学位論文要旨



No 117795
著者(漢字) 中澤,高志
著者(英字)
著者(カナ) ナカザワ,タカシ
標題(和) 職業キャリアと居住経歴から見たライフコース : 製造業研究開発技術者と情報技術者を事例に
標題(洋)
報告番号 117795
報告番号 甲17795
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第431号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 荒井,良雄
 東京大学 教授 谷内,達
 東京大学 教授 丹羽,清
 東京大学 助教授 松原,宏
 東京大学 助教授 永田,淳嗣
内容要旨 要旨を表示する

 本稿では、製造業研究開発技術者と情報技術者を対象に、主として職業キャリアに焦点を当て、個人のライフコースの描く空間的軌跡を、それを取り巻く社会経済的背景の変化に即してとらえることを試みた。かつての日本企業は、企業内での職業キャリアの形成を重視し、新規学卒者を一括採用して、年功賃金と充実した福利厚生の下で長期的に安定した雇用契約を取り結ぶ日本的雇用体系が特徴であるとされた。そこで、典型的な大企業勤務者であり、転職経験者の少ない機械関連産業の研究開発技術者を、日本的雇用体系の下におけるライフコースの代表例とした。日本的雇用体系という言葉がかつて誇った妥当性と説得力は、今日では急速に薄れてきている。本稿では、情報サービス産業およびインターネット関連産業の情報技術者のライフコースを分析することを通じ、新たな雇用体系とその下での生活のありかたを見据えようとした。

 ライフコース概念は本稿の鍵概念である。ライフコース概念は、個人の人生を職業キャリアや家族歴、住居経歴など各種の経歴の束からなるものととらえ、それを社会経済的背景の変遷と関連付けることで、ライフサイクル概念の内包する諸問題を乗り越えようとする。ライフコース概念に依拠した研究は、もっぱら客観的に把握可能な事実に基づいて個人の人生を再構成する。しかし個人の価値意識や理想像をまったく無視するわけではなく、コーホートが固有に持つ価値意識や生活規範をコーホート効果という形で取り扱う。分析単位にコーホートという人口集団を措定したことにより、ライフコース概念は生活構造論や社会変動論と結びつくことになった。ある類型のライフコースを選択する者がアノマリーとして片付けられない程度にまで増加すれば、社会は何らかの変化を迫られる。したがってたとえ絶対数は少なくとも、あるライフコースを選択する者の登場が旧来の社会/地域構造を揺るがすものであれば、それを対象にする研究は十分な意義を持ちうる。

 職業キャリアにおける役割移行を主因とする地域間移動は、いうまでもなく地域間分業が成立していることによって生じる。ライフコースを構成する諸経歴におけるそれぞれの役割は、異なった地理的特性を持つため、職業キャリア上の役割移行を原因とする地域間移動は、当事者のその他の経歴や、ほかの家族成員のライフコースに変化を及ぼさずにはいない。それゆえ職業キャリアを取り巻く社会経済的背景の空間的側面、つまりその時々の地域間分業に目を向けながら、個人のライフコースの軌跡を把握することが重要なのである。

 II章の最後の部分では、ライフコース概念に依拠した研究の意義と、それが有意義な知見を提示できるための条件について考察した。対象となる人口集団のライフコースと、それを取り巻く社会経済的背景に関する十分な情報が用意されていれば、そのライフコースに対して論理的に理解、解釈をし、整合性のある説明を与えることができる。そうした説明そのものは予測力を持つものではないが、学習や行為に際してのガイドラインとなりうる。ただしライフコース概念に基づく研究が有用なガイドラインとなりうるためには、扱っている人口集団とそのライフコースの位置づけを明確にしておく必要がある。

