学位論文要旨



No 117752
著者(漢字) 内藤,隆夫
著者(英字)
著者(カナ) ナイトウ,タカオ
標題(和) 近代日本の石油市場と石油産業
標題(洋)
報告番号 117752
報告番号 甲17752
学位授与日 2003.03.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第163号
研究科 経済学研究科
専攻 経済史専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 武田,晴人
 東京大学 教授 橘川,武郎
 東京大学 助教授 谷本,雅之
 東京大学 助教授 中村,尚史
 東京大学 助教授 粕谷,誠
内容要旨 要旨を表示する

 本稿は明治期から第一次大戦期における、日本の石油市場と石油産業の展開過程を併せて検討する。方法論的には石炭産業における隅谷[1968]、産銅業における武田[1987]のそれに基本的には依拠している。しかしそれに加え、(1)日本石油・宝田石油が採用した一貫操業体制とそれ以外の生産のあり方との対比を行う、(2)他の鉱山業との労資関係の違いに注意する、(3)国内に直接進出した外資と国内資本との競争関係を具体的に分析する、(4)主要会社各々の個性的な活動それ自体を意識的に描く、という4点を念頭において検討する。

 第1章「明治前期の石油輸入と石油政策」は、第2章以下のための歴史的前提を示した。幕末開港とともに開始されたと見られる石油輸入は1870年代以降急増したが、その理由は従来の灯火に比しての石油ランプの明るさと経済性、従来の灯用源に比しての石油の低価格に求められる。石油輸入の急増に対し、政府は国内鉱業振興のため諸策を講じた。端緒は大鳥圭介の石油地調査で、この後石油鉱業官営が目論まれた。しかし、政府が十分な資金的援助をもって取り組んだのはお雇外国人ライマンによる石油地調査のみであり、しかもその調査方法は後に通説となる背斜説を排した、露頭の調査中心であった。そしてライマンの調査結果の影響を受けたと思われる、1880年前後以降の工部省試掘、鉱区選定と再度の試掘は、何れも中途半端に止まった。かくして石油供給はその大部分を外油に仰ぐ時代が続き、また国内石油産業は政策的保護を受けない民間資本によって勃興する。

 第2章「石油市場の展開と国内資本の勃興」は、主に1880年代末から90年代を対象とし、外油2社の競争関係の明確化と、それとは切り離された形ながら国内資本も勃興過程に入ったこととを示した。第1節「外油2社の競争開始」では、1893〜94年のサミュエル商会によるタンカー輸入開始とソコニー日本支店設立、及び居留地外商の石油取扱からの撤退を通じて、米油=ソコニー、露油=サミュエル商会、の日本市場における競争関係と、ソコニー=マーケットリーダー、サミュエル=チャレンジャー、という市場地位との明確化をまず示し、次いで内地雑居が不可能な当該期には両社とも流通・販売への取り組みを積極化することも、それを市場競争に生かす可能性も限定されていたとした。第2節国内資本の勃興」は、日本石油・宝田石油の事業開始とその成功、及び新潟県の原油採掘量急増に伴い叢生した採掘・製油専業者を中心とした取引の連鎖による石油生産・流通の仕組みを見た。まず日石は、山口権三郎を中心に新潟県中越・下越地方の資産家を糾合して発足し、次いで綱式機械掘を導入・成功した。機械掘成功は、石油採掘業の生産過程の枢要部を機械化したこと、それが同社の資本蓄積開始の積杵となったという意味を持つ。但し、機械掘成功後に採掘業と精製業が相互に拡充しあう関係も生まれたとは言え、同社の製品は外油と台頭に競争する=「混ぜ物」から脱却するには未だ不十分であった。次に宝田は、日石とは異なり長期的資金見通しのない中小規模の会社として発足したが、当初の採掘業の成功と、合併に基づいた成長戦略の形成によって事業規模を拡大した。石油採掘業における合併は、リスクの軽減と規模の経済性の発揮を可能にする意義があり、同社は採掘業の成功→高収益→高配当→増資→株式交付による合併→事業拡大、をなし得た。しかし同社にとっても、当該期には製油・販売業への進出は容易でなかった。また専業者間の取引の連鎖による生産システムは、採掘地と製油所を媒介する送油に関しての採掘業者と鉄管業者との取引、採掘業者と製油業者との値立会を通じた原油取引、製油業者と問屋商人との製品取引、からなった。送油業を担う鉄管は採掘地に対し特殊な資産であり、採掘-送油-精製が一連の経路となっての長期安定的関係の成立が望まれたが、採掘業者と製油業者に互いに機会主義的行動をとる余地があり、更に有力製油業者の製品を群小業者のそれと同様外油の混ぜ物にしてしまう商人のモラルハザードも問題であった。以上の意味で、この生産システムは非効率であった。

