学位論文要旨



No 117729
著者(漢字) 岩城,高広
著者(英字)
著者(カナ) イワキ,タカヒロ
標題(和) コンバウン朝前期ビルマにおける地方支配と地方権力の研究
標題(洋)
報告番号 117729
報告番号 甲17729
学位授与日 2003.03.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第391号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 桜井,由躬雄
 東京大学 教授 水島,司
 東京外国語大学 前教授 奥平,龍二
 東京外国語大学 教授 斎藤,照子
 愛知大学 教授 伊東,利勝
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、コンバウン朝前期(1752〜1819年)のビルマを対象として、王朝国家における王権と地方権力との関係を、地方支配システムの考察と、地方権力の存在様態を個別的に論じること、の2つの側面から検討することを課題としている。

 1752年に成立したコンバウン朝(〜1885年)は、エーヤーワディー川流域を政権の核心部としながら、今日のビルマに継承される領域的な広がりをもち、その内部を一円的に統合しようとした点で、近世「ビルマ国家」とみることができる。ビルマ史の分野でも、コンバウン朝前期の国家、社会にかかわる研究が活発になされている。ただ、現在までに提示されている歴史像には、一見すると相容れないような2つのタイプがあるように思われる。ひとつは、王権主導による統合が進み、集権化された国家像を考えようとするもの、いまひとつは、王権によって規制されない自律性・流動性をもつ地方社会の存在を強調し、集権化には限界があったとするものである。こうしたイメージが示されている理由のひとつとして、中央と地方(中心と周縁)との関係を考える視点が顧みられてこなかったことがあげられるのではないだろうか。本論文は、この問題を、王権と地方権力との関係から考えることによって、上述の歴史像の懸隔を埋め、さらに「ビルマ国家」の特質について、新たな知見を付け加えようとするものである。

 はじめに、16世紀以降のビルマ史におけるコンバウン朝前期の特徴は、「ビルマ国家」の外延と内実が明瞭になったことであるといえる。コンバウン朝成立にいたる政治変動の契機は、交易の活況を背景に、多様な民族集団を内包した南部の政権(バゴー政権)に政治的エネルギーが蓄積され、自立的運動を開始したことであった。結果的にこの運動は、相対的に多数の人口を抱える内陸勢力の巻き返しという反作用を引きおこし、コンバウン朝の成立へと帰結した。

 コンバウン朝前期の諸王は、対外遠征を積極的に行なったが、これは、「諸王の王」たるビルマ王を中心とした秩序を構築することを目的としていた。その試みは成功と失敗をくりかえしながら、コンバウン朝の勢力圏の固定化をもたらした。他方、固まりつつある勢力圏の内部では、それまで間接的に支配していた地域へも実効的な支配システムが拡張していった。王権が、より効果的に人力や資源の掌握、動員を行なう必要に迫られていたからである。

 地方支配システムの拡張は、具体的には王権による地方支配者の掌握策となって現れた。コンバウン朝の地方支配は、ダヂーと総称される地方支配者を通じて行なわれていた。地方支配者にかんしては、国家がその存立基盤とする人力や資源を、彼らを通じて動員、獲得していたこと、国家の安定あるいは社会秩序の維持は、地方社会において住民と直接顔を合わせる地方支配者層によって支えられていたことなどが、これまで指摘されてきた。

 他方、地方支配者の地位は、彼らからの申請にもとづき、王権によって任命、認証されるものでもあった。そこで、地方支配者の掌握策を考えるために、任命、認証過程に焦点をあて、地方から中央へ送られた、任命申請とそれに対する中央の決定に関連する文書を検討した。その結果、王権は、次のような掌握策を打ち出していたことが明らかになった。すなわち、最も権威ある任命書として、王の印璽のついた任命書を発給し、それとひきかえに地方支配者の側から、彼の家系、任地の境界や徴税慣行などを記したスィッターン・サイーン文書を提出させていた(この文書は王宮内に保管され、あらたに任命申請がなされた際に参照された)。同時に王権は、1つの地方行政単位につき1名のみを正統な支配者として認証するという原則も定めた。

 しかし、王権は地方支配者の地位や適任者の選抜について、積極的な介入を行なってはいなかった。これは、ひとつには中央政府が課した人力や租税の動員、納入を実行しうる人物をリクルートすることが、主な関心事だったこと、いまひとつは王権と地方支配者との関係は、後者からの自発的従属によって形成されるという認識が根底にあったことが理由とみられる。

 上述した地方支配者の掌握策は、地方支配者の側からみると、王権に対して政治的忠誠を誓い、定められた文書を提出するという手続さえふめば、誰でも認証されうる可能性を意味した。実際、地方支配者を解任する詔勅をみると、解任された者が責任を追及されたり、社会的威信を失ったりすることは稀であった。そのため地方支配者のなかには、王権によって認証されるメリットを見いだした者も少なくなかったといえる。戦争などで動員が続く状況下では、自身とその一門の地位や利害を将来的にも安定化させる期待をかなえるものだったからである。それゆえに、王権の示した政策に対応していく者も多く現れたと考えたい。

 反面、ひとつの地方行政単位の地方支配者の地位をみていくと、短期間のうちに、任命、解任、再任命が繰りかえされる事例や、複数の人物が支配者としての正統性(王権による認証)をもとめて長期間対立する事例が観察された。こうした事例の背景には、1地方行政単位につき1名のみを認証するという原則が深く関わっていたと考えられる。地方支配者掌握策は、地方権力へは関与しないことを前提としたために、かえって地方支配者の地位の不安定化をもたらす側面を有していたのである。

