学位論文要旨



No 117764
著者(漢字) 岡本,和子
著者(英字)
著者(カナ) オカモト,カズコ
標題(和) ヴァルター・ベンヤミンにおける芸術形式の理論 : 芸術作品はなぜ現存する必然性をもつのか
標題(洋)
報告番号 117764
報告番号 甲17764
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第400号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 浅井,健二郎
 東京大学 教授 平野,嘉彦
 東京大学 教授 松浦,純
 東京大学 助教授 藤井,啓司
 一橋大学 助教授 久保,哲司
内容要旨 要旨を表示する

 ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)の批評作品の大半は、芸術作品をその対象としている。なぜなら彼にとって、芸術作品は現存する必然性をもつものであり、この必然性を証明することが批評の課題であるからだ。本論文の目的は、ベンヤミンがどのようにして芸術作品が現存する必然性を根拠づけているのかを明らかにすることである。本論文は二部構成をとっており、総論にあたる<第一部>では、ベンヤミンにおける芸術作品をめぐる概念体系が明らかにされ、各論にあたる<第二部>では、<あらゆる芸術形式は芸術作品が現存する必然性を証し立てている>という命題のもとに、ベンヤミンが論じている芸術形式のうち、三つの芸術形式-物語、バロック悲劇、ロマーン(長編小説)-が個別に検討される。なお、本論文において問題とする芸術は、文学である。

<第一部>言語・芸術作品・批評

 <言語としての芸術作品>という見方が、ベンヤミンの批評の根本的な指針となっている。ベンヤミンが芸術作品を言語として捉えていた、ということは、彼においては言語と芸術作品が同一の構造をもつ、ということによって立証される。

 ベンヤミンによれば、言語には「伝達可能なものの伝達」と「伝達不可能なものの象徴」という二つの機能があり、この二つの機能が一体化した「表現における伝達」は、言語の原型を呈示している。二つの機能の完全な一体性は、堕罪以前の「楽園言語」においてのみ認められるものであって、歴史内の言語においては両者は分裂している。楽園における人間は、神によって事物に与えられた「名」を呼ぶことによって、自己の精神的本質を神に伝達していた。人間の音声は、神の言葉との直接的な結びつきのしるしであり、伝達不可能なものを「象徴」として語り出すものであった。しかし、堕罪における善悪の認識、すなわち神が創造しなかった「悪」の認識を契機に、人間の言語は神の言葉との直接的な関わりを失い、伝達と表現(象徴)の一体性も失われた。その結果、伝達には世俗的な意味伝達としての役割が、象徴(表現)には神的なものとの結びつきのしるしとしての役割が割り当てられた。歴史内の言語においては、世俗的な伝達の側面だけが知覚可能となっていて、神的なものとの結びつきである象徴(表現)としての側面は隠れている。しかしベンヤミンは、堕罪後の歴史空間においても、言語こそが人間が神的な世界へとつながる媒質であると考え、この意味で、芸術作品を言語と呼ぶ。

 また、ベンヤミンにおける芸術作品の概念には、批評が不可欠のものとして含まれている。このことは、彼がロマン主義の芸術理論から引き出した、作品の自己認識としての「批評」、すなわち「反省」の構造が、彼の考える言語の原型の構造と一致する、ということによって裏づけられる。堕罪後の不完全な言語としての芸術作品は、自己反省(批評)によって高まり、言語の原型のもつ完全さを目指す。

 伝達と表現(象徴)という言語の二つの機能は、芸術作品における「象徴形姿」(象徴するもの)および「象徴内実」(象徴されるもの)に対応している。しかし、歴史内存在としての芸術作品においては、象徴形姿だけが知覚可能となっている。そこで、「現われ」としては分裂している象徴形姿と象徴内実の、その隠れた結びつき、すなわち作品のもつ「象徴関係」を明らかにすることが、批評の課題となる。それはつまり、象徴形姿を、直接的には知覚不可能な象徴内実へと変換することである。しかし、象徴内実そのものを言語的に定式化することは不可能であるため-もしそれが可能であれば芸術作品は現存する必然性を失うことになる-、ベンヤミンの批評は、具体的には、象徴形姿を構成する作家の「叙述」の分析を通して、その作品に打ち出されている「芸術形式」-象徴形姿と象徴内実の関係-を根拠づけることを目指すものとなる。つまり、ベンヤミンが芸術作品を言語として捉えて批評を展開する際に最も鮮やかに浮かび上がるのは、作品における「形式」としての側面である。なお、象徴形姿と象徴内実は、作品の事象内実(作品における諸事象の連関)と真理内実(作品のなかに要請されている真理)に相当する。

