学位論文要旨



No 117732
著者(漢字) 蘇,睿弼
著者(英字)
著者(カナ) ソ,エイヒツ
標題(和) 中国の城壁都市の成長過程に関する研究
標題(洋)
報告番号 117732
報告番号 甲17732
学位授与日 2003.03.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5365号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大野,秀敏
 東京大学 教授 安藤,忠雄
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 助教授 岸田,省吾
内容要旨 要旨を表示する

 中国の伝統的な都市とは城壁都市のことである。それは前近代の中国の都市形態であり、かつて中国の広い大地に無数に点在していた。中国では古来、都市全体を城壁で囲むのが普通であり、都市を「城市」と表現することから、「城壁」と「都市」とが不可分の存在であった長い歴史があることがわかる。約三千五百年前に黄河流域に存在した数々の部落による都市国家が建設されたときから、歴史の過程を経て現代まで、中国は世界で最大の都市システムを形成してきた。これらの城壁都市は中国の風土やコスモロジーに基づいて建設されたといわれており、1930年代の中国の都市地図を見ると、幾つかの沿岸都市を除いて殆どの都市が、まだ城壁で囲まれていた。そういった城壁都市がどのように形成してきたか、また、どういう成長過程を辿って現在の都市形態が形成される上で重要な要素としてなったか、それらについて考察することが本論の問題意識である。即ち、城壁都市を都市形態が形成される上の一つの重要な要素として捉え、その成長する過程を検証しながら、中国の都市形態における意味論的観察と分析を試みようと考えるものである。即ち城壁都市の計画理念や手法の特徴を把握し、都市の立地条件よる形態規定を明らかにし、形態成長のパターンを解明することを目的とする。

 研究の空間範囲は漢民族が最も活動した領域の内中国-Inner China(中国本土China Proper)とし、この範囲の中の、100ヶ所の城壁都市を研究対象とする。研究対象の形態を分析するために、地方史資料に掲載された絵図、戦時中に作られた『支那城郭ノ概要』を含めて中国に関する近代の地図資料、現代中国の都市地図集などの図面資料に基づいて、城壁都市の城壁の境界、主要道路の骨格、重要な施設の場所を考察し、20世紀初頭に城壁都市の形態を同じスケールで作成した。これらの城壁都市の形態は前近代の城壁都市が城壁を保つ時代までの形態であり、本論ではその城壁都市の最終形態とし、最終形態に至る成長過程を考察するものである。

 考察作業に当たっては、計画性が強い歴代都城と中国の都市形態について書かれたものとして最も知られている『周礼』の中の「考工記」に書かれた形態を研究し、その方形の形態を中国の権力者の計画行為として認識し、それを一つの切口として、研究対象を方形に属する例と方形に属しない例-不整形に分類する。その結果、方形に属する城壁都市は45例あり、不整形に属する城壁都市は55例ある。

 考察作業は研究対象の全体的な考察と城壁都市の単体的な考察に分けて行った。全体的な考察は、方形と不整形の城壁都市を全体的に把握するために計量的な方法を使い、成立年代、立地空間、面積規模と城門について行っている。単体的な考察は、城壁都市を方形と不整形の城壁都市に分けて、城壁都市の絵図や地図を分析しながら、城壁都市の成長過程を考察する。

 全体的な考察における成立年代については、研究対象の城壁都市の政治支配の成立年代と城壁都市の建設年代を区別して考察する。その結果、方形の城壁都市の政治支配の成立年代は不整形のそれより古いが、方形の城壁都市の建設年代は不整形のそれより若いことがわかった。そのことは、方形の城壁都市の政治支配が古い時期に成立したにも関わらず、城壁都市は歴史の過程で幾度もの崩壊や移転を経て、後の時代に他の場所に再建されたということを意味する。一方、不整形の城壁都市への政治支配が方形のそれより若いにも関わらず、城壁都市の建設年代が方形のそれより古いということは、政治支配の統治施設が設置されて以後、城壁都市の場所があまり変化せず、同じ場所で成長してきたということを意味すると考える。

 立地空間については、山と川の立地条件の類型から、研究対象の立地空間を類型化する。その方法はアメリカ地質調査所(USGS)の数値地図GTOP030データを入手して、研究対象の立地空間を半径30キロメートルの測定範囲にしぼりその中の斜度1度以下が占める「立地面積」の量を計算してその割合に基づき、研究対象を三つのグループに分類した。さらに、測定範囲の「立地面積」の分布状態に基づいて研究対象の立地空間のFigure-Ground図を作成し、各グループのFigure-Ground図を考察することによって、山による囲み形態を類型化した。また、等高線図と川の分布形態から作成した水系分布図を考察することによって、川による水系分布の形態を類型化した。その結果、方形の城壁都市の立地空間が谷間型、山麓型、平野型が多く、一方、不整形の城壁都市の立地空間が蔵風得水型、丘陵臨水型、小山接水型、川辺平地型が多いことがわかった。即ち、不整形の城壁都市は川沿いに多く存在するということである。

