学位論文要旨



No 117768
著者(漢字) 小川,快之
著者(英字)
著者(カナ) オガワ,ヨシユキ
標題(和) 宋〜明代江西地域における紛争・訴訟と社会秩序 : 産業と「健訟」の関係を中心に
標題(洋)
報告番号 117768
報告番号 甲17768
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第404号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 並木,頼寿
 東京大学 助教授 安冨,歩
 東京大学 教授 三谷,博
 東京大学 教授 黒住,真
 東京大学 教授 岸本,美緒
内容要旨 要旨を表示する

 現代中国の社会は、訴訟社会であると言われているが、本論文は、そうした状況がなぜ出現したのか(訴訟で物事を解決する中国人(主に漢民族)の行動様式がどのようにして出来上がったのか)という問題について考える作業の一環として、伝統中国の社会における「健訟」(=訴訟が盛んな状態)の発生について考察したものである。具体的な内容は、以下のとおりである。

 まず、序章では、「健訟」に関する従来の学説について以下のように整理検討した。従来の学説では、その発生要因として、物流の増加、商業の活発化、人口の増加などが考えられてきたが、「健訟」が発生した構造については、依然として未解明な点が多く、再度、産業との関係を中心に具体的に検証する必要がある。また、「健訟」が発生する構造に関しては、従来、訴訟制度の性格や訟師(=他人の訴訟に介入するなどして利益を得ることを生業にしている者)の存在が背景にあるといわれてきたが、そうした実情について、各地域の状況に即して検証する必要がある。

 そして、以上の課題を解決するために、本論文では、宋代、「健訟」の発生地として有名であった江西地域(=ほぼ現在の江西省にあたる地域)における「健訟」の発生について、鉱業・農業・陶瓷器業との関係を中心に検証し、さらに伝統中国社会の基本構造が宋代に形成されて元〜清代の社会に継承されたとの観点から、明代の状況について検証した。

 第1章では、朱〜明代の江西地域における「健訟」の発生状況について検証し、宋〜明代の江西地域で、「健訟」が発生していたことを確認した(但し、明代前期は除く)。

 第2章では、宋代江西地域における鉱山経営と紛争・訴訟について、以下のことを明らかにした。この時代のこの地域では、鉱業が盛んであったが、政府が、有力者に経営を請負わせ、また、他の有力者の不正を告発した有力者に、不正を行った有力者の土地における経営を請負わせるという措置をとったため、経営の請負をめぐって人々が激しく競合するという不安定な状況が出現した。そうした状況下で、官への納入額を増やして地位の上昇を図る有力者が出る一方で、嘘の申請をして官から元手として支給される銭を奪ったり、不正な告発をして競合相手である有力者の利権・利益を奪う有力者(豪民)が出現した。しかし、こうした豪民の行動や、それにより発生した紛争は、近隣社会で規制・解決されなかったため、その被害を受けた有力者の方も、訴訟を起こして自己の利権・利益に対する侵害に対処するようになった。また、訴訟の処理に不正介入する胥吏の姿勢と、政府による不正告発の奨励が、訴訟の発生を助長させていた。

 第3章では、宋代江西地域における鉱物輸送と紛争・訴訟について、以下のことを明らかにした。この時代のこの地域では、鉱業の発達に伴い鉱物輸送や鉱山関係者が使用する日用品や工具の流通が活発化したが、鉱物輸送の請負などに関して人々が競合するようになり、豪民が胥吏と結託して、有力者の所有する輸送手段を奪って利益を独占したため、被害を受けた有力者等が訴訟を起こすようになっていた。

 第4章では、宋代江西地域における田土・脱税に関する紛争・訴訟について、以下のことを明らかにした。この時代のこの地域の吉州や饒州では、田土(耕地)の所有形態が不安定であったため、農業が盛んになって、田価が上昇し、土地売買が活発化し、社会関係が複雑化すると、生存権の確保をめぐる人々の押し合いが激しくなり、遂には、一部の有力者(豪民)が訴訟を起こして他人(貧民など)の財産(田土)を奪うようになった。しかし、郷村社会では、こうした豪民の行動を規制することはできなかったため、被害者(貧民)から訴訟が起こされるようになった。また、政府が無理な徴税をした結果、さらに人々の押し合いが激しくなり、一部の有力者(豪民)が他人(貧民)に自己の税負担額を押し付けて脱税するようになって、豪民と貧民の間で、税額に関する紛争が発生するようになった。しかし、こうした紛争も、郷村社会で解決することができなかったため、被害者(貧民)が訴訟を起こすようになった。また、政府による脱税告発の奨励と越訴の許可や、訴訟に不正介入する胥吏の姿勢がそれを助長させていた。

