学位論文要旨



No 117685
著者(漢字) 新谷,正雄
著者(英字)
著者(カナ) シンタニ,マサオ
標題(和) 万葉歌の表現の研究
標題(洋)
報告番号 117685
報告番号 甲17685
学位授与日 2003.01.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第382号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 助教授 藤原,克巳
 東京大学 助教授 渡部,泰明
 東京大学 助教授 月本,雅幸
 東京大学 助教授 安藤,宏
内容要旨 要旨を表示する

 万葉の時代、歌は人々の交流の具として用いられた。それは人々の集る宴で唱和され、また親しい人同士の間で、書簡また口頭によりながら個人的に贈答されたのである。歌は人々の交流、親和の為に詠まれながら、しかしその表現の在り様は、この二つの歌の場、宴と相聞の間では大きく異なっていたように思われる。即ち、両者共に親和を目的としていながら、表現の水準では宴席歌がその目的と同じく親和を基調としているのに対し、贈答歌が反発を基調としているように見られるのである。その拠る所を歌の機能という側面から言えば、異質な人々の融和、同質化を目指す宴の諭理、目的と、既に親密な関係を築いている者の間での、親しさの確認という目的とその為の論理とが異なっている事に起因しているのだと言う事ができよう。

 万葉歌の中には例えば、人麻呂の従駕歌、赤人や家持等の自然詠といった歌がある。一見、これらは今述べた交流の具としての歌とは異なると見られるかも知れない。しかしこれらも決して歌を詠み聞かせる、また読ませる相手が不在という訳ではない。歌は聞く者、読む者を前提として詠まれたと考えるべきである。そうした意味に於て、宴席(歌)の論理、贈答(歌)の論理、歌表現の仕組みを考える事は、万葉歌の総体、その本質をつかむ事につながると考えている。本学位申請論文は、万葉歌の二つの柱の内、贈答歌に主眼を置き考察したものであるが、宴席歌も視野の内に入れている。述べたように、両者併せて万葉歌表現全体の理解が得られると考える為である。論文名「万葉歌の表現の研究」はこの意味に拠るものである。

 また贈答歌表現を論じようとするものではあるが、その際、表現の基盤にある男と女の関係についての考察を無視する事はできない。直接に一対となった贈歌と答歌の表現を分析しつつ贈答歌の考察を行なう事と併せ、また男と女とはどのような観念を負いながら歌を交していたのか、という考察も必要となろう。その為には贈答歌表現の諭理という事からは離れ、男或は女自体が負っていた、或は両者の関係の在り様に対する、当時の観念についても考えてみなければならない。以上の意味に於て、贈答歌表現の分析及び男と女についての観念の考察を、第一部「歌表現の中の『男と女』」で行った。そしてこの二つの考察は単純に分られるものではないが、便宜、贈答歌の対としての意味を論じたものを第一章「贈答歌表現の研究」としてまとめ、男と女についての観念を明らかにしようとしたものについては、第二章「歌言葉に見る『男と女』」としてまとめたのである。尚、第二章の題をこのようにしたのは、その方法、万葉の歌言葉を通して考察した為である。歌言葉とは、歌を詠む人々の観念がそこに凝縮されていると見てよいものであろう。歌言葉を通し「男と女」について考察した所以である。

 本稿は遊行女婦歌も併せ論じた。自然性としては女でありながら、しかし一般の女とは異なる歌表現の在り様は、男と女の関係を別の側面から照らし出すと考えた為である。遊行女婦歌の考察を第二部「『遊行女婦歌』表現論」として、第一部と分つ形で揚げたのは、この一般の女とは異なると考える本稿の見方に拠っている。

 次に個々の論、節を単位にその概要を述べる。まず第一部第一章から。その第一節「贈答歌の表現の論理」は、男の懸想、女の反発という贈答歌表現を、発生論的に考察したものである。具体的に言えば、それは共同体の呪力を負い、出会った相手に惹かれつつも、しかしその呪カを穢と見て排除しようとする、境界での他者との出会いに於ける発語と原理的に重ねられるものと考えたのである。本稿全体の基調はここに示されていると考えている。

 第二節「道と衢」は、前節で論じた男女の観念、及び道と比較しつつ境界としての衝の具体的な在り様を、巻一二の問答歌表現の中で示そうとしたものであ」る。そして二人が出会った一つの場所を、男が衢と呼び、女が道としている所に、男女の非対称性が示されていると考えたのである。

