学位論文要旨



No 117692
著者(漢字) 徐,慶雲
著者(英字)
著者(カナ) シウ,チンウン
標題(和) 印環細胞癌治療のための基礎研究及びその治療薬の検索
標題(洋) Basic research and screening for therapeutic drugs of signet-ring cell carcinoma
報告番号 117692
報告番号 甲17692
学位授与日 2003.02.03
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2479号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 福井,泰久
 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 助教授 八村,敏志
 東京大学 助教授 小西,博昭
内容要旨 要旨を表示する

 消化管の腺癌はその分化程度により高分化型腺癌と低分化型腺癌にわけられる。高分化型腺癌細胞は正常細胞と同様に細胞同士の接着と細胞極性を持ち固形腫瘍を作る可能性が高く外科手術による治療が可能な場合が多い。それに対し、低分化型腺癌細胞は細胞の極性が失われ、細胞間接着が消失する。そのため生体内の一ケ所で増殖せず、他の臓器に転移し腫瘍を作るため外科手術による治療が困難である。高分化型腺癌細胞は何らかの原因により低分化型腺癌細胞に形質転換する場合もある。印環細胞癌は東洋人に多発する低分化型腺癌の一種で、それ由来の細胞は細胞間接着がなく、細胞内に巨大な液胞を持ち核が指輪のような形に変形するなどの特徴を有する。ホスファチジルイノシトール3-kinase(PI3-kinase)は増殖因子の刺激に応じて活性化され、細胞骨格の構築、小胞輸送、遺伝子の転写活性化及び細胞増殖など多彩な細胞応答に関与する。また最近になり、PI3-kinaseは癌遺伝子として発癌と癌の悪性化に関わっていることが明らかになった。 当研究室では、大腸や胃の高分化型腺癌の細胞株であるHCC2998株やMKN45-1株に活性型PI3-kinaseを発現させたところ、細胞がお互いの接着性を失うことにより球状になり、さらに巨大な液胞を持つ細胞に形質が変化した。これらの細胞は印環細胞癌に酷似した。これはPI3-kinaseが印環細胞癌の形態獲得に重要な役割を有することを示唆する。さらにPI3-kinaseの下流因子のどの分子がこの現象に関与しているかを検討したところ、p38 MAP kinaseの活性化が見い出された。またp38 MAP kinaseの阻害剤(SB203580)を作用させたところ、活性型PI3-kinase発現によるHCC2998株やMKN45-1株よりの印環細胞癌形成が顕著に阻害され、これらの結果から印環細胞癌形成にp38 MAP kinaseが関与している可能性が示唆された。本研究ではPI3-kinase活性化による上記の細胞形態の変化を指標に、印環細胞癌に対する有効な治療薬の探索を行った。また、印環細胞癌におけるPI3-kinaseの経路関連因子の役割を検討した。

1.印環細胞癌の形成を抑制する薬剤のスクリーニング

 前述したように、これまでの結果からPI3-kinaseが印環細胞癌の形成に深く関係があり、そのシグナルの一部はp38 MAP kinaseを介して伝達されることが示唆された。このような実験事実から印環細胞癌様の細胞をin vitroで作ることができ、薬剤によってこれを阻害できる可能性が示された。先に述べたように、高分化型腺癌に活性型PI3-kinaseの発現を誘導する際に、p38 MAP kinase阻害剤SB203580を加えることにより、細胞間接着能の低下及び球状細胞への形態変化が抑制された。しかし、SB20358は巨大な液胞の形成の抑制作用は持たなかった。そこで本章では前述したこのin vitroで印環細胞癌様の細胞形成システムを用い、その形成をより強く、より特異的に抑制する薬剤のスクリーニングを行った。本研究ではSB203580の様な細胞の接着性が上昇させる活性を持つ薬剤を陽性対照薬剤に用いた。しかし、当初の方法ではアッセイ用の細胞がシャーレ上に接着を完了した後、PI3-kinase発現のためのアデノウィルスを処理するため、ウィルスの感染や培地交換など操作が煩雑であった。また、細胞が完全に形態変化するまでウィルス感染後の2日以上かかるため、大量の候補化合物をスクリーニングするには、より簡単なスクリーニング方法が必要となった。種々の検討を行った結果、シャーレ上に接着する前の細胞に直接アデノヴィルスを処理し、予め薬剤をいれた96well plateに細胞を培養するスクリーニング系を確立した。この方法を用いて、40,000種類の未知の薬剤から一次スクリーニングで94個のポジティブな薬剤が得られた。その比率は0.24%であった。これらと構造が類似する720個の薬剤を新たに検討した結果、8.75%の化合物がポジティブとなった。これは一次スクリーニングの時の比率0.24%に比較すると大きく上昇しており、本スクリーニング系の有効性を示すものである。続いてこの94種類の薬剤を天然の印環細胞癌由来の細胞であるNUGC4及びKATOIII細胞に対する効果を検討した。その結果、NUGC4細胞に対しては7種類、KATOIII細胞に対しては5種類の薬剤で接着能を上昇する活性が見られた。ところで、SB203580はNUGC4細胞ではその活性が極めて弱く、KATOIII細胞に対してはより印環細胞を増やすなどの毒性がみられた。しかし、本スクリーニング方法で得られた薬剤は天然の印環細胞由来の細胞の接着力を強力に増強させる作用を有していた。続いて得られた薬剤の構造の解析を行った。その結果、構造の類似性から4種類のグループに分けられた。このように構造上、ある種の共通性が存在するということは、本アッセイ系が印環細胞癌形成を抑制する薬剤をスクリーニングするために有効かつ信憑性があると考えられる。次に得られた薬剤の薬理機構を調べるために、その中の代表的な5種類を選び、ヒト癌細胞パネルアッセイを行った。そのアッセイはヒト癌細胞39系に対するin vitro薬剤感受性試験結果をデータベースプログラムで解析することにより、新しい作用機作を持つ抗癌物質、すなわち既存の抗癌剤と異なるユニークな抗癌物質を選別できる系である。その結果、既知の抗癌剤と異なる新たな機能を持つことが判明した。当研究室の別の研究からcAMPが弱いながら印環細胞癌培養細胞の表現型を抑制する効果があることがわかった。そこで、これらの薬剤についても検討してみると、転写因子であるCREBのリン酸化を上昇することが見られた。従ってこれらの化合物はcAMP経路を活性化することが考えられた。しかし、cAMPの濃度とA-kinaseの活性には影響を与えなかったため、その作用点の解明には今後の研究が必要である。また、現在、得られた候補化合物についてヌードマウスを用いた抗腫瘍活性の検討を行っており、それらのin vivoでの効果を検討している。

