学位論文要旨



No 117734
著者(漢字) 奥冨,利幸
著者(英字)
著者(カナ) オクトミ,トシユキ
標題(和) 近代能楽堂の形成過程に関する系譜的研究 : 明治期から昭和初期までを対象として
標題(洋)
報告番号 117734
報告番号 甲17734
学位授与日 2003.03.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5367号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 長澤,泰
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 助教授 藤井,恵介
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、近代における能楽堂の成立過程に関する研究である。現在の代表的な能楽堂は、能舞台を建物に内包された、いわゆる「入れ子」となっている。「入れ子」となった意味は、鞘堂のごとく、能舞台を守る役割のためであれば、容易に解釈できるであろうが、能楽堂に関しては、他の意味があるようだ。それでは、どのような経緯で能楽堂の入れ子空間は誕生したのか、この点を解明することが本論の目的である。

 本研究では、現代において代表的な形式となっている入れ子式能楽堂の形成過程を明治期から昭和初期における空間構成の系譜という観点で検証してみたい。本論では空間構成の系譜を次の三つの形式に分類することにした。1.対置式能楽場:能舞台が見所である広間に白州を介して対置する形式である。江戸時代の『匠明』における「当代広間之図」に示された武家屋敷の構成は、その代表的形式といえる。2.囲繞式能楽堂:能舞台の周囲を見所が取り囲み、能舞台の屋根と見所の屋根が分かれており、共に屋根が屋外に露出している形式である。3.入れ子式能楽堂:能舞台と見所が同一の屋内空間に取り込まれ、一つの屋根に納められた形式である。したがって、能舞台の屋根は、屋外に露出していない。

 本論は、4つの章で構成され、3つの章で能楽堂の空間構成における3つの系譜、つまり、対置式能楽場、囲繞式能楽堂、入れ子式能楽堂の歴史的変容について論じる。最後の章では、空間構成の系譜で論じた能楽堂の変遷を、能舞台の復元思想と能楽堂の欧化と室内化に関する観点で検証した。

 一つ目の対置式能楽場は、江戸時代からの伝統を保持する形式であるが、この形式が近代へ継承された最も大きな要因は、天皇行幸における能楽御覧場に、この対置式能楽場が採用されたことである。つまり、明治期以前に、天皇や将軍が、御所や城の御殿、武家屋敷などで、殿舎から庭上に建つ能舞台で演じられる能を観ていた形式が、明治期に継承されたことになる。青山御所能舞台では、見所となる御殿は、部屋の造作は和室でありながら、床には絨毯が敷き詰められ、さらに、玉座の置かれた部屋には、床の間の代わりに暖炉が設けられた。したがって、基本的な能舞台と殿舎の関係は、伝統な形式を踏襲していたが、すでに、欧化の影響が入り込んでいたのである。また、天皇行幸の余興として、能楽御覧は定番となり、明治時代に流行した博覧会にも、その影響が及ぶのである。つまり、会場への天皇や皇族の訪問に備え、対置式能楽場が造られたのである。たとえば、大阪博物場、金沢博物館、名古屋博物館などでは、皇族などの賓客に対する饗応能が行われた。こうした天皇行幸を意識した対置式能楽場の建設により、明治期初頭では、対置式能楽場が、最も公式の能楽場としての地位を獲得したのである。このように、対置式能楽場の系譜は、天皇行幸が行われるのと並行して定着し、基本形として、江戸時代に確立された伝統的な形式を継承し、近代的な変容過程である欧化と能舞台周りの室内化の前兆を見せながら、明治、大正、昭和期を通して用いられた。特に、能舞台が、見所である殿舎との独立性の強いことから、住宅に付属した能楽場として用いられた。

 二つ目の囲繞式能楽堂は、対置式能楽堂から入れ子式能楽堂へと能楽堂の主流が変遷する過渡期に発生した形式である。当初は、対置式に極めて近い形式を保っていたが、徐々に、変容して独白の形式を形成するに至った。この形式が受け入れられた理由は、対置式能楽場の利点を継承していたからである。つまり、能舞台と見所を始めとする周辺施設が基本的に別棟であるため、従来の木造技術で建設できたこと、及び、周辺施設と能舞台が切り離されていることで、見所である座敷を住宅の一部として使用したり、また、既存の住宅に後から能舞台を附属させることなどが可能で、融通が利いたためである。したがって、能楽師の住宅兼用能楽堂などにおいて適した形式であった。また、囲繞式能楽堂は、当初は、対置式能楽場を基本とした構成から徐々に改造がなされて完成したが、一番大きな変容を見せたのは、白州部分の扱いであった。つまり、始めは、対置式能楽場にように広く白州をとって、脇正面にも見所を張り出していたが、徐々に、白州が狭められ、遂には、白州の上に天窓の付いた屋根が掛けられて、完全に室内化する。こうした背景には、能楽が興行として催されるにつれ、大勢の観客が快適に観覧できる見所が求められるようになったことが挙げられる。そして、見所空間が拡大化され、白洲は、観覧席に取って代ることになる。