 面積規模と城門については、面積が大きい城壁都市の例を除いて、方形の城壁都市の城門の数は殆ど4門である。一方、不整形の城壁都市の城門の数は全体に面積規模が大きくなるにつれて増える傾向が見られるが、面積が小さいものにも城門の数が多い例が多く存在している。そして、方形の城壁都市の城門の数は4門に集中していることに対して、不整形の城壁都市の城門の数が6門以下に集中していることもわかった。それは、不整形の城壁都市が何らかの原因で、城外との交流が頻繁であり、そのことによって城門の数が多くなったのだと考えるに至った。その原因というのは、不整形の城壁都市に川沿いの例が多いことから、即ち前近代で城外との交通のために最も便利な交通手段として水運が多く利用されたということから、防衛機能の城壁の存在に関わらず不整形の城壁都市に多くの城門が必要であったのだと考える。

 単体的な考察においては方形と不整形に分けてそれぞれの形態、微地形、時系列の成長過程別に考察した。

 方形の城壁都市の形態については、基本型、変形型、複合型の三つの類型に分け、基本型の計画性が強く、変形型が地形、既存集落、成長過程の影響で城壁形態が変形され、複合型が主要道路の軸線に沿って成長することが多いという結論に至った。軍事防衛の城壁都市には十字型の主要道路パターンが多く存在し、政治支配の城壁都市にT字型の主要道路パターンがよく計画されていた。そして、各形態の類型には既存集落や町が存在するにも関わらず、方形の城壁都市が集落や町を内包して方形の形態を形成することがわかった。

 微地形については、谷間型の城壁都市は河岸段丘に位置し、陸運の交通ルートの結節点になる城壁都市が多く見られた。山麓型と平野型の城壁都市は微高地、扇状地、水源地を求めることが多かった。

 不整形の城壁都市の形態については、川沿いの主要道路が多く見られることから、川沿いに既存の町の存在がわかる。即ち、政治支配の権力による城壁都市の建設は既存集落や町が成立した後に行われる場合が多い。官僚施設の配置は町の骨格に依存するのか、あるいは、町の骨格に付加するのか、さらに町の骨格と関係なく独自の領域を築くのか、この三つの方式(依存型、連結型、新規型)の存在により、不整形の多様な形態をもたらすと考えた。その結果、不整形の形態は川沿いの集落と政治支配の権力の相互作用によって形成されるものとわかった。さらに、微地形の考察により川沿いの集落は自然堤防に位置することがわかり、官僚施設は舌状段丘や小山を求めている例が多く見られた。

 川の自然堤防に立地する不整形の城壁都市が多く見られることに対して、方形の城壁都市は川から離れた場所に立地していることが多く見られる。それは、川の満水期、渇水期、あるいは気候による南北の地質の違いに関係すると考えられるが、もう一つ普遍的かつ重要な原因は、南北の食糧物の違いと考えるに至った。要するに、南部では川の自然堤防に立地する集落と後背湿地に水田として使われる土地利用モデルに対して、北部は台地に立地する集落と集落の周りに麦畑として使われる土地利用モデルの違いと考えられる。

 この中国の南北における土地利用モデルの違いが交通機関の利用にも反映し、城壁都市の形態に影響している。即ち、水運を中心とする南部では、城壁都市の骨格が川の形態に左右され、不規則な曲線になることが多く、一方で、陸運を中心とする北部では、城壁都市の骨格が馬車を走る道に左右され、直線になる場合が多いのである。

 さらに、歴史上漢民族が常に南への大移動を行い、それに対して政治支配の権力が北方防衛のために常に北への大動員を行ったことも影響している。この両者の違いにより、北部の城壁都市の計画性が強く、南部の城壁都市の計画性が弱いと考えられる。南部の城壁都市は常に移ってきた移民を収容するために、部分的な計画がなされてきた。一方、北部の城壁都市は常に大動員の軍人を収容するために、全体的な計画を行ってきた。その結果、方形と不整形の城壁形態が生まれたのではなかろうかと考える。

