学位論文要旨



No 117794
著者(漢字) 山田,隆志
著者(英字)
著者(カナ)
標題(和) 株式人工市場に於ける市場のコンセンサスと価格の性質
標題(洋) Market Sentiment and Price Properties in an Artificial Stock Market
報告番号 117794
報告番号 甲17794
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第430号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 大勝,孝司
 東京大学 教授 須藤,修
 筑波大学 教授 寺野,隆雄
 東京大学 助教授 植田,一博
 東京大学 助教授 中村,政隆
内容要旨 要旨を表示する

 本論文の目的は、金融市場に於ける価格決定要因として重要な役割を果たしていると考えられている市場のコンセンサスに焦点を当てて、その市場のコンセンサスがどのような過程を辿り、そしてどのように価格に反映されるかをAgent-based Approachによって解明することである。ここでは市場のコンセンサスを「市場参加者の思惑の集合体、特に多数派の予測」と定義している。市場のコンセンサスを扱うことは、学術的および実務的にそれぞれ次のような新規性がある。金融市場を扱った学術分野には市場全体(マクロ)を対象とした新古典派経済学や金融工学などと、市場参加者(ミクロ)を対象とした行動ファイナンスや実験経済学などが挙げられる。このうち前者は市場参加者を分析の対象外としているために市場のコンセンサスを知ることは出来ず、一方後者はある局面に於ける市場参加者の考えや行動を統計的に処理して市場のコンセンサスとすることは出来ても、それがどのように価格に反映されるかまでは扱えない。本研究はこのミクロ─マクロ間の相互関係を見ることと、本来異質であるはずの市場参加者が市場の振る舞いを通してどのように意見の集約がなされているかを知ることを目的としているため、この問題の解決に最も相応しいAgent-based Approachを採用している。つぎに、実務レベルに目を転じると、金融市場の価格決定要因は主にニュースなどのファンダメンタルズとチャート分析を主とするテクニカル分析に大きくは分かれる。しかし、このような要因が直接価格に反映されるのではなく、しかも市場参加者の予測分布はアナリストやエコノミストなどの情報提供者の予測を参考にしているためにある種の方向性を持っているのが常である。

 このように、市場のコンセンサスを知ることが金融市場の動的振る舞いをミクローマクロの両側面で解明するためには欠かせないことが明らかでもあるにもかかわらず、それを扱った研究はほとんど存在しない。したがって、本研究は、後述の方法により上記の問題の解明を試みた。まず実際の市場参加者に聞き取り調査を行い、市場に於ける市場のコンセンサスの果たす役割を知ることが出来た。次に、その聞き取り調査を基に、Agent-based Approachによるモデルを構築した。最後に、そのモデルによるシミュレーション結果から市場のコンセンサスが形成されてから価格が決定するまでの一連の流れを分析することが出来た。

 市場参加者への聞き取り調査で得られたことは、大きく分けて三点ある。まず、市場参加者、特に投資家と言われる人達は市場に関する全ての情報を自らが扱うのではなく、アナリストなどといったプロの情報提供者からの予測を基にしていることが分かった。しかし彼らは価格や出来高といったごく基本的な情報だけは必ず見ているという指摘も得られた。次に、価格決定の要因は上述の要因ではなくよりも自らも含めた市場参加者の考えであるということが得られた。これは元を辿れば、情報提供者の予測が市場のコンセンサスとして定着しているからである。最後に、市場のコンセンサスが価格の決定に果たす役割はマクロ指標の発表があるときとないときとで異なることが分かった。すなわち、マクロ指標の発表がないときには既に存在する市場のコンセンサスを基に投資家はほぼ一通りの行動を用意するのに対し、マクロ指標の発表があるときにはそのマクロ指標の予測が出揃ってから実際の値の発表までに時間があるために投資家は複数のシナリオを用意することが出来るということであった。

 この聞き取り調査や先行研究が抱える問題点から、「金融市場に於ける価格決定の要因は、市場参加者の予測の集合体である市場のコンセンサスが最も重要であり、その市場のコンセンサスは情報提供者から投資家に伝わった後に価格決定へと繋がる」という仮説を立て、それに基づいたモデルを構築した(図1)。そのモデルは、先行研究に比べ二つの点で違いが存在する。まず、情報提供者の役割を果たすEconomist agentを導入した。これは、聞き取り調査結果などの「市場参加者は全ての情報を扱うだけの能力や余裕がない」という知見を反映させたものである。次に、複数種類の行動形態を持つInvestor agentを存在させた。これは前項では説明しなかったが、本研究が株式市場を扱っているため外為市場とは異なり様々な思惑と制約を持った市場参加者がいることを反映させたからである。構築したモデルを用いてシミュレーションを行い金融市場に於ける市場のコンセンサスの役割とそれに伴う価格の性質を以下の三段階に分けて分析した:市場のコンセンサスの形成(Economist agentによる予測)、情報の伝達(Economistsの多数派の予測がInvestorsへ伝わるか)、そして価格の決定(価格変動はどのエージェントの予測に合致したか)である。

