学位論文要旨



No 117754
著者(漢字) 水野,誠
著者(英字)
著者(カナ) ミズノ,マコト
標題(和) 消費者選好の限定合理性と進化に関する研究
標題(洋)
報告番号 117754
報告番号 甲17754
学位授与日 2003.03.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第165号
研究科 経済学研究科
専攻 企業・市場専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 片平,秀貴
 東京大学 教授 藤本,隆宏
 東京大学 教授 高橋,伸夫
 東京大学 助教授 新宅,純二郎
 東京大学 助教授 阿部,誠
内容要旨 要旨を表示する

 本論文では消費者の選好が時間を超えて系統的に変化するという意味での「消費者選好の進化」を取り扱う。以下では,論文の章立てにしたがってその要約を示す。

1章 はじめに

 消費者の選択前選好が中長期的に進化することは,いくつかの実証研究によって支持されてきた。またこうした変化を引き起こす要因として各個人の知覚バイアスや他者との関係から生じるバイアスが指摘される一方,選択後選好を教師として選択前選好を学習する(あるいは環境への適応として構築する)という理論枠組みが提案されてきた。ただしこれらの研究は,消費者の選好ルールとして補償型ルールのみを取上げ,それが持続するものとみなしていることや,もっぱら選択前の選好に注目しているという点で限界がある。

 これに対して本論文が先行研究に対して提起したいことは,次のように整理される-

視点1 すでに多くの実証研究が示すように,選択前選好のルールは多様であり,かつ多段階であり得る(たとえば非補償型と補償型の2段階ルールを含む)

視点2 消費者が置かれる環境によってそうした選好ルールは変わるが,それ以外に個人差や状況差が反映される

視点3 そうした不完全性の一因として様々な知覚バイアスが介在する

視点4 さらには学習を指導するはずの選択後選好を固定されたものとして扱えないケースが存在する

2章 消費者選好構造の異時点間比較

 非補償型の選好を測定する手法の研究は長い歴史を持つが,それらはどの属性水準で非補償型の処理(カットオフ)が行なわれるかにっいて事前の知識を必要とすること,またそれに関する個人差が考慮されていないといった問題がある。また消費者の2段階の選好構造を扱う手法においても,消費者は第1段階で非補償型の意思決定を行なうという実証研究の知見が正確に反映されていないことが多い。

 われわれはこれらの問題を克服した,新たなアプローチを提案する。そこでは,多項ロジット・モデルの枠内で,連結型あるいは分離型ルールによる非補償型の情報処理が扱われる。消費者は製品の属性水準をカットオフ属性水準とトレードオフ属性水準のいずれかに分類しているとする。第1段階の意思決定で連結型ルールが採用されている場合,1つでもカットオフ属性水準を含む製品は効用が相対的に低位に固定され,そうでない製品はトレードオフ属性水準にしたがって効用が上積みされる。一方,分離型ルールが採用されている場合は,1つでもカットオフ属性水準を含む製品は効用が相対的に高位に固定され,他の属性がどうであれ選択されやすくなる。

 問題は,どの属性水準がカットオフ(トレードオフ)属性水準なのかが事前には不明だという点である。そこでわれわれは,遺伝的アルゴリズムによって属性水準の分類を探索するというアプローチを提案する。さらには選好ルールとウェイトの両面で存在し得る消費者間の異質性を考慮するため,潜在クラス・ロジット分析によってセグメントごとの選好構造を識別・推定する。

 この方法を3年に及ぶインスタントコーヒーのスキャナーパネル・データに適用し,各年次の分析結果を比較した。どの年次でも4つのセグメントが抽出され,その間の遷移に年を越えた一定の継続性が見出された。各セグメントの選好構造には系統的に進化する部分が含まれる。たとえばあるセグメントでは,最初の年に連結型ルールによって排除されていた(全く買う気がない)ブランドが,翌年にはトレードオフの対象(買ってもよい)ものになり,3年目には分離型ルールによってシードされる(属性に関係なく買うもの)に至っている。

