学位論文要旨



No 117727
著者(漢字) 山根,雄一郎
著者(英字)
著者(カナ) ヤマネ,ユウイチロウ
標題(和) <根源的獲得>の哲学 : カント批判哲学への新視角
標題(洋)
報告番号 117727
報告番号 甲17727
学位授与日 2003.03.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第389号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高山,守
 東京大学 教授 松永,澄夫
 東京大学 教授 天野,正幸
 東京大学 助教授 熊野,純彦
 上智大学 教授 大橋,容一郎
内容要旨 要旨を表示する

 カントは、同時代のヴォルフ派講壇哲学の立場からなされた自らの批判哲学への論難に応えるべく1790年に公刊した論文において、私たちの認識を構成する「ア・プリオリ」な道具立てとしての「直観」と「概念」とについて、それらのアプリオリテートを在来の意味での「生得的」な在り方と混同してはならず、むしろそれらは「自然法」の意味で「根源的に獲得される」のだ、と主張している[Vgl.VIII221]*。本研究は、批判期の思索の全体を牽引する「ア・プリオリ」という枢軸概念の一位相に対してカントが自ら与えたこの「根源的獲得」という性格描写に着目し、これを問題分析概念として、批判哲学の全体像を批判的な形而上学という構制において統一的かつ総合的に把握すべく試み、批判期に至るカントの思索史に沿いつつ近世哲学史の一局面を新たな角度から照らし出そうとする。

 「根源的獲得」概念の上述のような導入経緯に鑑みるならば、この概念を論究の基軸に据えるにあたっては、一方で、それが既存の「生得的」の概念をどのように批判するのか、また他方で、カント固有の批判的な「ア・プリオリ」の概念をどのように際立たせるのか、この両側面がそれなりに明らかにされる必要がある。カント自身が前批判期に自ら提起していた「獲得」概念との異同も絡んで、研究史上、誤解に晒され続けてきた「根源的獲得」概念をめぐる哲学的探究は、20世紀後半に新たな段階を迎えたと見られるが、なお明快な解決を得たとは言えない。とりわけ、かの両側面の統合的理解ならびに批判哲学の体系中へのその位置づけの試みという点に関しては、未開の沃野は依然として小さくないように見受けられる。本研究はこの点に一灯を投じようとする。以下、全8章の梗概を示す。

 第一章では、「根源的獲得」概念によって際立たされる「直観」と「概念」との「ア・プリオリ」が批判哲学の認識理説(以下では批判的認識論という)に占める位置価をまず明確にすべく、主に『純粋理性批判』(以下、第一批判と略記)及び『プロレゴメナ』における「ア・プリオリ」の使用から析出される同概念の<位相性>を考察する。批判的な「ア・プリオリ」概念の理論的使用は、「判断」における「分析的ア・プリオリ」と「綜合的ア・プリオリ」との区別に始まり、次いで後者が「自然法則」とそれを基礎付ける「純粋悟性の綜合的原則」」との「ア・プリオリ」へと階層的に分節され、さらにそれらは「ア・プリオリ」な「直観」と「概念」とを要素とする、といった仕方で<位相性>を構成していることが確認される。「ア・プリオリ」概念の使用の最基底に位置する「直観」と「概念」についての「ア・プリオリ」は、単に認識論的であるにとどまらず、認識者としての人間の在り方を根本的に規制するという意味で存在論的な性格を色濃く有するものと言える。

 第二章では、分析判断・綜合判断の区別の定式化にヴァリアントの見出される事実を手掛かりとして、批判的認識論に「根源的獲得」概念の導入が求められた経緯を浮き彫りにする。1770年代に成立し第一批判にも受け継がれた第一の定式化[A6f=B10f]は、分析判断と非・分析判断とを区別するのみで、綜合判断の構成要素たる「直観」すら「概念」から分析され得るかのような誤解を招きかねない点で不十分なものであった。このゆえに、1780年代には、第一批判で付加されていた第二の定式化[A7=B11]へとシフトした。これにより、主述両概念間の「同一性」如何を標識として両判断を区別する講壇哲学以来の手法が見限られ、<「(ア・プリオリな)直観」を介して認識を拡張する「(ア・プリオリな)綜合」>という綜合判断の比量的性格を端的に示し得る定式化が確立された。「学としての形而上学」が「ア・プリオリな綜合判断」という「認識様式」による限り、「直観」と「概念」とは相互に基礎付け不可能なものとしてア・プリオリに確保されねばならない。「根源的獲得」という自然法的概念はかかる議論を補強すべく1790年の論文で導入された。

