学位論文要旨



No 117704
著者(漢字) 巻,美矢紀
著者(英字)
著者(カナ) マキ,ミサキ
標題(和) 憲法の動態と静態 : R.ドゥオーキン法理論の「連続戦略」をてがかりとして
標題(洋)
報告番号 117704
報告番号 甲17704
学位授与日 2003.02.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第172号
研究科 法学政治学研究科
専攻 公法専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,和之
 東京大学 教授 樋口,範雄
 東京大学 教授 井上,達夫
 東京大学 教授 長谷部,恭男
 東京大学 助教授 山本,隆司
内容要旨 要旨を表示する

 本稿は憲法の動態、そして憲法の静態に関する考察を目的とする。

 憲法の動態とは、憲法上の権利の動態を意味するのであり、いわゆる「明文なき権利」論と関連する。「明文なき権利」の承認については、日本の判例・学説において、ほぼコンセンサスがあるといってよい。これに対しアメリカ合衆国においては、「明文なき権利」の承認自体が、裁判官による民主主義の否定として、激しい論争の対象となっている。

 このような論争状況を背景に、日本では正面からあまり論じられることのない憲法解釈方法論が、決定的に重要なテーマとして位置づけられる。「明文なき権利」があくまで憲法解釈の帰結と解されるならば、司法審査と民主主義という問題は解消されるからである。

 R.ドゥオーキン教授は憲法解釈方法論として、「道徳的読解(moral reading)」を提示する。道徳的読解とは、特定の憲法に適合し最善の正当化を与える政治道徳理論を要求するものであり、彼の法解釈方法論を、憲法に適用するものと解される。それゆえ道徳的読解の考察にあたり、彼の法理論に関する考察は不可欠となるのである。さらに彼の法理論に関する考察は、後述するように、憲法の静態すなわち立憲主義の核心の考察においても不可欠となる。

 ドゥオーキン教授は従来の法の意味論的理論に代えて、法実践の「構成的解釈」を提唱する。構成的解釈は社会実践の解釈方法であり、解釈対象に目的を付与し、その目的に照らし可能な限り最善の光のもとに対象を提示することを要求する。ドゥオーキン教授によれば、法は強制力の行使を許可するものである以上、道徳的正統性(moral legitimacy)をもたなければならないのであり、法実践の構成的解釈は、最善の道徳的観点のもとに対象を提示することを要求する。

 彼は法実践の最善の構成的解釈として、インテグリティとしての法、すなわち法を原理において首尾一貫したものとして観念する法観念を提示する。インテグリティとしての法は、英米の法実践、すなわちハードケイスにおいてさえ裁判官は過去の政治的決定との整合性に配慮する実践に適合する。その法観念はまた、政治的責務をメンバーに道徳的に帰属させる政治共同体において実践されるものであり、国家権力の行使に道徳的正統性を付与するものとして、正当化されるのである。

 インテグリティとしての法は、法を原理において首尾一貫したものとして観念するから、他の法観念と異なり、法解釈方法論のレヴェルにおいても構成的解釈を要求する。すなわち法の総体に適合し最善の正当化を与える道徳理論を要求するのであり、法解釈は適合性の次元と正当化の次元において検討される。

 憲法も法である以上、インテグリティとして観念され、憲法解釈方法論として、構成的解釈が要求される。もっとも最高法規である憲法解釈の場合、道徳との連続性は、法律解釈以上に嫌悪され自覚されないので、これを強調するため「道徳的」という言葉を冠するものと解される。

 道徳的読解により導かれる限り、すなわち特定の憲法に適合し最善の正当化を与える政治道徳理論が要求する限り、憲法上の権利として承認しなければならないのであり、明文の有無は問わない。このように憲法上の権利は動態的であるが、さらに特定の憲法の最善の政治道徳理論自体、すなわち憲法規範自体、動態的であることに注意する必要がある。

 もっとも憲法の道徳的読解において要求される政治道徳理論は、憲法の授権規範性及び制限規範性から、最小限、下位の法規範の「法としての条件」を担保するものでなければならないと解される。この意味において憲法は静態的であり、このいわば「最小限の政治道徳」こそが、立憲主義の核心なのである。