3章 製品空間の拡大と選好の進化

 消費者の選択前選好が選好ルールを含めて進化することが確かめられたが,それを引き起こす要因として何が考えられるだろうか。1つは,製品イノベーションによって新たな属性水準が現われると,消費者はそれまで依拠してきた選択前選好では選択できなくなることがあげられる。すなわち,製品空間の変容が,消費者が新たな選好構造を模索する契機となり得るということである。製品空間の性質の重要性は,属性間の相関や,最初に導入された製品のポジションが選好に影響することを示した研究からもうかがい知ることができる。

 この章では,消費者によって選択が繰り返されるなか,製品空間がある次元(属性)に沿って拡大すると,その次元にカットオフ水準を設定した2段階の選好構造が形成されることを実験によって示す。デジタルカメラを素材とした実験では,被験者は選択前選好について無知の状態から出発し,選択結果に対応する「真の」選択後選好をフィードバックされる。そこで形成される選好構造は,基本的に2章で提案したものと同じ方法論で識別・推定される。

 製品空間は以下の3つのフェーズで拡大する。それぞれのフェーズで観察された選好構造とその正確性をまとめると-

1)初期の単純な凸型の製品空間では,十分な事前知識がない場合に頑健な方略として,どの属性に対しても同等なウェイトを置いた補償型ルールが形成される

2)ある次元に関して以前より優れた-しかし別の次元については以前より劣っている-新製品が導入され,フロンティアには新旧2つの局所最適点が現われたとき,属性間相関が負の方向に動くため,補償型ルールが維持されやすい

3)すべての次元に関して優れた新製品が導入され,再び凸型フロンティアが形成されると,前のフェーズで拡大したため顕著性が高まっている属性に対して非補償型の処理が行なわれやすくなる。その結果,(本人が気づかないまま)低い選択後選好の状態から抜け出せなくなる可能性がある

 最終的に形成された選好構造には,過去に経験した製品空間の拡大経路の違いが反映される。すなわち,消費者の選好形成には一種の知覚バイアスによって経路依存性が生じるということである。ある段階でいったん非補償型ルールが形成されてしまうと,消費者の選択は特定の製品にロックインされ,より選択後選好を高める製品が導入されても選択されにくいという問題が生じる。

4章 知覚経験と言語の影響

 最後に,選択後選好もまた進化する可能性があることを示す。選択後選好は製品を消費するとき経験される知覚に依存するが,経験を積み重ねることでより一貫したものになると期待される。日常の消費においては,多くの場合そこに言語が介在する。企業は自社に有利な選択前選好が形成されるよう,消費者に対してさまざまな言語情報を送る。それは,本来知覚経験に基づくはずの選択後選好にさえ影響を与える。たとえばテイスト・テスト時に同時にブランドネームを呈示すると,本来知覚に基づくはずの選択後選好がその影響を受けることが実証されている。しかし本研究では,知覚経験後に言語情報に触れる経験が,言語情報がない完全に知覚だけに基づく選択後選好の一貫性に影響を与えることを示す。

 われわれが行なった実験では,ワインのブラインドによるテイスト・テストを特定の言語情報の呈示をはさんで繰り返すことを,目を変えて被験者1人あたり計4回行なう。被験者は3グループに分けられ,それぞれワインの香味を専門家が記述したもの,ブドウの品種名(多くの被験者はなじみがない),個々のワインとは関係ない一般知識が呈示される。

 各ワインヘの選好順位を特殊なランクロジット・モデルで分析し,選好の一貫性がセッションの繰り返しによっていかに変化するかを調べたところ,知覚経験後に香味を記述することばを与えた場合に一貫した選好の形成が妨げられること,一般知識を与えた場合にはそうした効果が生じないことがわかった。またブドウの品種名-ワインの素人にとって知覚との連想を持たないラベルとしてのことば-を与えた場合も,一貫した選好形成を妨げることはなさそうである。

