学位論文要旨



No 117707
著者(漢字) 林,成蔚
著者(英字)
著者(カナ) リン,チェンウェイ
標題(和) 社会保障制度改革をめぐる政治過程 : 台湾と韓国の比較分析
標題(洋)
報告番号 117707
報告番号 甲17707
学位授与日 2003.02.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第401号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 恒川,惠市
 東京大学 教授 若林,正丈
 東京大学 助教授 加藤,淳子
 東京大学 教授 服部,民夫
 北海道大学 教授 新川,敏光
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、80年代から90年代にいたる台湾と韓国での社会保障制度の改革過程およびその政策結果を分析する。これまでの多くの研究は、両国を「福祉ののろま(welfare laggard)」と性格付け、その原因をそれぞれの歴史的特質に求めることが多かった。つまり、これらの研究の関心は、両国の社会保障制度の整備が「なぜ遅れているのか」という点に専ら向けられていた。それに対して、本論文の狙いの一つは「なぜ、どのように変わったのか」に着目することである。本論文のもう一つの目的は、健康保険と国民年金制度という二つの分野を比較の素材にすることによって、両国における社会保障政策の変革に対して、より有力な説明を導き出すことである。

 「はじめに」においては、比較分析の準備作業として80年代以降の両国における健康保険および国民年金制度をめぐる改革の相似点と相違点を簡潔に指摘する。政策結果の相似点として、両国がともに普遍化に収斂する傾向を見せていることを挙げることができる。また、改革の方向性としての相似点は、健康保険が異なる形態によって展開されたにもかかわらず、90年代の改革を経て両国とも制度的統合が遂行されたことである。相違点として、台湾では皆年金の実現が試みられたにもかかわらず、未だに実現されていないのに対して、韓国はすでに国民年金保険の実施によってそれを達成していることが挙げられる。

 第一章においては、福祉国家をめぐる既存研究をレビューし、こうした改革の試みと政策結果を一貫した論理で説明する枠組みを抽出する作業を行う。改革案の内容と改革の結果(政策結果)という二種類の現象を説明の対象にしているため、本論文で用いる枠組みは、二つの段階によって構成されている。まず、既存制度が内包する矛盾が改革(拡大・調整)へのインセンティブを引き起こし、求められる改革の方向性を決定する。次に、改革案は、政治過程を経て、修正され、具体的な政策結果に変換されるのである。第一段階は、近年の新制度論が注目している政策遺制の概念を応用したものである。第二段階は、改革の成否を説明するために用いられる国家構造のモデルを応用したものである。

 第二章は、改革のインセンティブとその内容をもたらす既存制度のあり方を明確にするために、戦後両国における健康保険と公的年金制度の展開と特徴を論じるものである。ここで確認できたのは、両国とも戦後社会保障制度の拡大は、体制の正統性を確保するために行われたということである。しかし、財政負担への考慮、社会保険の起因などの歴史的な偶然性によって異なる形態の保険制度が展開されていった。こうした異なる社会保障制度のあり方が、80年代以降両国における改革の方向性の違いにも影響を及ぼすことになる。また、両制度(健保、年金)における具体的な違いは、第二部(第三章と第四章)と第三部(第五章と第六章)においてより詳細に論じられるが、第二章ではそうした違いの源泉を、よりマクロな政治体制との関連性で論じている。

 第三章と第四章は、それぞれ台湾と韓国の皆保険の実現とその後の改革が引き起こされた原因とそのプロセスについて論じている。台湾(第三章)では、既存制度の拡大によって社会集団間の格差を解消し、財政問題による制度危機を克服するという二重の目的を達成しなければならなかったため、皆保険の実現は効率性の高い制度的統合を伴った。一方では、政府による保険料の分担という特徴が継承され、健康保険制度の財政は依然として国庫に依存していた。次に、皆保険が実現されてからわずか3年で、多元化・民営化の改革が試みられたのは、こうした財政的プレッシャーに対して財政的健全化を図る政策エリートがイニシアティブを取ったからであった。しかし、この改革は、国会の拒否によって失敗に終わった。韓国(第四章)の皆保険の実現に関しては、非賃金労働者を公的医療保険制度に取り込むことによって、政治体制の危機を回避する意図が強く働いていた。しかし、皆保険の実現は、医療保険組合を中心とした制度の矛盾を解消するどころか、逆にそれを顕著化し、医療保険組合統合への要求を強めたのである。統合を推進する改革は、経済危機への対応に形成された特殊な政策メカニズムによって漸く決定されたが、既存制度によってもたらされた利益集団の抵抗が強く、現在は部分的に実現されているに止まっている。