 第5章では、宋代江西地域における陶瓷器売買での不正と訴訟について、以下のことを明らかにした。この時代のこの地域では景徳鎮などを中心に、陶瓷器業が盛んになり、陶瓷器売買も活発化したが、それに携わる有力商人の不正に関する裁判沙汰が起きていた。

 第6章では、明代江西地域における田土・脱税に関する紛争・訴訟について、以下のことを明らかにした。江西地域の農業は、明代初期は、元代末期の動乱により一時低迷したが、やがて以前の水準に回復・発展した。しかし、田土(耕地)の所有形態が不安定であったため、農業が発達して、田価が上昇し、土地売買が活発化し、社会関係が複雑化すると、生存権の確保をめぐる人々の押し合いが激しくなり、明代中期には、有力者が他人の土地財産を兼併・略奪するようになった。明朝は里老人制をしいて、郷村社会で紛争を処理させることにより、「健訟」に対処しようとしたが、明代中期以降、里老人による郷村社会での紛争解決がうまくゆかなくなったため、被害者(小民)が訴訟を起こすようになった。さらに、明代後期になって、政府が銀財政へ転換したことなどによって、人々が円滑な納税をしにくくなると、有力者が「詭寄」(=自分の耕地を偽って他人の名義にすること)をして脱税するようになった。しかし、里老人制が弱体化した郷村社会では、こうした有力者の行動や、その結果発生した紛争も解決できにくくなっていたため、被害者が訴訟を起こすようになった。

 付論では、宗室(=皇族)が大量に科挙に進出するという宋代特有の社会現象に注目して、南宋時代の王朝国家と社会秩序の在り方について、以下のことを明らかにした。南宋時代、地方に移住した宗室が、王朝の支援の下、科挙に進出し、地域エリート(士大夫)層の一員になって、地域社会の秩序維持に影響力を持つ存在となり、王朝の基盤強化に貢献していた。こうした在り方は、宗室の科挙受験を禁止し、彼らを地方に封建した明朝の社会秩序建設とは相違するものであり、これらのことから、宋朝が、地域エリート層に立脚した秩序を建設しようとしていたことが分かる。

 結語では、以上の内容をまとめながら、宋代の江西地域における「健訟」世界の全体像について、以下のように考察した。

 宋代、この地域で「健訟」が発生した背景には、(従来、発生要因と言われていた物流だけではなく)この地域における顕著な産業(鉱業・農業・陶瓷器業)の発達があった(物流もそれにより増加していた)が、産業が発達すればどこにおいても「健訟」が発生するわけではなく、問題は、産業に伴う利害に関する紛争が「健訟」に発展する構造にあった。

 宋代の江西地域においては、鉱山経営に関する政府の措置(請負制と不正告発の奨励)や、不安定な田土(耕地)の所有形態などにより、産業が盛んになるに従って、生存権の確保をめぐる人々の押し合い(競合)が激しくなり、ついには、一部の有力者(豪民)が不正な訴訟(告発)をして、他人の利権・財産などを奪うようになった。しかし、近隣・郷村社会ではそうした豪民の行動や、その結果発生した紛争は規制・解決されにくかったため、被害者は訴訟を起こして、自己の利権・財産などに対する侵害に対処するようになった。また、本来豪民の行動を抑制するためになされた政府による不正告発の奨励や、胥吏・訟師による裁判への不正介入と訟学の隆盛などが、訴訟の発生を助長させていた。こうした社会構造がこの地域で出来上がっていたことにより、「健訟」が発生した。また、宋朝は、こうした豪民の行動を牽制し、社会秩序を建設するために、地域エリート層に立脚した秩序建設を進め、また、自己の基盤を強化するために、宗室を科挙に進出させた。

 このような宋代江西地域における「健訟」世界と伝統日本の社会における紛争処理の在り方を比較すると、日本の近世社会は、村で起きた紛争は、基本的に村の内部で処理されており、近隣・郷村社会でうまく紛争を処理できるか否かという点において、両者が、根本的に相違する社会であったことが分かる。また、宋代江西地域における「健訟」世界と明代江西地域における「健訟」世界を比較すると、明代の「健訟」世界の原形は、すでに南宋時代にできており、それが明代中期以降、再現・発展したことが分かる。

 なお、農業の発達と人々の押し合いの激化との関係や清代の状況などに関しては、さらに分析する必要があるが、これらの点については今後の課題とした。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、中国社会において紛争・対立を訴訟で解決する行動様式がしばしばみられることに着目し、伝統中国の社会での「健訟」、すなわちさかんに訴訟が行われる状態、の発生について考察したものである。そして、本論文は中国社会について、歴史的な展望の獲得を意図すると同時に、日本社会との比較など、東アジアの地域社会の問題として、視野を拡大することも意図されている。具体的な内容は、以下のとおりである。

