学位論文要旨



No 117785
著者(漢字) 吉原,静恵
著者(英字)
著者(カナ) ヨシハラ,シズエ
標題(和) シアノバクテリアSynechocystis sp. PCC 6803の走光性機構の分子生物学的解析
標題(洋) Molecular studies on phototactic motility in the unicellular cyanobacterium Synechocystis sp. PCC 6803
報告番号 117785
報告番号 甲17785
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第421号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 池内,昌彦
 東京大学 教授 大森,正之
 東京大学 助教授 箸本,春樹
 東京大学 助教授 渡辺,雄一郎
 東京大学 助教授 和田,元
内容要旨 要旨を表示する

<序論>

 シアノバクテリアは、変動する光環境に適応するために光に応答した運動性を示すものが知られており、100年以上前から研究されてきた。しかし、生理学的な知見がほとんどであり、光受容や運動のメカニズム、これらの調節機構について分子レベルでの報告は非常に少ない。本研究では、シアノバクテリアの走光性と運動のメカニズムを分子生物学的に解明することを目指した。そのために、全ゲノム情報が決定されている単細胞性シアノバクテリアSynechcystis sp.PCC 6803をもちいて多数の遺伝子破壊株を作成し、表現型を解析することによって以下に分類する遺伝子を同定した。1章:運動機構(線毛)の構成遺伝子、2章:線毛の形成調節にかかわる遺伝子クラスター、3章:正の走光性の調節にかかわる光受容体とシグナル伝達因子をコードする遺伝子クラスター。4章で、本研究で同定した走光性の光受容体タンパク質(PixJ1)を単離し、その分光学的特性について述べる。

 1章:蓮動機構である線毛を構成する遺伝子

 Synechcystisのゲノムには、IV型線毛と呼ばれる線毛の形成遺伝子に似た、複数の遺伝子が存在する。IV型線毛とは、グラム陰性菌に広く見られる一群の線毛構造で、細胞運動や形質転換、病原性細菌では宿主への感染などに関与することが知られている。そこで、遺伝子の破壊株を作成し、運動性を調べた結果、Sll1694(pilA1)、slr0063(pilB1)、slr1294(pilM)、slr1295(pilN)、slr1296(pilO)、slr1297(pilQ)などの遺伝子が、Synechcystisの細胞運動に関与していることを明らかにした。電子顕微鏡観察によって、野生株は形態が異なる2種類の太い線毛と細い線毛をもち、上記の遺伝子破壊株では太い線毛だけが失われていることを確かめた(Fig.1)。さらに、これらの遺伝子破壊株は形質転換能も完全に失ったことから、太い線毛は運動と形質転換の両機能に関与する構造であることが強く示唆された。一方、slr0197(comA)破壊株は運動性を保持しているが、形質転換能を完全に失うことから、運動性に関与せず形質転換に特異的にかかわる遺伝子であることを見いだした。これらの結果から、Synechcystisの運動と形質転換には共通の機構として線毛がかかわっているが、形質転換にかかわる特異的な機構も存在することが明らかになった。

 2章:線毛の形成調節にかかわる遺伝子クラスター

 Synechcystisのゲノムには、べん毛運動の調節因子(CheY、CheW、MCP、CheA)に相同性を示す遺伝子などから構成される遺伝子クラスターが3種存在する(Fig.2)。また、これらの遺伝子の並び方は、Pseudomonas aeruginosaにおいてIV型線毛の形成と運動性にかかわるpilGHIJKL遺伝子クラスターに相同性を示す(Fig.2)。しかし、P.aeruginosaに見られるcheR様の遺伝子(pilK)は、Synechcystis8のゲノムに存在しない。Synechcystisの運動性への関与を調べるために、これらの遺伝子の破壊株を作成し、表現型を調べた。

