学位論文要旨



No 117706
著者(漢字) 伊藤(安田),正子
著者(英字)
著者(カナ) イトウ(ヤスダ),マサコ
標題(和) エスニシティ「創生」と国民国家 : 中越国境地域のタイー族・ヌン族とベトナム
標題(洋)
報告番号 117706
報告番号 甲17706
学位授与日 2003.02.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第400号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古田,元夫
 東洋大学 教授 末成,道男
 東京大学 教授 山下,晋司
 東京大学 教授 並木,頼寿
 東京大学 助教授 村田,雄二郎
内容要旨 要旨を表示する

 本論文では国家により「少数」民族と位置づけられた人々が、国家の「国民化」政策の下で生き、かつ国境を跨いで拡がる民族の世界にも住みながら、自分たちのエスニシティを「創生」させていく過程を論じた。本論文中の用語として、国家が政策対象として把握した人々を括弧付きの「民族」と定義し、政策に対して何らかの反応を示す草の根の人々を括弧無しの民族と定義する。この「民族」と民族のせめぎ合いから創り出されてくる概念をエスニシティとする。国民国家が世界を覆うようになった現在、どのような方向性をもつものであれ、エスニシティは国家との関係において生ずるのであり、エスニシティ自体は必ずしも国民統合と逆のベクトルをもつわけではない。こうした観点から本論文は、タイー族・ヌン族というベトナムの東北部山間部に住むタイ系少数民族を対象とし、中国側の同民族壮族との関係の変遷に留意しながら、エスニシティの「創生」過程を描いた。かれらは、ベトナム国家が設定する括弧付きの「タイー族」「ヌン族」という枠組みに沿い次第に「国民化」されつつ、一方でタイー族・ヌン族としての民族意識も強化してきた。

 歴史をたどると、王朝時代の東北部山間部には、辺境防備のため平野部から派遣されてきた"キン族(ベトナム人)"官僚(""は近代的な意味での民族が立ち現れる以前の意味で使用)を祖先とする「キン族起源」説をもつ一族が、土着化した地方の有力者「土司」として少数分布していた。その他、中国から移住後時間が経過し、ベトナムの文化や伝統の影響を濃く受けていた"トー族(のちのタイー族)"と、移住から日が浅く中国の文化や伝統の影響が濃厚で中国への愛着が強い"ヌン族"がいた。阮朝が中央派遣の官吏に直接統治させる制度に替えたことで土司は力を弱め始め、その後フランスが"トー族"の中小地主を植民地機構の末端官吏として取り立てたため、上司と"トー族"の地位の違いは時代と共に解消した。遅れて移住してきた"ヌン族"は、すでに開墾できる土地が多くなかったため"トー族"に大きな経済格差をつけられたが、この格差が社会における階層差となった。つまり土地を所有し官職を独占したのが"トー族"で、小作人に多かったのが"ヌン族"である。しかしその基準は「土着の人」か「新参者」かであり、前者はベトナムとの関係を権威のよすがとし、後者は「土着の人」に対抗するためにも、中国的な文化などをアイデンティティの拠り所としていた。"タイー族""ヌン族"は、中国あるいはベトナムとの距離感において自らを規定する存在だった。そして両者はフランスが「民族」概念を持ち込んで来た時、「トー(タイー)族」「ヌン族」という二つの「民族」と断定された。このタイ系現地民社会は中央集権国家をもったことがなく、集落を中心に周辺の数集団と交渉をもつという程度のまとまりがあるのみで、中心性を欠いた世界だった。このように"タイー族""ヌン族"が周辺世界レベルヘの帰属意識しかもたなかったことは、後に国家による「国民化」政策が順調に進んだ背景の一つになる。