審査要旨 要旨を表示する

 本論は中国の都市に関する形態論であり、それの分類を提案しその意味解読を試みている。

 中国では古来、都市全体を城壁で囲むのが普通であり、都市を「城市」と表現することからわかるように、「城壁」と「都市」とが不可分の存在であった。このような城壁で囲まれる形態は近代になって消滅し、現在では往事の形態をとどめている都市は非常に少なくなっているが、現代都市の空間骨格は城壁都市の時代の都市構造の影響を強く受けている。中国都市の形態や立地に関する理解を深めるためには、城壁都市の理解が不可欠であるという認識に立って、本論は城壁都市の計画理念や手法の特徴を把握し、都市の立地条件よる形態規定を明らかにし、形態成長のパターンを解明することを目的としている。

 研究の空間範囲は漢民族が最も活動した領域の内中国-Inner China(中国本土)とし、この範囲の中の100ヶ所の城壁都市を研究対象としている。

都市形態の基本資料としての図面資料は、戦前の日本軍による測量図から、中国地方史に掲載された絵図、近代中国に関する地図資料、現代中国の都市地図集まで幅広く渉猟している。

申請者は、これら図面資料を相互に比較検討したうえで、各都市の城壁の位置、主要道路のパターン、主要建築施設の位置を特定し、20世紀初頭の城壁都市の形態を復元し、同一のスケールの空間骨格を示す地図を作成している。これとは別に、アメリカ地質調査所(USGS)の数値地図GTOP030データを元に、各都市の微地形と立地の関係を分析するために周辺半径30キロメートルを含む三次元モデリング図を作成している。

分析作業は、まず、都市形態が方形であるか不整形であるかに分類している。それは、中国の歴代都城の原型を示したとして最も知られている『周礼』の中の「考工記」に書かれた形態が方形であることから、この形態を中国の官制の都市計画のひな形としと位置づけたことによる。その結果、方形に属する城壁都市は45例あり主に北部に立地し、不整形に属する城壁都市は55例で南部に立地する。

続いて、対象都市の傾向をつかむために成立年代、立地空間、面積規模と城門について計量的な比較を行っている。

 都市の地理的立地に関しては、申請者は対象都市を水系との関連ならびに微地形との関連で分析している。微地形の分析は地面の斜度1度を閾値として(数値地図GTOP030データを使用)、斜面と平坦値に分けた図を作成し、それをもとに考察し類型化している。その結果、方形の城壁都市は谷間型、山麓型、平野型に分け、不整形の城壁都市は蔵風得水型、丘陵臨水型、小山接水型、川辺平地型に分けている。

 方形の城壁都市が属する谷間型の城壁都市は河岸段丘に位置し、陸運の交通ルートの結節点にある。山麓型と平野型の城壁都市は微高地、扇状地に多く、行政施設と城壁都市周囲の小山の間に軸線的な関係のある例が幾つかの例に見られることを明らかにしている。一方、不整形都市に属する、蔵風得水型の城壁都市は舌状段丘の麓が多く、丘陵臨水型の城壁都市は大川の合流点に位置することが多く、小山接水型の城壁都市は軍事的な性格が強く、川辺平地型の城壁都市は川沿いの町から発展してきた例が多いとしている。

 都市の城壁の平面形態については、方形の城壁都市を、方形の基本型、変形型、複合型の三つの類型に分けている。基本型では、更に主要道路のパターンから3類型を提案している。

 これらの形態的な差異を生み出した理由について、申請者は、交通システム、農耕、政治的側面などから考察している。

 交通システムについては、方形の城壁都市は陸上交通に、不整形の城壁都市は水上の交通システムに組み込まれていることが多いとし、水運を中心とする南部では、城壁都市の骨格が川の形態に左右され、不規則な曲線になり、陸運を中心とする北部では、城壁都市の骨格が馬車を走る道に左右され、直線になる場合が多いとしている。

 農耕との関連では、南部では川の自然堤防に立地する集落で後背湿地を水田とするのに対して、北部は台地に立地する集落で集落の周りを麦畑とする。

 政治権力のあり方との関連では、南部の城壁都市では漢民族が常に南への移動を行ったため移ってきた移民を収容するために、常に部分的な改変がなされてきた。一方、北方防衛のために大動員される軍人を収容するために建設された北部の城壁都市は全体的な計画が行われた、としている。

 このように、本研究は中国本土の中心部の古代以降の歴史上の都市の全体を形態的に包括的に捉えようという野心的な志のもとに進められているが、実証的な資料に基づいて、抑制のきいた推量で、この方面の研究に着実かつ貴重な一歩を記している。

 よって、本論は博士(工学)の学位請求論文として合格として認められる。

UTokyo Repositoryリンク