 香味記述を与えることで選好形成が妨げられるという効果は,心理学でことばの「曖昧化効果」と呼ばれている現象と関連していると考えられる。それによれば,知覚が経験された直後にそれをことばに変換しようとすると知覚の記憶が妨げられるため,選択後選好が不安定化したことになる。その一因と思われるのは,実際の知覚(特に味覚や嗅覚)とことばから期待される知覚との間に精細度の違いがあること,さらには,なじみのあることばからの期待は経験によって修正されにくいということである。だからこそ,なじみのないことばを用いたラベルとしてのことばには,こうした現象が観察されなかったのであろう。

 選択前選好の進化が選択後選好を教師とした学習によって起きるという枠組みは,選択後選好が不安定化すると土台が揺らいでしまう。今後選択後選好の進化メカニズムが把握されれば,選択前選好との共進化を扱うことができよう。

5章 おわりに

 以上のような3つの実証研究から,1章で述べた4つの視点が裏づけられたことになる。つまり,消費者の選択前選好のルールは多様かつ多段階であり,それは個人差を伴いつつ時間によって変化する。そこには様々な知覚バイアスが介在するため,完全な学習が行なわれているとはいいがたい。さらにいえば,選択後選好が事後的に与えられたことばによって影響を受けることも,選好形成がよりダイナミックな現象であることを示唆している。

 これらの結果は,企業の限定合理的な行動を前提とした技術革新の進化論的モデルと類似した面があり,消費者選好の進化論的モデルの可能性を強く示唆している。今後に残された研究課題としては,代替的な選好ルールが模索されるプロセスのモデル化,選択後選好の進化のより明確なモデル化,そして企業行動の内生化などを挙げることができよう。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文はマーケティング、消費者行動論および選択理論(choice theory)にまたがる分野において最も注目されているテーマの一つについての理論的、実証的研究である。すなわち、「消費者の選択行動の基礎になる選好は時間の経過とともに変化するものであるか」、また「もし変化するものであるとするとそれはどのような要因によるのか」また「その時間的変化には『進化』と呼べるような一貫した傾向があるのか」というのが本論文の扱う問題である。本論文は全体で一つのまとまりを持った研究を紹介するというよりは、一つの大きな枠組みの中で試みられた三つの研究成果を集めたものである。まず全体の枠組みを紹介した上で個々の研究についてその要旨を順に紹介することにする。

全体の枠組

 本論文の中心的概念は選好、選択および(選好の)進化の三つである。前2者については、複数の代替案からなる集合から何らかの基準に従って一つのものを選び出すことを「選択」、その「何らかの基準」が「選好」とされる。また選好の「進化」については「選好が時間を超えて系統的に変化すること」という規定がなされる。

 本研究全体の出発点は消費者選択における離散的選択モデルである。ロジットモデルに代表されるこの種のモデルはMcFadden(1974)[引用論文のリストについては原論文のものを参照されたい]にまで遡ることができるが、これについてはその後80年代を経て90年代初頭にいたるまでマーケティング・サイエンスの分野でさまざまな拡張と実証が行われた。基本モデルはきわめてシンプルな構造をしており、二つ以上の離散的代替案のそれぞれが選択される確率が各代替案の属性で表されるというかたちになっている。それは典型的には次のような性質を有している:

・最適化:代替案の集合から、代替案の属性の束によって規定される(確率的)選好水準が最大の代替案を選択するという最適化行動を仮定している

・非多段階選択:代替案の数にかかわらず決定者はその選択集合の中から(何らかの絞込みを行わずに)一回で一つの最適な代替案を選択する

・同質的選好:決定者全員が同一の選好パラメターを持つ(集計モデル)か、各個人が固有のパラメターを持つ(非集計モデル)のいずれかである

・非動態性:モデルは静態的なものであり、パラメターレベルでもモデル構造レベルでも動態的変化の要素はない

 本論文のテーマは最後の動態性にあるのだが、ここで注意しなければいけないことは、モデルの動態化を行うにあたって、パラメターレベルを超えて動態化したい場合には最初の3軸に関する拡張が関わってくるという点である。例えば時間的に満足化モデルから最適化モデルに変化するという場合には当然「最適化」という点についての拡張を視野に入れなければならなくなるからである。

