学位論文要旨



No 117728
著者(漢字) 牧原,成征
著者(英字)
著者(カナ) マキハラ,シゲユキ
標題(和) 近世の土地制度と在地社会
標題(洋)
報告番号 117728
報告番号 甲17728
学位授与日 2003.03.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第390号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 吉田,伸之
 東京大学 教授 藤田,覚
 史料編纂所 教授 宮崎,勝美
 史料編纂所 教授 山田,邦明
 史料編纂所 教授 榎原,雅治
内容要旨 要旨を表示する

 本稿は、「近世の百姓たちが、い中なる社会構造や諸条件のなかで、それらにいかに規定されて、どのように再生産や生活を成り立たせていたか」を、百姓にとって最も基底的な土地制度の問題を軸にして、その他、金融・I流通、・共同体などの諸観点から考察したものである。なお、本稿で土地制度と表現したのは、在地レベルにおける土地所有ああり方やそれ去成り立たせる構造、というほどの便宜的な意味内容であって、本稿は法制度の体系的な提示などを目指したものではない。

 さて、近世の土地制度と村落構成に関する研究は、一九五○年代の太閤検地論争を経て六○年代までに豊かな蓄積を築き上げたそれらには継承してゆくべき論点や視角が多く含まれているが、研究史の総括が十分になされてきたとは言えず、むしろ未解決の論点・争点を残したままであったり、かつて形成された通説が十分な検証・再検討を経ないで今日に至っている傾向がある。今日、この分野の研究が全般に低調なために、そうした問題点が深刻になっているともいえる。また一方で、一九七○年代以降、中世の土地制度史や戦国史研究も大幅に進んできた。それらをうけて、たとえば太閤検地や石��の評価などについても、より実態的に見直されつつあるが、依然として研究者間に相対立する見解が併存したままの状況である。中世史・戦国期研究にも学ぶべき所は積極的に学んで(批判的に継承して)、近世土地制度史を再構成してゆく必要がある。また、在地社会論一般としても、豊富な論点を地域社会論として包摂・総合してゆこうとする試みが近年著しく進展しているが、近世前期については大きく立ち遅れている。

 以上のような問題意識にもとづいて、本稿では、時期的には近世初期(一七世紀)を中心的に取り上げ、そのために、できるだけ戦国期(一六世紀)に遡って考察した。また研究史の批判的継承を重視し、第一部を、土地制度史研究の流れ・到達点・課題を確認することに当てた。ともに本稿の大きな特色である。また、対象地域は、近江(とくに江北)と信州東部(佐久・小県)とに限定した。これらの選択は便宜にもよっているが、土地制度については、地域をこえた一般論としてではなく、まずは地域を限定して論じることが有意義だと考えたからである。

 では、本稿各部各章の概要を述べておく。まず、第一部「土地制度史研究の到達点と課題」では、以上でも述べてきたように中・近世移行期の土地制度に関する研究蓄積が膨大で、問題点も多いことに鑑みて、その到達点ないしは課題をここでまとめて論じた。対象地域を畿内近国に限定し、論点も本稿の関心の範囲に限定して、便宜的に三つの章にわけ、それぞれのテーマに相応しいスタイルで整理した。

 第一章「戦国期の土地制度」では(1)小領主・(2)農民的土地所有、(3)村請制の三点に絞って、研究史上での議論を概観し、課題を指摘した。(1)(2)は第二部で近江の土地制度を論じる前提でもあり、(3)は本稿で論じられなかった点を補う意味を込めている。なお、神論「久我庄の近世化と年貢収取体制」は、久我家領山城国久我庄において、中・近世移行期の年貢収取体制の変容を簡単に辿って、第一章を補足し、第二章の前置きとした。

 第二章「太閤検地と年貢収取法」では、研究史の現状では異なった相対立する見解が併存している、太閤検地の石��と名請人、および豊臣政権の年貢収取法の意義と実態について、研究史の到達点をふまえて、私なりの理解を提示しようとした。

 第三章「近世期の村落構成」では、近世初期畿内村落論の研究史を、個別の論者に即して批判的に検討した。安良城盛昭氏の説に触れたあと、近世初期畿内村落論の到達点である朝尾直弘氏の小領主論をとりあげて、その問題点を指摘した。次いで、佐々木潤之介氏の名田地主論、水本邦彦氏の初期村方騒動論などを順次とりあげ、朝尾説とめ関連でそれらの意義や難点をあげ、それらを克服してゆくてがかりを探った。

