学位論文要旨



No 117743
著者(漢字) 中山,学之
著者(英字)
著者(カナ) ナカヤマ,タカユキ
標題(和) 環境との柔らかい相互作用を実現する脳の計算モデルに関する研究
標題(洋) Computational Model of the Brain Motor Control Embodying Soft Interaction with Environment
報告番号 117743
報告番号 甲17743
学位授与日 2003.03.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5376号
研究科 工学系研究科
専攻 計数工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木村,英紀
 東京大学 教授 武田,常廣
 東京大学 教授 新井,民夫
 東京大学 教授 原,辰次
 東京大学 助教授 新,誠一
 東京大学 講師 大石,泰章
内容要旨 要旨を表示する

概要:

 近年,社会の高齢化に伴い,福祉・介護ロボットの需要が急速に高まっている.これらのロボットでは人との協調作業が頻繁に行われるため,人に危険を与えないことが要請される.そのためこれらの分野では,環境と柔らかく相互作用することのできるロボットの研究開発が重要な研究テーマになっている.福祉・介護ロボットに限らず次世代のロボットでは人との関わり合いがより一層強くなることが予想されるため,人間のように様々な環境に適応して柔らかく相互作用することのできるロボット制御技術の開発は今後のロボット研究にとって益々重要なことになるであろうと考えられる.

 一方,人間は未知の環境に対しても四肢を柔らかく環境に接触させることができる.この機能のおかげで人は器用な運動を容易に行うことができる.生体の四肢の運動は脳で制御されているが,特に小脳中間部は手先の微妙な運動調節を司ることが知られており,人間の柔らかい環境との相互作用を実現するのに最も深く関与していると考えられている.従って小脳中間部の機能が解明され,その制御メカニズムが明らかになれば,それを応用することで,人間のように環境と柔らかく相互作用することのできるロボットを開発することが可能になると期待される.

 そこで本研究では小脳中間部に対する計算モデルを設計することにより,環境との柔らかい相互作用を実現する一つの制御系を構築することを考えた.小脳内部の神経連絡に関してはこれまでに非常に細かく調べられており,その中のいくつかの部位においてはその機能に関しても解明されている.図1に小脳中間部内の神経連絡を示す.そこで本研究ではこれらの生理学的に得られている知見,とりわけ小脳中間部における特徴的な神経連絡構造をなるべく反映するように小脳中間部の計算モデルを構成することを行った.

 小脳に関しては古くから盛んに研究が行われ,これまでに多くの計算モデルが提案されている.特に近年川人らによって提案された小脳外側部の「フィードバック誤差学習」モデルは生理学的にその妥当性が証明され,ロボット制御にも広く応用されている.そこで本研究では,川人らの「フィードバック誤差学習」モデルをベースにして,これをさらに拡張することにより小脳中間部の計算モデルを構成することを考えた.

 小脳中間部は小脳外側部と同様の構造を持つが,赤核脊髄路を介してその出力を直接末梢へ送るとともに,オリーブ核を介してその出力を再帰的に小脳中間部自身に再投射するという小脳外側部には存在しない構造も併せ持つ.そこで提案したモデルでは,この構造を反映して小脳中間部からの出力を再帰的に小脳中間部の計算に用いる構造を取り入れた.提案したモデルでは小脳中間部は相互作用する環境の相互作用状態(環境の粘弾性と歪)を推定し,その推定値を赤核へ出力するとともに,オリーブ核を介して再び小脳中間部ヘフィードバックする.そして赤核へ出力された環境側の相互作用状態の推定値は,大脳運動野から送られる運動指令(肢の粘弾性と目標軌道)と比較され,環境との接触力を緩和するように運動指令を修正する.また,オリーブ核を介して小脳中間部へ再帰的にフィードバックされる信号は,赤核脊椎路を介して修正される環境との相互作用状態を小脳皮質中間部に伝え,再帰的な環境側相互作用状態の推定を可能にする.提案した小脳中間部のモデルの各計算アルゴリズムは,小脳中間部の各部位に詳細に対応付けることができる(図2).提案したモデルは環境側の粘弾性を推定し肢の粘弾性を修正する制御ループと環境側の歪状態を推定し肢に与える目標軌道を修正する制御ループからなる二重ループ構造を形成するという特徴を持つ(図2緑線).