 本論文の冒頭ではつぎの二つのタイプの先行研究が紹介されている。一つは選好が時間的に一定ではないことを示す実証研究である。初めて子供を持った親が紙おむつブランドヘの選好をどう形成するかというHeilman,Bowman & Wright(2000)をはじめ数件の先行研究が紹介されている。もう一つは選好変化に関連すると思われるメカニズムの研究である。選好が環境変数に依存している場合には環境変数が時間的に変化すれば選好も変化するはず、という論理によっている。心理学における文脈効果に代表される知覚バイアス等による選好変化、対人関係の違いによる選好の違い(他人依存型の選好形成)、選択経験からの学習の効果の三つのカテゴリーにおける「選好変化」の実証例が提示されている。

 これらの議論から、本研究の基本的問題意識はつぎの三つにまとめることができる。

・選好の時間的変化は単に同一モデル内のパラメター変化の範囲を超えて選択ルールの変化も含めた選好・選択モデルの変化として捉えられるべきである

・選好の時間的変化は各個人の恒常的、漸進的環境適応の結果として起きるので必然的に個人固有の変化が生ずる

・選好の時間的変化には環境適応の効果に加えて知覚バイアスの効果が存在する

・一般に選択体験の蓄積により選好の不安定性は減少するが、言語情報の影響等により逆に増大する場合がありうる

 以下では三つの個別の研究を順に見てゆくことにする。

研究1:消費者選好構造の異時点間比較

 この研究は、3年間にわたるインスタントコーヒーの消費者パネルデータを用いて、離散的選択モデルのパラメターだけでなくそのモデル構造自体も変化することを示そうというものである。そのため、そこで使われるモデルは現在想定される選択モデルの中ではもっとも複雑なものが用意される。

 ここでのモデルはつぎのような特質を持つ:

1.満足化・最適化混合2段階モデルである:選択の説明変数ごとに、第1段階の切捨てに用いられるか、第2段階に残ったときの最適化の変数として用いられるかがデータから推定される

2.消費者間異質性をモデル内に組み込んでいる:1の混合2段階モデル全体に潜在構造モデルのかたちで消費者間異質性を導入し、有限個の異なる選好セグメントを仮定している

3.静態モデルである:時間的変化はモデル内に組み込まれてはいない。3つの異なる期間(年)のデータセットに対して別々に推定を行うことにより期間ごとにセグメント構造が推定され、さらに期間ごとに個々の家計の各セグメントヘの所属が推定される。

 1と2の性質から通常の潜在クラスロジット分析と比べると本モデルの推定ははるかに難度が高い。ここでは遺伝的アルゴリズムと潜在クラスロジット分析を組み合わせることによりこの困難を克服している。

 実証結果はつぎの二つの点を明らかにした。第1に、各年ごとに識別されたセグメントを比較するとそれらが年ごとに少しずつ異なるだけでなく、その変化にある規則性があり単なる変化というよりは「進化」と呼んでもよい傾向が見て取れる。あるブランドについて無条件に無視されるのからトレードオフの対象になり3年目には無条件に購入対象になった、というのはその1例である。

 2番目に個々の家計の各セグメントヘの所属状沸を見るとこれについても必ずしも十分に安定的ではないことが示されている。最後に、この文脈では単なる1段階の潜在クラス・ロジットモデルよりも2段階モデルのほうが適切であることが明らかにされている。

研究2製品空間の拡大と選好の進化

 上の研究が観察データから選好の時間的変化を「読み取る」ものであったのに対して、本研究は選択経験のない消費者に実験的に選択をさせ続けることにより選好の形成を仕掛けようというものである。その仮定された状況から、そこで観測されるのは単なる変化ではなく「進化」に近いものになる。

