学位論文要旨



No 117774
著者(漢字) 沓掛,展之
著者(英字)
著者(カナ) クツカケ,ノブユキ
標題(和) 野生チンパンジーの社会的ストレスと葛藤解決行動 : 社会関係の質が及ぼす影響について
標題(洋)
報告番号 117774
報告番号 甲17774
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第410号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長谷川,寿一
 東京大学 教授 繁桝,算男
 東京大学 助教授 丹野,義彦
 東京大学 教授 里見,大作
 東京大学 教授 松本,忠夫
内容要旨 要旨を表示する

 社会生活をいとなむ霊長類において、同じ群れに属する個体間には質の異なる多様な社会関係が形成される。Cords & Aureli(1993)の理論によると、社会関係の質を形成する究極的要因として「価値」と「安全性」が存在する。「価値」とは社会関係によりもたらされる利益によって決定される軸であり、「安全性」とは2個体間の社会関係の安定性や、相手の行動がどの程度予測可能かなどの要素によって決定される。

 動物が群れで生活することには、捕食圧への対抗、同種隣接群との資源をめぐる競争に勝利する確率の上昇など、様々な利益が存在する。その反面、群れ生活の不可避なコストとして個体間に有限な資源をめぐる競争や葛藤が生じる。生理的、心理的側面に注目すると、これらのコストは個体にストレス反応をもたらし、生存や繁殖に負の影響を及ぼす。社会的ストレスの度合いは社会交渉相手との社会関係の質に大きく影響される。例えば、社会関係の「安全性」が低い個体との社会交渉は、個体に強いストレスを与えると考えられる。

 霊長類において、このような社会生活のコストを積極的に低減させる行動(葛藤解決行動)が進化しており、攻撃後に攻撃個体と被攻撃個体間で行う親和行動(仲直り行動)はその代表例といえる。仲直り行動の生起に関しては、攻撃個体と被攻撃個体間の社会関係の価値が高い場合に低い場合と比べてより高頻度で仲直りが起きる、という社会関係の質仮説が提唱されている。

 本研究では、野生チンパンジーPan troglodytes schweinfurthiiを対象に、(1)行動学的指標であるビジランス行動と自己指向性転位行動を用いた社会的ストレスを計測すること(第3章、第4章)、(2)集団間の出会いという極度のストレス状態における行動を記述すること(第5章)、および(3)攻撃後の葛藤解決行動を研究し、仲直り行動の生起に関する社会関係の質仮説を検証すること(第6章)を目的とした。野生チンパンジーは複雄複雌集団を形成し、オスが出生群に居残りメスが他集団へ移籍する。一般に個体間の寛容性が高く、オス間には明確な順位関係が存在する。オス間関係は基本的に親和的であるが、メス間の社会関係は非親和的である。チンパンジー社会の特徴として、集団の中で個体数、個体構成が異なる一時的な小集団(パーティー)が形成され、それらが離合集散を繰り返すことがあげられる。

 観察対象はタンザニア連合共和国マハレ山塊国立公園に生息する野生チンパンジー(M集団;個体数51-55頭)である。オトナオスとオトナメス各9頭ずつを観察対象個体に選び、個体追跡法によって1個体あたり50時間以上、合計約1080時間の行動観察を行った。個体追跡中に観察対象個体の行動を連続的に記録し、同時に5分間隔の瞬間サンプリング法によって観察対象個体の活動、地上からの高さ、近接個体、メスの場合は子の位置を記録した。これらのデータから、各個体間の親和頻度を求め、個体間関係を「親和的」、「中立」、「非親和的」に分類した。また、劣位の信号であるパントグラント音声の観察からオス間の順位関係を決定した。