 以上のように「法としての条件」の同定、すなわち法理論は、憲法の静態として、道徳的読解の実践においても不可欠となるのである。

 「法としての条件」は、インテグリティにとどまらず、インテグリティが由来する政治的責務の道徳的帰属条件と解される。ここにおいて政治道徳の考察が必要となる。

 ドゥオーキン教授によれば、政治的責務に関する従来の論証は、究極的には選択に依拠するものであり、政治実践の強制的要素の説明に失敗している。そこで彼は共同体概念を導入して、政治的責務の道徳的帰属条件を探求する。政治的責務の道徳的帰属条件の導出は、社会実践、政治実践に依拠する一方で、ユートピア論を基礎とする。

 ユートピア論としてドゥオーキン教授は、「資源の平等」を要求するリベラリズムの正義構想を提示する。彼はこれを倫理により擁護するのであり、政治的視点を倫理的視点と連続させる「連続戦略」をとる。このように政治的責務の道徳的帰属条件を通して、法、政治道徳、倫理が連続することになる。本稿の副題において、彼の法理論を「連続戦略」と称する所以である。

 ドゥオーキン教授はりベラリズムを擁護する「リベラルの倫理」として、「挑戦モデル」を提示する。挑戦モデルによれば、善き生とは環境に適切な仕方で応答することであり、このモデルは、共同体論による批判をふまえて再構成された自律観と解される。挑戦モデルは内在的要請として、道徳の強制を禁止する。また挑戦モデルは外在的要請として、規範的環境としての正義を要求する。正義すなわち政治共同体の生に配慮することは、他者のためではなく、自己の善き生のために必要なのであり、この意味で私たちの善き生は、政治共同体の生に統合される。

 政治共同体への統合の条件は、真正な民主主義の構成的条件として展開される。ドゥオーキン教授によれば真正な民主主義は、集団責任及び個人の判断を前提とするのであり、それゆえ真正な民主主義の構成的条件は、政治共同体への統合の条件、及び倫理的個人主義の態度を養成する社会的条件から成る。

 真正な民主主義の構成的条件は、参加の原理、利害の原理、道徳的独立性の原理として展開される。参加の原理は、集団的決定過程への参加を意味する。また利害の原理は、配分的正義において個人の利益を平等に配慮することを意味するのであり、ユートピア論として「資源の平等」を要求するが、何らかの功利主義的理解を前提とする現実世界においては、インテグリティの要請、そしてその前提としての公共的正当化要請に修正されるのである。これに対し、政治的決定からの道徳的独立性を意味する道徳的独立性の原理は、挑戦モデルの内在的要請であり、しかも真正な民主主義の前提である個人の判断の保障であり、現実がいかなるものであろうと、現実との妥協は許されないのである。

 真正な民主主義の構成的条件は、「法としての条件」であり、しかも自然法のように実定法の外部にあってこれを規律する普遍的正義構想としての「外在道徳」ではなく、法である以上必ず内在させなければならない道徳的要素としての「法内在道徳」であることが、とりわけ正義概念を通して明らかとなる。

 参加の原理は、正義構想を選択する手続的条件であり、利害の原理の現実的修正としてのインテグリティの要請及び公共的正当化要請は、正義構想に共通の正義概念の要請であり、いずれの原理も特定の正義構想と区別される。また道徳的独立性の原理も、真正な民主主義の前提である個人の判断の保障として、正義構想を選択する条件、しかも解釈の条件であり、特定の正義構想そのものではないのである。

 以上のように真正な民主主義の構成的条件は、あくまで「法内在道徳」であり、それゆえ憲法の静態、すなわち立憲主義の核心は、真正な民主主義の構成的条件を担保することであると解される。