 実験は98人の学生と社会人に対してPC上で、4つの属性からなる仮想的デジタルカメラのさまざまなペアから選択を行うかたちで行われた。本研究では選択前選好と選択後選好という二つの新しい概念が用いられていることに注意すべきである。前者は選択を行う前に選択のものさしとして形成される選好であり、後者は選択を行った後それを使用することによって感じる選好である。これが次の選択における選択前選好の形成に影響を与えることになる。前者と後者の差が選択の誤差となり、その誤差を小さくするように自分の隠された真の選好構造に対して学習が行われるという設定になっている。

 この研究では選好の進化が自然と起こるように仕掛けられていることから、その問題意識は、進化が起こるかどうかではなくて、それがどのように起こるかという点にある。そのために、新商品の導入による製品フロンテイアの拡張という状況を用いて今までに選択経験のない新しい属性水準が現れたときに(例えば、100万画素までしかなかったときに200万画素の製品が登場する)被験者がどう反応するかを測定し、新たな選好の形成状況を見ようというものである。

 被験者のデジタルカメラに対する「真の」選択後選好の構造はPCの中に組み込まれていて、それを用いて毎回選択が行われた後に選択後選好が計算されPC画面上で被験者に知らされる。これはまったくの新製品については使ってみなければその良さが分からないという現実の状況に対応している。3つの漸次拡張する製品空間ごとに十分な数の選択データが得られてそこから前研究と同じ方法で選好構造の推定が行われる。

 この研究では凸型の製品フロンティアの状況では満足化ではなく最適化の選択モデルの方が頑健である(Johnson,Meyer,Ghose(1989))といった従来の知見のいくつかが再確認された。さらにこの研究独自の結果として、最終的な製品空間のもとで観測される選好構造は、仮定されている真の構造が同じでも、製品空間の拡張経路の違いによって(例えば、価格が先に下がってから画素数が増大するか、その逆かで)系統的に異なることが観測された。これは選好の形成に文脈効果に基づく知覚バイアスが存在することを示唆するものである。

研究3 知覚経験と言語の影響

 この研究では前の研究で所与かつ不変とされていた選択後選好も実際の状況では進化する可能性があることを示そうというものである。選択後選好は製品使用後の満足感に依存するがそれは使用経験を積み重ねることでより一貫したものになると期待される。本研究では、5つの異なった種類の赤ワインを、ワインを飲みなれていない被験者に繰り返しテイスティングしてもらうことにより選択後選好がどのように収束してゆくかを見ようという実験を行っている。

 そこから分かったことはつぎの3点である。まず、被験者が飲用して選好度の申告を行った後に何も情報を与えないで実験を繰り返した場合には、繰り返しが増えるにつれて選好の安定性が高まることが確認された。2点目として、毎回「力強く厚みのある風味」といった香味記述の言語情報を与えると選好の安定性が時間とともに損なわれる、という興味深い結果が得られた。最後に、同じ言語情報でもブドウの種類という被験者にとっては何も意味しない情報を与えた場合には選好の不安定化の傾向は特に観測されなかった。

 ここから、事前にまったく選好が存在しない新しい製品カテゴリーでは、一般的には使用を重ねるごとに選好が明確化するが、状況によりその逆のことが起こりうることが確認された。特に、ほかの文脈で特定の意味を持つ言語を新たな状況に用いると選好の収束を損なう可能性が強いことが観測されてるが、これは、経験された知覚を言葉で表現させるとその知覚に対する記憶が曖昧化するという心理学の知見(例えば、Schooler & Fiore(1997))を新しい角度から追認したものでる。

 以上が水野論文の要旨であるが、その審査結果をつぎに述べる。

 本論文は消費者の選択行動の基礎にある選好が経時的変化および進化するか、という重要でありながら比較的未開拓な分野に挑戦した意欲作である。問題意識の明確さ、方法論の的確さ、結果の重要性という点から、本論文は博士の学位を授与するに十分値するというのが審査委員全員の一致した評価である。