 第3章では、ビジランス行動について2つの研究を行った。ビジランス行動とは視覚的に外界を探索する行動と定義され、資源の探索に加えて将来の危険を早期に発見する機能を持つものとされる。霊長類はビジランス行動を対捕食者への警戒や他個体への警戒に用いていると考えられる。研究1では、瞬間サンプリング法によるデータをもとに、ビジランス行動の生態学的、社会学的要因の影響を研究した。対捕食者戦略仮説からは、最も脅威となる潜在的捕食者であるヒョウに襲われる可能性が高い地上でビジランス頻度がもっとも高く、群集度が上昇するほどビジランス頻度が減少すること(群集効果)が予想された。ビジランス頻度は観察対象個体の活動カテゴリーと地上からの高さによって影響されていたが、重回帰分析の結果、活動カテゴリーの影響を取り除いた後には地上からの高さは有意に影響していなかった。また、地上での採食行動と休息行動中のビジランス頻度に近接個体数による群集効果は見られなかった。これらの結果よりビジランス行動の一義的な機能が対捕食者警戒でないことが示唆された。社会的ビジランス仮説からは、近接個体の属性によってビジランス頻度が変化することが予測された。観察の結果、近接個体との相対的順位関係は観察対象個体のビジランス頻度に影響していなかったが、近接個体との親和度が観察対象メスのビジランス頻度に影響しており、「親和的」でない個体が近接していたときのビジランス頻度は、近接個体が「親和的」な個体であったときと比較して高かった。これらの結果は、捕食圧という生態学的要因よりも近接個体との親和度という社会的要因の方がメスのビジランス頻度により強く影響している、ということを示している。

 ビジランス行動に関する研究2では、休息時のビジランス行動に注目し、様々な社会的条件が統制された環境でのビジランス行動を2分間の個体追跡法によって計測した。その結果、近接個体がいたときのメスのビジランスの合計長は、単独でいるときと比較して上昇していた。また、子が母親から離れていたときのビジランス合計長が、子が母親の近くにいるときよりも増加していた。オスのビジランス行動は近接個体数によって変化していなかったが、近接個体の中に「親和的」でないオスがいた場合、それ以外の場合と比較してビジランスのバウト数(生起頻度)が増加していた。また、近接個体がいない状況でのオスのビジランスバウト数はオスの絶対的順位と相関しており、高順位なオスほどビジランスのバウト数が少なかった。近接個体との相対的順位関係は観察対象個体のビジランス頻度に影響していなかった。

 第4章では、ストレスの行動学的指標として、自己指向性転位行動の一種であるRough self-scratching(以下RSSと略記)を用いて観察対象個体のストレスを計測した。観察対象個体が休息中の場合、メスのRSSの頻度は近接個体が存在しているときに単独で休息しているときと比較して増加していた。また、近接個体が全て「非親和的」な個体であった場合のメスのRSS頻度は、それ以外の場合のRSS頻度と比較して高かった。近接個体との相対的順位関係は観察対象個体のRSS頻度に影響していなかった。一方、オスのRSS頻度は近接個体の有無、近接個体との親和度や相対的順位関係に影響されていなかった。しかし、オスのRSS頻度は絶対的順位と相関しており、高順位オスほどRSS頻度が低かった。

 行動学的ストレス指標を用いた3つの研究間で多少の結果の相違があるものの、全体的な傾向として、(1)近接個体が存在する条件においてメスのストレス指標頻度が上昇するが、オスではその影響がみられないこと、また、(2)オスメス双方において、近接個体との社会関係の親和度が個体のストレスレベルに影響し、非親和的な個体が近接しているときにストレス指標の頻度が上昇することが明らかになった。チンパンジーにおいて個体間の親和度は社会関係の「価値」に相当していると考えられる。また、ストレス指標の高さは「安全性」の低さを示している。よって、チンパンジーにおいては、2個体間の社会関係の「価値」が低いことと、社会関係が「安全」でないことは強く関連している可能性がある。一方、近接個体との相対的順位関係は個体のストレスレベルに一貫して影響しなかった。この理由としては、チンパンジーが個体間寛容性の高い社会を形成していることがあげられる。オスの絶対的順位とストレス指標頻度の間には正の相関が見られたが、この結果は研究期間中にオス間の順位関係が安定していたと関係しているだろう。

 第5章では、事例研究として本研究期間中に観察された身体的接触を伴う激しい集団間攻撃交渉におけるストレス反応について報告した。チンパンジーでは集団間敵対交渉によって個体が殺害されることがあるため、他集団と出会った状況ではチンパンジーは極度のストレス反応を起こすと考えられる。本事例において、M集団個体は他個体に抱きつく行動や短く触る行動などの日常的には非常にまれにしか観察されない行動を行っていた。また、パトロール行動を行っている個体は高頻度のビジランス行動を行っていた。敵対交渉において、M集団のオトナオスによる隣接集団のオス乳児に対する集中的攻撃行動が観察され、この乳児は殺害されたものと考えられた。

