学位論文要旨



No 117765
著者(漢字) 李,相蘭
著者(英字)
著者(カナ) イ,サンラン
標題(和) 韓国における青年期無気力傾向に関する研究 : 日本との比較を通して
標題(洋)
報告番号 117765
報告番号 甲17765
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第90号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 下山,晴彦
 東京大学 教授 南風原,朝和
 東京大学 教授 汐見,稔幸
 東京大学 教授 苅谷,剛彦
 東京大学 助教授 恒吉,僚子
内容要旨 要旨を表示する

1.問題と目的

 最近韓国では、中学校と高校における授業場面を中心とする意欲低下が増加しつつあり、社会的な注目を集めている。本研究は、韓国の青年に見られるこのような意欲低下が具体的にどのような要因と関連し、どのようなプロセスで生成されるのか、その実態を実証的に検討していくことを目的とする。

 本研究では、すでに表に問題行動が表われている病理群ではなく、一般の青年を対象にし、その青年が抱いている潜在的な意欲低下に焦点をあわせる。つまり本研究は、韓国の一般青年のうち、問題行動を引き起こさずに我慢しながら生活している意欲低下の潜在群を対象にし、それによって、行動化の予防策を探るという教育的な側面を注目する。韓国の青年が示す意欲低下を検討するための概念枠組みとして、日本社会における青年期'アパシー傾向'を参考にした。しかし、'アパシー傾向'は日本の大学生の意欲低下に限定された用語であるので、本研究では高校生を含む幅広い意欲低下を示す用語として'無気力傾向'という概念を取り上げて扱うことにした。

 したがって、本研究における'無気力傾向'とは、'一般青年のうち、中途退学や退却などを表に示さないものの、内面的にその症状を潜在的に抱き、意欲低下となっている状態'と定義される。

2.論文の構成と各章の内容

 本論文は、全5部8章にかけて段階的に研究結果を発展していく構成になっている。まず第1部第1章では、韓国社会における若者達の現状、および韓国における無気力研究の重要性について検討したうえで、本論文の目的と枠組みについて記述した。

 第2部において、第2章では、韓国の青年期無気力研究を行う前段階として、これまで日本および米国においておこなわれてきた青年期無気力傾向に関する論点を展望した。第3章では、韓国と日本の大学生を対象に無気力傾向に関する比較研究をおこなった。それを通して韓国の大学生が示す無気力傾向の実態を明らかにし、韓国の青年の無気力を研究する方向性を定めた。その結果、韓国の大学生における意欲低下は、日本のような青年期延期現象というより、動機づけの低下が主たるものであることが考えられた。そこには、受験競争を背景に生じる進学動機の意味づけの不明確さに伴うアイデンティティの混乱が見られた。最近韓国では、高校生を中心に中途退学者が増加しつつある。そのような状況も考慮するならば、高校生を対象とする無気力傾向の研究の重要性が示されるといえる。そこで、本研究では高校生を研究対象とすることを決定した。

 第3部では、第2部において示唆された内容を参照として高校生を対象に質的研究を行い、韓国の高校生における無気力傾向に関するモデル生成を試みた。そのために、まず第4章で、韓国の高校生を対象に無気力傾向に関する調査をおこない、典型的傾向を示すインフォーマントを選定した。なお、調査の際には、第6章以下のテーマとなる高校生の無気力傾向に関する因果モデルを量的に検討するために、無気力傾向の他に、進学動機の不明確性、進路未決定、自我同一性についてのデータもあわせて収集した。続いて第5章では、第4章の調査で選ばれたインフォーマントを対象に面接調査を行った。面接データは、質的な研究法であるグラウンデッド・セオリーを用いて分析し、韓国の高校生に見られる無気力傾向が生成されるプロセスに関する仮説を見出した。その結果、特に、男子高校生の無気力傾向がより複雑な様相を呈してしることが示された。彼らの自我イメージの中には親との共生関係が表われた。それは、韓国社会において男子、特に長男に与えられている扶養義務、親側の依存感や期待感の影響によるもののように考えられた。親の男児に対する期待感の現実的な表明は、成績プレッシャーとして表われており、親子間に心理的な葛藤を引起こす原因と考えられた。また、そこには、時代の変化と共に変わってきている若者達の価値観と、親の支配的で一方的は養育態度との間に存在する世代間のギャップが働いていることも考えられた。

 男子高校生は学校側の職業または進路に関する教育について満足しない状況であり、進路の拡散が明確な形で見られた。また進路の問題において、目標設定や目標へ向かって自分を統制するカが弱い点が特徴であった。親との関係性から生じる高いプレッシャーや自我イメージの混乱、および学校側の進路教育に対する不満は、進学動機の不明確性を引起こす要因として作用することが推測された。さらにそれが自らの欲求や要求を意識するのではなく、社会の視線などを意識した進学動機をもたらすということが推測された。不明確な進学動機は、学校生活にも大きく影響しており、集中力の低下となっていた。ひいては防衛的な友人関係パターンを特徴とする不安定な学校生活の原因となることが考えられた。最も、深刻なところは、性格に見られる萎縮であり、強迫行動および観念、現実回避傾向や空虚感が内面に存在していることが考えられた。無気力傾向の高い男子高校生におけるこのような性格面における萎縮は、無気力傾向と密接に関連する状態となってあらわれていることが考えられた。

