学位論文要旨



No 117687
著者(漢字) 山村,浩
著者(英字)
著者(カナ) ヤマムラ,ヒロシ
標題(和) 「超人」から「永劫回帰」へ : ニーチェ『ツァラトゥストラ』をめぐる一考察
標題(洋)
報告番号 117687
報告番号 甲17687
学位授与日 2003.01.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第384号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平野,嘉彦
 東京大学 教授 浅井,健二郎
 東京大学 教授 松浦,純
 東京大学 助教授 重藤,実
 東京大学 助教授 藤井,啓司
内容要旨 要旨を表示する

 二―チェの『ツァラトゥストラ』には、「自己」-「自我」という、人間の構造モデルが提示されているが、これはフロイトの「自我」-「エス」という心的審級のモデルを想起させるものである。「自己」は身体における無数の英知の共演とその有機的統一という意味合いを担っており、フロイトのエスと重なる部分もあるが、同時に歴史上の夥しい遺産を内在化し蓄積させたものとして描かれている。他方「自我」は、「自」と「他」の間、社会的な関係の結節点に生起するものである。それは言語表象の領域とも一致し、外在的な諸価値に同化することによって、おのれの存立を目指す。「自己」と「自我」の関係は、「自己」が人間存在の本来的な全体性であるのに対し、「自我」は表層の虚構である。「自我」は人間の本来的な中心点ではなく、「自己」の「道具」に過ぎないのである。だがそれは、人間が人間たりうるための不可欠の「道具」、「自己」の欠くべからず一器官である。「自我」はまた、「自己」の比喩であり、記号であり、またその徴候であるとされている。

 「自己」という概念には、上に述べたような人間存在の真の中心、有機的統一の場という意味合いのほかに、「おのれの本来性」という意味合いもこめられている。このような「自己」の両義性に対応するように、「自我」もまた、二様の意味合いを付与されている。すなわち「自己」の道具としての意味合いが一つ、「おのれの本来性」を疎外する、表層の虚偽という意味合いがもう一つである。「自我」は「自己」の「道具」として、「自己」を、自然的社会的な外界へと媒介するものであるが、同時にそれは「価値」によって構造化されている。「自我」を構造化している「価値」の源泉は、おおむね社会の制度的な諸価値であるが、「自己」の固有性が反映されたものとしての価値も、「自我」の構成要素となりうる。後者のプロセス、「自己」の固有性を「自我」の構造に反映させ、「自己」の可能性を展開してゆくプロセスこそが、「自己超克」という概念の中核にあるものである。他方「自我」は、「自己」の本来性を疎外するという方向でも作用する。『ツァラトゥストラ』に記された、生の否定的な側面は、「自我」のこの作用によるものである。「自己超克」という概念には、このような否定的な作用を克服するという意味合いもこめられている。

 「自我」を構造化する「価値」のもう一つの源泉としては、隣人愛に代表される、「自」と「他」の関係力学が挙げられる。これは精神分析理論において、ハインツ・コフートが提示した「自己対象」という対象との関係に相当する。「自己対象」とは、独立した人格としてではなく、自分の心の一部として体験される他者であり、自他が完全に分離していない段階での他者、自己愛的な関係で結ばれる他者である。「自己対象」との関係は、(社会の価値を内在化するプロセスとならんで)表層の虚構としての「自我」(コフートの用語では「自己」)を形成するものである。『ツァラトゥストラ』においては、主人公ツァラトゥストラの弟子たちが、この「自己対象」に相当する。ツァラトゥストラにとって弟子たちとは、真の意味での他者とは言えず、両者の関係はツァラトゥストラの「自我」を存立させる機能を担っているのである。そしてこの関係は、端的に「語る-聞かれる」という位相に現れている。「語る-聞かれる」という関係において、聞き手は語り手を、鏡のように映し出してやることで、語り手の「自我」を補強するのである。それは、「伝達」の位相に見られる「語る-聞く」という関係とは別のものである。このように「語る」という行為には、「語る-聞く」という位相と「語る-聞かれる」という位相の二つが含まれている。人間は何かを伝えるために発話すると同時に、ただ他人に聞かれるためにも発話するのである。前者は「伝達」、後者は「自我存立」の位相に相当する。「語る」という行為にあるこの種の二層構造は、『ツァラトゥストラ』の叙事的な構造と密接な関係にあり、永劫回帰の体験へと至るツァラトゥストラの「発展」を規定しているのである。

 「序説」において、はじめて民衆に向かって説法をしたツァラトゥストラは、聴衆の無理解というものに直面する。彼は一個の思想家として、他者との関係性を喪失し、「自我存立」の危機にさらされる。「自我」とは、社会的関係の結節点に生起するものであり、他者との関係の喪失は、「自我」を瓦解の危機にさらすのである。そのような危機において、かろうじてツァラトゥストラの「自我」をつなぎとめたのは、弟子たちという「自己対象」との関係であった。そこでは「語る-聞く」という相称的な関係のかわりに、「語る-聞かれる」という非相称的な関係が前面に現れる。ツァラトゥストラは、弟子たちにおのれの語りが鏡映されることにより、崩壊しかけていた思想家としての自我をつなぎとめる。こうした経緯はツァラトゥストラの言説の独特な性質の中に反映されている。すなわちそこでは、二人称と三人称の互換性、語りかけることと歌い上げることの混在、そしてなかんずく対話の欠如などが見られるのである。同時にそれは、聞き手としての弟子たちの特異な性質(匿名性、受動性など)とも対応するものである。

