学位論文要旨



No 117698
著者(漢字) 鈴木,健郎
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,タケオ
標題(和) 白玉蟾における内丹と雷法 : 中国的"神秘主義"と"呪術"の論理
標題(洋)
報告番号 117698
報告番号 甲17698
学位授与日 2003.02.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第387号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 池澤,優
 東京大学 教授 島薗,進
 東京大学 教授 鶴岡,賀雄
 東京大学 助教授 小島,毅
 千葉大学 助教授 横手,裕
内容要旨 要旨を表示する

 本論は、南宋期の著名な道士である白玉蟾の内丹思想の考察を中心とし、さらに、それが雷法と呼ばれる道法といかなる形で統一的に結びつけられているかを問うことにより、その世界観や教説の体系の構造的特徴を明らかにしようとするものである。

 白玉蟾は、後に所謂全真教の「北宗」に対して「南宗」と呼ばれることになる宗派を実質的に確立した中国宗教史上の重要人物である。文人墨客としても有名であったが、なによりも道教の理論と実践における傑出した指導者であったといえる。白玉蟾は内丹と雷法に関する多くの著作を残しており、その師である陳楠とともに、内丹と雷法とを一体の体系として統合するのに中心的な役割を果たした人物である。

 内丹と雷法は、ともに中国道教の理論と実践における重要分野である。この二つはそれぞれ、中国道教における"神秘主義"と"呪術"の代表的事例として扱われることが多い。しかしながら現在では、他の諸々の概念と同様に、"神秘主義"や"呪術"という概念自体が一定の歴史的文脈に基づいて形成されてきたものであり、分析概念として無色透明で中立なものではありえないことが明らかとなっている。本論の目的はこうした概念の問題自体を専論するものではないため、神秘主義や呪術に関する議論は必要に応じた基本的な範囲にとどまるが、「内丹」(およびそれと対をなすものとしての「外丹」)や「雷法」の性格を考察しようとする際に"神秘主義"や"呪術"という分析概念を適用することに伴う基本的問題についてこれを明らかにし、その妥当性や得失が検討される。これに関して本論の提出する見方は以下のようなものである。

 錬丹では、人間や物質がその限定的なあり方を脱して達成されるべき不減性や無限性は、気の存在論・生成論に基づき、気の純粋性や周行として理論的に説明される。「金丹」やその錬成に使用する「薬物」を、物質ではなく、精妙で純粋な気を示す隠喩として解釈しなおすことで、「外丹」に対して「内丹」が確立するといえる。主流が外丹から内丹へ変化した過程は、外丹の起こした薬物中毒の経験によりその「誤り」が認識された結果というように、経験科学的な進化論の図式で説明される傾向があった。しかしながらこの両者は、術語を等しくするのみならず、体系を支える思考様式において多くの共通点をもつ。世界に存在するものはすべて気から構成され、道が気となり万物へと生成する中ではたらく天機=陰陽や五行の気の法則を媒介手段として、造化への参入と同化、人間を含む自然界を対象とする操作と完成が可能になるとする思考は外丹と内丹に共通するものである。つまり外丹は実践的効果の面から批判されても、その根本的な論理は否定されてはおらず、場合によっては並立兼修されうるものであった。勿論、外丹と内丹を区別することは内丹の実践者たちが多く外丹を批判し、自らの優越を自覚していることからも一定の有効性がある。しかし、外丹を客観的自然界に存在する事実や法則の探究に関わるものと規定して「誤てる観念連合」としての"呪術"、もしくは誤謬とともに正しい知識を含むprotoscienceとして評価するような見方は、進化論的な呪術・科学論の影響を強く受けすぎており、気の生成論を中心に関連・規定された世界把握の体系性・貫性を十全に認識するものとはいえない。

 誤謬を含んだprotoscienceや"呪術"としての「外丹」の排除を強調することによって「内丹」は精神的・心理的・宗教的な経験の領域に関わるものとしての側面を強調されるが、主観-客観、物-心などの二元論的図式に基づいてこれが行われると、心をも実体的な気ととらえるような一元論的思考形態の特徴をゆがめて理解し、暗黙のうちに、経験科学的方法によって否定されない「宗教的真理」を「内面」「心」の領域へ囲い込みによって確保するという近代的な図式に引きずられることになる。(「内丹」を瞑想的実践を用いて通常の言語的認識を脱して直接無媒介の「神秘体験」に至るものとする解釈は、その認識論的側面と宗教性を高く評価する一方で、「気」の凝集である身体まで含んだ全的な存在変容という事態を偏って理解する危険がある。「内丹」を「神秘主義」と呼ぶときそこには所謂「神秘的真理」の実在と獲得の可能性が無自覚に示唆され、神秘体験の普遍性を主張し、宗教的真理の実在を経験科学的な枠組みにおいて立証しようとする志向と通底しかねない。神秘主義における体験の普遍性に関しては、経験に先行する言語的文化的規定による影響の程度をどう考えるかなどに応じて、否定から肯定まで多くの論争が生じており、少なくとも単純に前提できるようなものではない。)人間の意志によって鬼神や自然現象を操作する雷法は、protoscienceと見なされる余地はなく、より典型的な"呪術"と見なすことができる。"呪術"が「偽」「誤り」とみなされるのは、そこにみられる、主観による客観的世界への影響、時間空間的に隔てられたものが相互に「感応」する、といった原理が、いわゆる近代科学的な原理と相容れないもの、理解できないものとされるからである。