 分析の前に、モデルの精度を確かめるため、従来の予測モデルのうちRandom Walk(RW)と離散化した確率微分方程式(PDE)を対象として再現性を比較したところ、本モデルはRWよりもおよそ35%、PDEよりもおよそ20%良い精度を得ることが出来た。市場のコンセンサスが価格に与える影響を知るため、まず情報が伝達されるための条件と、市場のコンセンサスと価格変動との関係を調べた。前者は、Economist agentの予測価格と各Economistに対するInvestorsが持つ重みから多数派の予測が一致するための条件を比較したところ、市場のコンセンサスが継承されるか否かは信頼できるEconomistの予測に依存することが得られた。これは、我々が普段目にする「アナリストランキング」がInvestors間で発生し、それにInvestorsが従っているということである・後者は・価格変動の程度は市場参加者の多数派の予測、特にInvestorsの予測に依存することが分かった。これは、実際に取引するのがInvestorsであってEconomistsではないことを示しているの

 更に、三段階に分けた価格決定過程をそれぞれ調べた。まず、Economistsが重要視する要因はトレンドによっていくつかは入れ替わることはあっても聞き取り調査でも得られた価格変動や出来高といった最も基本的な要因はどの局面でも見ていることが分かった。しかも、最初の上昇トレンドでは海外市場の上昇と価格トレンドによるポジティブ・フィードバックが働いていたのに対し、最後の下落トレンドでは価格の下落そのものがポジティブ・フィードバックが働いていることも現れていた。次に、EconomistsからInvestorsへの予測の伝達は、先程の分析以上に信頼できる(orできない)Economistsの予測、それもごく少数で判別が可能であることが得られた。最後に、価格変動はInvestorsの予測も勿論重要であるが、六種類いる投資主体のポジションを考慮する必要があることが分かった。これは、実際の市場で見られる「手仕舞いの売りによる下落」などが本モデルでも簡単な設定により現れたことを示している。

 最後に、Economist agentの果たす役割を調べるために、本モデルの他に(1)Investorsの予測が完全にEconomistsに依存するモデルと、(2)InvestorsがEconomistsの役割を兼ねるモデルをそれぞれ構築しシミュレーションを行った。その結果・前者のモデルは再現率や平均予測価格は同じような結果が得られた一方で予測分布の分散は基のモデルよりも有意に小さいことが得られた。また、後者のモデルでは、平均予測価格で提唱したモデルと同様な結果が得られたが再現率や予測価格分布では有意に劣ることが得られた。これは、提唱したモデルでInvestorsが入力情報の一部も用いて予測(あるいは微調整)している分だけ分布にばらつきが発生していることを示している。また、(2)のモデルは多数の入力情報を必要としている分だけ予測分布にばらつきが生じ、結果として市場のコンセンサスの形成を妨げていることがある。したがって、Economistsは市場のコンセンサスが形成されるための意見の集約を行うという媒介の役割を果たしていることがわかった。

 これらの結果を情報の側面で見ると以下の三点が考察できる。まず実際に取引を行うInvestorsが価格決定要因の全てを入手できない或いはしないことは、現時点で入手できる情報が完全ではないという新古典派経済学に於ける情報の不安定性をもたらしている。そこで、Investorsは全ての情報を処理できるEconomistsの予測に大部分は依存することになり、これは情報の不均衡非対称性が発生している(ただしEconomistsは取引に参加しないため真の意味での非対称ではない)。しかし一方でこの非対称性を克服するための「アナリストランキング」が自然発生しており、これが意見の集約に大きな役割を果たしている。しかもこの「アナリストランキング」によってInvestorsの内部ではそれへの対応の巧拙が利益率の差になって現れるというもう一つの情報の不均衡・非対称性が発生していることは興味深い。最後に、Economistsの予測材料や前述の「アナリストランキング」は、情報は多すぎるとかえって矛盾が発生するという情報の最大化問題を避ける役割を果たしていると考えられる。すなわち、市場参加者はそれぞれの立場からその時点で入手できる情報から必要に応じて取捨選択を行っていたということである。

 以上より、本研究は情報の非対称性、局所性が金融市場の価格決定に及ぼす影響とそのダイナミクスをAgent-based Approachにより定量的に明らかにした。具体的には、市場のコンセンサスに着目して、そのコンセンサスの形成過程や価格形成に於ける意味の明確化に成功した。しかも、市場のコンセンサスは意見、更には情報を扱っていたことを考えると、これは新古典派経済学に於ける情報の扱いや近年注目を集めている情報の非対称性をAgent-based Approachで解明している点で、今後の発展が期待される。

図1:モデルの構造

審査要旨 要旨を表示する

 株式市場での株価形成に関しては経済学からの基礎的要因を重視した金融市場理論あるいは市場データを重視したテクニカル分析による2つのアプローチで論じられることが多い。他方、ケインズが「美人投票」の喩えで指摘したように市場参加者による株価予測についての集団意識(=コンセンサス)が株価形成へのより直接的主要因であろう。しかし、この集団意識に関しての学術的な解明はこれまで蓋然的に留まりかつ不十分である。