 かくしてツァラトゥストラは、弟子たちという「自己対象」と関係を取り結ぶことで、「序説」での「自我存立」の危機に対応した。弟子たちとの特異な関係に裏打ちされた言説は、『ツァラトゥストラ』の第一部と第二部を特徴づけている。それが変化するのは、第二部の終わりから第三部にかけてである。第二部の最終章「最も静かな時刻」において、ツァラトゥストラは、再び「自我」の危機に直面する。彼白身の内心の声によって、民衆に永劫回帰の思想を語ることを要請されたツァラトゥストラは、「自我存立」の危機を予感する。ツァラトゥストラはおのれの自我の脆弱さを乗り超えるために、弟子たちと別離することを決意する。「語る」という行為には、「伝達」(「語る-聞く」という関係)と、「自我存立」(「語る-聞かれる」という関係)の二つの契機が含まれており、民衆に「伝達」するためには、「自我存立」の契機(弟子たちとの「語る-聞かれる」という関係)が克服されねばならないのである。

 しかし「伝達」も、「自我」の領域に根差しているという点では、「自我存立」と同様である。なぜならば「自我」とは、「私」と「他者」の関係性において成立するものだからであり、したがって「伝達」の領域に相当しているからである。したがって言葉による「伝達」もまた、人間の本来性としての「自己」にとっては、表層の虚構、虚偽のものに過ぎない。「伝達」も「自我存立」も、「自我」の虚構性との関わりという点では共通しているのである。したがって、「語る-聞かれる」という関係が克服され、「語る-聞く」という関係が前面に出て来たとしても、今度は「伝達」の虚偽性が問題にならざるを得ない。「帰郷」という章でツァラトゥストラが行っているのは、言葉のこうした伝達機能に対する批判である。

 しかしそうした事情も、永劫回帰思想の体験によって再び一変する。伝達の虚構性を了解し、その仮象性をむしろポジティヴに称揚するならば、逆説的にも「伝達」の可能性に対する盲信が取り除かれ、「自我」の虚構性が肩透かしされるからである。そこでは「伝達可能性」という観念自体が超克されるのである。第三部の最終章「七つの封印」にある、「歌え、もはや語るな」という言葉は、そのような超克の到達地点である。

 「語る-聞かれる」という位相においてであれ、「語る-聞く」という位相においてであれ、「語る」という行為は「自我」の領域に生起するものである。それは「関係」を「実体」とみなす錯覚の上に成り立っている。その意味では「伝達」も「自我存立」も、錯覚の上に築かれた虚構の営みにすぎない。「語る」という行為をめぐる、主人公ツァラトゥストラの発展とは、こうした「自我」の虚構性を克服しつつ、「自己」の本来性に近づこうとするプロセスにほかならない。このような意味においてそれは、この作の「自我-自己」という人間の構造モデル、自己超克のプロセスと照応しているのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、二○世紀の哲学、文学、思想に深甚な影響を与えた哲学者フリードリヒ・二ーチェの主著『ツァラトゥストラはかく語りき』の主として第一部から第三部に焦点をあてて、ツァラトゥストラが語る、そのディスクールを読み解きつつ、新たな精神分析学的解釈を試みようとするものである。

 従来、二ーチェのこの著作は、狭義の哲学、文学のみならず、さまざまな立場からの読解がおこなわれてきたが、おおむねそれらは、そこに表出されている思想内容を、意味論的なレベルにおいて了解しようとする努力にとどまっていた。それにたいして論者は、主人公であるツァラトゥストラの言説を形づくっている、その基本的な構造を、アメリカの精神分析学者ハインツ・コフートの理論をかりて、心理的に再構成しようとする。その際に、論者は、『ツァラトゥストラ』のなかに、「自己」と「自我」という二つの心的審級が提示されていることに着目する。論者の表現をかりるならば、「自己」とは、「身体における無数の英知の共演とその有機的統一」であり、それにたいして「自我」とは、「社会的な関係の結節点に生起するもの」である。「自我」は、「自己」の「比喩であり、記号であり、またその兆候である」とされるが、他方で社会的な価値を内在化させ、構造化させることによって、本来的な「自己」を疎外もする。こうした「自我」のたえざる更新が、ツァラトゥストラによって「自己超克」と呼ばれるところのものであり、いわゆる「超人」の生成も、このような心的モデルにおいて理解されることになる。

 コフートのいうところの「自己」は、二ーチェの「自我」に相当すると論者は指摘する。幼児のみならず、大人もまた、この社会的な関係のレベルにおいて、みずからの語る言葉が聞かれる、内なる他者をもつという。そうした「語る=聞かれる」という関係においては、言葉は、意味論的な伝達に仕えるのではなくて、ただそうした言語行為を遂行するためにこそ、使われるのである。言語使用のこうした様相が、ツァラトゥストラが弟子たちにたいして有している関係に出現していることを、論者は、たとえば二人称の用法を詳細に分析することによって、逐一、証明していく。その論の展開は、文学研究における作品解釈の一例として、きわめて優れたものである。

 なるほどこうした方法をもってしては、『ツァラトゥストラ』の第四部を扱うことができず、またツァラトゥストラのディスクールを分析するにあたっては、当然、顧慮されるべき福音書にたいする言及が欠けているなど、本論文に瑕疵がないわけではないが、ドイツ語圏においても類例をみない、新しい視点からこの著作を解明することに成功している点は、十分に評価されるべきものである。以上に鑑みて、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に相当するものと判断する。

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