 ドゥオーキン教授の道徳的読解によれば連邦憲法は、まさに真正な民主主義の構成的条件を保障するものとされる。他方、日本国憲法は生存権を保障しており、日本国憲法に適合し最善の正当化を与える政治道徳理論は、「資源の平等」を要求するりベラリズムの正義構想と解されるが、憲法である以上、立憲主義の核心として、真正な民主主義の構成的条件を担保しなければならないということが重要である。

 真正な民主主義の構成的条件は、基本的権利として、厳格な審査基準が適用され、可能な限り厚く保障される。これに対し自由権は、経済的利益に関する事柄や社会的偏見の強い事柄であるがゆえに、その規制が公共的正当化要請を侵害している蓋然性が大きいものについて、これをチェックするために保障されるものと解されるのであり、中間的な審査基準が適用されるのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、日本国憲法の解釈論として「明文なき権利」(新しい人権)の問題をどのように考えるべきかを考察したものである。この問題に関して、これまで判例・学説は憲法13条を根拠に「明文なき権利」が承認されることを認めてきたが、それがいかなる根拠により正当化されるのかについては十分な議論がなされてきたとはいえず、また、承認される権利の性格をどう理解するかについても人格的利益説と一般的自由権説が対立してきたが、いずれも説得的な論拠を提示するには成功していない。その結果、「明文なき権利」の承認基準を明確に定式化しえない状況にあり、それがたとえば自己決定権に関する議論に少なからぬ混乱をもたらしている。そこで著者は、本論文において、「明文なき権利」を承認する根拠と承認基準をドゥオーキンの法理論を手がかりに究明し、自己決定権に関する議論の分析・整理を試みたのである。そこでの著者の戦略は、ドゥオーキンの憲法解釈論としての道徳的読解を日本国憲法に適用し、一方で、憲法が道徳的諸原理の体系として観念されるのであり、権利が明文で書かれていると否とに関係なく、憲法に適合し最善の正当化を与える政治道徳理論が要求するかぎり、憲法上の権利として承認しなければならないことを論証して「明文なき権利」承認の正当化を行うとともに、同時に、日本国憲法に最善の正当化を与える政治道徳理論は、最小限の内容として、立憲主義の核心をなす「法としての条件」を含まねばならないが、ドゥオーキンのいう「真正な民主主義の構成的条件」こそこの「法としての条件」であることを論証して、「明文なき権利」の承認基準を同定するというものである。なお、この作業を通じて、いわゆる二重の基準論につきプロセス理論とは異なる正当化論を提示することも重要な課題とされている。

 本論文は三部から成る。第一部「法理論と政治道徳の『連続戦略』--ドゥオーキン法理論に関する考察」においては、ドゥオーキンの法理論の考察とその憲法への適用を通じて憲法の動態と静態が解明される。第二部「政治的責務の道徳的帰属条件の展開」においては、憲法の静態であるところの立憲主義の核心の内容が探求される。そして第三部「日本国憲法の道徳的読解」においては、立憲主義の核心を基礎に、日本国憲法の解釈論として、憲法上の権利の承認基準が展開され、自己決定権に応用される。以下、各部の内容を紹介する。

