学位論文要旨



No 117753
著者(漢字) 下川,哲矢
著者(英字)
著者(カナ) シモカワ,テツヤ
標題(和) 経済政策の動学的分析
標題(洋) Essays on Dynamic Economic Policy
報告番号 117753
報告番号 甲17753
学位授与日 2003.03.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第164号
研究科 経済学研究科
専攻 経済理論専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岩井,克人
 東京大学 教授 西村,清彦
 東京大学 教授 福田,慎一
 東京大学 教授 井堀,利宏
 東京大学 助教授 高橋,明彦
内容要旨 要旨を表示する

 この論文は主として不確実性下の最適政策を分析したものである。本文は6章からなるが、前半部分(第1章から第3章まで)が本論の核心をなす部分であり、そこでは資産収益のリスクと最適資産収益課税の関係を解明することがテーマとなる。以下、この点を中心に論文の要旨をまとめる。

 経済活動に内在する様々なリスクに対応するために、多くの金融商品が開発されている今日、最適課税へのリスクの影響を明らかにする意義は小さくない。しかしながら、リスクと最適課税の関係を分析するためには、ひとつの技術的な問題がある。それは、これまで研究の中心的なモデルとして採用されてきた離散時間の合理的期待モデルでは、一般に不確実性に関する1次のモーメント、すなわち期待値しか明示的に扱えないという点である。それゆえリスクと最適政策との関係を見るためには、数値計算を用いるか、あるいはある特殊な関数系を仮定するしかない。Grinols and Tunovsky(1993)はこの離散モデルの持つ欠点を"Current macroeconomic theory is disappointingly limited in its ability to deal adequately with risk.(page1)"と指摘している。既存の最適課税理論は、たとえば、預金のような安全資産と株式のような危険資産から得られる収益への課税率は同じで良いのか、もし異なるとすればどのように異なるのかといった疑問や、金融デリバティブスのように非常に複雑なリスク構造をもった資産へ課税するとすればどのようなルールが考えられるかといった問題に有効な答えを用意できていない。

 ここではより高次のモーメントの影響を明示的に分析するために、確率微分方程式を用いた最適資産課税論の定式化を試みる。もし確率微分方程式を用いて最適課税が分析できれば、リスクを明示的に扱うことが可能となり、上記の問題を容易に分析できるようになる。第1章において、若干の数学的な準備をおこなったあと、第2章において、リスクと資本収益課税に関するひとつの最適ルール(Proposion1)を提示し、リスクの異なる資産への課税の関係(Proposition2)を明らかにする。これらの公式は本論文の中心的な結果であり、リスクと課税の関係を明らかにするだけでなく、これまで得られている主要な研究成果とも整合性を持っている。

 さらに第3章ではこれらの課税ルールの有用な応用例として、金融派生商品取引から得られるキャピタルゲインヘの最適課税問題を分析する。金融派生商品の価格付けに関する分野では、確率微分方程式が分析に早くから導入され、最も洗練された形で利用されているのは周知の通りである。その意味で、金融派生商品への課税問題は、第2章で提案された確率微分方程式を用いた最適課税の分析フレームが最もその有用性を示すことのできる分析対象であるといえる。金融技術の発展に伴い、金融派生商品の金融市場におけるシェアは、今後ますます大きくなっていくと予想される。金融派生商品の金融資産市場での重要性が高まるにつれて、それらから得られるキャピタルゲインヘの適切な課税ルールが必要になる。金融派生商品への最適課税問題を考える意義は少なくないと思われる。ここでは、ヨーロピアン・オプション、アメリカン・オプション、それに割引債取引への最適課税問題が分析される。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、不確実性下の動学一般均衡モデルの枠組みを用いて、政府の最適な経済政策のあり方を分析する試みである。全部で五つの章に分かれている。その中心部分は、資産収益に伴うリスクに対する最適ラムゼイ型課税を分析した第2章とデリバティブ取引への最適ラムゼイ型課税を分析した第3章である。ともに政府部門を含む時間が連続な確率的動学一般均衡モデルを構築し、ポントリャギンの最大値原理を不確実性下に拡張したBismutの手法を用いて、最適課税の問題を解いている。Bismutの手法の経済理論に対する応用は少なく、手法的な斬新さがあるだけでなく、それによってDynamic Programmingの手法では得られなかった一般的な結果がいくつか導かれている。第1章は、第2章・第3章の数学的な準備として、Bismutの手法の解説にあてられている。残りの二つの章は、前3章と異なり、離散時間の動学的一般均衡モデルの枠組みを使って、外部性が存在するときの最適均衡経路の性質を分析したものである。第4章は無限意思決定期間均衡成長モデルにおいて外部性が存在するとき複雑な周期均衡経路が存在する条件を検討し、第5章はIT投資を例としてネットワーク外部性があるときのラムゼイ型補助金制度についての数値解析を行っている。