 第三節「俗信問答二八○八〜九歌考」も第一節で説いた原理を、問答歌の具体的表現の中に見ようとしたものである。二様の解釈のある眉、クシャミの俗信については、男が女を取り込む為、また女が男を排除する為、それぞれに都合よく用いられ、二人の親和を前提とする紐の俗信は、男には使われたが、女には使われる事が無かったのである。

 第四節「天智天皇と鏡王女の贈答歌について」では、表現に親和を見るか挑戦、反発を見るかで理解が分れている論題の贈答歌を取り上げた。他者の出会う場としての歌垣から万葉贈答歌という流れを考えた時、実質的な相聞歌の最初に置かれたこの二首の性格をどのように捉えるかは、贈答歌表現の考察にあたり重要である。本稿は二首を挑戦、反発の歌と考えたのである。

 本稿は述べたように宴席歌も視野に入れている。宴席で歌われた歌謡、催馬楽の表現から宴の諭理を考えたのが、第一章補論の「催馬楽『陰の名』考」である。具体的には表題の催馬楽表現を、共通語で示された言葉に対し、その隠語、方言を各々が唱和しているという構造を持っていると考えた。そしてその構造は、絶対者の発語と、それに対し貢上される服従する者達の言葉と重ねる事が可能であり、宴の論理がここに貫徹されていると考えたのである。

 次は第二章である。旅人の安全は家に残る妻との共感関係の中で守られた。第一節「羈旅歌に見る『斎ひ』をめぐって」は、歌言葉「斎ひ」を通じ、その共感関係の内実を明らかにしたものである。そして「斎ひ」とは、旅人とその家人とが同じ姿をし、同一の環境に身を置き、互いが自身の身の安全を守る事で、相手の安全を確保しようとした児的行為である、と考えたのである。

 第二節「万葉歌に見る『嘆き』と魂」では、呪的行為としての「嘆き」について考えた。それは思いの対象との魂会いを期し、自身の魂を送り出すものであった。また嘆きと魂の問題を考える中で、袖振り、紐の俗信についても併せ考えた。

 第三節「恋と噂」は「人言」を通じ、恋人達の思いの共同幻想についてその内実を探ったものである。「人言」とは、周囲に向け用いられた恋人達の言葉であり、自分達を周囲から隔絶させようとする働きを持った。そしてその隔絶は、二人を兄妹始祖神とする新しい世界を築こうとする観念につながると考えたのである。

 第四節「万葉『隠妻』考」は、「隠妻」の通説的理解を否定し、それを今は親の監視により「恋の関係」にはなれないものの、いつか自分の妻になる事を夢見る男の、女に対する呼称と考えたのである。この言葉には、異性に出逢う前の女が負った観念が集約されていると考えている。また天皇の「いろごのみ」の問題も、歌表現の分析の中で論じた。

 禊、穢、罪といった古代的観念も男女の関係と関りを持つ。本稿に於ては、第二章の補論「ハラヘ考」として、その中のハラヘの意味をハラヒと比較しながら考えてみた。そしてハラヒは自身の行為により、直接対象に力を及ぼしそれを除去する事、ハラヘは神に物を差し出し祈願し、神の力により対象を除去するものであると考えた。

 第二部は「『遊行女婦歌』表現論」である。そしてその第一章「遊行女婦の相(一)」では、越中に於ける男官人達の宴に参加した遊行女婦の歌を論じた。第一節「楽しく遊べ」は、論題として掲げた歌旬に注目し、それを、遊ぶ神々としての男官人とその遊びの証人としての自分とを分つ言葉であると考えた。第二節「君に聞かせむ」も、論題の句を論じたもので、これを男官人達に奉仕する言葉と考えたのである。第三節「君が挿頭に」は、この言葉を自身と男官人達とを分ち、男達を言祝ぐ性格を持つものと考えた。そして述べた、官人達と自身を分とうとする遊行女婦は、しかしその事により、女でありながら男官人全体を一つに括る形で、その心を担う事が可能となり、男の歌である古歌の亡妻挽歌が歌えたと、第四節「古歌誦詠」で考えてみた。

 第二章「遊行女婦の相(二)」では、個別に男と向き合う場面に於ける遊行女婦歌について考えた。第一節「左夫流児」では、遊行女婦は、男と対にはなれない女である事を考えた。また一方、男と対になろうとしない女でもある事を、第二節「袖を振る歌」で考えた。第三節『行旅に贈る」、また第四節『橘の歌」では、歌表現に嫉妬を読み取りつつ、男と対になれない事が、男に祝福の歌を詠む事を可能にした事、を論じた。