 第一部の第一章「法と政治道徳の連続性」においては、まず最初、ドゥオーキン法理論の方法論が検討される。ドゥオーキンは、ハートに代表される法の意味論的理解にかえて、法実践の「構成的解釈」を提唱する。構成的解釈は社会実践の解釈方法であり、解釈対象に目的を付与し、その目的に照らし可能なかぎり最善の光のもとに対象を提示しょうとする方法をいい、法実践との適合性の次元と道徳的正当化の次元を含む。ドゥオーキンにとって、法の存在理由(目的)は、国家による強制力の行使を許可することにあり(ゆえに、法の概念は「過去の政治的決定から流れでる個人の権利・責任の体制であって、政府の強制力の行使を許可するもの」と定式化される)、そうである以上、法は道徳的正統性をもたねばならず、ゆえに法実践の構成的解釈は、法を道徳的な観点から可能なかぎり最善のものとして提示しなければならない。かくして、法と道徳は連続することになる。かかる観点から法実践を構成的に解釈した結果えられた法観念が、法を原理において首尾一貫したものとして観念する「インテグリティとしての法」である。この法観念は、ハードケイスにおいてさえ裁判官が過去の政治的決定との整合性に配慮している英米の法実践に適合する。では、この法観念は、正当化の次元において、国家権力の道徳的正統性、そのコロラリーとしての政治的責務(法の遵守義務)の道徳的帰属を説明するのに成功しているか。この点につき、ドゥオーキンは、従来の理論が「同意」を根拠とし、あまりにも選択・自由意思に依存しすぎたために、政治的責務の実践に伴う強制的要素を説明することができなかったことを批判し、その実践の構成的解釈として、共同体論的視点を導入しながら政治的責務を連帯(associative)責務と解し、その責務が真正に成立するための諸条件(その一つとして「平等な配慮」がある)を分析する。そして、その諸条件を充たす政治共同体として、構成員が共通の原理により支配されることにコミットしている「原理の共同体」を提示するが、そこにおいてはインテグリティとしての法が実践されるのであり、正当化の次元においても魅力的であって、法実践の構成的解釈として最善のものといえる。なお、ここでのインテグリティ、すなわち原理における首尾一貫性は、政治的責務の道徳的帰属条件に由来するものであり、かつ法の形式的構造であることから、法の形式的道徳と捉えることができ、フラーの「法内在道徳」を発展させたものと解することができる。したがって、インテグリティとしての法は、この文脈で、「法内在道徳」を通して政治道徳と連続することになる。

 他方で、インテグリティとしての法は、法を原理において首尾一貫したものとして観念するから、法解釈方法論のレヴェルにおいても構成的解釈を要求する。すなわち、法的判断は、法の総体が原理において首尾一貫するような道徳理論を構成し、その道徳理論から法的判断を導出するという方法で行なわれるのであり、この文脈で、インテグリティとしての法は実質道徳と連続する。ただし、正当化の次元としての実質道徳は、適合性の次元により制約されるから、法と政治の区別は維持される。

 第二章「憲法と政治道徳の連続性」においては、ドゥオーキンの法理論を憲法に適用し、憲法の法構造を政治道徳との連続性において捉え、その動態と静態を分析する。憲法も法であるから、憲法解釈の方法としても構成的解釈が要求される。これをドゥオーキンは「道徳的読解」(moral reading)と呼んでいる。この道徳的読解の結果として、憲法の法的構造がその動態と静態の両側面において次のように分析される。まず動態であるが、憲法の道徳的読解によれば、憲法に適合し最善の正当化を与える政治道徳理論が要求するかぎり、「明文なき権利」も憲法上の権利として承認しなければならない。道徳的読解の立場からは、権利の承認にあたり明文の有無を区別する意味はないのであり、憲法上の権利は明文のあるものに限定されないという意味において動態的なのである。のみならず、憲法の道徳的読解において要求される最善の政治道徳理論も、法実践の積み重ねを通じて解釈対象が変化するのに応じて、変化しうるのであり、この意味でも動態的である。この憲法の動態性は、法の構造としてのインテグリティ(それから導かれる法解釈方法論)に着目したものである。これに対し、憲法の最高法規・授権規範性に着目すると、憲法の静態的な性格が現われる。というのは、憲法の下位にある法規範は、憲法に従うことにより妥当性を獲得するのであるから、ゆえに憲法を正当化する政治道徳理論は、最小限、下位の法規範の「法としての条件」を担保するものでなければならないからである。著者は、この「最小限の政治道徳」に立憲主義の核心を見ている。この「法としての条件」が法内在道徳であり、政治的責務の道徳的帰属条件こそがこの「法内在道徳」であることを論証するのが、第二部の課題となる。

