学位論文要旨



No 117726
著者(漢字) 陳,南澤
著者(英字)
著者(カナ) ジン,ナムテク
標題(和) 朝鮮資料による日本語と韓国語の音韻史研究
標題(洋)
報告番号 117726
報告番号 甲17726
学位授与日 2003.03.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第388号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 上野,善道
 東京大学 教授 熊本,裕
 東京大学 教授 林,徹
 東京大学 教授 坂梨,隆三
 東京大学 助教授 福井,玲
内容要旨 要旨を表示する

 本稿は、日本語と韓国語における音声・音韻の変遷を15世紀から18世紀における朝鮮資料(日本語をハングルで記録した文献:日本語学習書および日本紀行資料)と日本資料(韓国語を仮名で記録した文献)の音注の分析を通して通時的に考察する。このような外国資料は自国の文字による国内文献(ハングル資料・仮名資料)には現れにくいような言語的側面を示すという点で高い価値を持っている。

 本稿で分析した資料は次のようになる。

(1)日本語学習書

(1)弘治5年伊路波(1492刊行)

(2)捷解新語(原刊本1676、改修本1748、重刊本1781)

(3)倭語類解(1783-1789刊行推定)

(4)方言集釈(1778写本)

(2)日本紀行資料

(1)老松堂日本行録(1420年)

(2)海東諸国記(1471年)

(3)東槎日記(1617年)

(4)扶桑録(1617年)

(5)看羊録(1656年)

(6)扶桑日録(1655年)

(7)聞見別録(1655年)

(8)海槎録(1719年)

(9)扶桑録(1719年)

(10)癸未随槎録(1764年)

(11)東槎日記(1763年)

(3)琉球語をハングルで記録した文献

(1)語音翻訳(1501年)

(2)漂海録(19世紀初)

(4)朝鮮語を仮名で記録した文献

(1)『陰徳記』高麗詞之事(17世紀)

(2)『和漢三才図会』第13巻「異国人物朝鮮国語」(1705年)

(3)「朝鮮物語」第5巻「朝鮮の国語」(1750年)

(4)「全一道人」(1729年)

(5)朝鮮通信使-行座目(1764年)

(6)物名(18世紀後半以後)

(7)Aston旧蔵「交隣須知」(18世紀後半以後)

 朝鮮資料と日本資料を扱った先行研究では、音韻史について既存の通説に基づいて文献を解釈している点がみられるが、本稿では、通説は考慮に入れながらも分析資料そのものを一つの体系とみて分析を行い、その体系から音注の価値を判断する。これにより、一方では通説に対して新たな論を示し、また一方では音の変遷の過程をより詳しく確かめることができた。

 第2章と第3章では日本語音韻史の諸問題を、朝鮮資料の音注を用いて分析した。これまでも「捷解新語」などの日本語学習書のハングル音注は日本語の音韻史研究に用いられてきたが、その解釈は様々であって、朝鮮資料の性質を正確にとらえたものは少ないと考えられる。本稿では、朝鮮時代の日本語学習書の他に、15世紀から18世紀までの11種の「日本紀行資料」に現れる地名のハングル(または漢字)音注表記を分析に加えて、その結果、日本語の音変化の様子を詳しくみることができた。さらに、この分析により、「捷解新語」などの朝鮮資料の価値を再確立できたと考える。日本語音韻史における分析結果は次のようになる。

1)15世紀においても既に「オ」は[wo]ではなく、[o]であった。

2)「アウ・オウ」は[ou]に合流しているが、「オオ」は[oo(o:)]であって、18世紀までに「オオ」と「アウ・オウ」との合流はまだ完了していなかった。「オ段長音」の変遷をまとめると次のようになる。

(1)橋本進吉説

アウ開音au>ao>〓[〓:]>[o:]

オウ合音ou>〓[o:]=[o:]

(2)川上蓁・豊島正之:オホの変化は豊島(1984)による。

アウ開音au>*a>oo=oo[o:]

オウ合音ou==========ou>oo[o:]

オホ合音owo>ou(ow)>oo[o:]

(3)本稿で推定する「オ段長音」の変遷

アウ開音au>ou>oo[o:]

オウ合音ou:===========ou>oo[o:]

オホ合音owo>oo=oo[o:]

3)エ列音の口蓋性は朝鮮資料のハングル音注からは明らかにできないが、韓国語の単母音化を示す例が現れる点を指摘した。

4)17世紀半ばごろに「ツ・ス」の音価は[tsu]・[su]から[ts〓]・[s〓]に変わった

5)濁音の鼻音的要素の変遷過程をみると、15世紀には「ザ行・バ行・ダ行・ガ行」に鼻音的要素があったが、「ザ行・バ行(15-16世紀)>ダ行(17世紀)」ガ行」の順に鼻音的要素が消失した。

6)15〜18世紀の「カ行・タ行」の清音は、現代東京方言のようなtenseの破裂音ではなく、例えば「カ行」は音声のレベルでは[g]〜[〓]の範囲の実現をする音であった。

