学位論文要旨



No 117696
著者(漢字) 周,延蒼
著者(英字)
著者(カナ) シュウ,エンソウ
標題(和) <教育>に関する語源学的研究 : <教>と<育>の文明史
標題(洋)
報告番号 117696
報告番号 甲17696
学位授与日 2003.02.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第89号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 汐見,稔幸
 東京大学 教授 土方,苑子
 東京大学 助教授 西平,直
 東京大学 教授 金森,修
 東京大学 助教授 池澤,優
内容要旨 要旨を表示する

 教育学が教育と呼ばれる事象を対象とする学である限りにおいて,なにが「教育」なのかということは学の根本問題に属する。概念の内包を批判分析するためには,いったんその語彙の生成過程に立ち返って原義を求める必要がある。これまでの研究では,今日普通に当然のように使用されている「教育」という語彙が幕末・明治初期に欧米語からの翻訳語として選びとられた漢字熟語の延長にあることは指摘されてきてはいる。しかしながら,その構成要素である「�ヘ」と「育」とがどのような本義と歴史的変容を遂げてきたものなのか,また「�ヘ育」という語彙の初出と目される《孟子》の用例が「教」と「育」の歴史の中でいかなる位置を占めるのかについては,未だ十分な解明がなされたとは言いがたい状況にある。その結果,「�ヘ育」あるいは「�ヘ」・「育」そして「師」・「學校」という言葉の語源に関して必ずしも共通理解が得られているわけではなく,それどころか,誤った理解が通念となっているのが現状なのである。このことは,「�ヘ」「育」という文字が有している歴史的意味喚起力が基底から不断に「教育」概念に浸潤してくる事態を念頭に置くとき,早急に解決されるべき教育学研究の課題を指し示している。

 本論文は,東アジア,いわゆる漢字文化圏における,<�ヘ>・<育>・<學>・<校>・<師>ということばないしは文字が何を意味していたのかを解明しようとしたものである。そのために,後漢の許慎《説文解字》(西暦100年頃)が扱った小篆はもとより,甲骨文字や金文(青銅器の銘文)にまで遡り,現代の字源学やさらには考古学等の知見に学びつつ,そもそも上記の文字が何を意味していたのかその本義を明らかにしょうとする。と同時に,本論文では,それらの文字が意味するものあるいは用法の歴史的変遷を辿り,そこに<�ヘ>の系譜と<育>の系譜とが織り成す文明化の歴史を描出しようとした。本論文の構成は,次のようになっている。

序章

第一章 <�ヘ>という文化

第一節 <�ヘ>の原義

第二節 <�ヘ>の条件-儒・釋・道三教交渉と論争をめぐって

第二章 <師>の原像-教師とはだれのことだったか

第三章 <學><校>という場

第一節 <學><校>の原像

第二節 近世における<學校>の露頭

第四章 <育>という営み

終章

補論 身体作法の形成-《律臓》と《正法眼藏》における厠の作法

 第一章の第一節では,<�ヘ>の語源を遡り,甲骨文字や歴史文献に残された史料の中に<�ヘ>という営みを辿ることによって,その原義を明らかにすべく試みた。これまで教育学分野の中では往々にして,<�ヘ>の偏を「孝」と解し旁を棒を持った手と解することによって,あたかも儒学の徳目たる「孝」を「鞭で打って習わせる」ことが<�ヘ>の原義だという理解さえも広められてきた。しかし,「孝」は「老」の部に属し「〓」とは別字であり,旁も手に持っているものはむしろ「卜」と解すべきものであり,全くの誤りである。ちなみに,<�ヘ>の偏にある「子」がもともと芽が出たばかりの蓍草を指すものであることは何啓賢論文(『教育研究』,1995年,第12期)によっても既に指摘されており,この蓍は筮に用いられるものであった。

 本章では,<�ヘ>と巫との深い関連性を浮かび上がらせ,<�ヘ>が巫覡の流れのなかに成立したものであることを明らかにした。つまり,巫覡は様々な方法を使って天から受け取った啓示を大衆に示すことであり,これこそ《説文解字》に「上所施下所効」と言われる<�ヘ>の原義にほかならない。そして,それによって国家がその啓示を広げていくのが,教化という事業である。

