、新しい統計反応論を提示している。後半の二つの章では、構造転移反応を、振動・回転の不分離を含めた構造変形動力学過程を正確に記述するキネマティクスのゲージ理論を用いて解析している。その結果、分子変形を一貫して記述する形空間の非ユークリッド性によってデモクラティック遠心力と呼ばれる新しい内力が働くこと、また、主軸超球座標系を用いることにより、構造転移における集団変数を導くことに成功している。これらは、いずれも化学動力学理論の新しい展開に不可欠な、重要な結果である。 研究の背景と目的 複数の構成要素が協同的に振舞うことによって多体系が全体として大きく形を変える運動は、一般に大振幅集団運動と呼ばれ、原子核から原子・分子、天体系に至る自然界のあらゆる階層において普遍的に見られる重要な現象である。特に、近年の化学物理の発展においては、小さな分子の内部転換(異性化)や結晶の成長、生体高分子の折り畳み、組織化および機能発現など、集団運動に伴う分子構造の大規模な変化が本質的な役割を果たす現象が多くの注目を集めている。しかしながら、このような集団的大振幅運動では、従来の化学反応論や分子振動論の理解を超えた現象や法則性が出現する。それは、分子科学が質的に新しい局面に至ったことを意味し、新しい理論の構築が促されているということを意味している。本論文は、まさに、そのような新しい展開を目指して行われたものであり、大きな成功を収めている。 論文の内容と意義 本論文の第2章と第3章は、7原子クラスターをケーススタディとしてとりあげ、マイクロカノニカル集合における位相空間内での統計力学的解析を行っている。その結果、次のような結論を得た。(1)高エネルギーのクラスターの構造転移寿命を定量的に評価するに当たって、マイクロカノニカル集合の体積(古典状態密度)と反応分割面における多次元界面の「面積」のエネルギー依存性の次元解析に基づく簡明な理論モデルが、良い近似で成立することを発見した。これは、物質の個性を超えた普遍性をもっており、簡単ではあるが優れた解析といえる。(2)高エネルギー・多チャンネル化学反応のプロトタイプとしてのクラスター構造転移反応の構造転移寿命には、カオス動力学に由来する一連の特徴が存在していることが知られている。本論文では、特に、高塚らによって提案されたマイクロカノニカル温度と、転移寿命の逆数がアルレニウス関係式に従うことを発見し、その成立根拠を解明した。この反応は、20世紀を支配してきた遷移状態理論の想定外の反応であるにもかかわらず、このようなアルレニウス関係式が見出されたことは、新しい時代の化学反応論の基礎を形成する意味で極めて重要である。以上の二つの研究は、既に学術論文として刊行されている。 本論文の後半、4章と5章は�蜚�氏の個性と科学観がより強く反映された内容となっている。それは、分子の「形の変形」ということを、振動と回転の分離不可能性に立脚したゲージ場の理論から改めて問い直し、従来の反応理論には存在しなかった新しいアイデアを導入することに成功している。具体的には、分子の構造変化を論理的に正確に記述する形の空間を定義し、その非ユークリッド性に起因する「デモクラティック遠心力」が、反応のさまざまな局面で重要な役割を果たすことを発見した。このカは、主軸超球座標を使って美しく表現されるが、一方これは、クラスターの構造転移における集団変数の抽出とその物理的根拠を与えるものともなっている。デモクラティック遠心力は、反応の初期段階においては、反応を誘起すべく分子の形をひずませる方向に働く一方で、遷移状態近傍においては、そこに長く留まらせようとする作用をする。後者は、見かけ上、反応の阻害因子として働く。従って、形の空間の非ユークリッド性を意図的に取り除いて、例えばEckartフレームに閉じ込めたまま反応を起こさせると、反応速度を10-30%も過大評価することになることを実算によって見積もっている。従来の化学反応描像はポテンシャルトポグラフィーに注目し、Eckartフレームに閉じ込めた取り扱いをすることが多かっただけに、本論文の結果は、定性的にも定量的にも重要である。また、構造転移反応における集団変数の抽出は、歴史的にも未解決のまま重要な課題であり続けているが、本論文によって、重要な手がかりが得られたことは喜ばしい。今後、さらなる一般化を目指して他の研究者に研究が引き継がれていくであろうことは確実であって、この意味で、新しい分野を開拓したといっても過言ではない。 以上を総括するに、本論文は、優れた直感、纏まった数理的展開、粘り強い定量的解析に基づいて、クラスターのダイナミクスの研究に重要な足跡を記したと結論される。上にも述べたように、クラスターの構造転移はより広範な物理現象の興味ある一例であり、他の関連する現象への研究に対して波及効果を与えるだけの一般性を有している。 なお本論文は,高塚和夫教授との共同研究であるが、論文の提出者が主体となって理論解析を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する。 以上、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいと認定する。 | |
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