学位論文要旨



No 117758
著者(漢字) 鄭,仁盛
著者(英字)
著者(カナ) チョン,インソン
標題(和) 楽浪文化の考古学的研究
標題(洋)
報告番号 117758
報告番号 甲17758
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第394号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 後藤,直
 東京大学 教授 今村,啓爾
 東京大学 助教授 大貫,静夫
 東洋文庫 研究員 田村,晃一
 東京国立博物館 課長 谷,豊信
内容要旨 要旨を表示する

 楽浪郡は前漢の武帝が古朝鮮を滅ぼし紀元前108年に設置した漢四郡の一つで、高句麗によって駆逐される紀元後313年まで存続する。

 楽浪郡の設置は漢帝国にとっては古朝鮮と周辺東夷諸国の統制のための拠点としての意味があるが、東夷諸国にとっては漢帝国を中心とする国際舞台に本格的にその姿を現わす契機にもなった。したがって楽浪郡の様態とその文化は、並行期の韓半島と日本列島の文化変動や歴史展開を再構成する上では欠かせない研究対象の一つになる。このような歴史的経緯から楽浪郡とその文化に関しては、戦前には日本人研究者の主導のもとで、その後は北朝鮮研究者たちが加わり多くの研究が行われた。楽浪郡の位置、楽浪古墳の編年、楽浪郡の種族構成、周辺民族への文化伝播などに関して多くの研究とそれに伴う成果が得られた。

 しかしながらこのような研究は楽浪郡の個別文化要素に関する基礎研究が土台になっていないため、根本的な限界を抱えているとも言えよう。

 本論文は楽浪郡の個別文化要素に関する研究の重要性を考慮し、その手始めの作業として楽浪土器と青銅器の性格把握を基本目的とするが、それを土台に楽浪郡の位置問題の解明や、楽浪郡と三韓社会の交渉関係の変遷を明らかにすることも目的としている。

 序論に続く第2章は楽浪土器の性格解明を中心課題とし、全体を九節に分けて可能な限り多くの器種の検討を試みた。とくに第2節では楽浪土器に対する胎土分析にもとづき、楽浪土器の1次分類基準として三種類すなわち<泥質系土器>・<石英混入系土器>・<滑石混入土器>を提示した。さらに第3節から第7節では、各種類それぞれの代表的な器種を中心にその形態・製作技法の特徴を明らかにした。検討対象となった器種は泥質系土器群では<円筒形土器類>・<高杯形土器類>・<叩キ文短頚壷類>・<盆形土器類>・<碗形土器類>、また石英混入系土器は<甕形土器>、そして滑石混入系土器は<深鉢形土器>である。泥質系土器類はその殆んどが粘土紐積み上げに叩きを加えて円筒状の基本形を作りさらに形を変えていく方法をとっている。基本形製作までは瓦の成形と同じであり両者が同一工人による製作であることが明らかになった。石英混入系土器は円筒状の基本形を作らない器種で、滑石混入系土器の深鉢形土器は形起こしに叩きを加える成形であることが明らかになった。

 第8節ではこれらの土器類の成・整形技法に関する解釈を、土器の製作復元実験を通じて検証する。そして第9節では楽浪郡並行期の遼東地域の土器、なかでも遼陽漢墓・牧羊城出土土器を中心に楽浪土器との比較を行い、形態・製作技法の面での類似と相異を検討した。その結果、遼東地方の土器作りにはない回転ヘラケズリによる底部の仕上げ、水挽き成形などが存在していた可能性などを明らかにした。

 第3章では楽浪青銅器を検討する。第1節では出土遺物の検討を土台に楽浪土城内で様々な青銅器の作られたこと、そして青銅器製作工房の位置を確認した。さらに第2節では楽浪青銅器のうちいわゆる「漢式青銅器」の一つである青銅鏃について、形態や製作技法の特徴をこまかく検討した。さらにその結果を土台に、「漢式青銅器」が楽浪郡で自作された可能性があることを明らかにした。

 第4章では2・3章で得られた楽浪文化に関する基礎的認識を土台に、楽浪郡の位置問題をめぐる論争に対しての考古学的検証を試みた。楽浪郡の位置を確認する方法としたのは、韓半島の中南部地域や対馬、壱岐を含む日本の北部九州から出土する、いわゆる「漢式土器」の製作地を明らかにすることであった。これは文献から読み取れる楽浪郡の位置は平壌地域にも中国遼寧地方にも比定しうるが、東夷諸国と中国との交渉関係を記録した多くの文献がその交渉窓口として一様に楽浪郡を記録しており、その裏附けとなる遺物に着目したためである。

 このような仮説をもとに日本と韓国で出土する漢式土器の中から代表的な器種を選び、平壌地方の土器と遼東地方の土器と各々比較検討を行った。その結果、漢式土器の殆んどが今の平壌周辺でつくられた後、韓半島南部と日本列島まで舶載されたことが分かった。もちろん中には中国の遼東地方で作られた土器も含まれているが、ごく一部に過ぎない。このような事実は楽浪郡が今の平壌堆方に置かれていたことを考古学的に明らかにしている。