 第二部の第一章「政治道徳」においては、「法としての条件」を構成する政治的責務の道徳的帰属条件が分析される。ドゥオーキンの法理論においては、法の存在理由は強制力の行使を許可することにあった。ゆえに、法である以上道徳的正統性をもたねばならないが、彼はそれを政治的責務の道徳的帰属条件として捉えるのである。では、その条件とはなにか。政治的責務の論証に、ドゥオーキンが共同体概念を導入したのは先に触れた。しかし、リベラリズムの要請に応えるために、共同体への「統合」という共同体論的観念をリベラルに再構成する。つまり、そこでの「統合」とは、擬人的に観念した共同体の生への一体化的な統合ではなく、共同体の生がその領域を限定されたうえでの統合である。ここから、政治共同体への統合の条件として、リベラリズムの公/私区分が導かれる。ただし、ロールズに代表されるリベラリズムの場合と異なり、ドゥオーキンは、後に見るように、これを倫理により擁護し、かくして法・政治道徳・倫理を連続的に捉えることになる。これがドゥオーキンの理論を「連続戦略」と称した理由である。

 第二章「政治道徳と倫理の連続戦略」は、連続戦略の内容をなす政治的責務の道徳的帰属条件を探求する。ドゥオーキンは、リベラリズムの「倫理」として「挑戦モデル」を提示する。挑戦モデルによれば、「善き生」とは環境に適切な仕方で応答することである。人は、自律的に、環境を「パラメーター」と「制限」に区別し、そのなかで自己の善き生を構想するのであり、ここに共同体論による「負荷なき自我」の批判をふまえて再構成された自律観があらわれている。この挑戦モデルは、その内在的要請として、道徳の強制を意味する「批判的パターナリズム」(善き生の構想につき、政府が本人のために干渉すること)を禁止する。それは環境を自らパラメーターと制限に区別するという「挑戦」を侵奪することになるからである。同様に、「文化的パターナリズム」(文化的環境に悪しき選択肢が登場しないように干渉すること。たとえば同性愛やポルノの禁止)も禁止する。それは、環境を区別する際に我々が依拠する「文化的環境」自体に政府が干渉することであり、メタレヴェルで「挑戦」を侵奪することに他ならないからである。他方で、挑戦モデルは、外在的要請として、規範的環境としての正義を要求する。ドゥオーキンによれば、不正な社会においても、善き生を送ることは、不可能ではないが、その「善」性は減少するのであり、ゆえに政治共同体の正義は善き生のソフト・パラメーターなのである。この意味で我々の生は政治共同体の生に統合される。我々は、利他主義からではなく、自己の善き生のために、共同体の生の正義に配慮しなければならないのである。ここにおいて、社会実践の構成的解釈かち導かれた政治共同体との「統合」という観念は、挑戦モデルという「倫理」によっても基礎付けられることになる。

 ドゥオーキンは、この挑戦モデルからリベラリズムの正義構想を導出する。彼にとってリベラリズムの正義構想とは「リベラルな平等」であるが、その内容は彼の政治哲学の基底的原理たる「平等な配慮」の最善の解釈としての「資源の平等」構想として提示される。この資源の平等は、概念上自由を前提としており、自由を侵害することは同時に平等の侵害となり、両者は運命を共にするものと観念されている。このユートピアとしての正義構想が、挑戦モデルにより正当化されるのである。すなわち、挑戦モデルによれば、配分的正義において我々が平等でなければならないのは、正義が善き生のソフト・パラメーターだからである。我々は他でもない自己の善き生のために、正義に配慮する必要があるのである。そして、ひとたび資源の正しい配分が達成されれば、その資源は道徳的に自己に帰属するのであり、それを自己の善き生のために、あるいは家族や友人のために「偏愛的」に用いることも自由となる。かくして、挑戦モデルは、リベラリズムの公私区分を、「倫理的道徳的精神分裂症」的にではなく、我々の倫理的直観に適合するものとして説明することができ、「リベラルな平等」を正当化するのである。