 申請者の論文は、株式市場において市場当事者間に株価予測に関するコンセンサスがどのように形成され伝達されるのかさらに株価推移に対しコンセンサスがどのように影響を与えるのかという問題を主テーマとして、現実の市場環境を出来るだけ正確に反映したAgent Based Approachの人工株式市場モデルを構築しそのシミュレーション結果を詳細に分析することにより様々な角度から定量的に解明した。この種の当事者の集団意識が関与するミクロ─マクロ問題は従来の金融市場理論では解明の困難なものであった。ここで構築したモデルは情報提供者であるエコノミスト群および諸処の制約を持ち投資行動に典型的な特徴を持つ6群の投資家達に対応するマルチエージェントからなる。現実の株式市場では政治経済に関連するニュースや市場データを受けたエコノミスト群の分析した株価予測情報を投資家がエコノミスト評価実績により選別利用して投資行動を起こす。本モデルは投資家達の置かれた現実を十分反映させた点で他の人工市場モデルに比しても優れている。株価の予測精度の面でも本モデルは従来の代表的な統計モデル群や類似の人工市場モデルに比べてみても優れた性能を示した。エコノミストの予測情報は様々な値を示すけれども公表されるのでそれらを投資家群が参照することにより、コンセンサス形成を促進していること、その結果投資家群の株価予測を安定化させることも実証した。またトレンド転換点での市場マクロ挙動について投資家意識との関連で統計的に詳細に論じた。

 所期の課題であるコンセンサスの存在の仕方およびコンセンサスの株価推移への影響の仕方などについては論理的には十分推測されることではあるけれども、従来の金融市場理論では定量的に解明することが出来なかったし、他方現実の市場環境の中で正確に調査することもほとんど不可能であった。少なくともリアルタイムで投資家の予測意識を現実に採取することは出来ない。このため、本研究は市場内部の集団的な当事者意識の解明と言った調査困難な課題に対する解明手段としても適切な人工市場モデルを採用することが有効であることを実証した。なおこの課題を解明できるような人工株式市場モデルは他に存在せず、本モデルが初めてのものである。本論文の構成は第1章序論から第7章結論、その後に付録A,B,Cを付けている。第1章序論では研究の目的やその意義を論じ、第2章では金融市場に関する理論背景を論じ、マクロ理論、ミクロ理論、およびミクロ─マクロ統合理論の視点から各理論を位置づけ本研究の目的には統合理論の一種であるAgent-Based Approachを採用すべき理由を論じている。第3章では株式市場の実務家の投資行動に関する実態を把握するためインタビュー調査を実施した結果について論じている。投資家とエコノミストの役割分担の存在を強く示唆している。第4章では遺伝アルゴリズムとAgent-Based Approachによる人工金融市場モデルの各種を論じ、本研究目的には情報提供者群と多種類の投資家群からなる新たなモデルの構築が必要であることを指摘した上で、新に構築した人工市場モデルの構成を詳述している。第5章ではまずシミュレーション実施条件について紹介し、学習期間や自動トレード期間の設定を述べている。次に自動トレード期間でのシミュレーション結果を多面的に統計分析しその概要を述べている。実市場でのバブル崩壊を指標として各シミュレーション・パスを整理し3グループに分け実価格推移とよく合致したグループは28%であった。実市場の推移も起こりうる母集団中の一つの実現パスに過ぎないことを考慮すればこの数値は必ずしも低い値だとは言えない。本モデルの価格推定精度をランダムウォーク説および確率微分方程式の推定式らと対比し本モデルが有意に優れていることを示した。価格増分の分布、価格と出来高の相関、それらの自己相関等について実データと対比して論じている。この後に本モデル結果を用いて、エコノミスト間で形成したコンセンサスが投資家群に伝達される条件およびコンセンサスと価格変動の関係に関わる各種の統計分析結果を報告している。エコノミストの重視した要因あるいは情報伝達条件については上昇・下降・転換期の3トレンド状況との関連で分析している。これらについて一般性を吟味する意味で他の期間や他の市場についてもシミュレーションを行い同様の結果を得ている。その上で短期的なトレンド転換点近辺での市場マクロ挙動とコンセンサスとの関係についていくつかの主要な仮説について検定している。第6章では本研究の意義と成果を強調する形で別の角度から追加的議論を展開している。対比のため計量経済(線形)モデルによる計算結果がランダムウォークモデルにも劣ることを示す。またコンセンサス形成にエコノミスト達の予測公表による寄与が高いことを確かめるため本モデルのパラメータを変更した2種類のモデルを追加して試した結果、その寄与は統計的に確かめられた。さらに本モデルで投資家のエコノミストに対する個別評価(アナリストランキング)がどのように推移するのかについても論じている。本研究の意義と成果を述べた後で関連する課題として情報の非対称性に関する鋭い考察を新たな視点から加えている。第7章では結論を述べている。申請者は本論文において、学術的に未分明であった金融市場に於ける市場コンセンサスの役割について適切な分析モデルを構築して定量的かつ多角的に解明した功績は大である。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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