 第五章と第六章は、それぞれ台湾と韓国の国民年金制度の導入と改革について論じている。ここで注目しているのは、健康保険と同じように、既存制度のあり方がどのように改革のインセンティブを引き起こすのかという点である。また、改革案の成否を決定する行政府内および行政府と国会の関係にも焦点を当てている。台湾(第五章)では、90年代までに老後の所得保障を有するものと有さないものが、社会集団間の亀裂と一致していたため、より広範囲にわたる老後の所得保障が選挙キャンペーンにおける重要なイシューになった。その過程において浮上してきたのが国民年金制度の導入である。国民年金の制度設計は、異なる関心を持つ政策エリートの相互関係によって決定されたが、その導入を最終的に決定するのは、民主化によって活発化した国会であった。そのため、国会における与野党の関係とその他のより重要な政策をめぐる紛争に巻き込まれやすく、現在にいたっても成立していない。韓国(第六章)における国民年金制度の導入は、70年代に資本動員を目的とした制度設計がそのまま80年代において実施された。国民年金自体は既存制度によって引き起こされた改革ではなく、福祉を真剣に取り組んでいることをアピールしたい与党と資本動員をはかる官僚の意図が一致したことによってもたらされたものである。また、高い給付が保障されていたため、強力な反対勢力が存在しなかった。一方、90年代半ば以降の改革は、制度的拡大が実施されると同時に、低拠出・高給付によって引き起こされる財政危機への対策が、経済的合理性を重視する専門家によって唱えられるようになったものである。その結果として、特設の政策審議会を設け、給付水準の大幅縮小と既存制度の二階建て制度(基礎年金と所得比例年金)への切り替えを目指す改革案が生み出された。しかし、国民年金制度を担当する保健福祉部を中心に、政党、労組、市民団体などの抵抗に遭い、結果的には不発に終わった。

 結論においては、台湾と韓国の社会保障政策の改革をめぐる本論文の発見を要約し、その理論的インプリケーションを論じる。さらに、本文においては国家と政治の側面を重要視してきたが、結論においては、将来の研究課題に繋げる一歩として、様々な社会経済的要因と社会保障制度の関連性について簡潔に吟味する。

 台湾と韓国の健康保険および国民年金制度をめぐる政治過程を分析したことによって、以下の発見が得られた。まず、両国とも政策遺制によるロック・イン効果が見られる。しかし、政策遺制がもたらす影響は、それに止まらず、政策遺制の深化自体は、制度の改革を促すものである。具体的には、社会集団間の格差を内包する社会保障制度は、制度的拡大および公平性を追求する改革をもたらした。一方、国家構造に関する発見は、両国とも大統領制であるため、権力集中度は比較的低く、さらに官僚組織という憲法ルールと選挙結果とは無関係なアリーナが存在している。そのため、両国はともに拒否点として機能しうるアリーナが複数存在し、制度的縮小のみならず、制度的拡大を含む改革の実現は容易ではないということである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文「社会保障制度改革をめぐる政治過程-台湾と韓国の比較分析-」は、80年代から90年代にかけて台湾と韓国において進んだ社会保障制度改革の過程と結果を、新制度論の枠組を使って分析した質の高い論文である。最近では先進工業国ばかりでなく発展途上国における社会保障制度の研究も見られるようになったが、そのほとんどが一国研究であり、しかも社会保障制度といっても、年金など特定の分野に特化した研究が多い。それに対して本論文は、ともに急速な工業化を遂げて新興工業国に数えられた台湾と韓国の二カ国をとりあげ、健康保険と年金という社会保障制度の根幹をなす2つの分野を詳細に比較分析した野心的な論文である。「政策遺制」と「国家構造」という2つの制度要因を最初に示し、それに沿って二カ国の2つの政策領域を緻密に分析することによって、二カ国の政治過程を見事に描きあげると同時に、新制度論の枠組みの有効性を示すことに成功した。ここで示された手法は、一部改善を加えることによって、他の発展途上国の社会保障制度をめぐる政治過程や、さらに政治過程一般の分析にも十分応用が可能である。

 本論文は三部六章構成をとっている。まず第一部の第一章では社会保障政策の政治過程に関する理論枠組みを、第二章では台湾と韓国の社会保障制度の歴史的展開を明らかにする。その上で第二部の二つの章では台湾と韓国の健康保険制度改革を、第三部の二章では両国の年金制度改革を分析する。最後に結論として以上の章での議論をまとめると同時に、残された課題も明らかにしている。