 このように"神秘主義""呪術"という概念枠の構成には、近代科学の知識と方法を基準とした「主観・客観」「真・偽」などの観点が大きく影響している。これらの概念枠の有効範囲と限界を自覚し、より包括的な思想と実践の連合としての(「気」の論理にもとづいた)像を描くことが必要である。換喩や隠喩の関係による万物の照応と相互影響を自明とするかにみえるような思想を、単なる因果関係との混同・誤謬と考えるような見方ももっぱら象徴的な表現と考えるような見方もとらずに、当事者における「気」の事実的な現象の諸相とその受け取り方から扱うことが求められる。本論では、白玉蟾の内丹と雷法に関する教説の検討を通して、その一例を示すこととしたい。

 白玉蟾の教説の特色は、(1)道教における「気」の理論や身体技法の伝統を踏まえた内丹説と(2)実体性を徹底して批判する禅的唯心論と(3)天界と交渉し、鬼神を使役し、自然の運行を操作する雷法を、体系的に統合したことに求められる。『霊寶畢法』『鐘呂傅道集』『西山群仙会真記』などに見られるいわゆる鐘呂派の内丹説、張伯端『悟真篇』の内丹説、白玉蟾の内丹説を通観してみると、(1)と(2)の関係についてそれぞれ異なった規定を行っていることがわかる。

 鐘呂派では、内丹が陰と陽の両方を修めるのに対し、仏教は陰のみを修め陽を修めないものであると規定し、(2)は(1)の不完全な一部にすぎないとして批判している。つまり陰+陽→純陽という図式の「陰」の部分に禅を位置づける。これは、逆に(2)に立脚する仏教側からは「気」」や身体という虚妄の実体性への執着から脱しきれない態度、(2)の論理を理解していないものとして批判されることになる。このような対立は完全に払拭されることは無かったと言ってよいが、張伯端、白玉蟾の体系では、それぞれのやり方で、この対立の解決が志向されている。その結果、「内丹」という同じ語で呼ばれるものの内実および具体的な修行実践の方法において差異が生じている。

 鐘呂派の内丹の体系では、陰陽と五行の気の配当と運行の理論によって体系化された伝統的な身体の図式を用い、具体的イメージを伴った存思的技法によって、自己を構成する気の操作と変容が行われる。天地と人との関係には、「道」から同じ「一気」を稟受して生成した存在として形態的、動態的な同型性があるとされ、体内の気の運用に際しては、天地の陰陽五行の気の運行法則に厳密に対応一致することが必要とされる。この一致を媒介として、天地人を貫く道の根源的造化への参入と支配が可能となる。最終的には純陽の気から成る陽神が身体の外に超脱し、さらには本体である道と合一する、とされる。

 張伯端の『悟真篇』は、虚無=道→一気=一→陰陽=二→万物という生成論を設定した上で、一気=一を金丹、虚無=道を禅の悟りの境地=本源真覚の性とし、万物から一までの生成論の逆行の過程を金丹を結成する内丹術の実践に、一から道へ復帰する過程を禅の修行にあてる。これにより、一=金丹と道=禅の悟りとは、段階として区別されつつ連続性をもったものとなる。(1)→(2)という構図は(2)の価値的優越を示すことになるが、ここで、陰+陽→金丹→真如という図式の中で、金丹→真如の過程に禅の修行を配すると同時に、「陰」の部分に禅の修行を配当する鐘呂派的図式を併用することで、「陽」と「金丹」の不可欠な重要性を保証し、輪廻を脱するには禅の修行と内丹修行の両者が必要であるとする。禅の側からは納得を得られないであろうものではあるが、この論理により、潜在的に(2)の優位と(1)の否定の可能性という緊張をはらみつつも、(1)と(2)の相互補関係が構築される。

 白玉蟾は、(1)を存在論的に(2)と同一のものとみなす新たな「内丹」解釈を打ち出すことで、(多少の揺らぎはあるものの)全体としては(2)の論理をかなり正確に認識した上で、整合的な体系を構築した。(陰+陽→金丹)=心、という図式が採用され、具体的な気の身体技法は「気」のレベルとして確かにあるが、それは同時に本体としての心であるとされる。このような白玉蟾の体系ではさらに、(2)を強調するならば論理的には超越志向の濃厚な(1)以上に緊張関係を生じかねない(3)雷法までも論理的に矛盾無く統合されることになる。(白玉蟾では、鬼神は気から成るものであり、意識を持つ者でもある。)