 その結果、slr1041、slr1042、slr1043、slr1044遺伝子クラスターが、太い線毛の形成、運動、形質転換にかかわることを明らかにした(Table 1)。しかし、slr1042破壊株は野生株よりも多い線毛を保持するが運動性を失っていた。また、slr1043破壊株は線毛を少数保持しているが運動性を失った。また、slr1044破壊株とslr10322破壊株は線毛を失ったが、わずかに形質転換能を保持していた。これらは、1章で述べた線毛の形成遺伝子の破壊株の結果(線毛形成、運動性、形質転換能を完全に失う)と異なった。これらの違いは、slr1041遺伝子クラスターが線毛本体の形成因子ではなく、線毛形成の調節にかかわっているためであると考えられる。そのため、破壊株の線毛形成と形質転換効率は、破壊株が保持する線毛の機能を表していると考えられる。一方、slr1041遺伝子クラスター内にはCheA型遺伝子がみられない。全ゲノムに対してcheA帥崩型遺伝子を検索した結果、2つのORF(slr0073とslr0322)に分断され、それぞれがslr1041遺伝子クラスターから離れて存在していることを見いだした。遺伝子破壊株の解析から、両遺伝子ともに運動と形質転換に必要な線毛の形成に関与することがわかった。slr1041、slr1042、slr1043、slr1044、slr0073、slr0322を、pilG、pilH、pilI、pilJ、pilL-N、pilL-Cと命名した。

 3章:正の走光性の調節にかかわる光受容体とシグナル伝達因子をコードする遺伝子クラスター

 走光性にかかわる遺伝子を同定するために、Synechcystisの野生株の中から、白色蛍光灯下で常に正の走光性を示す株(PCC-P株)と、常に負の走光性を示す株(PCC-N株)を単離し、以後の遺伝子破壊の親株としてもちいた。光受容体などの候補遺伝子の破壊株の表現型を調べた結果、PCC-P株を親株としたsll0041と周辺の遺伝子の破壊株が、負の走光性を示すことを見い出した(Fig.3)。sll0038、sll0039、sll0040、sll0041、sll0042、sll0043を、正の走光性(positive phototaxis)にかかわる遺伝子として、pixG、pixH、pixI、pixJ1、pixJ2、pixLと命名した。

 この遺伝子クラスターは、2章で述べたpilG遺伝子クラスターと同様に、シグナル伝達因子をコードすると考えられる。さらに、pixJ1の予想産物は、植物の光受容体であるフィトクロム様の色素結合領域と走化性の受容体MCP(methyl-accepting chemotaxis protein)のシグナル領域をあわせもつ。これらの結果から、Synechcystisの正の走光性の調節系には、フィトクロム様の光受容体と、べん毛運動を調節するCheタンパク質による調節経路に似た機構がかかわっていることが強く示唆された。

 一方、PCC-P株とpixJ1破壊株について、基礎生物学研究所の大型スペクトログラフを利用し、走光性の作用スペクトルを得た(Fig.4)。その結果、Synechcystisの走光性は少なくとも3つの調節機構が関与する複雑な機構であることが示唆された。

(1)紫外領域の光に対する負の走光性

(2)可視領域の光に対する正の走光性

(3)可視領域の光に対する負の走光性

 pixJ1は(1)と(2)の機構の調節にかかわることが示唆された。

 4章:正の走光性の光受容体PixJ1のスペクトル解析

 PixJ1タンパク質の分光学的特徴を調べるために、ヒスチジンタグとの融合タンパク質としてSynechcystisで発現させ、精製した。SDS-PAGE後にZnイオン処理するとHis-PixJ1から蛍光が生じたことから、開環テトラピロールが共有結合していることを確認した。さらに、蛍光スペクトルの測定から、最大蛍光波長が640nm、最大励起波長が580nmであることが分かった(Fig.5)。

 シアノバクテリアのフィトクロムCph1は、生体内で開環テトラピロールの1つであるフィコシアノピリンを結合しており、その最大吸収波長は656-658nmである。PixJ1は、蛍光励起スペクトルから580nm付近に吸収ピークをもつと予想される。PixJ1に結合する色素として、開環テトラピロールの1つであるフィコエリスロビリンが考えられるが、フィコエリスロビリンの合成にかかわる既知の遺伝子のホモログはSynechcystisのゲノムに見られない。可能性としては、既知の経路とは異なるフィコエリスロビリン合成系が存在する、または、PixJ1には未知の色素が結合している、と示唆される。フィコエリスロビリンを結合する、または600nmより短波長側に吸収ピークをもつフィトクロムの例はない。今後、PixJ1の吸収スペクトルの決定と色素の同定が期待される。