 第一部を通じて、太閤検地論争以降の研究史を自分なりに総括して、現時点における到達点および問題点がどこにあるのかを提示した。

 そのうえに立って、第二部「近江における土地制度の展開」では、近江、とくに江北(坂田・浅井・伊香三郡)を対象に、戦国期から近世初期にかけての土地制度の展開を実証的に検討した。この地域は、羽柴秀吉がいわば最初に.「領国」とした地域でもあり、土地制度史研究上、固有の重要な位置を占める。

 第一章「戦国・織農期の土地制度と「小領主」」では、伊香郡余呉広の東野氏をとりあげて、その土地帳簿(所有地の記録)を分析し、戦国期の東野氏は浅井氏に従う「小領主」と規定すべき存在であったが、天正元年(一五七三)、浅井氏を滅ぼした秀吉(信長)権力が入部してきた際に徴した指出や、その後の太閤検地と慶長検地を経て、所有=中間得分を段階的に否定され、慶長末年までに・居村中之郷村に��二四石余を名請・所持するにすぎない「百姓」となった過程を明らかにした。

 第二章「江北の土地制度と井戸村氏の土地所有」では、研究史上著名な坂田郡箕浦の「小領主」井戸村氏をとりあげ、その一五世紀における土地所有の内容を検討し、また一六世紀における板田郡南郡の争乱の過程を辿ったうえで、そのなかから、近世につながっていく領主的土地所有と百姓的土地所持とが形成されてくることを展望した。また近世初期における井戸村氏の土地所有の内容を、検地の意義との関連で検討した。

 第三章「近世初期の村落構成と土地制度」では、坂田郡八条村をとりあげて、兵介家という有力百姓家の土地・被官売券や土地帳簿、村の検地帳・名寄帳・その他の年貢帳簿を組み合わせて分析し・兵介家の譜代下人等による手作経営・作徳小作関係の未成立・特異な被官関係の意味、八条村独特の土地制度の意味、などを明らかにした。その結果、兵介家については、村請制や百姓の小経営に根底的に規定されている(されざるをえない)点で、まさに「村方地主」と称すべきであり、同範疇に含めるのが妥当であることを提示した。

 第一章から第三章によって、江北地域に即して・中世末から近世初期にかけての土地制度の変容を辿って、それぞれの段階における特質を明らかにしてきた。そのなかで、戦国期において領主化を志向せざるをえない「小領主」と、村請制に規定されて百姓(小農)の一員としてそれと共存してゆかざるをえない「村方地主」との差異も明確になったものと思われる。

 第四章「村の近世化と庄屋・侍衆」は、野洲郡三上庄(三上村)を事例にして、中世末期から近世初頭にかけて村落主導者層のあり方・変遷を探ろうとしたモノグラフであるら三上における中世の名主衆・社家衆、天正〜慶長期の侍衆、庄屋などの姿を断片的な史料からできるかぎり追求し、それらの中心となった主導者の意識と文書作成・伝存の問題にも触れた。また周辺一帯における村落の類型をも考慮・提示した。論点は土地制度から離れ、地域一も江北ではないが、第三章まででは論じられなかった村運営の面から近世化を捉えようとした。

 第三部「信州東部における在地社会構造」では、信州佐久・小県両郡(東信)をフィールドに、近世の在地杜会構造を、土地制度にとらわれず、むしろ多様な視角から明らかにすることを試みた。

 第一章「寛永期の金融と地域社会」では、小県郡長窪(新町、中山道長窪宿)の商人石合家に残る寛永期以降の「大福帳」等から、江戸と信州(材木など)、畿内と信州(繰綿など)を結ぶ隔地間商業の実態を明らかにし、また居村をこえた近隣地域の百姓等に対する金融の様相を分析した。すなわち、在地に貨幣が恒常的に不足する状況のもと、中世以来の「高利」貸ではあったが、苛烈な取り立てや土地集積をともなわなかったこと等を明らかにし、そうした金融の特質から、当該期・当該地域における、作徳小作関係および土地売買の一般的未展開を照射・想定した。

 第二章「近世初期の宿、その構成と展開」では、信州から上州にかけての中山道や脇往還における宿(宿駅)の構成と展開過程を論じた。従来の交通史や流通史の研究では注目・検討されてこなかった、近世初期に、商人荷物が宿内部でどのように取り扱われたのかを追求することによって、「宿(やど)」を営み伝馬衆として駄賃稼ぎにあたる一般の町人、彼らの共同体である町中と、土豪的な問屋との対抗が、多くの宿に共通して見られ、やがて問屋が町中に包摂され、宿役人化するに至る過程を実態的に明らかにした。