 1940年代に入ると、キン族共産主義者がタイー族・ヌン族地域にやって来て革命活動への動員のため少数民族を結集しようとした。目的は「ベトナムの独立」であったが、かれらもまたフランス植民地勢力と同様の「民族」枠組みを用いた。つまり「ベトナム」という枠組みに違和感がなく革命に協力的な「トー族」と、中国的な文化要素が色濃く「ベトナム」と接点が薄くフランスに操られやすい「ヌン族」という範疇である。この「民族」枠組みは、タイー族・ヌン族にも影響を与え、かれら自身が互いの差異を民族の差異と認識するようになった。このように同時期には、国家の設定する枠組みにおいても、草の根の人々の意識においても、タイー族とヌン族の境界は明瞭だったが、ヌン族と華僑・華人の境界は不分明であった。それは、タイー族の子供たちが仏越学校でベトナム語教育を受け始めたのに対し、ヌン族の子供たちが依然漢字教育を受け続けていたことや、家譜の年号の使用法や白話(広東語の方言)の能力の違いなどからうかがえる。

 このような「民族」概念やかれら自身の民族意識が変わり始めるのは八月革命期で、劇的に変化するのは1950年代に民主共和国が実質的な国家建設を初めてからである。ベトミンの活動が東北部山間部で始まると、タイー族から多くの若者が革命運動に参加し、抗米戦争時には多くのヌン族も加わるようになった。戦争の過程でタイー族・ヌン族は、居住地の東北部山間部だけでなく国内各地を転戦し、命がけで国家のために戦うという経験を通じ、「ベトナム国家」の枠組みを身をもって体験する。また国民化政策の一環として少数民族自治区の設立や少数民族語政策など、少数民族に配慮した独自の政策がとられると共に、八月革命後の土地分配、合作社での共同作業などの社会主義的政策、ベトナム語による公教育など全国的な政策がタイー族・ヌン族地域でも遂行され、タイー族・ヌン族の「国民化」は進展した。国家から異なる「民族」として捉えられ、自らも互いに相違を意識していたかれらが、この「国民化」政策の過程で、経済的・社会的に平等な存在となり、両者は接近していく。それは1950年代以降の国家建設時期に教育を受けた世代より、両民族間の結婚が見られるようになり以後増加していることからもうかがえる。かれらは共に「ベトナム」という国家内に自らを位置づけ、国民化されたエスニシティを「創生」していった。こうして国家からみた「タイー族」「ヌン族」は、戦いの重要な一翼となり、教育レベルも高く、高級幹部や軍人、知識人を輩出する頼れる少数民族像となっていった。

 1970年代後半に中越関係が悪化すると、多くの「華僑・華人」が「ベトナム国民」の枠からはみ出した存在として追放されるが、「ヌン族」は国家から既に「国民化」した存在と捉えられ、「タイー族」と同様の扱いを受けた。この時期には「ヌン族」と「華人」の間には既に明瞭な線が引かれていたと言える。中越戦争後、ベトナムに残った「華人」が様々な差別に遭うのを目の当たりにし、ヌン族は自身を華人と差別化しようとした。中越関係の悪化は、ヌン族と華僑・華人の境界をより明確にし、ヌン族を更にタイー族に接近させることになったと言える。

 一方、ベトナム戦争時までの理想的な「タイー・ヌン族像」は変形されていく。一つは東北部山間部の多くで、中越戦争後タイー族・ヌン族が合作社での集団労働を勝手にやめ、土地への私有意識を押し通し「祖先の土地」を取り戻す事態となったことによる。同地域の国防がより重要課題であった政府は、強制措置をとらず黙認した。また1990年代には、約20万近いタイー族・ヌン族が国家計画を無視して、人口密度が低く商品作物生産が盛んな中部高原に移住する「自由移住」が問題になった。これは先の「祖先の土地」取り戻しで、土地所有面積の格差が開いたことも一因である。かれらは1954年の南北分断時に中部高原へ移住した知り合いの同郷ネットワークを活用して新しい生活を切り開こうとしたのだが、一方で先住少数民族との土地争いや森の破壊などの問題を引き起こした。