 三つ目の入れ子式能楽堂の誕生の背景には、演劇改良に影響を受けた能楽改良論があった。このうち、最もその論争が盛り上がりを見せたのは、劇場論であった。そして、その劇場論形成の発端となったのは、1911年(明治44年)1月から雑誌『能楽』に連載された「能楽堂改良会」での議論であった。その改良会で議論の中核を担ったのは、当時の若手建築家たちである。彼らは、東京帝国大学工科大学建築学科を1909年(明治42年)に卒業した同窓生の山崎静太郎、後藤慶二、上野肇、咲寿栄一などであった。この改良会は、七回に渡って議論が交わされ、舞台見所の関係改良案、見所間取及び席割の改良案、能舞台の採光案、楽屋の設備、食堂案、下足受渡改良案、見所の冷暖房設備案といった内容が議論された。この議論の主旨は、能楽堂を劇場として発展させようとする意図であった。

 一方、明治末期になると、囲繞式能楽堂における見所環境の劣悪さに関する問題が浮上し、帝劇参勤問題でもこの点が論じられている。つまり、当時の能楽関係者は、能楽堂の見所の改良を望んでいたのである。そして、こうした見所の改良意見を最も早く、かつ、明確に提言したのが後藤慶二の「観覧席改良論」である。後藤は、この中で、「第一の視る点から云ふと屋根を高くして、舞台の屋根迄見える様にしたいものである。」、「観覧席の配置や設備は、西洋の芝居の観覧席などを参考しなければなるまい。然し模倣するのは全然不適当である。西洋の舞台と日本の舞台、殊に能楽の舞台とは其趣きを異にして居るから、随って観覧席にも是非とも相違が出て来ねばならぬ。」と述べて、舞台の屋根が見所から見えるという入れ子形式を意識し、観覧席においては、西洋の模倣はいけないが、参考にしなければならないと結論づけている。この改良論の背景として、演劇改良により欧化された演劇劇場の観覧席を強く意識していたことは間違いない。こうした、見所の改良とそれに密接に関係した入れ子式能楽堂への移行に向けた議論は、明治末期から大正初期にかけて形成された。そして、入れ子式能楽堂の建設では、当初の金剛能楽堂(1909年/明治42年)と宝生会能楽堂(1913年/大正2年)では、屋根が天井に隠れた不完全な形式であったが、宮中能楽場(1915年/大正4年)では、完全な入れ子式能楽堂として造られた。この能楽場の設計は、当時、最も西洋建築に精通していた建築家の一人である片山東熊であり、また、能舞台は、近代和風建築の名手、安藤時蔵であった。つまり、この宮中能楽場は、当時の能楽改良で論じられていたように、能舞台は、伝統に従い、見所は欧化を意識するという構図に、偶然にも設計者の選定において一致した能楽堂であった。また、昭和に入ると、大江新太郎による宝生会館(1928年/昭和3年)が、劇場としての設備を整えた初めての能楽堂として完成する。大江は、それまで手付かずの状態であった、能舞台と見所空間を調和させるために、能舞台の覆屋となる能楽堂本体の意匠を内部と外部で分離させ、内部を勧進能場の見所空間のごとく、自然光を取り入れた光天井を採用して、能舞台と見所の調和を試みた。

 次に、近代能楽堂の形成過程を能舞台の復元思想という観点で考えてみたい。復元は、江戸時代から明治、大正、昭和の各時代で、数多く行われている。そして、復元が行われた背景として、一つ目の理由として考えられるのが、能舞台は元々演能のたびに組んでは解かれる仮設の建造物であったことである。また、二つ目の理由として、各能舞台の持つ由緒が重んじられ、敬われる思想があったということである。こうした復元思想と当時の能楽改良による理念が通じることを暗示させる論文として、後藤慶二の「能舞台を作り物として見よ」がある。ここでは、能舞台を演出装置としての「作り物」として取り扱うことを論じている。つまり、能舞台は、能楽の歴史の中で培われたものである。そして、能舞台を能という総合芸術の一翼を担うものとして、抽象性の高い大道具である「作り物」に例えているわけである。つまり、能舞台の歴史を重んじ、移動が可能な仮設物としているところに、先ほど掲げた復元思想と通底する部分があるのではないかと考えられる。また、逆説的に言えば、元々あった復元思想が、結果として、能舞台と周辺の観覧空間である見所を区分させた近代能楽堂の形成を助長したのではないかということである。つまり、この能舞台保持と見所空間の乖離という理念が、入れ子式能楽堂を誕生させる大きな原動力となったと考えられるのである。