7)15世紀の清濁(カ行:ガ行、タ行:ダ行、サ行:ザ行)の対立は基本的にザ非鼻音:鼻音」であった。

8)ハ行は大体17世紀に[〓][h]になった。

9)「チ・ツ・ヂ・ヅ」の破擦音化は15世紀末から16世紀半ばの間に進んだ。

10)17世紀まで四つ仮名は区別できた。

11)「ン」の音価は15世紀においても現代とほぼ同様であった。

 第4章と第5章では日本資料を用いて中世・近代韓国語における母音の音価とその変遷、また子音の変遷を考察した。本稿の結果をまとめると、次のようになる。

12)15世紀の「・」は非円唇後舌中母音であり、「〓」は非円唇中古中母音であった。本稿では15世紀の母音体系を次のように推定する。

13)「・」と「〓」の変遷の順序は次のようになる。

(1)語頭の「・〓>」

(2)語頭の「・>〓」

(3)非語頭(固有語)の「・>一」と「・〓>〓」

14)二重母音の単母音化は18世紀末までほとんど起こっていない。

15)語音翻訳の分析からは、当時の「〓(i)」に口蓋異音があったかどうかは断定できない。

16)「〓(d)口蓋音化」は「〓(i)口蓋音化」より早かった。

17)〓(s)-系子音群は『全-道人』の時代にも語によって子音群として発音されたが、「物名」と「交隣須知」の時代にはいずれも濃音になっていた。

18)〓脱落は18世紀末までほとんど起こらなかった。

 本稿では朝鮮資料と日本資料の音注を用いて両言語の音韻史の諸問題を考察し、以上の結果が得られた。今後の課題としては、より多くの資料を発掘する必要がある。特に19世紀以後の文献を分析すれ氏日本語のオ率長音および清濁の変遷と韓国語の前舌単母音化と口蓋音化の過程などを明らかにできると考える。

審査要旨 要旨を表示する

 15世紀から19世紀にかけて「朝鮮資料」と総称される文献資料が残っている。これは,日本語をハングルで記した「狭義の朝鮮資料」と,朝鮮語を仮名で記した「日本資料」とに分けられる。ともに,文字体系の違いにより自国資料には現われにくい言語現象を反映していて高い価値をもつ。ハングル音注が日本語音韻史に,仮名音注が韓国語音韻史に役立つのである。陳南澤氏の論文は,広義の朝鮮資料のうち15世紀から18世紀までの文献を網羅的に調べ,日本語と韓国語の音韻史の解明に大きな貢献をしたものである。

 氏は,まず「狭義の朝鮮資料」を「日本語学習書」「日本紀行資料」「琉球語をハングルで記録した文献」に分け,各々4点,11点(うち1点は本論文が初出),2点の文献を取り上げる。また「日本資料」としては7点を対象とする。日本や韓国で研究されてきた文献も少なくないが,先行研究は取り上げ方が断片的であった上に,音韻史の通説に基づいて文献を恣意的に解釈する傾向が見られた。それに対して陳氏は,この時期の朝鮮資料を包括的に扱っており,その分析も,通説を考慮しつつも,まずはそれぞれの文献をきちんと読み取り,文字表記とその背後にある音との関係を慎重に見極めながら論を展開するという手堅い手法を取っていて,高く評価できる。

 本論文によって明らかになった点は多くあるが,中でも通説と著しく違う結果が得られた事柄を2点ずつ取り上げると,次のようになる。

 日本語音韻史:(1)オ段長音の変遷は,合流の仕方が従来の聞合説と大きく異なり,開音とされたアウ系と合音とされたオウ系とが合流して[ou]となっており,同じく合音とされたオオ系は[oo]で18世紀までこれらと区別されていた。(2)15世紀の清濁の対立

 は,前鼻音がないかあるかの「非鼻音/鼻音」の区別であり,例えばカ行子音は音声レベルてば有声音で実現していた。

 韓国語音韻史:(1)15世紀のハングル「・」の音は非円唇後舌中母音,<e>(<>はハングルの転写)の音は非円唇中古中母音で,従来のどの説とも異なる母音体系が推定される。その後「・」は,語頭音節では<a>に,非語頭音節では<y>に変わったが,後者の変化は,前者の変化が完了した18世紀後半においてもまだ完了していなかった。これは,後者が16世紀,前者が18世紀に生じたとする通説とは逆の順序である。(2)諸説があった口蓋音化の順番は,「<d>口蓋音化」が「<j>口蓋音化」よりも早く生じていた。

 日本語の開合の通説は主にキリシタン資料と現代方言に基づくが,陳氏はキリシタン資料は仮名遣いを反映した規範的なものと見るにとどまり,方言も考慮していないなど,新説の提案が旧説を論破するに至っていない点があることは否めない。しかし,それは今後の課題であり,朝鮮資料の範囲内で筋の通った論によって新しい説を出した功績は大きく,本論文は博士(文学)の学位を授与するに値するものと認める。

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