 第一章第二節では,<�ヘ>という概念が必然的に前提としている条件を明らかにするために,<�ヘ>をめぐる儒・釋・道の論争から「�ヘの条件」を探究する。儒・繹・道という所謂宗教は,最初から需教・仏教・道教というように<�ヘ>であることを自ら主張していたわけではない。インドからの釋の伝来とともにそれらが東アジアにおける三つ巴の覇権争いを開始した,紀元一世紀から八世紀頃,つまり漢の時代から唐の時代に,我こそが<�ヘ>であるという論争が勃発した。

 《易》にある「神道設教」という文からも示されるように,古代では�ヘと神道とは不可分の一体であった。この伝統の正統的嫡子であることを示す必要から,儒も道も釈も,自ら「神道」であることを自称する。その争いの中に,<�ヘ>と称する資格あるいは条件として,政治性と言語性が不可欠な要素であったことが浮かび上がる。その政治性と言語性を具体化されたものこそ,戒律や礼という規則である。

 第二章では,そうした<�ヘ>の担い手たる<師>とはだれのことだったのかが,字源の探索と古典文献に記された「師」の具体例に即して追究・整理される。「�ヘ師=学校の教員」とは,現代にしか通用しない通念にすぎない。

 結局のところ,四つの類型の「師」の姿が浮かび上がった。即ち第一,原始部族共同体とその共同体における呪術的軍事的な指導者。部落や国家が存亡の危機に際するたびに共同体を団結させる「師」の位置が高められていく。勿論そこには大衆を魅惑する「教」の言説が存在している。第二,それが抽象化されていった道徳的な模範としての「師」。指導者である「師」が共同体の崇拝対象になっていくと同時に,「師」から発した「教」の言説に含まれる「正義」などの語彙は共同体の道徳規範となる。このため,道徳は「師」によって作り上げられたのだが,「師」は道徳的な存在とされていく。そして第三,国家官僚の役職名として制度化された「師」。部落や国家の拡大と同時に,指導者の分身としての「師」が大量生産されていく。そして,第四の範疇を形成している「師」として,時には賤民化された一連の芸能・呪術的技能者。これらの「師」は「原始的な」師でもあるが,新たに作り出された官僚としての「師」からその権威が奪われ,排除されていくものである。

 第三章第一節においては,《孟子》に「設為庠序學校以�ヘ之」とあるように,<�ヘ>の場と考えられる<學><校>(<庠><序>)という場を復元する。<學>という名称は,すでに青銅器や古代文献に登場しているが,その全体像に迫るにはいまだに不明な点が多い。しかし,少なくともその施設の外面的な構造は,その名称による親近感を裏切って,我々が経験的に周知している近代学校の施設とはまったく異なったものであることが明らかとなった。具体的には,古代文献を改めて語源から検討しつつ,古代民俗学も参照して当時の學校の実態を復元する作業と,西安半披仰韶文化遺跡をはじめ,母系親族が住む地域の遺跡報告を利用し,夏代に<校>と呼ばれた公房制度や<庠>と呼ばれたものの機能を明らかにした。「校」の原初的形とは米廩,「米倉」,食糧を貯蔵する場所であり,「禮官養老」の施設であった。それは家畜を飼育し食糧や紡織原料を集積・貯蔵する原始部族共同体の(広)場であり,倉庫であり,長期保存できる食料の加工技術(テクノロジー)が「授業」として伝えられた作業場であった。一方,宗教施設としての「學」は天や霊を祭る「�ヘ」の場であり,祭祀において有効な祈祷文を次の世代に伝承するために編まれる文書を保管貯蔵する聖所でもあり,「校」という「貯蔵」施設が国の中心に併設される。

 なお第二節において,第一節において明らかにした<學校>の原像が近世において露頭したと位置づけられる佐藤信淵の學校論をとり上げて分析した。その學校論にあっては,學校は「天地の神意」を奉行する三臺六府の行政の場であった。さらに,「經世濟民」としての經濟=政治的機能のいくつもが小學校に凝集していた。小學校の門前に交易所・典當所が当然のように置かれ,小學校の配下に廣濟館,療病館,慈育館,遊見廠,また教育所の五つの施設が置かれたことは,學校が「貯蔵倉庫」から発展してきた施設であり,學校が,地域住民の「教化」・「養生」のセンターであったためにほかならない。

