学位論文要旨



No 117759
著者(漢字) 朴,倍暎
著者(英字)
著者(カナ) パク,ベエヨン
標題(和) 伊藤仁斎の『中庸発揮』における「人倫」の基礎づけ
標題(洋)
報告番号 117759
報告番号 甲17759
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第395号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 竹内,整一
 東京大学 助教授 菅野,覚明
 東京大学 助教授 熊野,純彦
 東京大学 教授 黒住,真
 三重大学 助教授 遠山,敦
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、伊藤仁斎の『中庸発揮』をめぐって、彼の「人倫」論がどのように基礎づけられ、また何をめざしていたかを考察するものである。

 仁斎の「人倫」に関する理論を考察するに当たって、本論文において提示した問は、仁斎において、「人間にとって人倫とは必然的な事柄」なのか、そして彼にとって、人間における人倫が必然的な事柄だとすれば、それは如何なる意味における必然なのか、というものである。

 仁斎において「人間における人倫」が必然的な事柄になるための「路」は、彼の「道」に関する理解から把握できる。仁斎における「道」とは、端的にいって「人道」である。彼における「人道」は、朱子学が「性即理」によって基礎づけた「理」の意味としての「道」とは異なり、徹底的に「仁義」によって説明される事柄である。ここから、仁斎における「人倫」「道」「仁義」の間の関係が明らかになる。

 仁斎における「人倫」は、まず手段的な意味として、「あるべきありよう」ないし「正しい人間関係」を意味する、いわば行為的連関として捉えられる。その際、「道」とは「人倫」によって現される「人倫」の実在として捉えられ、「仁義」とは「人倫」が実践において由らなければならない事柄として捉えられた。

 以上の「人倫」「道」「仁義」の間の関係から、仁斎における形而上学的な思考をうかがうことができる。仁斎における形而上学的思考は、「理」を全面に出す朱子学の自然形而上学とは全く異なる。「人倫」「道」「仁義」の関係から把握できる彼の形而上学的な思考から、彼における「人倫」の在り方は、偶然でありながら必然であるものとして捉えられた。

 「人倫」が偶然かつ必然という形で押さえられると、実際「人倫」に関わるものとしての「人間」、つまり「誠にするもの」が、「人倫」との関わりのなかで、如何なる位置づけをもちうるかという問題が浮上してくる。

 本論文においては、「人倫」とは「人為」「作為」の問題であり、その「人為」「作為」の問題は「教」によって具体化されるものであると考えられた。つまり、「人間」には「教」の問題が課せられることになるのである。また、その「教」は「知る」という行為によって捉え直される。

 「教」の問題は「性」に関わる事柄であり、その「教」と「性」との関わりから、仁斎には「変化」の肯定という認識があると考えられた。そして、その「変化」の問題は、儒教における「人倫」の実際の現れ場として想定される「歴史的現実態」としての「政」の段階につながってゆく。それは、仁斎が「政」の段階において、「徳」「位」「時」、ことに「時」という概念を挙げて『中庸』の「三重」を解したことに関わるものである。

 さらに、彼における「政」は一人一人が「人倫」を為す場所であるという認識から、「政」の主体は「誠にするもの」であると考えられた。それは、「民本主義」という儒教(とくに孟子)の基本的な考え方に基づくものであるが、さらに仁斎は「人倫」とは「聖人ならざる人間」の徹底的な「人為」「作為」によるものとして捉える考え方から、仁斎における民本主義は伝統的な水準を超えて、いわば「道徳的民主主義」にまで至る可能性をもつものと考えられるのである。

 以上、仁斎の「人倫」における考察から、彼の「人倫」は、究極的に「歴史的現実態」としての「政」に辿り着き、その「人倫」を実現する主体である「歴史的現実態」としての個別の人間を明確に捉えるに至って、その意義が確保されたと考えるのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、江戸時代の儒学者伊藤仁斎の思想、特にその『中庸』解釈をめぐる所論を手がかりに、儒教における「人倫」概念の基礎づけがいかになされ、またそれがいかなる今日的意味を持ちうるかについて考察を加えたものである。

 論者朴倍暎君の研究関心は、東アジア儒教が人間論・社会論としていかなる今日的可能性を持ちうるかを探究することにある。同君が特に注目するのは、人間社会の秩序的全体を言い表す「人倫」概念が、いかに基礎づけられてきたかという点である。

 東アジアの儒教社会において、人は「人倫」を実現すべきであるという命題は長らく自明のこととみなされ、この命題自体がなぜ正当なものであるのかという問いは、自覚的に問われることが少なかった。人倫の実現が人間にとって本来的な事柄であるということを本格的に基礎づけたのは、朱子学と呼ばれる儒学思想である。朱子学は、形而上の「理」によって人倫を基礎づける。しかし、自然と人間社会を連続的に捉える朱子学の見方は、人間社会それ自体の内に秩序の根拠を見出そうとする近代的な人間観・社会観とは、根本的に相容れないものである。そこで朴君が注目するのは、朱子学を批判しつつ独自の人倫思想を展開した伊藤仁斎の思想である。そして、仁斎思想の内に儒教的人倫と今日的な世界観とを媒介するものを見出そうとする。

 朱子学の人倫論は、『中庸』の有名な「性・道・教」テーゼの解釈に根拠をおいている。朴君は、このテーゼをめぐる仁斎の思索を精緻に読み解きつつ、仁斎がいかにして「人間」の内に人倫の根拠を発見していったかを三つの段階に分けて明らかにする。第一に、「性」を「理」であると捉える朱子学の基本命題に反対し、仁斎があくまでも、現に生じてある人のあるがまま(已発)を以て「性」と捉え、そこをすべての議論の出発点としていること。第二に、道の本体と、道を実現する人間の行為的連関とのレベル差を明確にし、人倫を、人間の作為・人為の全体において現れるものと捉えること。そして第三に、したがって人倫とは、歴史的・個別的主体の自己実現の全体であり、「歴史的現実態」としての「政」の場面で明確になること、を明らかにしている。

 以上、本論文は、人倫の基礎づけ論を儒教本来の民本主義的方向において展開する可能性を仁斎思想の中に見出したものである。特に、作為・人為の根拠を「性」をめぐる形而上学的思索の内に位置付けた点は、仁斎論として高く評価出来る。一方で、『中庸発揮』以外の仁斎の諸著作に関しては論じ残されている点もあり、特に仁斎の実践論と人倫論との具体的関係についての考察は、今後の課題である。とはいえ、仁斎思想の解釈において、新しい視点からの読みを提起し、首尾一貫した論証を示した点は十分評価に値する。

 以上により、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するに値するものと判定する。

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