 第4部は、韓国高校生の無気力傾向の特徴をさらに明確化することを目的とした。そのような目的のために、第6章では、韓国の高校生を対象として収集した量的なデータを用いて共分散構造分析による因果モデルに関する検討を行った。特に男子高校生の場合、競争的な受験文化を背景にする進学動機の不明確性が、進路未決定を介し、無気力傾向の下位変数である'自己不全感'を予測する変数であることが示された。さらに自我同一性の未確立の問題は、無気力傾向の下位変数である'消極・受動'を規定する要因であることが示された。第6章で得られた結果を参考に、第7章では、韓国と日本の高校生における無気力傾向に関する比較研究をおこなった。そこでは、自我同一性の未確立が、無気力傾向の下位変数である'自己不全感'を規定する影響力については、韓国の男子高校生の方がもっとも強いという結果が得られた。ただ、進学動機が進路未決定へ正の方向で影響している結果は、両国の男女とも高かった。すなわち、大学へ進学する動機が不明確であることが、進路決定を困難にさせる可能性は日本と韓国の男女高校生とも同様であることが考えられた。

 第5部の第8章では、以上の研究結果を総合的に考察し、韓国の青年に見られる無気力傾向について次のような結論が得られた。韓国の大学生の場合、大学へ進学する際にもつ動機の不明確性が大学生活に対する意欲低下に最も重要な要因として関わっていると考えられた。それは、韓国の青年期無気力傾向は、高校の時期にすでに存在することを示唆するものである。高校生の示す無気力傾向は、特に、男子高校生の方がより深刻であり、進学動機の不明確性の他に、進路が未決定なままである状態、自我同一性がまだ確立されていないことが関わっていると考えられた。進路問題や自我同一性など青年期発達課題が未確立となっている背後には、受験競争によって生じたストレスの高い学校生活のパターンが存在していることが考えられた。また、両親から与えられる成績プレッシャーおよび期待感、親の頑固な態度と若者の価値観との間に見られるギャップが、親子関係の葛藤を引き起こす要因となっていると考えられた。

 このような背景によって生じる無気力傾向を示す青年には、強迫傾向、回避・空虚感および対人関係における消極性など、性格における萎縮が見られた。

3.今後の課題

 本研究の第3部の質的研究の結果からは,韓国の青年における無気力傾向は、単に本人の内面的要因によって生じただけでなく、家庭、学校、および社会環境という生態学的なシステムによって生じるものとなっていることが考えられた。そして、青年が示す無気力傾向に対応する際には、家庭、学校および社会が協力して対応策を模索して行く必要が示唆されたといえる。このような生態学的なシステムについては、今後、量的研究において扱うことにする。なお、本研究で得られた結果は、今後、臨床場面においてより多い無気力傾向の高校生を対象に検討を重ねていくことも求められる。それによって、韓国社会の文化的な背景の中での特徴がさらに明確となり、韓国の青年における無気力問題の実態に対する理解をより深めることが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

 現在、韓国では、授業場面を中心として、無気力傾向を示す青年が増加している。本論文は、日本における青年期アパシー研究との比較を通して、韓国青年の無気力傾向が発生するプロセスを検討するとともに、その現状を把握し、関連要因間の因果モデルを構成することを目的としたものである。

 本論文は、5部8章から成り、段階的に研究成果を発展させていく構成となっている。まず第1章では、中途退学者の増加など、韓国の青年をめぐる状況が分析され、韓国における無気力傾向研究の必要性と重要性を指摘している。次に第2章では、日本と米国の青年期アパシー研究の展望を行い、研究の方向を決定している。それを受けて第3章では、日本の大学生と韓国の大学生に対する質問紙調査および面接調査を行っている。その結果から、韓国の大学生の無気力は、日本の大学生とは異なり高校時代の進学動機の不明確性に強い影響を受けていることを明らかにし、高校生を研究対象とすることを決定している。

 第4章では、韓国の高校生に無気力傾向に関する質問紙調査を実施し、その中で典型的な無気力傾向を示したインフォーマントを抽出している。第5章では、選定されたインフォーマントに半構造化面接を実施し、収集された質的データをグラウンデッド・セオリーによって分析し、受験競争と親のプレッシャーに因って進学動機の不明確性が生み出され、それが無気力傾向につながるとする無気力傾向の発生に関するモデルを生成している。

 第6章では、無気力傾向の他に、進学動機の不明確性、進路未決定、自我同一性に関する質問紙を韓国の高校生に実施し、収集した量的データを用いて共分散構造分析による因果モデルの検討を行っている。その結果、特に男子高校生では、競争的な受験文化を背景とする進学動機の不明確性が進路決定を介し、無気力傾向の下位変数である自己不全感と関連していることを明らかにしている。さらに第7章では、同一の質問紙を日本の高校生に実施し、同様の方法で因果モデルを構成し、両国間の比較研究を行っている。その結果、韓国と日本では、関連要因間でそれぞれ異なる傾向が見られ、特に韓国男子高校生においては、自我同一性の未確立が無気力傾向に強い影響を与えていることを明らかにしている。

 最後の第8章では、結果を総合して韓国青年にみられる無気力傾向の特徴をまとめている。本論文は、これまで韓国ではまったく研究されてこなかった青年の無気力傾向を初めて研究対象にしたことに大きな意義がある。また、無気力に関する質問紙を作成し、韓国と日本にわたる幅広い比較調査を実施し、グラウンデッド・セオリーと共分散構造分析といった質的研究法と量的研究法を総合した実証的な研究を行い、進路動機の不明確性が主な要因となっているという、韓国高校生の無気力傾向の特徴を明らかにした点が評価された。よって、本論文は、博士(教育学)の学位を授与するに相応しいものと判断された。

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