 第四章においては,<育>という営みを分析した。まず,<育>の本義は出産であることが確認された。「育」の文字が女・母(毓)から肉月(育)に換えられていったことからも窺えるように,「育」の担い手は徐々に,生みの母から,生みの父または共同体の男性集団へと移行していった。有名な《孟子》の一句「集天下之英才以教育之」は,この「育」の担い手の変容が完了する時期に登場する。もとより,「育」はその時点では未だ出産のイメージを濃厚に保存しており,この場合「第二の誕生」(=initiation)に与る男の営みとして「育」は観念されていた。男性における出産という文化現象は,秘密結社と成人礼,そこでの冠禮,文身や抜歯などの変身技法などを<育>のトポスとして指し示すものであった。「育」は,その宗教化によって秘密結社の原理となり,男性原理によって再構成され国家思想へと変質した「�ヘ」に対抗する対概念となる。だがその後,「育」は,宋代に至りいわゆる養育を意味するものとなって,母と父によって担われるものとなり,出産のイメージを払拭して現代に至るのである。

 なお,本論文には,本論で考究してきた�ヘと文明化の関係を仏教の《律藏》をテクストとして考察したものを加えてある。戒律体系が規定する身体の作法と教育との関わりが文明化の一断面して抽出されている。「補論 身体の作法と教育-《律藏》と《正法眼藏》における厠の作法」がそれである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、<教><育><學><校><師>などの漢字文化圏で教育についての基本語彙となっている単語ないし文字が、元来どういう意味を持つものとしてつくられ、変遷し、今日に至っているかということを、語源學、字源學、人類学などの手法を駆使しながら明らかにしたものである。論文は、小篆だけでなく甲骨文字や金文(青銅器の文字)までをも対象として扱ってこれらの字や語の発生的な意味を探るとともに、その後の多くの歴史的文献にあたりながら、その意味の変遷を明らかにした、希有な研究である。

 論文は序章と本論四章それに終章という構成で、関連した内容の補論が添付されている。序論ではこれまで「教育」という語の語源的意味として理解されてきた内容はほとんど厳密な考察を経たものでないこと、従ってまちがって理解されていることを指摘し、次章以降の課題を明らかにしている。一章では<教>の語源を甲骨文字や歴史文献に探り、この語が、元来農作や戦勝のための占いの意として始まり、その記録を体系化したものを指していたこと、また国家がその結果を天の啓示として庶民大衆に広めることを指していたことが明らかにされている。<教>は必然、「神道」と不可分になり、戒律や礼という規制の成員への教化を意味するようになっていく。二章では、<教>の担い手としての<師>の意味が探られ、(1)部族の呪術的・軍事的指導者(2)その抽象化としての道徳の模範、崇拝対象(3)国家の指導者の分身としての役人(4)芸能、呪術的技能者という四つの意味類型が析出されている。三章では<教>の場としての<學>と<校>の語源が追究されていて、<校>はもともと余った食料を貯蔵する米倉のことを指しており、原始部族の最も重要な場であり、また長期保存のための食料保存技術の伝承の場でもあったこと、他方<學>は宗教施設で、天や霊を守るための<教>の場であったことを導いている。四章では<育>という語について、この字はもともと出産を意味していたが、次第にその担い手が女性から男性集団に移行していった様が叙述され、<育>は子どもの象徴的な死と男性による再生という神秘的、秘教的な色彩を帯びた営みとして、国家が行う<教>と対抗する原理となっていたこと分析されている。

 教育基本語彙の語源的、文明史的な分析という手法による研究は、これまでほとんどないといってよい。この論文の成果によって、これまでの通説が一部修正されなければならないことは間違いなく、その点で貢献度の高い論文である。文明史的に叙述する際に採用している枠組に一部精緻さに欠ける部分があることや甲骨文字の読みとりに異説があり得ることなど、今後よりつめることを期待したい箇所はあるが、それらは本論文の貢献度やオリジナリティを損なうものではない。

 以上によって、本論文は博士論文にふさわしいものと判定された。

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