 本論文の内容を簡単に紹介すれば、以下のようになる。

第1章 準備-Bismutによる不確実性下における動学的最適化手法

 第1章では、下川氏が本論文の第2章及び第3章で分析の基礎としているBismutの手法が手際よく説明されている。不確実性のもとにある動学的最適化問題の伝統的な解法はダイナミックプログラミングである。下川氏は、この手法を用いる既存の研究では価値関数を陽表的に解くためにモデルに大きな制約をおくケースが多いこと、そしてこの手法ではリスクの価値を明示的に表すことが必ずしも簡明ではないことを指摘する。それに対してBismutの手法はポントリャギンの手法の不確実性への自然な拡張であり、得にリスクの価値を相対変数の形で陽表的にあらわすことができることに注目している。第2章以降の分析において、リスクの評価が重要になることから、Bismutの方法が経済分析の立場から大きな長所を持っていると主張し、さらにBismutの手法とダイナミックプログラミングとの関係を直観的に説明している。叙述は明快であり、Bismutの手法が適用可能な状況においては、下川氏の応用は経済学的な直感の働く興味深い結果をもたらしていることは特筆に値する。

第2章 資産収益に伴うリスクと最適課税の関係

 第2章の目的は、資産収益に関するリスクとラムゼイ型最適資産収益課税の関係を理論的に明らかにすることである。こうした不確実性下での最適資産収益課税問題は先行研究でも取り上げられており、いくつかの重要な性質が明らかにされている。しかし、先行研究で標準的な枠組みである離散時間の合理的期待モデルでは、一般に不確実性に関する1次のモーメント、すなわち、期待値しか明示的に扱えない。その結果、リスクと最適政策との関係を分析するには、数値計算を用いるか、あるいは、ある特殊な関数系を仮定する方法が採用されてきた。本章では、リスクによって特徴づけられる多くの資産が存在する動学的一般均衡モデルを考える。その際に、不確実性を拡散過程を用いて定式化する。すなわち、不確実性をブラウン運動を用いて表すことによって、より高次のモーメントを明示的に扱うことが可能になる。このモデルの利点を生かして、リスクと最適課税の関係を示す1つの公式を導出するものである。さらに、リスクの異なる資産間で最適税率がどのように異なるのかを明らかにしている。主要な命題の経済的な含意をまとめると、資産収益の変動により大きなゆがみをもたらすような資本には高額の課税をし、保有量を抑えるのが最適となる。たとえば、株式投資のようなリスクの大きな資産収益の方が、預金の利子収益のようなリスクの小さな資産収益よりも、大きく課税されるべきであることを示唆している。

第3章 デリバティブ取引への最適課税

 第3章では、Karatzas,Lehoczky and Shereve(1987)等により開発されファイナンス分野の動的最適消費・投資問題において標準的手法となっている所謂「マルチンゲール法」を活用し、第2章でBisumutの手法に基づき導出した最適資産課税の公式を再導出した。次に、この最適課税公式を用いオプションヘの最適課税問題を検討し、原資産価格に対するオプション価格の弾力性により原資産とオプションの課税比率が決定し、オプションヘの課税比率が常に原資産へのそれよりも大きいこと等を示した。さらに、割引債取引に対する最適課税問題も調べ、課税率の大きさが割引債の残存期間に指数的に依存することなどを明らかにした。また、本章の最後において、Bisumutの手法と「マルチンゲール法」の対応関係が検討されている。