 このようにドイモイ開始後、タイー族・ヌン族の草の根からの独自の行動が国家に対して更に影響を与えるようになっている。かれらは壮族との民族ネットワークを利用し、国家関係の正常化以前に地雷の残る山中の道を通って取引を始め、中越国境貿易の端緒を開いた。ただし、双方の国家の経済開放政策と双方の利害が一致したために、タイー・ヌン・壮の民族の世界は復活可能だったのであり、良好な国家関係の下で初めて機能しうる国家に規定されたものになっている。タイー族・ヌン族側も中越関係悪化期を経て、壮族との間に属する国家の違いが存在することを意識している。これは先の「自由移住」の際、かれらが民族ネットワークが拡がる中国側へではなく、国内の中部高原を選択したことにも反映されている。フモン族など一部の少数民族のように国境など関係なく周辺国へ移動するのとは異なり、国家の枠組みに規定された行動だった。

 現在タイー族・ヌン族が「創生」しつつある新しいエスニシティは、分離をはかる類のものではなく、国家に政治的な脅威を与えるものでもないが、国家の思惑にとらわれず、規則をすり抜けて、自分たちのもつ民族・同郷ネットワークをフル活用し、経済的に浮揚していこうとするものである。そして中越国境貿易が盛んになると、従来タイー族・ヌン族がめざしてきた国内でなるべく高い教育を受け、社会的に浮上して行くという道ではなく、民族の世界に基盤をおいた国境貿易によって豊かになろうとする新たな動きが出てきている。その影響が一因で、教育のレベルの低下が起きているが、これは換言すればベトナム国家が進めてきた「国民化」政策が後退のきざしを見せているとも言える。これまで、「国民化」の優等生とされてきたタイー族・ヌン族が、民族の世界を積極的に利用し始めたことにより、今後どのようなエスニシティを「創生」していくのか注目される。

 20世紀におけるタイー族・ヌン族とベトナム国家の関係は、民族意識が消え去ったり、多数民族への同化が一方的に進むのではなく、エスニシティの活性化が起こりながら、同時に国民意識も強化されるという過程であった。エスノナショナリズムが国際的に噴出している現在、エスニシティの活性化が、分離・独立と直結はしない例を提示しているタイー族とヌン族のエスニシティ「創生」のあり方には、着目するに価する。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、中国との国境地帯に居住するタイー族、ヌン族というベトナムの少数民族が、ベトナムの国民国家の形成との関わりのなかで、そのエスニシティをどのように創生していったのかを、ランソン省ヴァンラン県タンラン社という調査村の20世紀後半の歴史を軸にして検討したものである。

 本論文は5部から構成されている。

 第I部「王朝・植民地支配期の"タイー族""ヌン族"」では、タンラン社の歴史に即しながら、ベトナムの前近代王朝の時代からフランス植民地時代にかけての、中越国境地帯のタイ系民族のあり方が検討されている。そして、「タイー」と「ヌン」の区別が、中国からの移住の歴史の長短、つまりは「土着」と「新参」の格差に由来するものであるとされている。

 第II部「革命運動とタイー族・ヌン族の貢献」では、抗仏・抗米戦争という、ベトナムの国民国家としての形成をもたらす革命運動への参加を通じて、タイ系の人々が、「ベトナム国民」という意識をもつと同時に、タイー族・ヌン族という民族意識にも目覚めていく過程が検討され、両民族の距離感が縮まり「タイー・ヌン族」としての一体化が進んだことに示される、国民化と親和的な形でのエスニシティが創生されていく様が描かれている。

 第III部「土地政策と土地所有」では、1945年の八月革命以降最近までの政府の土地政策とタンラン社での土地所有の変動が検討されている。まず土地改革と合作社の形成が、タイー族・ヌン族の接近を促進したことが指摘され、ついで中越戦争の頃から、国家政策への独自の対応がはじまり、合作社の解体と「祖先の土地取り戻し」が新たな貧富の格差をつくりだし、中部高原への「自由移民」の動きを生み出したとされている。