 ベンヤミンの批評においてはしばしば、批評対象となる近代の作品が古代ギリシアの作品(とりわけギリシア悲劇)との対比において考察される。近代も古代ギリシアもともに、「神話的なもの」(二義性、つまり真理という一義性の欠如、として現われる)の経験という、作品が成立する基盤をもっている。しかし、古代ギリシアが神話的なものの終焉という経験をもつのに対し、近代の経験は神話的なものに囚われている。この経験の相違は、それぞれの作品の事象内実に刻印されている。すなわち、ギリシア悲劇においては、英雄による神話的世界の打破という事象内実が、直接的に真理の世界を指し示しているのに対し、近代の作品の事象内実は神話的世界に対する敗北であって、事象内実それ自体が真理内実との結びつきを明白にしているわけではない。しかしだからこそ、近代の作品は批評を必要としている。

 ギリシア悲劇において顕わになっている象徴関係は、英雄の生という、事象内実としての生がもつ象徴関係である。しかし、ベンヤミンは芸術作品自体も生をもつと考えており、彼の批評が最終的に目指すのは、芸術作品という生のもつ象徴関係を明らかにすることである。つまり批評は、芸術作品そのものを象徴形姿と見なし、それに対応する象徴内実を求めるのだ。

<第二部>芸術作品の形式

 ベンヤミンは、芸術形式の機能を、事象内実を真理内実へと変換すること、と定義している。しかし、どの芸術形式も同じやり方でその変換をなすわけではない。その違いを示すのが、各々の芸術形式に固有の「表現形式」である。<第二部>では、「物語」と「口承伝達」、「バロック悲劇」と「アレゴリー」、「ロマーン」と「象徴」という三つの例に即して、芸術形式と表現形式の必然的な対応関係が明らかにされ、さらに、それぞれの芸術形式が、いかなる点において芸術作品が現存する必然性を保証しているのかが解明される。

 「表現における伝達」という言語の原型は、ベンヤミンが芸術作品を考察する際の、根本的な枠組みを成している。ある芸術形式が、言語の原型が呈示するような完全な伝達として捉えられるならば、その芸術形式は伝達形式をもっている、と言えるだろう。その例が、物語という芸術形式である。物語という言語が、言語の原型である「表現における伝達」に非常に近しいということは、物語における伝達が口承伝達であるということと、伝達対象が語り手みずからの生であるということから導かれる。つまり、楽園言語のもつ、音声という表現および自己伝達という特性が、物語における伝達にも認められるのである。しかし他方、物語における伝達は、語り手の声と身振りに支えられた伝達であり、さらに、聞き手がみずから聞いた物語を語り手として語り継ぐ、という時間的反復の原理に依拠している。楽園言語においては問題とならない身体および時間という要素が、物語の伝達形式を決定づけているのだ。物語は、繰り返し語り継がれることを通じてみずからのうちに時間を含み、それによって、歴史内においては分裂している伝達と表現を、時間的に一体化する。この伝達と表現の時間的一体性を通じて、物語という芸術形式は、個々の物語作品に真なる世界との結びつきが存在することを証明している。

 しかし、ある芸術形式が完全な伝達と見なされるのはまれで、世俗的な意味伝達としての側面のみを顕わにしている芸術作品においては、批評が、伝達と結びついているはずの表現形式の存在を明らかにしなければならない。ベンヤミンにおける表現形式とは、批評がはじめて明らかにするものであり、作家の叙述を規定する詩的技術とは厳密に区別される。バロック悲劇に関して、ベンヤミンはまず、バロックの作家が歴史的時間を叙述する技術を「時間性の空間化」として取り出す。この技術に基づいて叙述された歴史的時間は、差異をもたない反復として作品のなかに呈示されている。この反復は「すべて同一なるものの永劫回帰」と定義される神話的世界の秩序と同じ見かけをもっているのだが、ベンヤミンは、バロック悲劇における反復という原理を、叙述レヴェルから個別作品を超えたレヴェルに高めて考察する。そして、叙述レヴェルにおける永劫回帰としての反復を、神的な救済を志向する、高次に向かう反復へと読み替える。救済への志向をもつ反復をなすものが、ベンヤミンがバロック悲劇に固有のものとして見出した、アレゴリーという表現形式である。