 次に、近代能楽堂の形成過程を欧化という観点で見ると、最初に認められる事例が、明治天皇が椅子により観能したことである。1878年(明治11年)に竣工した青山御所能舞台では、すでに天皇が椅子で観能していた。一方、対置式能楽場を参考にして造られた囲繞式能楽堂は、対置式能楽場では配慮されなかった脇正面側に観客席を設けたことが大きな特徴である。つまり、主たる賓客である天皇以外の陪覧者も屋根の下で観能ができるようになったのである。それと同時に、白州は屋根で覆われ、屋根に付けられた天窓が野天であったことの名残となって、見所は完全に室内化された。そして、見所が屋根で全て覆われてくると、次には、屋根を支える柱が邪魔になり、かつ、能舞台の屋根が隠れることが嫌われ、大空間志向が芽生え始めた。その一方で、囲繞式能楽堂の欠点が、「能楽堂改良会」の議題となり、見所の環境や観客の行儀など、見所の在り方が論じられる中で、入れ子式で椅子式の能楽堂が最終的に近代能楽堂の最良の形式として位置付けられたのである。

 能楽堂改良会以来、近代能楽堂についての評価は論じられることはなかったが、そうした中にあって、ブルーノ・タウトの論評は貴重である。タウトは、オペラ劇場への羨望から始まった能楽堂の欧化を完全に否定した。つまり、近代能楽堂の形成過程で押し進められてきた室内化とその成果としての入れ子式能楽堂の空間構成について、タウトは真っ向から異議を唱えた。タウトは、入れ子式能楽堂をオペラ様式と称して、導入を促進したのは、「ハイカラ・モダーニズム」であったとし、その発生過程が、能楽の芸術から生じたとは考えられないという懐疑的な立場を表明したのである。この批評は、入れ子式能楽堂の発生要因となった能舞台と見所空間の乖離現象を見事に見抜いていた。

 近代能楽堂の形成過程においては、見所の室内化が大きな変革点となったが、その結果として、元々屋外で演じられていた能楽場の多様性が失われた。見所の室内化の要因は、能楽堂の設立及び改良の動機に、西洋を模範とする理念があったからである。そして、その理念は、能楽の伝統を検証した結果ではなく、生活習慣の西洋化や、外国貴賓饗応のためなど、外交的な見地で推し進められたことがわかった。したがって、現代の定型となった入れ子式能楽堂は、伝統的な能舞台と乖離し、西洋化した見所が融合して誕生したものといえる。したがって、今後の能楽堂の計画に当たっては、近代能楽堂の形成過程で失われた多様性のある伝統的な観覧空間の復権が必要と考えられる。そして、能舞台と見所に対する観念の乖離現象の背景には、能舞台の復元思想があり、これにより能舞台の形式が近代化されずに保持されたのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、明治期から昭和初期までを対象にして、近代能楽堂の形成過程を系譜的に研究したものである。

 第1章では、研究の分析方法として、近代能楽堂を三つの系譜に分けて検証することを述べている。そして、三つの系譜である、対置式能楽場、囲繞式能楽堂、入れ子式能楽堂の定義を示している。また、本論文の目的として、各系譜の歴史的検証と近代能楽堂形成理念の検証を挙げ、具体的には、復元思想と欧化を掲げて各系譜に通底する理念を解明することを述べている。

 第2章では、対置式能楽場の歴史的検証をしている。対置式能楽場は、江戸時代における御所や武家屋敷の能楽場に用いられた伝統的形式であり、明治前半期に頻繁に行われた明治天皇の行幸に際し、能楽御覧所の形式として継承されたことを述べている。そして、青山御所能舞台を事例に挙げ、見所となる表座敷は、部屋の造作は和室でありながら、床には絨毯が敷き詰められたこと。また、玉座の置かれた部屋には、床の間の代わりに暖炉が設けられ、欧化の影響を受けていた点を指摘している。