 第三章「近世村落の村運営と村内小集落」では、佐久郡下海瀬村を事例に、村請制の村=行政村の運営について、その内部に含まれる小集落との関係を中心に論じた。下海瀬村は、複数の集落をややいびつな形で内包して創出されたため、行政村の擬制的性格がよく示されているといえる村である。近世前期には、集落としては「下海瀬」の名をもつ本郷が、階層としては長百姓層がその運営を主導していたが、やがて生活共同体である集落を基盤とする村運営の下部組織が形成されて、行政村が内実を備えた枠組に変革されてゆく過程を跡づけた。

 このように第三部では、近世初期の総合的な在地社会論、地域社会論を構築してゆくためにも、今後さらに発展きせるべき多様な論点を提示した。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、戦国期から近世初期における近江北部(江北)と東信濃の諸地域を主たる対象として、土地制度を基軸に、金融・流通・共同体などの諸側面から、在地社会構造の歴史的性格を検討しようとするものである。

 第1部「土地制度史研究の到達点と課題」は、厖大な蓄積を有す中世・近世移行期の土地制度や在地社会に関する諸研究を批判的に吟味し、研究史的な到達点と課題を摘出する。1章では、戦国期の土地制度をめぐる研究史を、小領主、農民的土地所有、村請制の三つの側面から探る。補論では山城乙訓郡久我庄を取り上げて、太閤検地前後の年貢収取体制の変容を検討する。2章ではこれらをふまえて、近世初期の在地社会構造をみる前提として、豊臣政権の土地政策を、石高と名請人、年貢収取法などの点から再検討する。3章では、近世初期の畿内村落をめぐる研究史を取り上げ、安良城盛昭の小農自立論、朝尾直弘の小領主論、佐々木潤之介の名田地主論などを検討し、特に村方地主論を再評価する。

 第2部「近江における土地制度の展開」では、秀吉がはじめて領国とした地域である江北の三郡に着目し、戦国期から近世初期における土地制度の動向を分析する。1章では伊香郡余呉庄と東野氏を素材に、土地帳簿の分析から土地所有の変容を追い、かつての小領主が百姓化する過程を見る。2章では坂田郡箕浦と井戸村氏をとりあげ、六角氏の内徳分と作人掌握を内容とする領主的土地所有と、「一職」売券に見られる百姓的土地所持の形成をみる。3章では、坂田郡八条村を事例として、村の階層構成と村請制下の土地制度を検討する。4章は、近江中部の野洲郡三上庄をとりあげ、中世の名主・社家、近世初期の侍衆や庄屋など、村落主導者の実態とその変容を追求する。

 第3部「信州東部における在地社会構造」では、東信濃の二郡を対象とし、在地社会構造の特質を多面的に検討する。1章は、小県郡長窪の石合家が残した17世紀前半の大福帳を素材とし、同家の金融・商業活動の分析から商人的な性格が濃厚である点を明らかにする。2章では、信州・上州の中山道・脇往還における宿の問屋と町中=伝馬衆との相克を検討し、問屋が後者によって包摂される過程を解明する。3章では、佐久郡下海瀬村を事例に、行政村と小集落との関係を検討し、行政村が百姓の生活共同体によって捉え返されてゆく動向を明らかにする。

 本論文は、取り上げた対象・地域の史料群を博捜し、豊富な内容を持つ実証研究として、当該テーマに関する近年稀に見る成果といえる。その意義は以下の通りである。

1.厖大な蓄積のある当該期の研究史に正面から取り組み、その批判的検討を通じて、作合、小領主、村請、村方地主など、土地制度に関する複数の論点を再発見したこと。

2.主に近江北部と東信濃の在地社会を素材とする実証研究を精力的に行い、戦国期から近世前期を連続的に把握し、土地制度を中心に在地社会構造の変容を精緻に描き出した点。この成果は中世・近世両分野の研究に裨益するところきわめて大である。

 本論文は、検討素材となる地域がまだ一部に限定されており、中世・近世移行期の変容に関する自説の展開が充分でないなどの点で今後の課題を残す。しかし本審査委員会は、上記のような顕著な成果に鑑みて、本論文が博士(文学)に十分値するとの結論を得た。

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