 まず第一章で著者は、先進国の社会保障政策を説明するために提起された産業化論(産業化と都市化が必然的に社会保障への公的介入を促すとする説)と権力資源論(労働者階級の力量と他の階級との同盟のあり方が社会保障制度の内容を規定するとする説)をとりあげ、前者では国による社会保障制度の相違を説明できず、後者は強力な労働勢力も左翼政党も存在しなかった台湾と韓国にはあてはまらないとして退ける。その上で、著者は制度化のプロセスと結果を説明する枠組として「政策遺制」と「国家構造」という2つの制度要因に注目すべきことを主張する。すなわち、まず何らかの歴史的偶然によって実施された初期の社会保障政策が、制度的・財政的にさまざまな結果をもたらし、同時に既存の制度に既得権益をもつ勢力と改革を志向する勢力を生むことで、その後の社会保障制度改革の選択肢を限定する。しかし、結果としてどのような改革案が採用されるかは、より広い制度環境(著者の言葉では国家構造)の中で進行する政治過程によって決まる。台湾と韓国の事例を見る際の国家構造としては、行政府と議会の関係や政党の特徴に規定される「拒否点」の多寡、国家内における官僚制の特徴と影響力が重要であるとする。

 続く第二章は、台湾と韓国における社会保障制度の形成と改革を歴史的に跡づけることで、読者に両国の社会保障制度について基本的な情報を与えると同時に、第一章であげた「政策遺制」が何であったのかを明らかにしている。台湾では内戦に破れた国民党政権が支持基盤を固めるために、企業労働者、軍人、警察、公務員を対象に医療保険と老齢給付(一時金)・傷害給付などを組み合わせた政府管掌の総合型社会保険を導入することから社会保障制度の形成が始まった。その後も台湾の国際的地位の下落による正統性の動揺を国内支持の強化によって補うべく、国民党政府は医療給付内容を拡大すると同時に、零細企業や自営業従業員、新中間層的職業人、公務員の家族や退職者、農民の一部などへ医療保険のカヴァー範囲を広げていった。しかしその結果、寛大な医療給付を受ける国民と受けられない国民の格差が広がるとともに、政府の財政負担が拡大した。また老後の所得保障は一部の国民への老齢一時金を除けば未整備のままであった。他方韓国では「先成長後分配」政策をとった軍部権威主義体制下において、ようやく70年代後半に大企業労働者、公務員、私立学校教職員などを対象とする健康保険制度が、個別の医療保険組合の形で広がった。権威主義体制に対する支持が揺らぐようになると、政府による社会保障拡大の姿勢が強まり、政府への財政負担が小さい制度であったことも手伝って、80年代末には皆保険が実現した。年金も、台湾と違って1988年にはそれまでの公務員・軍人・私学教職員に加えて企業従業員へもカヴァーの範囲が広がった。その際資本動員をもくろむ政府は、寛大な給付を約束しつつも、給付は保険料負担者に限られ、既存の高齢者は給付の対象とはされなかった。

 第三章と第四章は、それぞれ台湾と韓国の健康保険制度改革をめぐる政治過程を分析している。台湾では、初期に導入された制度の遺制として、制度にカヴァーされる国民とされない国民の間の大きな格差、そして政府の財政困難があった。政府への支持拡大を必要とした国民党政府は皆保険の導入によって前者の問題に応えると同時に、総合型社会保険の中で医療給付のみを統合・一元化することで、全面統合に反対する官僚組織をなだめつつ、後者(財政負担軽減)の目的を達成しようとした。しかし皆保険は逆に財政困難を深刻化させ、官僚機構の内部から健保の民営化をめざす法案が出されることになった。しかし皆保険の受益者となっていた労働勢力や市民団体が国会議員に対して強く反対の働きかけをした結果、民営化法案は失敗した。

 他方韓国では、独立採算性をとる医療保険組合を中心とする制度が出発点となり、政府の保険料負担もなかったため、一元化(組合統合)を推進する官僚機構内部の動きは弱かった。既存の組合も負担増につながる一元化には消極的であったため、農民などからの圧力によって実現された皆保険は、独立した地域保険組合の形をとることになった。しかしこのような分散的な皆保険制度は組合間の格差を広げたので、不公平是正を求める市民運動が活発になり、金大中政権は一元化を決定したが、韓国労総や財界の意を受けた多数野党ハンナラ党の抵抗によって、保険組合の財政統合は先送りとなった。

 続く第五章と第六章では、台湾と韓国の年金制度改革をめぐる政治過程が分析の対象となる。台湾においては旧制度の遺制として、公務員・軍人など老齢一時金が支払われていた国民と、それがない国民の間の格差が存在し、しかもそれが外省人・本省人というエスニック集団の違いと重なっていた点が重要である。そのために国民年金の導入は政治争点化しやすかった。同時に、旧制度の矛盾を解決しようとすれば、新規被保険者だけでなく、既存の高齢者への年金給付も考えざるを得ず、政府の財政負担が最初からふくらむ可能性が強かった。民進党政権は消費税引き上げによって財源を確保しようとするが、多数野党である国民党の反対が強く、導入は断念された。