 まず、序章では、「健訟」に関する従来の学説について整理検討している。「健訟」の発生に関して、従来、訴訟制度の性格や「訟師」、すなわち訴訟への介入を生業としている者、の存在が背景にあるといわれてきたが、そうした社会的情況の存在とならんで、歴史的な各地域社会の実情に即して「健訟」の発生を検証する必要があることを指摘して、社会経済的な諸条件、すなわち物流の増加や商業の活発化、人口の増加などについてさらに検討し、諸産業の展開との関係を中心に具体的に検証する必要があるとする、本論文の中心課題を設定した。

 論文の本論にあたる部分では、宋代において「健訟」の発生地としてとくに有名であった江西地域(ほぼ現在の江西省にあたる地域)における情況に着目し、そこでの「健訟」の現象と諸産業、すなわち鉱業・農業・陶瓷器業などとの関係を中心に分析を加えているた。これは、伝統中国の社会の基本構造が宋代に形成されて明清代に継承されたとの観点から、まず宋代の社会状況に分析を加え、それを踏まえて、明・清期から現代まで視野を収めようとするねらいによるものである。

 本論文は全六章と付論からなる。第一章では、宋から明代の江西地域における「健訟」の発生状況について分析し、当該時期の江西地域で、「健訟」の現象が発生していたことを確認した。つづいて、第二章では、宋代江西地域における鉱山経営と紛争・訴訟について分析している。宋代の江西では鉱業経営が盛んとなったが、政府が、有力者に経営を請負わせ、また、他の鉱山経営の不正を告発した者に不正を行った者の鉱山を請負わせるなどの措置をとったため、経営の請負をめぐって人々が激しく競合するという不安定な状況が出現した。そうした状況下で、官への納入額を増やして地位の上昇を図る有力者が出る一方で、嘘の申請をして官から元手として支給される資金を奪ったり、不正な告発をして競合相手から利権・利益を奪おうとする者(史料には「豪民」と表記される)が出現した。しかし、こうした豪民の行動や、それにより発生した紛争は、近隣社会における共同体的な規制によって解決されるのではなく、その被害を受けた者が訴訟を起こして自己の利権・利益に対する侵害に対処することが多かったという。また、訴訟の処理に不正介入する胥吏の姿勢と、政府による不正告発の奨励が、訴訟の発生を助長していたことを解明している。

 第三章では、宋代江西地域における鉱山開発や鉱物輸送に付随した紛争・訴訟について分析している。この時代のこの地域では、鉱業の発達に伴い鉱物輸送や鉱山関係者が使用する目用品や工具の流通が活発化したが、鉱物輸送の請負などに関して人々が競合するようになり、ここでも「豪民」が胥吏と結託して、物資輸送手段を不正に奪って利益を独占するなどのことから、被害を受けた有力者等が訴訟を起こすようになっていた情況を解明した。

 第四章では、宋代江西地域における田土・脱税に関する紛争・訴訟について分析している。宋代江西地域の吉州や饒州では、田土(耕地)の所有形態が不安定であったため、農業が盛んになって、田価が上昇し、土地売買が活発化し、社会関係が複雑化すると、生存権の確保をめぐる人々の競合が激しくなり、遂には、一部の有力者や「豪民」が訴訟を起こして他人(貧民など)の田土や財産を奪うようになった。しかし、郷村社会では、こうした「豪民」の行動を規制することはできなかったため、被害者(貧民)から訴訟が起こされるようになった。また、政府が過重な徴税をしたために人々の競合がさらに激しくなり、他人に自己の税負担額を押し付けて脱税する事態も発生して、税負担額に関する紛争も多発するようになった。こうした紛争も、被害者を訴訟に駆り立て、また、政府による脱税告発の奨励や越訴の許可なども「健訟」を助長し、さらに訴訟に不正介入する胥吏の姿勢がそうした風潮をいっそう促進していたことを明らかにした。

 第五章では、宋代江西地域における陶瓷器売買での不正と訴訟について解明した。宋代江西では、現在も有名な景徳鎮などを中心に、陶瓷器業が盛んになり、陶瓷器の売買が活発化したが、そこでもそれに携わる有力商人などの不正に関する裁判沙汰が多数発生していたことを明らかにしている。