 III章以下では主にアンケート調査に基づく実証分析を行った。III章では、個人のライフコースを空間的にも質的にも規定するきわめて重要なイベントとして、研究開発技術者の新規学卒労働市場を分析した。高度成長期後期から1980年代にかけて就職し、現在東京大都市圏に勤務している研究開発技術者を対象者とするアンケート調査の分析から、研究開発技術者の新規学卒労働市場では、高等教育機関の果たす役割がきわめて大きいことが明らかになった。特に東京大都市圏外からの就職を行う者にとっては、教育機関が空間的なギャップの橋渡しをするとともに、良好な就業機会を確保する働きをもしている。今日でも工学系学部の卒業生は、他学部の卒業生に比べて東京大都市圏に就職する傾向が強い。ある地方国立大学の工学系学科の事例では、学生と企業のマッチングが求人票によって行われ、マッチングの場が学科に一元化されていることにより、労働市場において学生と企業が双方を探索するコストが低減されていることが示される。一方、採用実績や人事担当者の来学などを通じた企業との信頼関係を尊重し、一人一社制を鉄則とする学科推薦制度の下では、大学所在地域(多くはその学生の出身地)で就職するか大都市圏への就職かという迷いに決着を付けた上で就職活動に臨まざるを得ず、結果的に研究開発技術者の大都市圏集中が助長されてしまうと論じた。

 IV章では、わが国の製造業の発展とともに自らの人生を歩んできた研究開発技術者のライフコースを、職業キャリアと住居経歴を中心に分析することを通じ、日本の産業社会の一側面を描いた。研究開発技術者は典型的な大企業勤務者で、終身雇用を前提としており、転職率は低い。大都市圏外の生産拠点などへの転勤を経験する者もいるが、彼らの生活のベースは大都市圏にあり、社宅などの福利厚生の恩恵を受けつつ、30歳代半ばには持家を取得して大都市圏に定着してゆく。彼らは本社・営業一都心、研究開発・試作一郊外、製造現場一地方圏という地域間分業に対応して異動し、職業キャリアを形成している。40歳前後までは、大都市圏内の研究所などで研究開発に従事する者が多いが、それ以降は管理職となって次第に研究開発の実務から遠ざかる者が増加し、同時に職場も都心のオフィスヘと移行する。日本企業を取り巻く状況が大きく変わるなかで、研究開発技術者のライフコースも変化を余儀なくされているが、それがわが国製造業の技術基盤に何らかの変化を引き起こす可能性は否定できない。

 V章では、九州各県に立地する情報サービス産業の事業所とその従業員に対するアンケート調査に基づき、地方圏における情報技術者の職業キャリアを分析した。対象者の約6割は転職経験をもち、約1/3は還流移動を経験している。特に35歳以上では還流移動者が過半数に達し、還流移動者は地方圏の情報サービス産業の労働市場において重要な位置を占めている。地方圏の情報技術者の典型的なキャリアは、プログラマーからシステムエンジニアを経て管理職へと到るものである。しかし情報サービス関連以外の職から情報サービス産業に職を得る者もみられる。彼らの中には還流移動を経験した者が多く、還流移動者にとって情報サービス産業が雇用の受け皿となっているといえる。また、本稿では転職経験を中心に、個人属性や職業キャリアのパターンが年収に与える影響を分析した。九州内で転職を行った者についていえば、転職が年収に与える影響は少ない。一方で九州外からの転職の経験は、年収を押し下げる効果がある。また、還流移動の後に再び転職を行う者が多い現状は、還流移動者が抱く年収面での不満を含め、就職先の決定過程で個人と職のミスマッチが起こっていることを示唆している。