 第三章「統合の条件の展開」では、著者が「法内在道徳」の候補と考える「政治的責務の道徳的帰属条件」を考察する。著者によれば、ドゥオーキンは、政治的責務の道徳的帰属条件、すなわち政治共同体への統合の条件を、真正な民主主義の構成的条件として展開する。そこでまずドゥオーキンの民主主義論が考察される。ドゥオーキンは、集団的決定としての民主主義の考察にあたり、集団行為を統計的観念と共同的観念に区別し、後者をさらに一枚岩的観念と統合的観念に区別する。多数者支配的な民主主義の観念が統計的観念に立脚するのに対し、彼の「真正な民主主義」は統合的観念に立脚する。この真正な民主主義は、「平等な配慮」を基底的原理とするが、その展開として「参加の原理」「利害の原理」「道徳的独立性の原理」が提示される。参加の原理は、集団的決定に影響を及ぼす機会を意味する。利害の原理は、利益・負担の分配における平等な配慮を意味する。共同体への道徳的帰属には相互性が必要なのである。この原理は、理想論としては「資源の平等」を意味するが、ドゥオーキンは、現実に譲歩して、これを公務員に対する誠実性(インテグリティ)の要求、その前提としての「公共的正当化」の要請に修正する。この誠実性要求によれば、公務員が、人々は平等者として扱われるべきものとの想定に基づき誠実に行為しているなら、たとえその特定の構想が理想世界においては正しいものでないとしても、市民は共同体に利害をもつとされる。独立性の原理は、政治的決定における道徳的独立性、すなわち政府は市民が政治や倫理について考えるべきことを述べてはならないということを意味する。この原理は、リベラリズムの公/私区分論に他ならないが、批判的パターナリズムの禁止として挑戦モデルにより基礎づけられるのである。しかも、それは挑戦モデルの内在的要請であり、外在的要請である「資源の平等」とは異なり、現実への妥協は許されない。このように、挑戦モデルは、真正な民主主義の所与の前提であるのみならず、必要条件でもあるのである。なお、この道徳的独立性の原理から、道徳の強制の禁止、言論・結社・信教の自由が導かれる。

 以上の三原理が真正な民主主義の構成的条件つまり政治共同体への統合の条件をなすが、ドゥオーキンによれば、真正な民主主義のためにはさらに「倫理的個人主義を養成する社会的条件」が必要である。倫理的個人主義(挑戦モデルと同旨)は、自らの生を可能なかぎりうまくいくようにする責任は本人にあり、生がうまくいくとはどういうことかを判断するのは本人自身であるとするが、この「個人の判断」は真正な民主主義の前提であり、これを養成することが必要なのである。

 第四章「ドゥオーキン法理論の総括--井上教授の法理論との比較を通して」では、以上の「真正な民主主義の構成的条件」こそが「法内在道徳」であるという著者の見解が展開される。その論証の手がかりとして、著者は井上達夫教授の法理論を取り上げる。井上によれば、法は客観的正義に適合しているか否かにかかわりなく、正義に適合するものとして承認されることの要求を内在させている。著者は、この正義要求は法内容の正義適合性とは異なる法の形式的構造であり、法実証主義と自然法論の中間を模索するフラーの「法内在道徳」に対応する性格をもち、その点でドゥオーキンの法理論に類似していると指摘する。この正義につき井上は、正義の概念と正義の構想を区別し、正義概念が正義構想の正当化理由を制約するものと捉え、その中心に普遍主義的要請を据えている。このことは、著者によれば、正義概念を法内在道徳として提示するものと解することができる。さらに、井上は、法の正義要求は、法に服する者に「正当化を争う権利」を承認することを意味すると述べるが、著者は、この「正当化を争う権利」の制度が、井上が政治哲学的次元で提示する批判的民主主義論とリンクするものと捉え、ここに民主主義論を法内在道徳と接続する契機を見る。かくして、井上とドゥオーキンの議論構造の類似性を基礎に、ドゥオーキンの真正な民主主義の構成的条件を法内在道徳と捉えることができるというのである。なぜなら、真正な民主主義の構成的条件である参加・利害・独立性の諸原理はいずれも正義構想それ自体とは区別される正義構想の「条件」であり、法である以上内在させなければならない道徳的要素と解されるからである。