 第三章では、批判哲学における「生得的」の概念の変容の次第を解明する。「生得的」表象の否定という文脈で導入される「根源的獲得」概念には、「ア・プリオリな綜合判断」の既存の「分析判断」への還元、また神の知性のあらわれであるライプニッツの「思考の真理」との同一視といった、講壇哲学徒による誤解を糺そうとするカントの意図が託されていると見られるからである。「根源的獲得」概念の自然法的含意の検討から、この概念を用いてカントが批判するのは、<神からの賦与>という、伝統的な「生得的」の概念の中軸的契機に他ならぬことが判明する。批判期にも「生得的」の概念が用いられることはある。しかし、そのとき念頭に置かれているのは、く神からの賦与>という契機ではもはやなく、むしろ、誰であれ人間は己をあたかも「或る状態を自ら開始する能力」[A533=B561]を有する者であるかのように見なさざるを得ない、といった言わば「統整的」な契機である。

 第四章では、批判期におけるかかる「生得的」の概念の変容を踏まえつつ、1770年の教授就任論文にてやはり「生得的」の概念に対置されていた「獲得的」の概念と1790年の「根源的獲得」概念との差異を明確にする。近年の概念史的研究も含め、「獲得」「根源的獲得」両概念を哲学的に同一水準にあると見なす解釈は正しくない。それどころか、「根源的獲得」の概念は、本質的には伝統的意味での「生得的」概念と同根と見なされる「獲得的」の概念とは、決定的に異なる。両概念の克服から「根源的獲得」の概念の確立に至る過程は、カントの批判的な形而上学の形成という観点から整合的に解釈され得ることが示される。

 第五章では、従来主題的に論じられることの多くなかった「直観」の「根源的獲得」に着目しつつ、「概念(カテゴリー)」のそれと併せ、両者のアプリオリテートが「根源的に獲得的」とされることで注視される哲学的事態を剔抉する。「根源的獲得」とは、それに依存する以外の認識は人間にとっては不可能といった仕方で、認識主観が感性的契機を機縁として、その都度、認識諸能力に基づいて遂行する時空・カテゴリーの表象作用としての側面を強調する術語である。「直観」の根源的獲得は、(1)論理的にはカテゴリーのそれに先行するが、「経験」の成立を俟って反省的に措定されるものでもある。また(2)「経験」に関して構成的だが「直観」に関しては統整的だという批判期固有の「動力学的原則」の特質を際立たせる。「根源的獲得」とは、人間認識を、「諸印象を通じて受け取るものと、私たちの固有の認識能力が(感性的諸印象を通じて誘発されてのみ)自分自身から与えるものとの合成の所産だ」[B1]とする第一批判冒頭の主張の意図を先鋭化する概念なのである。

 第六章では、「直観(時空)」の「根源的獲得」という性格描写幸通じて批判的認識論の説く空間の根本性格であるユークリッド性が根拠付けられ得ることを示し、そこに生きる「私」の特質を素描する。批判的空間に生きる「私」とは、「知覚」を受け止める都度、「直観の形式」を「形式的直観」として「根源的に獲得する」という仕方でユークリッドのメトリックを「経験」の中に投げ込みつつ、己のいる場所を絶えず構築していく存在である。それは、まずもってかかる「経験」を可能にしている認識諸能力の統合体だが、この「私」は、個的にユニークな私自身であるとともに、その振舞いが「形式」の作用として記述される限り、「超越論的主観」でもある。感性的契機を機縁として空間を「根源的に獲得する」作用が、ともすれば「誤謬推理」へと陥りかねない「超越論的主観」をその都度肉付けしつつ「私」に呈示し、また「私」を他ならぬそれとして自覚せしめてくるのである。