 つぎに視点をかえて、地方権力の存在様態を個別的に考えてみよう。コンバウン朝の勢力圏の内部は、均質な空間ではなかったから、地方権力のあり方やその性格も一様ではなかった。ここでは、スィッターン文書(スィッターン・サイーン文書のうち地方支配者の権限や任地の状況を報告した部分)の記載内容を詳しく検討することによって、南部ハンターワディー地方、マダマ地方と中部サリン地方の事例を考察した。

 ハンターワディー地方の文書をみると、回答者(ダヂー)のプロフィール、任地の境界とダヂーが掌握する人口の3項目にほぼ限られるタイプと、租税とそれに付随する手数料、住民の紛争を仲裁してダヂーが得る手数料について詳しい記載のあるタイプがあった。マダマ地方についてみると、スィッターン文書の記述は画一的で、記載項目は、ダヂーのプロフィール、任地の境界と居住者の有無に限られる文書がほとんどであった。文書回答者のほとんどが、1770年代以降にダヂーの地位についており、彼らは任地の状況をほとんど把握していなかった。スィッターン文書の記載事項による限り、両地方の地方権力には、在地性が稀薄であったといえる。これは、コンバウン朝成立にいたる戦乱によって、地方支配者の権力が十分に確立していなかったことなどが理由として考えられる。また、地方支配者の新規任命を伝える文書が多いことは、王朝の地方支配が及んでいたことを示す。そして、回答者が、任地の状況をより把握していたという点で、マダマ地方よりもハンターワディー地方において、地方支配の実効性は大きかったと考えられる。

 中部サリン地方の文書によれば、中心地であるサリン・ミョウマには、2人のダヂーがおり、それぞれがこの地方の北部・南部を管轄していた。地方支配者の地位についてみると、北部のサリン川地域と南部のモン川地域とで偏差が観察され、前者では、ダヂーを称する者がほとんどなのにたいし、後者ではダヂー以外の地位を称する者が半数近くにのぼっていた。この理由を完全に解明することはできなかったが、サリン・ミョウマに2人の地方支配者が存在し、かつ2人が、地方支配者としての正統性を争っていたことが背景にあったのではないかという可能性を示した。すなわち、一方が王権によって正統とみなされる状況下、劣勢におかれた側は、ダヂー以外の、おそらくは住民の掌握とはあまり関係のない専門的職掌を担って、本来ならば認証を得なくてもいい者までスィッターン文書を提出し、自分たちの存在をアピールせざるを得なかったのではないか。サリン地方の場合、地方支配者掌握政策が地方権力内部に変動をもたらしたとみられる。

 本論文において考察してきたことから指摘できるのは、地方支配者が地方社会に深く根を下ろし、もって地方社会の安定を支えていたという、これまでの理解は、少なくともコンバウン朝前期については、再検討を要するという点である。むしろ、王権の掌握策によって、その地位は不安定化する可能性を有していたことを想定しなければならない。またこの意味で、地方支配者が自己利益と権力を拡大するために、王権の目が完全には届かない地方社会において、巧みに立ち回っていたと一般化してしまうのも早計であろう。コンバウン朝の地方支配システムを、王権と地方支配者との関係から照射するならば、地方支配者が王権とまったく切離されて行動する機会は、必ずしも大きくなかったからである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文はビルマのコンバウン朝前期(1752-1819)を対象に、前植民地期の最終段階における王朝の地方支配システムと個別の地方権力の対応を通じて、地方権力の存在態様を論じたものである。ビルマ史における当該時期は第一には現在のミャンマー国家の枠組が設定された時代であるが、同時にその枠組み内部での王権と地方権力の二重性が問題とされてきた。著者は同時期の行政文書を駆使して、王朝権力と地方社会の関係を実証的に解析し、王朝と地方というこれまでの二元論的な理解を排し、一つのコンバウン的な支配システムとして理解する。

 ビルマ史における近世国家としてのコンバウン朝の位置を論じた序章、第1章に続いて、第2章では、主にルットー・ピャッサー文書の分析によって、当時の王朝権力が地方権力者が亜が王朝権力によるそれぞれの在地支配の認証を求め、それが王朝権力による地方権力統制のための一定のルールを形成したとする。第3章では、王権の地方支配関与を論じ、王権からの認証が在地支配者の権威になるとともに、認証を求める支配者間の競合が発生し、地方権力が不安定化し、王権の統制が一定の意味をもったとする。第4章、第5章では、スイッターン文書の分析によって、地方の政治単位であるミョウの成立を論じ、ハンタワディー地方のような新領域では、在地権力の支配が希薄であり、コンバウン朝の実効支配の端緒が始まった一方、サリン地方では、おそらく灌漑システムの維持を通じて、在地支配者の権限が強かったことを論証し、地方支配のあり方の地方的な偏差を強調している。以上を通じて、本論文はコンバウン朝前期において、多くの地方的偏差をもちながらも、在地支配者の地方支配は不安定化し、王権の干渉、統制が一定に進捗し、相互の依存関係が一つの支配システムを形成したことを論証している。

 本論は、第一に史料批判においてやや問題があり、第二に史料的にはボドパヤー王時期をとりあげながら、コンバウン前期という長い時期の設定をしたことに無理があり、第三に多くの偏差をもった史料を論理的にまとめたとはいいがたく、このために結論が不明瞭であり、論としての説得力を十分にもっていない。

 しかしながら、以上の問題を考慮した上、本論文のパイオニア的な学術的価値はきわめて高いこと、また本人のきわめて積極的な学術的意欲を評価して、本審査委員会は本論文が博士(文学)の学位を授与するにふさわしいものと判定する。

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