 第3章「日本近代石油産業の確立と内外4社競争構造の展開」は、日本石油・宝田石油が全国的市場で外油に対する競争力を獲得することで日本の近代石油産業が確立し、外油2社間の競争激化を含め、内外4社の競争的な市場構造が形成・展開されたと論ずる。第1節「日本近代石油産業の確立」は、それを後押しした輸送網の整備から説き起こす。即ち、鉄管敷設の進展、北越鉄道の開通及び信越線・日本鉄道との連絡輸送開始、タンクカー輸送の導入といった鉄道を中心とした輸送網整備が、越後油輸送の円滑化・低コスト化・安定化・大量化をもたらし、地域的な石油供給を目的に採掘業から出発した新潟県の石油産業が、その製品を東京市場に進出させるための基盤を提供した。これによって新潟県産石油は東京方面に活発に移出されたが、その中には投機的な中小製油業者の製品を多く含んでいた。このような越後油の脆弱さが1900年の日清戦後第二次恐慌とその後の不況において露呈する中、精製能力の質的・量的拡充に努めた日本石油の製品は他の国産石油と差別化され、その結果として同社は自社商標「蝙蝠」を確立した。それは対外的には外国資本との競争力獲得を示し、対内的には越後油一般に対するレントの獲得を示す。これに対し宝田石油は、所謂大合同を通じて自社商標を確立した。1901〜02年に敢行された第1回大合同の同社にとっての意義は、原油採掘量の急増、送油業統合による採掘-送油の効率化、浅野総一郎の石油関連事業の入手による製油・販売業への進出、それらを含めた業容の充実により他の群小業者と区別され、日石と並ぶ国内の二大資本へと成長したこと、に見出すことができる。日石・宝田の両社による、一貫操業体制(乃至はそれに近い形)の構築と自社商標確立の意義は以下の2点である。まず、一貫操業即ち採掘-送油-精製-販売の各取引の内部化=統合形態は、日石・宝田という少数の企業の私的利害に基づいて構築されたが、それが両社の再生産を保証する効率的なシステムとして機能し、そして両社が主導的企業へと成長するに及んで、当該期における支配的な生産体制として制度化されたと言える。但し、それは日本石油産業が採掘業を基軸とした第一次大戦期までの時期においてのみ妥当する。次に自社商標確立は、対外競争力獲得の指標となる。国産油が外油の混ぜ物として使われていては、生産量自体が増加してもそれは外油の競争の中に吸収されてしまうからである。シェアにおいて外油を上回り得なかった日本石油産業においては、対外競争力の獲得こそが発展史上の画期となるのであり、これをもって日本の近代石油産業は確立した、と考える。

 第2節「確立期日本石油産業の労資関係」は、1900年代以降の時期における、斯業の主導的部門たる鉱業部門の労資関係を新潟県の事例から検討した。石油産業が存在しなければ他県へ出稼ぎ乃至は流出したであろう者達を含め、石油鉱業に「喜ンデ」就労した労働者は、労働争議は起こさず移動率は低く勤続年数は長く、出勤率も高かった。一方機械化の進展により労働力需要が急増しないことを背景に、労働力を近傍から調達し、また賃金を比較的低水準に止め得た日石・宝田は、鉱夫救済制度の早期導入乃至は拡充策を講じた。以上の背景のもとで、階級対抗関係が決して発現しない協調的労資関係が持続した。