 第6章では攻撃後の葛藤解決行動に関する分析を行った。まず、霊長類における代表的な葛藤解決行動である仲直り行動について標準的な分析方法であるPC-MC比較法を用いて分析した。その結果、「親和的」な個体間で起きた攻撃後に仲直り行動が起きる頻度は、「中立」な個体間で起きた攻撃後の頻度と比較して有意差がなく、また攻撃個体と被攻撃個体間の性別組み合わせも仲直り行動の頻度に影響していなかった。これらの結果は攻撃個体と被攻撃個体間の社会関係の質が仲直り行動の生起に常に影響するわけではないことを示している。

 仲直り行動に加えて、攻撃交渉に参与していなかった個体(第3者個体)から攻撃個体への親和行動(「宥め行動」)と、第3者個体から被攻撃個体への親和行動(「慰め行動」)をPC-MC比較法で分析した結果、両者ともに生起頻度が通常時と比較して上昇していた。また、攻撃後に攻撃個体から被攻撃個体間での攻撃交渉、また攻撃個体から第3者個体への攻撃が通常時よりも高頻度で観察された。第3者個体は攻撃後に再発する攻撃交渉に巻き込まれるコストが存在するにも関わらず、「宥め」行動や「慰め」行動を行うことによって攻撃後の社会的興奮を沈静化しようとしているのかもしれない。これらの結果をチンパンジーにおける葛藤解決行動の先行研究と比較した結果、野生チンパンジーの葛藤解決行動戦略が同種内でも多様であることが示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、野生チンパンジーにおける社会的ストレスと葛藤解決行動を、行動的指標を用いて測定し、個体間の社会的関係の質がそれらにどのような影響を及ぼすかを分析した研究である。本論文では、社会的ストレスと葛藤解決行動を、大きく3つの研究を通して研究した。第1は、行動指標であるビジランス行動と自己指向性転位行動を用いた社会的ストレスの計測、第2は、集団間の出会いという極度のストレス状態における行動事例の記載、第3は、攻撃後の葛藤解決行動の測定とその生起に関する社会関係の質仮説の検証である。なお、観察はタンザニア連合共和国マハレ山塊国立公園に生息する野生チンパンジーを対象に行われた。

 視覚的に外界を探索するビジランス行動については、まず、瞬間サンプリング法によるデータをもとに、対捕食者戦略仮説と社会的ビジランス仮説の妥当性が検討された(研究1)。対捕食者戦略仮説からは、樹上と比して捕食者との遭遇機会が多い地上でビジランス頻度が上昇すること、また、群集度が上昇するほどビジランス頻度が減少することが予測された。しかし、観察結果からは、これらの予測が支持されず、ビジランス行動の一義的な機能が対捕食者警戒でないことが示唆された。ついで、社会的ビジランス仮説に基づき、近接個体の属性によってビジランス頻度が変化するかどうかが検討された。観察の結果、「親和的」でない個体が近接していたときメスのビジランス頻度は、近接個体が「親和的」な個体であったときと比較して高いことが示された。ビジランス行動に関する研究2では、様々な社会的条件を統制した上で休息時のビジランス行動が個体追跡法によって計測された。その結果、近接個体がいたときのメスのビジランスの長さは、単独でいるときと比較して上昇していた。オスのビジランス頻度は、近接個体の中に「親和的」でないオスがいた場合に増加していた。また、近接個体がいない状況でのオスのビジランス頻度はオスの絶対的順位と相関しており、高順位なオスほどビジランスの頻度が低かった。

 第4章では、自己指向性転位行動の一種であるRough self-scratching(RSS)を用いて観察対象個体の外的ストレス反応が測定された。その結果、休息場面では、メスのRSSの頻度が近接個体が存在しているときに単独休息時と比較して増加していた。とりわけ近接個体が全て「非親和的」な個体であった場合のメスのRSS頻度が高かった。一方、オスのRSS頻度は近接個体の有無、近接個体との親和度や相対的順位関係に影響されていなかった。しかし、オスのRSS頻度は絶対的順位と相関しており、高順位オスほどRSS頻度が低かった。