 提案したモデルによって環境との接触力が漸近的にOに緩和されることがリアプノフの直接法によって証明される.また,構成した制御モデルのロボット制御則としての有効性を調べるために,二リンクからなる腕が硬い壁と接触する場合を考えていくつかの計算機シミュレーションを行った.その結果,提案した小脳中間部のモデルによって目標手先位置が適応的に修正され,接触力が時間とともに漸近的に緩和されることが確認された.

 次に,本研究では上で構成した小脳中間部のモデルを拡張し,両手協調運動に対して両手間に働く内力を漸近的に緩和する一つの制御系を構成することを考えた.人間の場合には片手で物体を把持するときも両手で物体を把持するときもほとんど差がなく制御を行うことができる.実際,両手協調作業中の脳の活動と片手作業中の脳の活動の計測結果から,両者でほぼ同様の賦活が見られることが示されている.左右の小脳中間部からの出力は大脳運動野,赤核脊椎路,オリーブ核の他に後交連核にも投射する.後交連核に伝えられた信号は後交連を介して対側の小脳へ送られる.また,後交連核の周辺には左右の肢の運動を鏡映反転させる機能を持つ補足運動野からの神経投射が存在することが知られている.そこで本研究ではこれらの生理学的に得られている知見に基づいて,左右の小脳中間部と後交連から構成される,両手協調運動を実現するための小脳中間部の計算モデルを構成した.提案したモデルでは片方の手が手先インピーダンスを適応的に修正するとき,もう片方の手は粘弾性を修正するというタスクの分解が行われる.図3に両手協調運動時の信号の流れを緑の線で示す.提案した制御モデルでは,モデルを構成する際に環境との相互作用を仮想的に置いた鏡像肢との相互作用として等価的に表現したことにより,片手接触運動と両手協調運動を統一的に扱うことが可能になり,その結果,片手接触運動に対する制御系を後交連を介して単純に連結することで両手協調運動を実現できるという特徴を持つ.

 両手協調運動に対しても,漸近的に内力が0に緩和されることがリアプノフの直接法に従って証明される.また,提案したモデルのロボット制御系としての有効性を示すために,二本の対称な手の手先接触運動に対して計算機シミュレーションを行い,両手協提案したモデルに従い目標運動が修正されることによって,接触によって生じる内力が漸近的に緩和されることを確認した.

 以上の研究によって環境との相互作用によって生じる接触力を緩和することのできる小脳制御系を構成することができたが,生体の場合には小脳で構成されたトルクを直接関節にかけることはできない.小脳で構成された運動指令は脊髄へ送られ,脊髄で適切に処理された後で筋に送られ関節を動かすことになる.したがって,小脳で構成した制御トルクを用いて実際に目標とする四肢の運動が実現されることを示すには,筋肉とそれを制御する脊髄の制御メカニズムを解明する必要がある.そこで本研究では次に,筋・脊髄系の制御モデルを構築することを試みた.脊髄は反射機能全般を司るが,本研究では特に外部負荷による筋の伸張を自動的に補償する伸張反射機能に注目して,伸張反射を実現するα運動ニューロンの計算モデルを構築することを行った.提案したモデルは上位脳から送られる運動指令と筋から送られる外部負荷トルクに関係するフィードバック信号の線形結合としてα運動ニューロンの出力が構成される.このモデルはいかなる外部負荷に対しても,その外部負荷による筋の伸張を補償することができる反面,慣性力の無視できない運動においては逆に運動を不安定化してしまうという欠点を持つ.生体でも,筋・脊髄系自体は不安定で企図振戦と呼ばれる励振を引き起こすことが知られているが,生体の場合には上位脳,特に小脳からの抑制信号によって伸張反射系に抑制がかかることによって運動の安定化が図られることが知られている.そこで本研究ではこの生体の運動制御機構を模倣し,小脳外側部で推定される慣性力トルクの推定値を用いて筋からフィードバックされる慣性力トルクをフィードフォワード補償することによって伸張反射系を安定化することを考えた.構成したモデルは環境との力学的な平衡点を目標軌道上に保ちながら姿勢を目標軌道へ追従させることができる.また,提案したモデルは容易に多リンク系への拡張を行うことができ,ロボットを漸近的に目標軌道へ追従させることができる.提案したモデルによってロボットの関節角軌道が漸近的に目標軌道に収束することはリアプノフの直接法に従って証明できる.また,提案したモデルの有効性を示すために,二リンク系に対して計算機シミュレーションを行い,従来のロボットの適応制御側よりも早い目標軌道への収束性が得られることを示した.