 第3節「内外4社競争と競争制限の展開」は、ここまで見てきた日本石油産業の勃興・確立過程の考察を前提とし、1900年代以降の石油市場を、内外油の販売網形成活動を含めて検討した。まず、条約改正後間もなくの1900年にサミュエル商会は日本における販売会社ライジングサンを設立し、ソコニーは西海岸よりのカリフォルニアで一貫操業を開始するとともに日本でもインターナショナル石油を設立した。そして既述の如く内油2社が台頭し、内外4社の競争的な市場構造が成立した。1900年代半ば以降ソコニーは油槽所を大量建設してバラ積み灯油「虎印」を市場に投入し、更に08年から販売競争も展開された。この時期、同社は排他的販売網形成を進めたが、それは最高級晶「チャスタ」のブランドイメージ維持には適合的でも、廉価品「虎印」の大量販売とは戦略的に矛盾し、結果としてシェアを下げた。一方、ラ社は関西で「タンク石油連合」を自滅させる等自社主導の販売網形成には固執したが、指定販売人の他油取扱は黙認し、蘭印石油輸入とタンク油の価格面での優位性と相侯ってシェアを向上させた。一方、当該期台頭した内油も1900年代後半から末には宝田の成長戦略が限界を来す等純益率低下に悩み、既述の販売競争を経た、宝田の内部整理開始後の1910年に所謂「内外4社協定」が締結された。これは7ヶ月で破綻するがその後再編され、大戦期を通じて継続された。1910年代を競争制限期とする所以である。但し、大戦期には価格協定は締結されたが数量協定は確認されない。当該期の外油の供給力不足を利して、内油はシェア向上と価格上昇とによる収益増加を実現した。この大戦期における内油の好調は、ロータリー式機械掘導入による採掘量増却、宝田石油の成長戦略の転換、そして日石の事例における石油販売業新規開業者との契約、外油の系列店への割込、旧3次店の特約店への昇格という、販売窓口の増加を目指す販売網形成策、にもよっていた。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、明治期から第一次大戦期における、日本の石油市場と石油産業の展開過程を併せて検討することを課題としている。その分析に際して著者は、日本石油と宝田石油という後の2大メーカーの企業成長の基礎となった生産技術、資金的基盤、販売の組織化などに着目して分析を進めている。

 本書の構成は以下の通り。

序章 課題と視角

第1章 明治前期の石油輸入と石油政策

第1節 石油輸入の開始と急増

第2節 明治前期の石油鉱業政策

第3節 小括

第2章 石油市場の展開と国内資本の勃興

第1節 外油2社の競争

第2節 国内資本の勃興

第3章 日本近代石油産業の確立と内外4社競争構造の展開

第1節 日本近代石油産業の確立

第2節 確立期日本石油産業の労資関係

第3節 内外4社競争と競争制限の展開

引用文献

 第1章は、第2章以下の分析に必要な歴史的前提を示すものである。

 幕末開港とともに開始されたと見られる石油輸入は1870年代以降急増したが、その理由は石油ランプの明るさと経済性に求められる。この需要拡大に対して、明治政府は国産石油鉱業の振興を計画するが、地質調査の不十分さもあって工部省による1880年前後以降の試掘や鉱区選定などは何れも中途半端に止まった。そのため、当分の間、石油供給はその大部分を外油に仰ぐ時代が続き、また国内石油産業は政策的保護を受けない民間資本によって勃興した。