 第七章では、「ア・プリオリ」の概念の性格描写としての「根源的獲得」という考え方が、実践哲学の領域で発揮し得る可能性を測定する。このことは、現に「権利問題」への関心がカントの実践哲学的考察を駆動している以上、正当な試みである。人間にとっての「道徳法則」である「ア・プリオリな綜合的=実践的命題」[IV420]としての「定言命法」をカントが論じる際、その「概念」と「法式」とを位相的に区別している事実が注目される。「法式」のアプリオリテートとは、時空の「根源的獲得」を前提した上で、「感性的欲望」に誘発されて-つまり感性的でもある理性的存在者たる人間にはそれ以外には不可能という仕方で(すなわち「根源的」に)-「実践理性そのもの」から生み出される「道徳法則への尊敬」の感情を積極的に媒介としつつ、行為の格率の採用定立と同時に・その道徳性を判定すべくその実行に先立って、定言命法の「概念」が「法式」としてその都度新たに行為主体において自己表象される(すなわち「獲得される」)ことの謂だと解される。

 第八章(終章)では、『判断力批判』に展開される美的経験の理論におけるアプリオリテートの批判的意義を、「根源的獲得」の概念を触媒として炙り出す。「趣味判断」のアプリオリテートを「根源的に獲得的」と捉えることは、万人に妥当する仕方で一義的に成立しておりその根拠はもはや問い得ないという意味で「根源的」な・主観における認識諸力(感性・悟性・構想カなど)の調和=均衡状態の、その一環をなしている反省的判断力が、やはりその一環としてある<構想力と悟性との間に保たれている然るべきバランス>だけを、「与えられる表象を機縁として」そのつど注視・対象化し、これを「自由な戯れ」の状態として意識する(ことで快を感覚する)、という事態を際立たせるものと解される。

 カントはライプニッツの説いた予定調和的世界を批判的に再解釈し、「根源」性を神の地平から人間の地平へと置き移す。カントが批判的な形而上学の全体系の存立をそこに賭けた逆説的洞察こそ、「理性的であるが有限な存在者」をモナドに見立てての<神なき予定調和>である。この間の消息を仄示する存在論的概念だという点に、批判的な「ア・プリオリ」概念への端的な性格付与としての「根源的獲得」の概念の位置価は今や見定められた。

 引用箇所は『純粋理性批判』のみ哲学文庫旧版、他はアカデミー版に拠り、慣用の表記法で示した。

審査要旨 要旨を表示する

 カントの超越論哲学をめぐる従来の理解は、もっぱら『純粋理性批判』の分析論に基づくものであった。すなわちそれは、自然科学的もしくは数学的合法則性をもった経験がいかにして可能であるのかということをめぐる、哲学的な根拠付けを中心とするものである。しかし、そうした理解は、カントの生前や直後のロマン主義期の解釈とは異なっており、また、新カント派の後期解釈とも異なっている。つまり実はそれは、1930年代以降の現象学や科学主義の影響を受けた解釈傾向にほかならなかったのである。

 こうした傾向により、カント哲学は、悟性と直観とによる可能的経験世界の構築理論というにとどまるものとなった。ここにおいては、何故にとりわけ悟性と直観という認識要素が持ち出されえたのかは、不問に付されることとなった。

 しかし今日では、この不問に付されたこと、そのことがあらためて主題化されつつある。というのも、自然法則の世界、弁証諭的な理念の世界、道徳的叡知界、趣味判断の共通感覚の世界等は、どれもが取り立てて優先されるべきものとは、見なされなくなりつつあるからである。悟性(概念)および直観のみが優先されることに妥当性は存さない。そして、こうした観点こそが、カントの超越論哲学を本来の理解へと導くものともなりうるのである。

 山根氏の論文は、まさにこうした観点からのカント哲学の再解釈をもくろむものである。その際の中心概念が、自然法概念に由来する「根源的獲得」である。氏によれば、この概念においてこそ、悟性(概念)および直観、理念、道徳、そしてかの共通感覚等が、カント哲学の内に包括的かつ正当に位置づきうる。つまり、この概念を中心に据えてこそ、カント哲学が総体として正しく見通しうるものとなるのである。

 こうした論議を展開する際の氏の概念史および解釈史的作業はきわめて綿密かつ総合的であり、目下の主題に関して、これほどまとまった見解を与える仕事はほかにない。本論文はこの点で日本国内のみならず、国際的にも通用する業績として参照されるべきものと言いえよう。

 難を言えば、本論文は、基本的にカント自身の公式見解の内部にとどまっており、カントの概念史的解釈としては妥当であっても、哲学研究としては物足りなさが残るということだろう。

 しかし、それを考慮しても、本論文の価値は依然きわめて高い。

 よって審査委員会は本論文を、博士(文学)の学位を授与するに値するものと判断する。

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