第4章 外部性下における複雑な周期均衡経路の存在とその決定性

 第4章は、外部性が存在する無限意思決定期間均衡成長モデルにおいて、周期均衡経路が存在し、またその近傍において非決定性を持つための条件を分析したものである。従来の研究では、外部性を持たない無限意思決定期間の多部門均衡成長モデルにおいて、カオス的均衡経路が存在するためには、割引因子が非常に小さい(すなわち、割引率がきわめて大きい)ことが必要となることが知られている。したがって、外部性が存在しない場合、実証的にもっともらしい割引因子のもとでは、カオス的均衡経路は存在しないことになる。しかしながら、外部性が存在する場合、無限意思決定期間の多部門均衡成長モデルにおいて、比較的弱い条件の下で、周期解やカオス的均衡経路が存在する可能性があることが近年指摘されている。この章は、この結果を拡張することによって、外部性が存在する無限意思決定期間均衡歳長モデルでは、十分に1に近い割引因子のもとでも、周期解、カオス的均衡経路、およびサン・スポット均衡が存在する可能性があることを示したものである。本章の結果は、従来の研究結果からある程度予想されるものである。しかし、これまでの研究はこのテーマを直接取り扱ったものではなく、その意味でこの章の結果は一般的に割引因子と周期解やカオス的均衡経路が存在する条件の可能性を示した最初の研究といえる。

第5章IT資本投資へのラムゼイ型最適補助金-数値解析的アプローチによる試算

 いわゆるIT関連の投資や消費においては、ネットワーク外部性が重要な役割を果たしている。第5章は、そのようなネットワーク外部性を考慮に入れた上で、IT資本投資に対する財政政策のあり方を検討するものである。具体的には、一般部門とIT部門の2部門を持つ不確実性下の動学的一般均衡モデルを構築し、ITサービスからの効用はIT資本の蓄積量に依存するという形でITのネットワーク外部性を定式化した上で、政府の最適補助金政策の効果を分析している。その際、財政政策としては、一括移転を前提したピグー型の補助金ではなく、政府の財源に制約を課したより現実的なラムゼイ型の補助金を取り扱っている。分析手法としては、確率差分方程式として表されるオイラー方程式を離散近似法(Grid法)による数値計算を用いている。その結果として、本章のモデルでは、214%から307%にもわたる巨額の補助金率を導いているが、その率は下川氏の別研究で導びかれたピグー型の補助金率よりは低くなっている。しかも、それから得られる収益はピグー型の場合に比べると、65%から26%も減少している。これは、財源調達の制約から生じる資源配分の歪みが大きく、ピグー型の補助金政策の分析から得られる結論をIT投資に関する財政政策に応用することの危険を物語っている。本章は、あくまでも数値計算にとどまっているが、本論文の第2章を含め、近年急速に発達している確率的動学的一般均衡モデルを用いた財政政策の分析の中に、ネットワーク外部性を導入した点で意義がある。

 もとより本論文には改善が望まれる点や問題点も多く抱えている。まず、論文の前半の三つの章と後半の二つの章との間に有機的な連関が乏しく、統一性を欠いていることである。本来ならば、Bismutの手法の経済政策分析への応用という形で、全体をまとめた方が望ましかったと思われる。とりわけ、本論文では財政政策のみを分析しているが、当然金融政策に関する分析も可能であるはずで、将来その分析を行うことが望ましい。また、本論文の中心となる第2章と第3章において、Bismutの手法が適用可能なのかどうか等についての数学的条件の吟味が十分になされていないところが散見される。将来、Bismutの手法が適用可能であるための条件について、より慎重な吟味がなされ、それが明示される必要があろう。さらに、第4章は外部性の下で一般的に割引因子と周期解やカオス的均衡経路が存在する条件の可能性を示した最初の研究といえるが、外部性が存在するとしても、実証的にはその大きさはあまり大きくないと考えられている。したがって、より一般的には、割引因子が十分に1に近いだけでなく、外部性が十分に小さい場合にも、周期解やカオス的均衡経路が存在するか否かを検証する必要がある。その方向での拡張は今後の課題といえよう。第5章は、結果は面白いがまだ数値計算にとどまっており、将来においてより定性的な分析が望まれる。

 以上のような問題点があるとはいえ、本論文は不確実性下の動学的一般均衡モデルを用いた経済政策の分析として、理論上の新境地を開くものである。とりわけ最初の3章は、単に有用な結果を得たと言うだけでなく、その中で用いられたBismutの手法、あるいはそれと密接に関連しているKaratzas,Lehoczky and Shereveの手法等は、これらの章における分析をきっかけとして、今後様々な分野で応用される可能性がある。その意味においても、本論文の貢献は高く評価できる。また、第2,第3、第4章は独立した学術論文としても高い水準にあり、実際に第4章はすでに国際的な査読付き雑誌に公刊された論文を踏まえた内容になっている。したがって、審査委員会は、下川哲矢氏が博士(経済学)の学位を取得するにふさわしい水準にあるという結論に達した。

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