 ロマーンについては、本論文は、ベンヤミン唯一の包括的な作品論であるゲーテの「親和力」に即して論を進める。ベンヤミンは、ゲーテの叙述を規定する「死の象徴表現」という技術のうちに隠されてある「生の象徴」という表現形式を明るみに出す。その論述の要をなしているのが「星の象徴」である。ここで象徴形姿と見なされる「降る星」は、希望が住む「家」とされる。すなわちベンヤミンは、ゲーテの叙述レヴェルにおいては死を意味する「家」のモティーフのなかに「誕生の家」という意味を読み込み、降る星を「希望の家」の象徴として捉えるのである。さらにベンヤミンは、作品そのものを「存える星」という象徴形姿と見なし、これもまた「希望の家」であるとする。前者の「降る星」が、登場人物のために願われる「再誕生」の希望の家であるのに対して、後者の「存える星」は、この再誕生の希望を通じて地上的存在としての人間が抱く「永遠なる生における救済」への希望の家である。

 これらの伝達形式および表現形式は、芸術作品に救済への希望が宿っていることを証し立てている。ベンヤミンの批評は、作品を、真なる世界との象徴関係に解き放つことによって象徴形姿となし、作品の即自的完結性を破壊する。これによって作品は、救済への希望という「秘儀(秘密の知)」が住まう家として完成する。しかしさらに、批評が<芸術作品とは言語にほかならない>ということを証明することによって、作品は真理の住む家ともなる。なぜなら、真理は言語にこそ住まう、とベンヤミンは考えているからだ。作品のなかに真理を要請する批評が、作品を言語として把握しょうとするのは、当然のことだったのだ。つまり救済への希望とは、神話的二義性からの解放への希望、真理の要請なのだ。ベンヤミンの批評は、知の住まう家を建て、そしてその家こそが真理の住まう家でもありうることを指し示す。この二つの家が重なるところ、それが現存する必然性をもった「真の芸術作品」である。

審査要旨 要旨を表示する

 ヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin, 1892-1940)は、今日、多方面にわたって大きな影響を与えているドイツの批評家であるが、本論文は、<ベンヤミンの芸術批評思想の核心は芸術形式の理論にある>との基本的認識に立って、ベンヤミンの芸術作品をめぐる概念体系を明らかにしたうえで、彼の芸術形式の理論を解明しつつ、彼が「芸術作品は現存する必然性をもっている」という根本テーゼをどのように根拠づけているかを叙述したものである。

 本論文は、「序」、本文二部、「結び」から成っている。論者は、まず「序」で立論を提示したのち、「第一部:言語・芸術作品・批評」において、主として『言語一般および人間の言語について』、『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』に基づき、ベンヤミンの芸術批評思想の根底をなす「言語」、「芸術作品」、「形式」、「批評」の概念を綿密に分析するとともに、それらの概念によって構成される連関を明らかにする。次いで、「第二部:芸術作品の形式」は、『物語作者』、『ドイツ悲劇の根源』、『ゲーテの「親和力」』を論述対象として、「物語」、「バロック悲劇」、「ロマーン(長篇小説)」という芸術形式が、それぞれ、ベンヤミンの概念体系のなかでどのように「口承伝達」、「アレゴリー」、「象徴」という表現形式と結びつくことになるのかを克明に跡付け、それらの結びつきがそれぞれに「芸術作品が現存する必然性」を根拠づけるものとなっていることを説得的に論証してゆく。そして「結び」で論者は、ベンヤミンの批評が、「秘密の知」の住まう家としての芸術作品が「真理」の住まう家でもありうることを指し示すものであると述べ、「この二つの家が重なるところ、それが現存する必然性をもった<真の芸術作品>である」と締め括る。

 本論文は構えが大きく、しかも分析と論証は緻密で、叙述も明晰である。先行研究も厳密に吟味されている。そのうえで本論文は、ベンヤミン研究に多くの新たな知見をもたらすとともに、従来のベンヤミン研究においては個別的に論じられることの多かった論点をも見事に関係づけ、ベンヤミンの芸術および芸術批評の理論をその本質に即して解明することに成功している。ベンヤミンが論じている他の芸術形式(抒情詩、エッセイ、叙事演劇、複製芸術など)は本論文の枠組みのなかでどう扱いうるか、という点が今後の課題として残されているが、しかしこのことは、本論文が第一級のベンヤミン論であるという評価を損なうものではない。

 以上により、本審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に値するものと判断する。

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