 第三部の第一章「立憲主義の核心」においては、まずドゥオーキンの法理論が日本国憲法に対しても適用可能であることを確認したあと、日本国憲法の道徳的読解を試みる。憲法の道徳的読解は、憲法の総体に適合し最善の正当化を与える政治道徳理論を要求するのであり、日本国憲法の道徳的読解は、日本国憲法に適合し最善の正当化を与える政治道徳理論の探求を要求する。もっとも、憲法である以上、この政治道徳理論は「最小限の政治道徳」を内在させなければならない。その法内在道徳とは、真正な民主主義の構成的条件であった。日本国憲法は参加・利害・独立性の諸原理を規定しており、適合性の次元を充たしている。のみならず、日本国憲法25条は、アメリカ合衆国憲法には存在しない生存権を規定しており、ゆえに、日本国憲法に最善の正当化を与える政治道徳理論は、ドゥオーキンの正義構想である、所得の再配分を要求する「資源の平等」に近いもので、「最小限の政治道徳」を超えるものと解される。

 憲法はその最善の正当化を与える政治道徳理論のもとに統合される道徳的諸原理の体系であり、ゆえに憲法の道徳的読解として最善の政治道徳理論が要求するかぎり、明文の有無に関係なく憲法上の権利が承認されるはずであった。ここで著者は、「最小限の政治道徳」に関して、そこからいかなる基準でいかなる権利が承認されるのかをアメリカの憲法実践を手がかりに検討する。アメリカでは、明文なき権利を承認するための判例理論として「基本的権利」の理論が確立しているが、それは基本的権利とされるものが、憲法実践を説明し正当化する最善の政治道徳理論により秩序づけられるものであること、つまりインテグリティを要求するものと解することができる。もっとも、基本的権利の理論は、インテグリティの要件に加えて基本性の要件を加重しているが、それは基本的権利には厳格な審査基準が適用されるからである。つまり、基本的権利の理論は、厳格な審査基準が適用される「明文なき権利」を承認する理論なのである。厳格審査の正当化の有力な見解として、プロセス理論が唱えられてきたが、民主的プロセスに関係のない非政治的言論や信教の自由などが厳格審査をされていることを説明できなかった。これに対しドゥオーキンの理論では、真正な民主主義の構成的条件に該当するから厳格審査が行なわれるのであると説明しうることになる。なぜなら、参加の原理は、文化的環境を形成する機会の平等保障を要求するから、そこから政治的表現に限定されない表現の自由が導かれるし、道徳的独立性の原理は、政治的決定からの独立性を要求し、そこから信教の自由を典型とする精神的自由が導かれるからである。

 そこで第二章「憲法上の権利の承認基準」では、真正な民主主義の構成的条件の内容が一層詳しく分析され、(1)倫理的個人主義を要請する社会的条件と(2)政治共同体への統合の条件に対応する権利が基本的権利として位置づけられる。これに対し、経済的自由は基本的権利としては保障されない。しかし、たとえば営業の自由の規制には、参入規制などに往々にして見られるように、業界団体の特殊利益に基づくものもあり、「利害の原理」(平等の要請)としての「公共的正当化」を充たしていない蓋然性が大きいので、この点をチェックするために政策的に「自由権」として「憲法上の権利」性を認め、一段緩やかな審査(中間審査基準を適用)を行なうのである。また、経済的自由権のほかにも、社会的偏見の強い事柄は、その規制が社会的偏見に基づくために「公共的正当化」を充たしていない蓋然性が強い。それをチェックするために、これも政策的に「自由権」として保障する必要がある。このように著者は、「憲法上の権利」を審査基準の厳格度を異にする基本的権利と自由権の2種の権利として識別するのである。