 第IV部「教育の変遷」では、1945年以降のベトナム国家の国民教育によりタイー族だけでなくヌン族の間にもベトナム語が普及したことが、両者を接近させる要因になったことが分析され、それが1960年代に両者の言語を一つに括る「タイー・ヌン語」の正書法の形成に結びついたが、すでにベトナム語が普及していたことが「タイー・ヌン語」教育への消極的反応に帰結したとされている。

 第V部「中国との関係」では、中国という国家、および中国の壮族という同系民族が、タイー族・ヌン族の社会にどのような影響を及ぼしてきたのかが検討されている。ここで指摘されていることは、国境を越える広がりをもっていたタイ系の民族の世界が、1945年以降は日増しに「国家」に強く規定されるようになっていったということである。その一つの現れが、1940年代後半には華僑を名乗る動きのあったヌン族が、1970年代末の中越戦争の時期には、タイー族との一体化を強め、華僑とは明確に一線を画するようになっていたということである。ドイモイ以降、中越国境地帯での貿易の活性化で、一面では国境をまたぐ民族の世界の回復と見られる現象も広がっているが、それもタイー族・ヌン族に即して言えば、あくまでも自らが国家に規定された存在であることを受け入れた上で、経済的な利益を中心に民族の世界を展開していると見るべきものであるとしている。

 以上のように本論文は、中越国境地帯のタイー族・ヌン族というエスニック・カテゴリーが、20世紀の同地域の歴史的変動、特にベトナムと中国関係という国際関係のなかでどのように機能してきたのかを解明し、少数民族の側からベトナム現代史を再構成する、きわめて意義ある研究成果である。ベトナムの少数民族地域での本格的なフィールド・ワークは、1990年代になってようやく外国人研究者にも可能になったものであり、本研究はフィールド・ワークをふまえたベトナム北部の少数民族に関する外国人研究者の本格的成果としてはほぼ半世紀ぶりの貴重な業績である。

 本論文の従来の研究への貢献は多岐にわたるが、若干の具体例をあげておきたい。まず本論文は、「タイー族」の出身者が中国にわたり、時間を経過してベトナムに再入植した際に、「ヌン族」と見なされるようになっている事例の発掘などを通じて、タイー族・ヌン族というエスニック・カテゴリーが、ベトナムと中国とのかかわりの相違を示すものであったことを解明している。

 また、抗仏戦争・抗米戦争を通じて、ヌン族のベトナム国家との関係が強化されるなかで、タイー族とヌン族の間のエスニック・バウダリーは低くなり、「タイー・ヌン族」とでも呼びうるようなエスニシティが創生されつつあるという論点を、実証的に明らかにしたのも、本論文の貢献と言えるだろう。

 本論文は、タイー族とヌン族のエスニシティは、ベトナム国家に反発して分離独立を求めるような方向性ではなく、むしろベトナム国家に対する帰属意識を高めるなかで活性化していること、しかしそれは彼らの存在がベトナム国家に組み込まれるという消極的な過程ではなく、近年のベトナム中部高原への「自発的移住」に見られるように、国家政策の束縛を越えて新しい生活圏を切り開く活力ももっていることを指摘している。前者のような論点は、エスノ・ナショナリズムがもたらす深刻な民族紛争が多発する現代世界にあって、民族の別の可能性に着目したものとして貴重であろう。

 ただし、タイー族とヌン族のエスニシティのベトナム国家との親和性を強調するあまり、当該民族の動きを国民国家の枠組みの中に「押し込め」てしまっている面があり、これが中部高原への「自発的移住」のような動きの分析を論文全体の文脈からは「浮いた」ものにしている弱点が存在する。

 もっともこの弱点も、少数民族から見たベトナム現代史を提示した本論文の基本的価値を否定するものではなく、本論文は博士(学術)の授与に十分に値する業績と判断される。

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