 第2章「石油市場の展開と国内資本の勃興」では、主に1880年代末から90年代を対象とし、外油2杜の競争関係が明確化するなかで、国内資本が勃興した時期が検討される。まず、第1節「外油2社の競争開始」では、1893〜94年のサミュエル商会によるタンカー輸入開始とソコニー日本支店設立、及び居留地外商の石油取扱からの撤退を通じて、米油=ソコニーと露油=サミュエル商会との日本市場における競争関係が展開したこと、次いで内地雑居が不可能なために当該期には両社とも日本人商人を介して流通・販売への取り組んだことなどが明らかにされる。

 第2節「国内資本の勃興」では、まず日本石油が、山口権三郎を中心に新潟県中越・下越地方の資産家を糾合して発足し、次いで綱式機械掘を導入・成功したこと、この機械掘成功は、石油採掘業の生産過程の枢要部を機械化し、同社の資本蓄積の基礎となったことが示される。また、宝田石油は、日石とは異なり資金的な基盤の弱い中小規模の企業として発足したが、当初の採掘業の成功に基づいて高配当を実現し、これを基礎に株式交付によって企業合併を進めて事業規模を拡大したことが明らかにされる。この両者の異なる企業成長過程で、地域内の豊富な農村過剰労働力が労働力供給の基盤であったことが指摘されるとともに、他方で、日石では外油との対等な競争を行いうる条件を整えること、宝田では製油部門への進出を基礎に日石同様に販売市場での競争条件の改善がいっそうの発展の課題となっていたことが強調されている。いずれも外油との競争条件が鍵を握っていたということになる。当時の石油産業は、石油輸送にあたる鉄管業者、石油精製業者、そして主要市場で販売に従事する石油商というそれぞれ独立の事業者から構成されており、その相互の関連-著者はその全体を「専業者の連鎖による生産システム」と表現している-の非効率が、石油採掘を起点とする二大資本が外油との競争を有効に展開するうえでの障害となり、国産石油の市場評価を損なっていたとされる。

 第3章では、日本石油と宝田石油が全国的市場で外油に対する競争力を獲得することで日本の近代石油産業が確立し、外油2社間の競争激化を含め、内外4社の競争的な市場構造が形成・展開されたことが論じられる。まず、第1節「日本近代石油産業の確立」では、鉄管敷設の進展、北越鉄道の開通及び信越線・日本鉄道との連絡輸送開始、タンクカー輸送の導入といった鉄道を中心とした輸送網整備が、越後油輸送の円滑化・低コスト化・安定化・大量化をもたらし、新潟石油産業が東京市場に進出する基盤を提供した。

 こうした輸送ルートの改善を前提としつつ、1900年代にはいって精製能力の質的・量的拡充に努めた日本石油は、東京市場で自社製品の商標を確立した。このブランドの確立が外油との競争力を確保したことを示す指標として重視される。他方、宝田石油は大合同を通じて生産を拡大し、次第に製油・販売と下流部門に進出して、自社商標を確立させ、日本石油と並ぶ2大資本となった。この結果、両社は採油から精製販売に至る一貫操業体制を構築することになり、商標権の確立に示される外油に対する競争力の獲得をもって日本の近代石油産業が確立したと評価されている。

 続く第2節「確立期日本石油産業の労資関係」では、確立期の石油鉱業における労資関係の特質が検討され、その協調的な側面が、他の鉱山業とは異なって採掘部門が早期に機械化されていたことなどから説明される。また、第3節「内外4社競争と競争制限の展開」では、石油市場における企業間競争の実態を内外油の販売網形成活動を含めて検討し、条約改正によって国内での事業活動が自由となった外油二社の動向をふまえつつ、1910年に「内外4社協定」が締結されるに至った経過を明らかにしている。4社間の激しい競争が展開するなかで、宝田石油の成長戦略に限界があらわになったことが、協定成立の背景として重視され、1910年代はこの「内外4社協定」を基礎に競争制限的な産業組織に転換したことが指摘される。

 以上の内容を持つ本論文は、これまで産業史的なアプローチが行き届いていなかった石油産業史について、本格的な実証分析を試みたところに特徴がある。1880年代から1910年代にかけての時期について、国内2大資本だけでなく外油の動向をも重視し、採油から精製、輸送、販売に至る一貫操業体制に目配りし、あるいは労働力、労資関係にも分析の範囲を広げたことは、著者が一貫して当該期の石油産業の全体像を描こうと努めてきた実証的な努力の成果であると認めることができよう。