Fig.1 運動性の野生株と、非運動性のpilB1、pilM破壊株の線毛

長い矢印は太い線毛(直径約5nm)、短い矢印は細い線毛(直径約3nm)を示す。

Fig.2 Synechcystisのゲノムには、シグナル伝達因子をコードする遺伝子クラスターが3種存在する

slr1014(pilG)の遣伝子クラスター、sl1038(pixG)クラスター、sll1291クラスター。これらの遺伝子群はまた、Pseudomonas aeruginosaのIV型線毛の形成にかかわるpilGHIJK1.クラスターに相同性を示す。同じシグナル伝達因子に相同性を示すものを同色で示し、因子名をsll1291クラスター、pilGクラスター[P.aeruginosa]の下に示した。遺伝子の矢印は転写の方向を示す。

Fig.3 PCC-P株とsll0038クラスターの破壊株の走光性

白色光の照射方向を矢頭で示した。sll0038、sll0039、sll0041、sll0042、sll0043の破壊株は正の走光性を失い、負の走光性を示した。点線は光照射前に各株を植えた位置を示す.P:PCC-P。スケールバー:10mm。

Fig.4 PCC-P株とpixJ1破壊株の走光牲の波長依存性

縦軸は、単色光照射後のコロニーの移動距離を示す(+:正の走光性、-:負の走光性)。光強度:20(赤)、7(オレンジ)、2(緑)、0.7(青)、0.2μmol/m2/s(黒)。

Fig.5 His-PixJ1タンパク質の蛍光スペクトルと蛍光励起スペクトル

蛍光スペクトル(励起波長=580nm:黒線)と蛍光励起スペクトル(蛍光波長=630nm:赤線)。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文「Molecular studies on phototatic motility in the unicellular cyanobacterium Synechcystis sp.PCC 6803.(シアノバクテリアSynechcystis sp.PCC 6803の走光性機構の分子生物学的解析)」は、4章から成っている。第1章では、運動に必須の線毛サブユニットおよび線毛形成遺伝子(pil遺伝子)の同定と、電子顕微鏡による運動に関与する線毛の解析、第2章では、線毛形成にかかわるシグナル伝達経路にかかわるpil遺伝子クラスターの役割と分断されたcheA型遺伝子の同定、第3章では、正の走光性にかかわるpix遺伝子クラスターの役割の同定、第4章では、第3章で同定されたpixJ1遺伝子産物の生化学的解析により新規光受容体であることを示している。

 第1章では、運動に必須の線毛サブユニットおよび線毛形成遺伝子(pil遺伝子)の同定と、電子顕微鏡による運動に関与する線毛の解析を行った。べん毛をもたないシアノバクテリア(ラン藻)の運動機構は、これまで詳しくわかっていなかった1996年に全ゲノム情報が決定された単細胞性シアノバクテリアSynechcystis sp.PCC 6803には、グラム陰性細菌の4型線毛の形成にかかわる遺伝子と弱い相同性を示すORF(遺伝子)をいくつか見いだした。本研究では、これらのORFその近傍に存在するORFの破壊株を作製し、その表現型を解析した。その結果、sll1694、slr0063、slr1294、slr1295、slr1296、slr1297の運動性が完全に失われ、同時に、自然形質転換能や細胞表層の径5mmの太い線毛も消失した。一方、残りの多数の破壊株では、このような表現型は見られなかった。以上の結果から、これらの遺伝子は、グラム陰性細菌の4型線毛に似た太い線毛が単細胞性シアノバクテリアにおける運動と自然形質転換にかかわる必須因子であると結論した。したがって、これらのORFをシアノバクテリアにおけるpil遺伝子として、それぞれpilA1、pilB1、pilM、pilN、pilO、pilQと命名した。一方、3DキーノートでDNA結合を予測されていたslr0197の破壊株を作製・解析したところ、運動性を保持しているが、形質転換能を完全に失うことを見いだした。これは、運動性に関与せず形質転換に特異的にかかわる遺伝子であることを示しており、comAと命名した。