 第三章「自己決定権」では、以上に見た憲法上の権利の承認基準を用いて、自己決定権として議論されている諸問題を分析する。著者によれば、自己決定権は、真正な民主主義の構成的条件である道徳的独立性の原理により基本的権利として保障される。従来自己決定権として論じられてきたものは、(1)自己の生命・身体に関する決定(尊厳死・積極的安楽死・治療拒否等)、(2)親密な関係の形成・維持に関する決定(家族、婚姻関係、同性愛・異性愛関係、友人関係等)、(3)その他の服装・趣味などに関する事柄の決定に分類しうるが、このうち基本的人権としての自己決定権に属するのは(1)と(2)であり、(3)は自由権として保障されるものと、憲法上の権利ではない単なる自由に区別される。たとえば、髪型・服装の規制は、社会的偏見に由来し、公共的正当化を充たしていない蓋然性が強いから、自由権として保障される必要があるが、バイクの禁止などは一般には社会的偏見に基づく可能性は小さいから、自由権には該当しない。

 以上が本論文の要旨である。以下にその評価を述べる。

 本論文の長所として、第1に、「明文なき権利」承認の正当化論を本格的かつ説得的に展開した点が挙げられる。従来の憲法学説は、新しい人権が憲法13条を根拠に認められるというコンセンサスを前提に、そこで認められる権利の性格と範囲をどう理解すべきかに議論を集中させ、人格的利益説と一般的自由権説が対立してきたが、それを認めることがなぜ正当なのかについてはあまり論じられることがなかった。本稿で提示された著者の正当化論は、ドゥオーキンに依拠したものであるから、ドゥオーキンの理論自体が様々な批判を受けていることに鑑みると、著者の議論も今後各方面からの様々な批判的考察の対象となることは当然予想されるが、明文なき権利論に対する重要な問題提起であり、今後この問題を論ずるに際して無視することのできない強力な議論を提示したことは疑いなく、学界に対する重要な貢献をなすものと評価できる。第2に、本論文は、二重の基準の正当化論に関する重要な問題提起ともなっている。この問題に関する日本の通説は、民主的プロセスの確保ということを正当化論の中心的柱にしてきた。しかし、プロセス論を強調すれば、たとえば自己決定権に関する厳格審査を説明することは困難となり、その点の齟齬が指摘されていたが、著者はプロセス論とは異なる民主主義観である「真正な民主主義」を基礎に、その構成的条件の担保として厳格審査を説明することにより、従来の二重の基準の正当化論に一石を投じている。第3に、ドゥオーキン研究としても、次のような功績を認めることができる。従来ドゥオーキンの法理論における「法としての条件」はインテグリティにあると解されてきたが、むしろインテグリティが由来するところの政治的責務の道徳的帰属条件こそがそれであると指摘した上で、その政治的責務の帰属条件は特定の正義構想そのものではなく、かかる正義構想を共同探求する場としての「原理の共同体」の構成条件である点に自然法論との根本的な相違があることを明確にした。それと同時に、ドウオーキンが近時別途展開している「真正民主主義」の構想をかかる原理の共同体を政治的に補強するものとして位置づけ、さらに個人の善き生を律する倫理に分配的正義をパラメーターとして組み込む彼の近年の議論を原理の共同体の倫理的統合力を補強するものとして位置づけることにより、『法の帝国』とそれ以降のドゥオーキンの理論展開を体系的に整序する解釈を提示した。これらの点で本論文はドゥオーキンの法理論・政治理論の理解を深化させたものと評価できる。

 本論文には以上のような長所が認められるが、不十分さを盛じさせる点も無いわけではない。第1に、自己決定権に関する判例分析が、「明文なき権利」の正当化と承認基準の考察により確立した枠組みの機械的・図式的な適用に終始した感が否めず、判例のきめ細かい分析により自己の枠組みの有効性を確認する作業が必ずしも十分であったとは言えない。第2に、ドゥオーキン研究に関して言えば、彼の理論を前向きに活用することを主目的に著者の問題関心から体系的構成を試みることが中心課題とされたために、彼の理論に対して向けられた多くの論者の批判を各論者の基底的視座にまで掘り下げて理解しドゥオーキンとの根本的な違いを究明するといった作業が必ずしも十分になされたとは言い難い。

 以上のように、本論文にも欠陥はあるものの、それは本論文の長所・功績を大きく損なうものではなく、人権原理論の領域における重要な問題提起として高く評価することができる。したがって、本論文は博士(法学)の学位を授与するに相応しいものと認められる。

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