 とくに、日本石油と宝田石油の2社の成立基盤、石油輸送に関わる革新、販売網形成、商標の確立などに関する著者の検討は、貴重な実証的研究成果ということができる。また、東京市場などにおける外油との競争を重視し、それ故に販売までを含めた「一貫操業体制」-著者がこれを「生産システム」と捉えることについては疑問があるが-の構築をもって石油産業の確立を論じるていることも、著者が自ら明らかにしてきた諸事実をどのように統合的に理解するかについて独自の論理を構築する努力を重ねたことを示すものと認めることができる。

 同時にそうした独自性をもつが故に、本論文にはいくつか重要な問題点も指摘しうる。まず第1に、著者が石油産業の確立の指標としてもっとも重視する「商標の確立」に関しては、事実上精製部門の拡大などの生産面での変化が指摘されながら、その意義が具体的に検討されていない。そのため、なぜ、どのような条件の下で製品の差別化が可能になったかを明らかににすることには成功しているとはいえない。外油による競争圧力が強く、資源制約から国内市場で輸入を圧倒し得なかったという事情を考慮して「商標」の問題が提示されたと考えることができる。しかし、製品差別化によるレントの獲得が2大資本の資本蓄積の根拠として指摘される場合、こうした問題は一般的には「産業の確立」としてではなく、独占形成期の問題として捉えられてきた。このような議論を念頭において、レントの獲得を基準として重視することの理由を示すなど、説明を尽くすべき論点が残されている。

 第2に、これに関連して、総じて本論文では、採油と輸送、販売の3点については比較的詳しい分析が行われながら、他方で精製部門についての検討が不足している。その結果、「確立の指標」に関わる商標の位置づけも不明確にしているとみられるが、そればかりでなく、確立期の石油産業を「一貫操業体制」として捉える意義を曖昧にしている。たとえば、一貫性という視点を強調するあまり、販売に従事する石油商が独自の判断で国産石油を外油の「混ぜもの」として利用し販売する企業行動のとらえ方が一面的となっている。委託販売でない以上、これらの商人たちの独自性がみられるのはむしろ当然のことであって、それらの行動をコントロールできないと産業として「確立しない」という論理には疑問が残る。問題となっているのは、石油業一般ではなく、外油の競争圧力下に産業としての成長を始めた明治期の日本の石油産業においては、「一貫操業体制」を実現する以外に産業としての確立はあり得なかったということであろう。しかし、国産の石油製品が国際競争力を持ったことと、販売までを一つの企業のもとに垂直的に統合したこと-著者はこれを「一貫操業体制が制度化された」と表現している-との間にはなお説明を要する問題が残されている。

 第3に、本論文では各所に経済学的な概念を用いた説明が試みられているが、そうした説明がしばしば不必要な混乱をもたらしていることを指摘しておかなければならない。取引コスト論やエージェンシー理論の援用は、適切に用いられればより広い理解を得ることを可能とすることもあろう。しかし、本論文ではそうした意欲がから回りしている面が強く、せっかくの実証的な成果に水を差す結果となっている。理論の援用に慎重な姿勢が望まれる。

 以上のような問題点は、著者が本論文で示した実証的分析への真摯な取り組みと、そのとりまとめに際して提示した構想や論理との間にまだ埋めるべき間隙が多く残っていることを意味しており、今後の著者の課題として明記されるべきであろう。

 しかしながら、このような問題点があるとはいえ、本論文に示された実証的な研究成果は、著者が自立した研究者として研究を継続し、その成果を通じて学界に貢献しうる能力を持っていることを明らかにしている。従って審査委員会は、本論文の著者が博士(経済学)の学位を授与されるに値するとの結論を得た。

UTokyo Repositoryリンク