 また、明治期に盛んに行われた博覧会において、能楽は余興芸能として採用され、天皇や皇族の能楽御覧に際して、常設の対置式能楽場が設けられたこと。さらに、一部の実業家が、この対置式能楽場を邸宅や別荘に建て、皇族などの饗応能に使ったことを述べ、対置式能楽場が、施主の個性により、従来の規範を大きく変化させたものであったことを指摘している。

 第3章では、囲繞式能楽堂の歴史的検証をしている。まず、初めての囲繞式能楽堂として、能楽杜を取り上げ、岩倉具視を筆頭として華族らが能楽杜を設立し、芝公園内に能楽杜が建設されたことを挙げ、能楽杜の設立動機として、能楽が外国饗応芸能として位置付けられて、劇場としての能楽堂が必要とされたこと、及び、英照皇太后の催能の負担を軽減する目的があったことを述べている。また、囲繞式能楽堂は、当初、対置式能楽堂を基本とした構成から徐々に改造がなされて完成した。そして、一番大きな変容は、白州部分で、当初、対置式のごとく広く白州をとっていたが、脇正面に大きく見所を張り出したことで、徐々に白州が狭められ、遂には、白州の上に天窓の付いた屋根が掛けられて、完全に室内化した経過を明らかにした。また、この背景として、能楽が興行として催されるにつれ、大勢の観客が快適に観覧できる見所が求められたことを挙げている。

 第4章では、入れ子式能楽堂の歴史的検証をしている。まず、入れ子式能楽堂誕生の背景には、演劇改良に影響を受けた能楽改良論があり、このうち、最もその論争が盛り上がりを見せたのは、劇場論であったと述べている。そして、その劇場論の発端となった「能楽堂改良会」での議論を取り上げ、議論の主旨が能楽堂を劇場として発展させようとする意図であった。また、明治末期の囲繞式能楽堂の見所改良議論として、帝劇参勤問題を取り上げ、当時の能楽関係者が能楽堂の見所の環境に不満を持ち、改良を望んでいたことを示した。後藤慶二の「観覧席改良論」を取り上げ、入れ子形式を意識した上で、観覧席においては、西洋の模倣はいけないが、参考にしなければならないと結論づけていることを指摘し、当時の関係者が、演劇改良の影響で欧化した演劇劇場の観覧席を強烈に意識していたことを明らかにした。

 第5章では、まず、復元思想による能舞台保持と見所空間の乖離について検証している。江戸時代から明治、大正、昭和の各時代で、数多くの復元が行われていることを指摘し、その理由として、能舞台が元々、演能のたびに組んでは解かれる仮設の建造物であったこと。また、各能舞台の持つ由緒が重んじられ、敬われる思想があったことを挙げている。そして、復元思想と能楽改良による理念の通底を示す論文として、後藤慶二の「能舞台を作り物として見よ」を取り上げ、復元思想が、能舞台と周辺の観覧席である見所を区分させたのではないかと指摘している。

 次に、改良手段としての欧化と能楽空間の室内化について検証している。まず、近代能楽堂の形成過程で、最初に欧化による影響が認められる事例として、天皇の椅子により観能を取り上げている。一方、囲繞式能楽堂で、脇正面側に観客席を設け、主たる賓客である天皇以外の陪覧者も屋根の下で観能ができるようになったことを示した。その結果、白州は屋根で覆われ、見所は完全に室内化された。さらに、能楽改良諭で、見所の改良が論じられる中、大空間志向が芽生え、遂には、入れ子式で椅子式の能楽堂が最終的に近代能楽堂の定型として出来上がることを述べている。そして、近代能楽堂についての評価として、ブルーノ・タウトによる評価を取り上げ、タウトは、オペラ劇場への羨望から始まった能楽堂の欧化を完全に否定し、入れ子式能楽堂をオペラ様式と称して、その発生過程が、能楽の芸術から生じたとは考えられないという懐疑的な立場を表明したことを述べている。そして、この批評が、入れ子式能楽堂の発生要因となった能舞台と見所空間の乖離現象を見事に見抜いていて、近代能楽堂の形成過程において、見所の室内化が、元々屋外で演じられていた能楽場の多様性を失う結果となったことに警鐘を鳴らした点を述べている。

 以上の通り、本論文は、近代能楽堂を初めて通史的に検証して、最終的に定型として成立した入れ子式能楽堂の形成経過を明らかにした。また、系譜として捉える分析手法を用いた結果、各系譜が変容し、大きく変化する際に、復元思想と欧化が大きく影響を及ぼしたことを明らかにした。したがって、この論文は、能楽堂が伝統的な能楽空間をどのように変容させて成立したのかを解明し、近代建築形成過程における欧化と伝統性の介在に関して新たな示唆を与えるものであるといえる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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