 さらに第4章では、三韓地域出土楽浪関連遺物を大きく四段階に分け、楽浪郡と三韓地域との交渉関係の変遷を追ってみた。

 第一段階は楽浪郡が置かれる前の中国、あるいは衛満朝鮮との交渉が主に行われた時期でその中心は馬韓地域である。

 第二段階は楽浪郡が置かれてから弁辰韓地域に大形の木槨墓が現れるまでの時期で、大きく前漢鏡を主体とする前半と後漢鏡がもたらされる後半に分けて説明することができる。

 第二段階の前半は郡県との交渉関係で弁辰韓地域が突如中心となる時期である。すなわち洛東江流域圏を中心として楽浪郡を通じて手にいれた品物、またはこのような品物を模して現地で作ったものが急増する。その反面、前の段階まで衛満朝鮮及び対中国交渉の中心であった馬韓地域では楽浪郡と関係する遺物の出土例が殆んどない。これは楽浪郡が置かれた後、対中国交渉の中心軸が馬韓から弁辰韓地域へ移ったことを示している。また三韓社会内の対中国(楽浪郡)交渉の中心が弁辰韓社会へと移った背景には弁辰韓の諸集団の交渉意志もあったと思われるが、楽浪郡と地理的に近い馬韓勢力の成長が望ましくない郡県側の政治戦略が大きく働いた可能性もある。

 弁辰韓社会と楽浪郡の交渉関係が始まった時期に関しては、紀元前1世紀後半からとする意見が多いが、紀元前1世紀の前半まで遡る可能性が高い。

 この時期の主な交易品には漢鏡、蓋弓帽、馬面、帯鈎、笠形銅器、銅鏃などがある。それに加え半両銭や五鉄銖などの貨幣もこの時期の主要な交易品の一つであった。第二段階前半の交易路については、慶北地域に前漢鏡が集中する傾向を根拠に陸路を想定する研究者もいるが、錦江流域圏や漢江流域圏の場合は楽浪郡との交渉を示唆する資料が一切ないことを参考にするとその可能性は低い。この時期は西南海岸に沿って漢あるいは楽浪関係の遺物の分布が集中しており楽浪との中心交易路は西南海岸をつなぐ海路だったに違いない。

 この時期洛東江流域圏の対外交易網は大きく上(北)・下(南)に分かれていたようである。その一つが金海を関門として洛東江下流域の諸集団をつなぐもので、もう一つはおおむね尚州⇔大邸⇔永川⇔慶州⇔蔚山をつなぎ洛東江の中上流域の諸集団を結ぶ網である。この時期に上下に分かれていたこのような交易網が、後に弁韓と辰韓社会を分化させる重要な原因の一つだと考えている。

 第二段階前半の楽浪郡との交渉形態は朝貢貿易が中心であった可能性が高い。それはこの時期の楽浪郡からの舶載品の多くが威信財と思われる青銅器類が多いのに対して、弁韓地域を含む周辺の諸東夷地域から楽浪土器の出土例が少ないことからも裏づけられる。勿論この時期に属する勒島遺跡出土の楽浪土器から推定できるように、部分的には楽浪商人による私貿易が同時に行われていたようである。

 楽浪郡からの品物を内陸の諸集団まで運ぶシステムの主体は明らかではない。しかしこの時期の楽浪商人の活動を示す楽浪土器や弥生人の活動を示す弥生土器が勒島や金海貝塚などの海岸地域からのみ確認されることをみると、楽浪・弥生人が自ら洛東江流域圏内の交易網を通じて内陸の集団と直接接触していた可能性は低い。これとは対照的に楽浪青銅器や日本列島から輸入した青銅器は内陸の尚州や大邱地域まで運ばれたことを参考にすれば、この時期遠距離からの交易品を内陸の弁辰韓の諸小国まで運ぶ主体は洛東江流域圏内部の集団やその組織だったに違いない。

 第二段階後半の楽浪郡からの交易品は後漢鏡をはじめ、良洞里や下垈から出土した青銅鼎が代表的である。また舎羅里130号の鉄〓、会〓里貝塚の貨泉などもこの時期の交易品であろう。すなわちこの段階の一番の特徴は、楽浪郡からの交易品の種類と量が極端に少なくなることである。これは前段階にもたらされていた漢式遺物が既に弁辰韓社会に選択収容されたり、または変容段階を経て在地化されることにより、弁辰韓社会内での漢式遺物の持つ威信財としての価値が急激に低くなったことに原因がある。また前段階まで楽浪郡からの舶載品が中心的に分布していた慶北地域にかわって洛東江の下流域、特に金海地域を中心としてその分布が集中することになる。これは第二段階の後半からは洛東江下流域で、後の金官伽〓の母体となる金海地域集団が楽浪郡との対外交渉で主導権を握り始めた可能性を示している。この時期の交易形態は出土した漢鏡や銅鼎などからみて前段階と同じく朝貢貿易が中心であったと思われるが、勒島遺跡出土の楽浪土器からみて楽浪商人も弁韓地域まで進出していたものと思われる。最近江原道地域から出土する楽浪土器を参考にすると第二段階後半の終末には東海岸を利用する交易路が新しく開設されていた可能性が高い。