 分析モデルとして、I;実体的な万物のレベル、II;陰陽や五行の気のレベル、III;一なる本体のレベル、IV;徹底的な実体性批判、という4つの存在論的かつ認識論的な指標を設定すると、白玉蟾における内丹と雷法の関係は、内丹によってI→I→III(→IV)を実現し、雷法はIIIを基盤としてIIやIを操作する形を取る。I→(III〜IV)と同時、同等に、III→Iの(気の)造化作用が強調されるころに特徴がある。時間的先後関係というよりは実は両者が同一であるという思想である。そして「忘」や「化」という概念によってあらわされる気の錬成変化は、IからIIIやIVに向かうプロセスとして述べられるが、実はそれ自体は、常に存在している根源から万物が生成する造化のはたらきをより全面的に認識、発現してゆく過程にほかならない。その意味で上方に向かうベクトルは実は下方に向かうベクトルと別のものではなく同一なのであるということになる。そうした意味で、"超越"志向と外界操作の"呪術"的欲望とは矛盾せずに成り立つことが可能となっている。存在論的により下位末端のレベルにおける原理に基づいた詳細な形態的動態的対応=火候などは、存在論の最上位のレベル=具体的な形式の超越と無、に強調点をおくことによって本来的には無とされる。ただし、一定の客観的存在性を否定されるわけではない。そこにこだわらなくとも、根源に腰を据えれば、それは「自然に」実現される。究極的には無でありながら、気のレベルでは有であり、また無である絶対的本体の自然な展開法則としてある種の客観性や聖性を担保されており、禅のように全面否定されることがないのが特徴である。実質的には一つである往復のダイナミズムの全体を<集散自在>の境地として高く評価する。このような唯心論的かつ気一元論的構図においては、心と分離された客観的物質も、時間空間的分離も究極的には存在しない。鬼神は勿論、自然現象のすべては心や気によって時間空間的制限無しに感応する。ここでは、主客、真偽などの区分が近代科学とは共有されていないのであり、独自の理師的整合が存在しているということができる。

審査要旨 要旨を表示する

 白玉蟾は中国・南宋時代の道士であり、金丹道(いわゆる全真教南宗)の大成者として知られている。思想史的には、唐代以来展開してきた内丹説(薬物の服用によって不老不死を求める外丹に対するもので、体内の気を操作することで「道」と一体化し、永遠性を獲得することを指向する)に禅宗の理論を取り込み、更にそれを神霄派の雷法(雷神を使役する法術)と結合させて、高度に理論化された体系を構築することで、その思想は道教の重要な要素となった。本論文は、白玉蟾の多くの著述を詳細に検討することにより、その思想の構造と特徴を抽出し、あわせて"神秘主義""呪術"といった概念と対比することによって、宗教学における位置づけを試みたものである。

 論文は七章から構成されるが、白玉蟾の生涯を概述した第一章と結論に相当する第七章を除けば、二つの部分に分けることができる。前半は白玉蟾に影響を与えた諸派の思想・文献の研究である。第二章では内丹の技法を具体的に構築した鍾呂派の文献が極めて詳細に検討され、それが「道」を本源とする生成を逆行して「道」に回帰するものであったとされる。第三章では実体的な本源の存在を否定する仏教の「空」や禅の思想が取り上げられ、「心」の実体性に関しては仏教の中でも一定の振幅があり、道教的な本源論にも親和的な一面があったと指摘される。第四章では鍾呂派の内丹説と禅を結合させた張伯端の『悟真篇』が分析され、内丹によって本源への回帰を行った後、禅によって実体への執着を去るという、相補的な位置づけが存在したとされる。論文後半は白玉蟾の文献自体が俎上にあげられ、第五章ではその内丹説が、第六章では雷法が分析される。白玉蟾においては内丹と禅は等しいものとして結合され、そのため本源への回帰と実体性からの超克が一定の揺れを伴いつつ共存しているが、主たる方向としては現象による束縛を離れた「心」の自由を獲得することで、「造化」の作用に参与し、神々をも含む現象に対する主宰者となるという、「往還的ダイナミズム」として要約することが可能である。

 本論文は、特に第二・五・六章において文献に対する分析があまりにも詳細であり、論文としては決して読みやすいものではない。また、文献の読解においても疑義の存する箇所が散見する。かつ、文献の分析に頁を裂きすぎたため、白玉蟾の思想を広く中国思想史や宗教学の中でどのように位置づけるかという大局的・理論的な議論が充分ではなくなったという嫌いもある。しかし、内丹に関わる文献をここまで丹念に読みこなしたことの意義は大きく、この分野における基礎研究として高度の参照価値を有すると思われる。また、禅宗との対比において内丹の諸説を類型化したことは、道教史は勿論のこと、宗教学に対しても貴重な貢献をなすと考えられる。

 以上から、本審査委員会は充分に博士(文学)の学位に相当すると認めるものである。

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