 以下では、その評価の詳細を述べる。

 まず本論文の新たな貢献がどこにあるのかを明確にしておく。それはつぎの3点にまとめることができる。

1.本論文の第一の貢献は、離散的選択モデルの分野で選好の経時的変化に対して科学的、実証的なアプローチを取ろうというときに必要とされるモデル構造の大外の枠組みを整理し体系化したことである。具体的には、1段階モデル対多段階モデル、最適化対満足化、同質モデル対異質モデル、静態モデル対動態モデル、といった重要な諸側面を識別し、一つのメタモデルとして統合したことである。これにより、本論分の個別の研究でも示されているように、きわめて限定的な状況で断片的にしかなされてこなかった従来の実証研究の妥当性と説得力が飛躍的に増大することが期待できる。

2.第2の貢献は1で規定されたメタモデルの推定法を新たに開発したことである。最適化と満足化を含む2段階モデルを、潜在クラス的異質性を入れながら同時に推定する方法論は、従来の潜在クラスロジット分析の単なる拡張という域をはるかに越えて複雑で困難なものである。それを遺伝アルゴリズムと潜在クラスロジットのEMアルゴリズムを組み合わせることで可能にした点はその独創性と有効性から非常に高く評価できる。これが用意されたことにより選好の変化の研究は単なる概念論の世界から実証の世界に入ったといっても過言ではない。

3.最後の貢献は三つの実証研究から得られた知見の数々である。その多くは1回の研究の結果に過ぎないものなので過度に一般化するのは危険であるがいくつか興味深い知見が得られている。最も重要かつ確実性の高いのは、選好が時間的に変化し、状況によっては「進化」するものであるという点である。また、選好の変化には知覚バイアスによる文脈効果があること、言語情報が選好の進化を阻害する可能性があること、等々は本研究ならではの結果であり高く評価できる。

 しかしながら、新しい野心的な取り組みであるがゆえに問題点がないわけではない。いくつかの重要な問題点が各委員から指摘されたがそれらを紹介する。

1.まず本論文の表題にもある「進化」についてその概念規定が曖昧である点が指摘される。単なる時間的変化と進化の違いが明確ではなく実証研究を見ても特に研究1では観測される変化を進化と呼ぶには無理がある。この領域における進化の概念をモデル構造のレベルにも反映できるように明確に規定しておく必要がある。

2.貢献の1でも指摘したように選好の時間的変化を扱うに十分なメタモデルを開発したのは十分に評価できるが、3つの研究すべてにおいて異時点のデータに静態モデルを適用するという方法を用いている。この点は大いに不満の残るところである。フレクシブルな動態モデルの開発が求められるところであるが、それは進化の概念の明確化と裏表の関係にある。また動態化したときの推定法の開発も更なる困難が予想される。しかしながら選好の進化に関する先端的研究としては動態モデルの開発は必須の要件のように思えるのだが、そこまで求めるのは望みすぎであろうか。

3.3つの個別の研究が比較的独立に存在して、有機的に統合された強い結論を導き出すにいたっていないという点も何人かの委員から指摘された。選好の進化という未開発な大きな領域にとにかく三つの異なる角度から切り込んだと考えると、今後の研究の蓄積により、より統合的な成果が上がることを期待したい

 以上の課題のほかに、各個別研究の内部で細かな技術的な問題点が散見されるが、そのどれも全体の結果を左右するものではないので個々で一つ一つ指摘するのは控える。

 最後に結論として、本論文は指摘されたようないくつかの問題点を含んでいるものの、その野心的な実証研究の先進性、重要性、適切性とその裏で開発された方法論の着実な成果は高く評価できる。以上から本審査委員会は全員一致で水野誠氏が経済学博士号を授与されるのに適格であると判断した。

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