 行動学的ストレス指標を用いた3つの研究間では、多少の結果の相違があるものの、全体的な傾向として、(1)近接個体が存在する条件においてメスの行動ストレス指標が上昇するが、オスではその影響がみられないこと、また、(2)オスメス双方において、近接個体との社会関係の親和度が個体のストレス指標に影響し、非親和的な個体が近接しているときにストレス指標の頻度が上昇する傾向が認められた。

 第5章では、事例研究として調査期間中に観察された身体的接触を伴う激しい集団間攻撃交渉におけるストレス反応が報告された。チンパンジーでは集団間敵対交渉によって個体が殺害されることすらあり、他集団と出会った状況ではチンパンジーは極度のストレス反応を起こすと考えられる。本事例においても、異集団個体と出会ったチンパンジーたちは、他個体に抱きつく行動や頻繁な相互接触などの日常的にはごくまれにしか観察されない行動を示した。また、遭遇前にパトロール行動を行っている個体は高頻度のビジランス行動を示した。なお、敵対交渉において、観察対象のオトナオスによる隣接集団のオス乳児に対する集中的攻撃行動が観察され、この乳児は殺害されたものと考えられた。

 第6章では、本研究の3番目の柱である、攻撃後の葛藤解決行動に関する分析が行われた。まず、霊長類における代表的な葛藤解決行動である仲直り行動が、標準的な分析方法であるPC-MC比較法を用いて分析された。その結果、「親和的」な個体間で起きた攻撃後に仲直り行動が起きる頻度は、「中立」な個体間で起きた攻撃後の頻度と比較して有意差がなく、また攻撃個体と被攻撃個体間の性別組み合わせも仲直り行動の頻度に影響していなかった。これらの結果より、攻撃個体と被攻撃個体間の社会関係の質が仲直り行動の生起に直接影響するわけではないことが示された。また、観察対象集団における「仲直り率」を求めたところ、他の霊長類よりも相対的に低いレベルにあることがわかり、チンパンジー社会では、個体間の葛藤に伴う緊張がさほど厳しくないことが示唆された。仲直り行動に加えて、攻撃交渉に参与していなかった第3者個体から攻撃個体への親和行動(「宥め行動」)と、第3者個体から被攻撃個体への親和行動(「慰め行動」)についても、PC-MC比較法で分析された。その結果、両者ともに生起頻度が通常時と比較して上昇していた。第3者個体は攻撃後に再発する攻撃交渉に巻き込まれるコストが存在するにも関わらず、「宥め」行動や「慰め」行動を行うことによって攻撃後の社会的興奮を沈静化しようとしていることが示唆され、チンパンジーの葛藤解決の柔軟性が示された。

 以上が、本論文の結果の概要である。本論文では、野生チンパンジーにおいて、行動に基づくストレス指標と生理学的ストレス反応との対応関係は示されておらず、行動指標が内的なストレスをどこまで直接的に反映しているかについては留保が必要である。今後の研究において、行動指標の妥当性をさらに厳密に検討していくことが望まれる。しかし、他の霊長類研究では行動指標と生理指標の対応関係が明らかにされており、行動指標が非侵襲的な方法として有効であることは、すでに概ね受け入れられている。丹念な行動観察によって明らかにされた本研究の結果は、社会関係と行動ストレス指標との関連について多くの新事実を含むものであり、チンパンジー研究に新しい知見を提供している。また第5章の事例研究は極度の緊張時のストレス反応を詳細に記載したものであり、すでに英文論文として発表されている。集団間の攻撃交渉は、野生チンパンジーではきわめてまれにしか観察されないものであり、定量的な分析は含まれないが貴重な報告であると評価できる。第6章のチンパンジーの葛藤解決行動については、これまで飼育集団での報告はいくつかあるものの、野生集団を対象とした研究はごく断片的なものに限られていた。野生集団における「慰め行動」と宥め行動」については、本研究で初めて報告されたものであり、チンパンジーの社会的スキルの高さを示している。

 本論文は、ヒトにもっとも近縁な種であるチンパンジーのストレスや葛藤処理に関して、非侵襲的な行動指標を用いて迫ろうとする先駆的な研究である。行動指標だけからチンパンジーの心的過程について断定的な結論を下すことはできないが、野生状態での社会交渉の推移を詳細に追い、個体の行動との対応関係を分析することによって、チンパンジーの社会的知性の豊かさを浮き彫りにすることに成功している。よって、本審査委員会は、博士(学術)の学位を授与するに値するものと認定する。

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