2.印環細胞癌におけるPI3-Kinaseの下流因子の役割

 これまでの結果から、PI3-kinase経路は印環細胞癌の形成に関わっているが、PI3-kinaseの経路の如何なる因子が関与するかについては、まだ解明されていない。そこで、前述の薬剤スクリーニング系で用いた印環細胞癌様の細胞形成システムを用いてその因子の同定を試みた。特に印環細胞癌の特徴である細胞間接着の喪失と巨大な液胞の形成を指標に解析を行った。先に述べたように、高分化型腺癌の活性型PI3-kinaseの発現により起こる、細胞間接着が消失し、細胞が球状になるという形態変化は、p38 MAP kinase阻害剤SB203580を加えることにより抑制された。また、p38 MAP kinaseの上流分子であるMKK6の活性型(MKK6DA)を高分化型腺癌に導入したところ、活性型PI3-kinaseを発現する細胞と同様に細胞間の接着が消失し、細胞が球状になることが観察されたので、p38 MAP kinaseは印環細胞癌の形態変化に重要なPI3-kinaseの下流因子であることが示唆された。この事実をさらに支持する実験結果として、本系においてMKK6の上流に位置するSmall GTPase Racの活性型を導入することにより、細胞を球状化することとRacのdominant negative変異体はPI3-kinaseによる細胞の球状化を抑制することがわかった。RacはPI3-kinaseによって活性化されるので、シグナル伝達経路としてはPI3-kinase-Rac-p38 MAP kinaseと流れることが示唆された。また、LY294002は天然の印環細胞癌株の足場非依存的な増殖を完全に抑え、またSB203580によっても部分的であるが抑制された。この事実はPI3-kinase/p38 MAP kinase経路は印環細胞癌の腫瘍形成能に重要な役割を果たしていることが示唆された。

 一方、巨大な液胞の形成は分泌系が亢進した結果であり、糖蛋白質ムチンの細胞内への分泌と蓄積に相関がある。活性型PI3-kinaseを発現し、印環細胞癌様の細胞に形態変化した場合には、巨大な液胞の形成やムチンの分泌が観察された。しかし、MKK6DAを導入し、形態変化を起こした細胞では、そのような現象が見られなかったので、分泌の亢進はp38 MAP kinase経路に非依存的であることが示唆された。同様にPI3-kinase阻害剤LY294002は天然の印環細胞癌株のムチンの分泌を抑制したが、SB203580は全く効果が見られなかった。従って印環細胞癌におけるPI3-kinaseの下流は(1)p38 MAP kinase依存性と(2)p38 MAP kinase非依存性、の少なくとも二つの経路が存在し、(1)は細胞間相互作用に(2)は蛋白質の分泌亢進に関わっていると考えられた。