 第三段階は製品として輸入された楽浪関連の遺物が少ないことが特徴であるが、金海を中心に出土する銅(鉄)〓はこの時期の代表的な楽浪からの交易品である。これらの遺物の場合これまでは北方民族との関連から理解しようとする傾向があったが、虎形帯鈎や双鳥式剣把頭飾の例では、楽浪郡に1次的に受容されてある程度型式変化を経てから再び弁辰韓社会に移入されていることを参考にすると、これらの金属製容器も楽浪郡を経由して手にいれられた可能性が高い。

 この段階の交渉形態は前段階と変って私貿易が中心となる。これは楽浪郡からの威信財の輸入が少ない反面、北九州や対馬、壱岐を中心にして楽浪土器の出土が大幅に増えることから裏づけられる。

 またこの時期には遼東地方で製作された土器が日本列島まで入っている。これらの土器は管見の限りでは大体後漢代の新しい時期に該当するものであり、2世紀後半から3世期前半まで遼東地方で一時期独立した公孫氏勢力との交易関係を示唆する。

 またこの第三段階に属する楽浪土器が壱岐や対馬などを中心に出土することから、この段階も相変わらず海路中心の交易が主体だったようである。そしてこの時期は慶北内陸と馬韓地域をつなぐ交易路も開通していた。これはこの時期、両地域から出土する馬形帯鈎から読み取れる型式的類似性や小白山脈を越えて広がる弁辰韓地域特有の瓦質土器の存在から推定できる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、紀元前108年に設置された漢の楽浪郡郡治とされる土城址(楽浪土城、平壌市楽浪区域所在)の出土遺物と発掘記録(1935・37年考古学研究室調査・保管)にもとづき、楽浪土器の特質、青銅器の分析による土城の性格および楽浪郡と朝鮮半島南部三韓(馬韓・弁韓・辰韓)地域との交渉を論ずるものである。

 楽浪郡の考古学的研究は、これまでは古墳と副葬遺物の研究が主流で、土城址出土資料については土器以外の研究は進んでいない。また楽浪郡と交渉した三韓地域・北部九州地域では楽浪製や楽浪系とみられる土器の出土が増えているが、その認定基準は必ずしも明確ではなく、交渉史研究の隘路となっていた。

 本論文の特徴は、土城址出土品の徹底した観察によって製作技法を復元し、隣接地域の同種遺物との差異を明らかにして、楽浪遺物の特質を明快に説明している点にある。

 土器については詳細な観察から製作工程・技法を復元し、瓦製作技法と共通点のあることを明らかにし、復元案を陶芸家の協力による製作実験で検証する。さらに考古学研究室所蔵の中国遼寧省出土漢代土器や、楽浪土器の製作技法を受けついだ三韓地域の瓦質土器と比較して、類似性の背後にある製作工程・技法の差異を摘出し、楽浪土器の特質を浮き彫りにする。工程・技法復元の記述は詳細をきわめ、また多数の図面によって容易に理解できるよう工夫されている。

 青銅器については微細な青銅塊の成因、鋳型破片の特徴、鋸鏃の製作技法を分析した上で、発掘時の記録からそれらの出土位置を推定して、土城の一角には青銅器製作工房が存在しそこではガラス玉をも製作していたことを明らかにする。

 最後に、漠然としていた三韓社会と楽浪郡の交渉・交易の変遷を、三韓地域出土の各種楽浪系遺物の変化から4段階にわけ、各種交易品の種類と量、交易の形態とルートの推移が三韓社会内部の動向や楽浪郡の盛衰と緊密に対応していたことを論証する。

 本論文の最大の成果は楽浪土器の実態をほぼ完全に解明したことである。これによって三韓地域・北部九州出土の楽浪土器とひとくくりにされてきた土器を、平壌地域で製作された土器と少数の在地模倣土器とに区分する基準が得られ、ひいては楽浪郡所在地の平壌説・中国遼寧説に対する土器からの新たな視点を導入できることとなった。さらに政治的中心である楽浪土城が土器・瓦・青銅器などの生産地でもあったことを明らかにした点と、三韓地域と楽浪郡の交渉を段階ごとに考察した点も、楽浪郡の性格だけでなく三韓地域と日本列島の対楽浪郡交渉を研究する上で確かな基礎を提供したといえる。

 このように本論文は、楽浪土器の編年が完全に詰められていない点や、三韓地域と楽浪郡との交渉形態の考察に不十分な点があるとはいえ、楽浪郡研究の新たな出発点となる。

 よって審査委員会は一致して、本論文が博士(文学)の学位を授与するにふさわしいものと判定する。

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