図1.小脳中間部内の神経連絡構造

図2:小脳中間部の計算モデルにおける各部位と対応する計算アルゴリズムの関係

図3協調制御時における信号の流れ

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、Computational Model of the Brain Motor Control Embodying Soft Interaction with Environment(環境との柔らかい相互作用を実現する脳の計算モデルに関する研究)と題し、脳における知能行動制御と脳の計算論の知見にもとづいて、次世代ロボットの主要な目標である、人間と共生する能力を実現するためのロボット制御の基礎理論を確立することを目的としている。具体的には、環境に対する最小限の知識で環境と柔らかくかつスムースに接触することを可能にするために、人間の小脳中間部と脳幹、脊髄、筋骨格系の神経結線構造を忠実に模擬した制御のアルゴリズムとアーキテクチュアを提案し、その制御の有効性とアルゴリズムの収束性を理論的に証明している。

 第一章はIntroductionで、本論文の背景を述べ、知能行動制御に関する脳科学の最近の知見を概観し、それらの知見が、それにもとづいてロボットの行動制御の具体的な方式を構築することが可能となるレベルに達したことを示している。

 第二章は第一章に続いて小脳や中脳と脊椎筋骨系における脳の結線の解剖学的な構造に関する知見と、脳各部位の損傷患者に関する臨床医学的な知見の現状を詳しく述べ、その結線の制御論的な役割とその位置付けを考察した。

 第三章では第二章で述べた解剖学的な小脳、中脳の結線構造にもとづいて外部環境との柔らかい接触を実現するための小脳中間部の計算理論を提案している。特に環境との接触に関してその力学モデルを人間の四肢のもつ限られたセンシング能力を反映して構築し、川人らのフィードバック誤差学習を拡張した環境のスティフネスを推定するアルゴリズムを導出している。さらに中脳から脊椎に至るフィードフォワードパスを、障害物に遭遇したときに予定軌道を迅速に変更するためのものであると解釈し、それを通して撃力を有効に緩和することの出来る適応制御のアルゴリズムを確立した。このアルゴリズムの生理学的な基礎についても明らかにした。

 第四章では第三章で確立した理論を双腕の協調動作に適用し、効き腕が位置制御、効き腕でない方が力制御を行うマスター・スレーブ方式に対応する制御方式を提案し、それによって対象物に働く力を通した両腕の制御系の相互干渉をうまく処理出来ることを示した。具体的なタスクのシミュレーションを通して制御系が良好な性能をもつことを示している。

 第五章はアクチュエータの制御構造を考察している。筋肉の屈伸モデルと脊椎系における神経接続回路に関する生理学的な知見にもとづき、まず筋肉の伸張反射を実現する制御系を提案している。次いで運動ニューロンと筋紡錐の計算モデルを構築し、これまでこの分野での課題であった角加速度のサンプリングおくれによる不安定性の問題を解決する適応制御アルゴリズムを提案している。さらにすでに述べた運動制御のモデルを統合したアーキテクチュアとアルゴリズムの総体の構造を述べ、その安定性を証明している。

 以上述べたことより、本論文は生物原理にもとづく次世代ロボット制御の基礎理論に多大な貢献をなした。まずこれまでの小脳外側部に限られていた脳の運動制御の理論を小脳中間部に拡張し、さらに筋骨格系のダイナミックスと結びつけることにより、現状でのもっとも包括的な脳の運動制御の計算論を確立し、脳の生理学的な知見に制御論的な意味づけを与えた。次に四肢と環境の相互作用の力学を構築し、それを脳の計算理論にもとづく適応制御と結びつけることによって環境と柔らかい接触を実現する生物原理のロボット構築への可能性を開いた。さらにロボットの適応制御において懸案であった角加速度フィードバックのサンプルおくれによる不安定現象の問題を、操作トルクのフィードフォワードの付加によって解決し、機械系の適応制御理論に新しい知見をもたらした。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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