 韓国の年金も、公務員・軍人・教職員など一部の国民をカヴァーするだけであったが、国民間の格差がエスニック集団の違いと重なるということがなかったために、皆保険を求める社会的圧力は弱く、権威主義的政府による産業化のための資本動員の手段として、上から構想されたという経緯がある。その構想は社会保険方式であり、政府負担は低く、しかも新規被保険者のみを対象としていた。したがって1988年に導入された国民年金は、民間企業の積極的な参加を誘う狙いもあって低拠出・高給付を内容とするものになった。しかし国民年金制度が自営業者にも拡大されるようになると、政府負担が将来増える可能性が強まったため、財界や官僚の一部は制度の二階建て方式への転換や給付水準の引き下げを提案したが、既存の制度の維持を求める労組や市民団体の世論や国会への働きかけや、権限縮小を恐れる担当部局(保険福祉部)の反対によって、軽微な改革に終わった。

 結論において、著者は、以上4つの事例を要約した上で、著者が「政策遺制」と「国家構造」と呼ぶ2つの制度要因が、台湾と韓国の社会保障制度改革の過程と結果を説明する上できわめて重要であると主張する。すなわち先行する政策・制度の特徴や結果は、改革の方向を制約するという意味で経路依存性(ロック・イン効果)がある。しかし同時に政策遺制は政府の財政危機や国民の社会運動を通して、改革を深化(保険の普遍化、給付拡大など)させることもある。ただし政策遺制によって生じた改革への動きが実を結ぶかどうかは「国家構造」によるところが大きい。著者によれば、大統領制による大統領と議会の間での権力分散、比較的強力な官僚制、そしてそれぞれが拒否点として働きうるという事情が、両国の制度改革を規定してきた。

 最後に著者は、本論文ではカヴァーされなかった研究課題に触れている。一つは経済発展によってもたらされる社会経済変動や高齢化といった、社会保障制度にとっては外生変数となる要因である。もう一つはグローバリゼーションによる競争激化が社会保障制度に及ぼす影響である。著者はこれらを将来における重要な研究課題であるとして本論文を結んでいる。

 以上の内容をもつ本論文には、以下の長所があると認められる。

 第1に、社会福祉政策の研究は、これまでほとんど先進工業国についておこなわれてきたが、本論文はそれを発展途上国へ広げた。しかも通常おこなわれる一国研究ではなく、台湾と韓国という二カ国を同じ比重で比較研究する方法をとることで、議論に一般性と説得力をもたせることに成功したことは、高く評価できる。

 第2に、発展途上国については、これまで詳細な政治過程の分析は希であった。本論文は社会保障政策の中で特に重要な健康保険制度と年金制度をとりあげ、きわめて具体的に政治過程の分析をおこない、理論化のための貴重な材料を提供した。本論文は今後、発展途上国の政治過程分析を志す人々にとって、一つの重要な道標になるであろう。

 第3に、本論文は、発展途上国の政治過程分析にあたって、政治学の最新の方法の一つである新制度論を採用し、それを台湾と韓国の具体的な事例に適用した。そのことによって、本論文は、個別の国の事情についての単純な描写にとどまらず、先進国の経験を含む、より広い事例との比較に道を開くことに成功した。これは重要な学問的貢献と認められる。

 しかしながら、本論文にも、不十分な点がないわけではない。

 第1は、2つの制度的要因(政策遺制と国家構造)を改革過程説明のすべてに適用しようとするあまり、説明過剰に陥っている箇所が見られることである。例えば韓国における国民年金の遅れや政労使委員会による改革決定は、制度の経路依存によっては説明しきれない面がある。より説得力のある説明のためには、マクロ経済の状況、文化的価値観、産業構造の違いなど、他の変数を見る必要がある。著者自身、結論の中で社会経済変動などを考慮する必要性を認めている。

 第2に、「国家構造」として扱われている大統領制、官僚制、拒否点といった要因と、改革案の内容や採否とが、どのように関わっているかについて、両者の関係パターンの説明が必ずしも十分ではない。これとも関連して、民主化前後の制度変化による影響の分析が明示的に行われていない点は惜しまれる。

 しかしながら、以上のような短所にもかかわらず、これらは本論文の価値を大きく損なうものではない。これまで希であった発展途上国の政治過程の分析を、しかも二カ国について、新制度論という統一した枠組の下で行うことによって、台湾と韓国の社会保障制度改革の動きを説得力をもって説明すると同時に、先進国を含む他の事例との比較を可能にする豊富な材料を提供したという点で、本論文は学界に貢献するところ大である。したがって、本審査委員会は本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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