まとめ

 以上の実験により、印環細胞癌株の形成を特異的に抑制する薬剤が得られた。そのうちの5種類の薬剤は新たな機能をもつことが期待される。また、本研究により得られた薬剤の薬理特性から印環細胞癌の形成にはCREBをリン酸化する経路の負の関与が示唆された。一方、印環細胞癌形成には少なくとも二つの経路を関与していると考えられる。すなわち、p38 MAP kinase依存的経路は細胞接着および足場非依存的腫瘍形成の獲得に関与し、それぞれは印環細胞癌形成の細胞間相互作用。と分泌系に関わっている。ムチンの分泌及びそれによる液泡形成はp38 MAP kinase非依存的経路が関与していることが示唆された。本研究により東アジアで問題になっている印環細胞癌におけるシグナル伝達とその治療に関して価値がある知見が得られた。

審査要旨 要旨を表示する

 上皮細胞由来の癌(腺癌)はその形態的特徴から、高分化型と低分化型に分類される。高分化型腺癌は細胞極性や接着能を有し、生体内において発癌した場合でも固形腫瘍を形成するため、外科的手術による治療が有効である。一方、低分化型腺癌は高分化型腺癌がその特徴を失い、他の臓器への高い転移能を獲得し、手術による治療除去が困難な極めて悪性の癌である。印環細胞癌はこのような低分化型腺癌に属し、東アジアで特に多く、死亡率も高い。しかしながら現在も有効な治癒法はなく、早急な治療薬及び治療方法の開発が望まれている。細胞情報伝達機構において極めて重要な役割を果たすホスファチジルイノシトール3-キナーゼ(PI3K)は発癌に関連があることが示唆されている。これまでに活性型PI3Kを発現させることにより高分化型腺癌由来の培養細胞が低分化型の特徴を持つように形態変化することがわかっている。また、天然の印環細胞癌では原癌遺伝子産物ErBb3がりン酸化、活性化され、PI3Kがこれと結合することにより活性化されている例が多いことがわかっている。

 本論文ではこのような背景をもとに、印環細胞癌形成におけるPI3Kの下流因子の検索を行い、印環細胞癌の形成を阻害する薬剤の検索とその作用機作について解析を行った。

 本論文は主に2つの部分から構成され、前半では、高分化型腺癌由来HCC2998細胞を用い、細胞間接着能の低下と細胞内の巨大な液胞の形成を指標に、印環細胞癌様への形態変化に関与する種々PI3K経路関連分子について解析した結果を述べている。PI3Kの下流因子としては、これまでにPKC、PKB及び種々のMAP kinaseによる蛋白質リン酸化経路が知られており、本研究においてもこれらの分子のいずれかの関与が予想された。効率的なHCC2998細胞への一過性発現系を確立し、それを用いて、様々な分子について検討した結果、p38 MAP kinaseの上流分子である蛋白質リン酸化酵素MKK6及びそのさらに上流に位置する低分子量GTP結合蛋白質であるRacのそれぞれの活性型の発現により、細胞間接着能の低下による、球状への形態変化が誘導された。このことからErBb3-PI3K-Rac-MKK6p38 MAP kinase経路は印環細胞癌の形態変化に重要な因子であることがわかった。次に、形態変化による癌悪性化についての解析で得られた結果をもとに、天然の印環細胞癌株を用いた足場非依存的な増殖すなわち腫瘍形成能について解析を行った。その結果、程度の差こそあるが、PI3K阻害剤のみならず、p38 MAP kinase阻害剤においても、印環細胞癌の腫瘍形成能を抑制した。従ってPI3K/p38 MAP kinase経路が低分化型腺癌への転換、すなわち癌の悪性化に必須であることが示唆された。一方で、細胞内の液胞、いわゆる印環形成についてはp38 MAP kinaseとは非依存であることが判明した。従って、印環細胞癌形成においてPI3Kの活性化が必須であるが、その下流は(1)p38 MAP kinase依存性と(2)p38 MAP kinase非依存性、の少なくとも二つの経路が存在し、(1)は細胞間相互作用に(2)は印環の形成に関わっていることが判明した。

 後半では、HCC2998細胞を用いたin vitroでの印環細胞癌様の細胞形成システムを利用した印環細胞癌に対する治療薬の探索を行った。この系を用いて、40,000種類の化合物から印環細胞癌の形成を阻害する80種類の薬剤を得た。それらの薬剤のうちの7種は、天然の印環細胞癌由来の細胞であるNUGC4及びKATOIII細胞に対しても有効であった。その代表的な5種類の薬剤はcAMPカスケードの下流に位置する転写因子の活性化を誘導し、cAMPシグナル伝達系に関与すると考えられた。これらはヒト癌細胞パネルアッセイにより既知の抗癌剤と異なる新たな機能を持つ可能性が示唆されたことから新タイプの薬剤が得られていることが考えられた。

 以上、本論文は東アジアにおいて特に高い死因を示す印環細胞癌制圧のための細胞内シグナル伝達機構を中心とした基礎研究とそれに基づいた治療薬の探索を行い、有用な知見を供給したもので、学術上応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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