 第2章では、線毛形成にかかわるシグナル伝達経路にかかわるpil遺伝子クラスターの役割と分断されたcheA型遺伝子の同定を行った。Synechcystisのゲノムには、べん毛運動の調節因子(CheY、CheW、MCP、CheA)に相同性を示す遺伝子などから構成される遺伝子クラスターが3種存在する。大腸菌など多くの細菌では、べん毛運動による走化性の調節において、MCPは誘引物質などのセンサーであり、MCP→CheA→CheYのシグナル伝達がべん毛運動のスイッチングにはたらいていることが知られている。本研究では、これらと弱い相同性を示すORFをすべて破壊することにより、slr1042、slr1043、slr1044が運動に必須であることを見いだした。また、このクラスターの先頭に存在するslr1041破壊株では運動性がやや阻害された。これらの遺伝子を含むクラスターは、他の2つのクラスターとは異なり、cheA様ORFを伴っていなかった。そこで、再びゲノムを検索し、cheA様の特徴を部分的にもつ2つのORF(slr0322、slr0073)を見いだした。これらの遺伝子破壊株は、期待通り運動性を失った。これらの遺伝子破壊株の線毛形成と形質転換能を解析したところ、第1章で同定した遺伝子群とは異なり、まったく運動能を失った株でも低い形質転換能を保持していた(slr1044、slr0322破壊株)。一方、太い線毛も消失しているもの(slr1044、slr0322破壊株)と、野生株よりも過剰に形成されているもの(slr1042、slr0073破壊株)、若干保持しているもの(slr1043破壊株)に分けられた。これらの結果は、MCPドメインをもつSlr1044タンパク質が何らかの化学シグナルを受容するセンサーであり・分断されたCheA様遺伝子産物Slr0322/Slr0073タンパク質がCheY様Slr1042タンパク質をリン酸化することによって、線毛の形成を調節していること、線毛の形成には、伸長と短縮の過程があることを示唆している。これらの知見に基づいて、slr1041、slr1042、slr1043、slr1044、slr0073、slr0322を、pilG、pilH、pilI、pilJ、pilL-N、pilL-Cと命名した。

 第3章では、正の走光性にかかわるpix遺伝子クラスターの役割を同定した。野生株から白色光下で正の走光性を示すクローンと負の走光性を占めるクローンに分離し、それぞれに対し、上記の3種の遺伝子クラスターの破壊株を作製し、その走光性を解析した。その結果、正の走光性を示す野生株から作製したsll0038、sll0039、sll0041、sll0042、sll0043破壊株だけが、負の走光性を示した。また、このクラスターの内部に存在するsll0040の破壊株は、運動性が阻害されていた。Sll0041はMCPドメインとともに、植物フィトクロムの色素結合ドメインと相同性を示すGAFドメインをもっていた。これらの結果は、Sll0041タンパク質が光を感知して、CheA様Sll0043タンパク質を活性化し、CheY様Sll0038/Sll0039タンパク質をリン酸化することが、正の走光性にかかわる線毛の運動を調節していることを示唆している。また、野生株とsll0041破壊株の走光性の作用スペクトルを解析し、野生株が示す紫外光に対する負の走光性と、500-700mmの可視光に対する正の走光性が後者では消失することが示された。これらの知見に基づいて、sll0038、sll0039、sll0040、sll0041、sll0042、sll0043を、pixG、pixH、pixl、pixJ1、pixJ2、pixLと命名した(pix=positive phototaxis)。

 第4章では、pixJ1遺伝子産物の生化学的に解析した。pixJ1遺伝子のN末端にHisタグを融合し、強いプロモータとともにSynechocystisに導入した過剰発現株を作製し、PixJ1タンパク質をアフィニティークロマトグラフィーで精製した。これによって、タグを保持した100.5kDaタンパク質をほぼ単一バンドとして単離することに成功し、SDS-PAGEで分離したバンドに開環テトラピロール色素が共有結合していることを示した。その蛍光の励起スペクトルから、吸収の極大が580nm付近に存在することが明らかになった。これらの結果は、PixJ1タンパク質が正の走光性の光受容体であり、その性質は従来知られていた植物フィトクロムとは非常に異なる新しいタイプの光受容体であることを示している。

 これらの研究成果をまとめると、単細胞性シアノバクテリアSynechcystis sp.PCC 6803の示す運動性には、太い線毛が必須であり、その形成と調節にかかわる遺伝子のほとんどが明らかになった。また、正の走光性にかかわる光受容体と調節遺伝子を同定することによって、従来まったく機構がわかっていなかった線毛による運動機能と走光性の分子機構を解明する重要な手がかりを得た。PixJ1タンパク質がまったく新しいタイプの光受容体であることを示し、光受容体研究の新しい分野を開拓した。

 なお、本論文の第1章は、耿暁星、岡本忍、由良敬、村田隆、郷通子、大森正之、池内昌彦との共同研究、第2章は、耿暁星、池内昌彦との共同研究、第3章は、鈴木布美子、藤田浩徳、耿暁星、池内昌彦との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究の立案、遂行を行っており、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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