 第六章では、明代の江西地域における田土・脱税に関する紛争・訴訟について述べる。江酉地域の農業は、明代初期には、元代末期の動乱から回復しさらに発展したが、耕地(土地)の所有形態は不安定であり、人々の競合は激しく、明代中期になって社会関係が複雑化すると、有力者が他人の土地財産を兼併・略奪するなどの紛争が一般化した。明朝は里老人制をしいて、郷村社会内で紛争を処理させることにより「健訟」に対処しようとしたが、明代中期以降、里老人による郷村社会での紛争解決挫折し、訴訟が増加した。さらに、明代後期に銀財政への転換が進むと、有力者が「詭寄」すなわち自分の耕地を偽って他人の名義にするなどの手段で脱税をするようになった。こうしたことに由来する紛争は、やはり郷村社会では解決が容易でなく、訴訟が増加したという。

 以上の分析をふまえて結語では、宋代の江西地域における「健訟」世界の全体像について考察している。宋代にこの地域で「健訟」が発生した背景には、従来、発生要因として指摘されていた物流のみならず、この地域における鉱業・農業・陶瓷器業などの諸産業の顕著な発達があり、それにともなって物流もまた増加していたこと、また、重要な論点として、産業が発達すればどこにおいても「健訟」が発生するわけではなく、問題は、産業の展開に伴って生ずるさまざまな紛争が「健訟」に発展するという、構造的な特質を指摘している。

 そして、「健訟」をもたらした宋代の江西地域における構造的特質として、鉱山経営に関する政府の措置(請負制と不正告発の奨励)や、不安定な田土・耕地の所有形態などにより、産業が盛んになるに従って、生業や生存の確保をめぐる人々の競合が激しくなり、ついには、一部の有力者ないし「豪民」が不正な訴訟(告発)を行って、他人の利権・財産などを奪うようになったこと、しかし、近隣・郷村社会ではそうした「豪民」の行動や、その結果発生した紛争を規制・解決することが容易には行われず、被害者は訴訟を起こして、自己の利権・財産などに対する侵害に対処するようになったこと、また、本来「豪民」の行動を抑制するためになされた政府による不正告発の奨励や、胥吏・訟師による裁判への不正介入と訟学の隆盛などが、訴訟の発生を助長させていたこと、これらの諸点をそれぞれの相関関係を明らかにしつつ、説得的に指摘している。

 このような宋代地域社会に対して、宋王朝は「豪民」の行動を牽制し、社会秩序を規制するためにも、科挙官僚制の整備と地域エリート層の成長に立脚した秩序建設を指向し、王朝支配の基盤を強化するために、宗室を科挙に進出させたという。この論点を敷衍しているのが、本論文の付論の部分である。修士論文の成果をふまえた付論において、宗室(=皇族)が大量に科挙に進出するという宋代に顕著な現象を取り上げ、南宋時代の王朝国家と社会秩序の在り方について分析が加えられている。それによれば、南宋時代、地方に移住した宗室は、王朝の支援の下に科挙受験に進出し、地域エリート(士大夫)層の一員となって、地域社会の秩序維持に影響力を持つ存在となり、王朝の基盤強化に貢献していたという。こうした動きを、本論文は王朝の主導で地域秩序の形成をねらう試みと評価している。こうした政策は、明代に宗室の科挙受験を禁止し地方に封建した政策とは相違するが、王朝権力と地域社会秩序との関係を考察し、「健訟」をめぐる社会構造を議論するうえで、重要な視角となりうることを示唆している。

 さらに本論文は、このような宋代江西地域における「健訟」世界と伝統日本の社会における紛争処理の在り方とを比較し、日本の近世社会は、村で起きた紛争は、基本的に村の内部で処理されており、近隣・郷村社会の範囲において紛争を処理できるか否かという点で、両者が、根本的に相違する社会であったことを指摘した。この比較の視点はきわめて興味深い。また、宋代江西地域における「健訟」世界と明代江西地域における「健訟」世界とを比較し、明代の「健訟」世界の原形は、すでに南宋時代にできており、それが明代中期以降、再現・発展したとする展望を述べている。

 以上、本論文は、宋代中国の地域社会において、紛争や利害の対立が処理される際に、訴訟の手続を展開することが一般であったこと、その訴訟をめぐって「健訟」という言葉が普及するに足るような複雑な社会的事象が展開していたことを、社会経済の動向と関連させて説得的に明らかにした業績と評価される。訴訟や裁判に関わる社会事象と経済的諸関係を連関させて解明することは、史料的な制約もあって困難な課題であったと推測されるが、本論文はその困難を丹念に史料を検討することによって克服し、関連学界に寄与しうる成果をあげているといえる。

 存在が指摘された社会構造の具体的な内実や、明・清中国の訴訟をめぐる慣行とのつながりの解明など、なお議論を深める余地は認められるものの、これは本研究の価値と学界への貢献を減ずるものではなく、審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を「博士(学術)」の学位を授与するに値するものと判定する。

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