 第三章「『遊行女婦』考」第一節「娘子歌を読む」は、残された問題、集中「某娘子」の名で呼ばれる女達の歌表現について、その凡そを遊行女婦歌分析で得た結論を基に読み直してみようとしたものである。第二節「遊行女婦と『男と女』」は、遊行女婦歌を詠む中で考えたその本質を、男女の一般的関係の中で説明しようとしたものである。具体的には、古事記神話を男女の関係の原理が書かれてあるものと見、そこから逸脱しようとする「色好みの女」を、理論的に定位しようとしたものである。またそのような女が、男に対し祝福の歌を詠む事が可能である根拠を考えたのである。

 最後に景行記に載る大御葬歌一首について、新しい読みを示した「大御葬歌『なづきの田の』再考」を、本稿の付論として掲げた。歌表現に見られる「稲幹」、「野老蔓」について、改めてその表現の意味を考える所から出発し、その葬歌である所以を考えてみたのである。本稿の趣旨と直接に関る所は少ないが、歌の読み方の基本的姿勢を示したいと考え、ここに収めた。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、『万葉集』の男女の贈答歌を細密に読むことで、その表現の機制に深く分け入り、それによって古代和歌の表現のもつ独自性を明らかにしようと試みた論である。問題意識の鮮明な、構成・内容ともにすぐれた論である。全体は二部六章及び付論からなる。

 「第一部歌表現の中の「男と女」」は、二つの章からなる。「第一章贈答歌表現の研究」は、男女の贈答歌を支える表現論理がどのようなものであったのかを、いくつかの具体例の徹底的な分析を通じて考察する。男女の贈答歌の基盤が、共同体を異にする同士が出逢う歌垣の場にあること、そこに交わされる歌が互いの異和をそれぞれの秩序に取り収めようとする機能を持つことを指摘して、そこに見られる対立と調和の表現の本質を明らかにする。従来、表面的な解釈に留まっていた男女の贈答歌を、その表現論理に迫ることで原理的に把握し、統一した理解への道筋を提示しえたことは、大きな成果といえる。「第二章歌言葉に見る「男と女」」は、第一章の成果を受け、「斎(いは)ひ」「嘆き」「人言(ひとごと)」「隠妻(こもりづま)」という歌言葉の分析を通じて、その言葉を含む個々の歌に対する新たな解釈を提示したもの。ある場合には古代人の霊魂観の具体的な検証を通じてその精神史に参入し、またある場合には過去の埋もれていた学説に再び光りを当ててその再評価をはかるなど、これまで表面的な理解しか与えられて来なかった歌言葉について深い考察を加えている。その際、恣意的な見方が入ることをできる限り排除しようとする意図から、用例に対する厳密な本文批判を加え、禁欲的とも言えるような態度で分析を進めている。「人言(=他人の噂)」という歌言葉が、周囲の共同体から隔絶した恋人だけの世界の構築を意図した言葉であったとする指摘などきわめて斬新であり、今後の相聞歌研究に大きな刺激を与えるものといえる。

 「第二部「遊行文婦歌」表現論」は、序章を含め四つの章からなる。遊行女婦とは官人などの宴席に侍する遊女の意だが、その認定にはしばしば混乱があった。この第二部は、「遊行女婦」と明示のあるものに対象を絞り、その歌を厳密に検証することによって、遊行女婦の歌の特徴がどこにあるかを明らかにしている。すなわち遊行女婦の歌とは、男とは一対一の対の関係を決して結ぶことのない、また男集団(主として官人集団)の外部にあって、それを讃美するような表現性をもつ歌であることを指摘する。これによって、従来、遊行女婦の作かどうかの認定の難しかった歌を考える際の、重要な指標が与えられたことになり、これまた今後の研究を大きく進展させるものといえる。

 本論文は、考察の対象を厳密に認定するところに出発点を置いている。その学問的態度はたしかに正当なものだが、具体的な論述に際してはやや窮屈さを感じさせるところもなしとしない。しかしながら、それは瑕瑾といえる程度のものであり、男女の贈答歌の表現の本質を明らかにした本論文の価値を少しも損なうものではない。よって、審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

 なお、評価に入れるべきことではないが、多年勤続した職を辞して学問の道に志し、いわば晩学でありながら、その結果を千枚を越える浩瀚な学位論文として提出しえたことは、賞賛に値する。この点を付記する。

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