 VI章では、東京都区部における調査との比較を踏まえつつ、九州におけるインターネット関連産業の実態を、従業員の職業キャリアを中心に分析した。九州におけるインターネット関連企業は、県庁所在地などの主要都市に集中して立地するが、ソフトウェア産業の事業所と比較すれば、立地は分散的である。東京都区部と九州のインターネット関連企業および従業員の属性は、大枠では似通っている。他方で九州のインターネット関連企業従業員は地元定着者と還流移動者に分けられ、その属性や職業キャリア、年収は大きく異なる。地元定着者のうち転職を行った者では、学卒直後にインターネット関連産業あるいは情報サービス産業とは無関係の職に就いていた者が過半数を占める。これに対して還流移動者では、還流移動前に情報関連産業のシステムエンジニアやプログラマーの職に就いていた者が多い。学歴も地元定着者に比べて還流移動者の方が高い傾向にある。年齢と年収の関係を見ると、地元定着者では加齢とともに年収が上昇する傾向が見られるが、還流移動者ではこの傾向が不明瞭であり、むしろ若年者のほうが、年収が高いとすらいえる。

 日本的雇用体系の下でのライフコースを「従業員としてのライフコース」と呼び、外部労働市場で移動を繰り返すライフコースを、「労働者としてのライフコース」と呼ぶとき、前者から後者への移行は確実に進展しているものと思われる。「従業員としてのライフコース」がもたらす生活の安定は、様々な自由のなかでも、とりわけ自分がライフコースを送る場所を決定する自由を犠牲にして得られるものであった。「労働者としてのライフコース」の比重の増大は、この自由を取り戻すことと関連しており、還流移動はその最も典型的な表れである。相対的に高い賃金や職業的地位達成を犠牲にして出身地での生活を選択するライフコースと、大都市圏にとどまり、日本的雇用体系の下に身を置くライフコースとの間に、一意な序列付けは不可能である。ただし、その序列付けが不可能であるのは、いずれのライフコースも自由に選択できる限りにおいてである。長期的に一つの企業の従業員である必要は無いとしても、安定的に雇用が保障されなければ、ライフコースはきわめて厳しいものとなる。個人が安定して雇用機会を得られない主な理由としては、雇用の量的不足と労働者の技能不足が挙げられるが、それに対する処方箋を提示することは、社会科学が取り組むべき大きな課題であろう。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、製造業研究開発技術者と情報技術者を対象に、かれらの職業キャリアと居住経歴がもつ地理的特質をライフコース概念に基づいて分析したものである。1990年代後半以降、日本の労働市場は大きな転機を迎えており、いわゆる日本的雇用体系の見直しが進められている。日本的雇用体系の下で転職なしに安定した職業キャリアをすごす生活は、戦後日本を象徴するライフコースであり、機械関連大企業で働く研究開発技術者はその典型的な事例である。しかし、最近ではこうした日本的雇用体系は急速に崩れつつあり、新たな雇用体系の下で職業キャリアを形成する人々が増加している。本研究では、情報関連産業の情報技術者を事例として、そうした新しいライフコースを分析しようとしている。個人の職業キャリアは就職移動や転勤という形で居住経歴と密接に結びついているために、雇用体系の変化に伴うライフコースの変質は居住の地理的パターンを変化させ、結果として地域の変容をもたらす。情報関連産業が地方圏に定着しつつある今日、転職を前提とした職業キャリア形成を行なう情報技術者のライフコースの出現は、地方圏における人口の新しい定着要因として注目される。本研究では、既存の統計資料からでは把握が難しい個人のライフコースを、独自のアンケート調査で得られたデータから抽出し、マクロな社会経済的背景と関連づけて分析する手法をとることによって、近年の雇用環境の変化とライフコースの変質を地域の社会経済構造との関わりにおいて検討している。

 第1章では研究の背景が示され、第2章では本研究におけるキー概念であるライフコース概念の理論的検討がなされている。第3章以下は、独自のアンケート調査に基づく、技術者のライフコースの実態分析である。最初の第3章では、個人のライフコースにおける重要なイベントとして学卒直後の就職行動を扱っている。研究開発技術者の新規学卒労働市場では、高等教育機関が個人と職を結びつける役割を果たすが、そのことが結果的に就職先の大都市圏集中を助長していると主張した。第4章では、研究開発技術者の職業キャリアと居住経歴を分析した。企業内でのキャリア形成に平行して、世帯を形成し持家を取得して大都市圏に定着して行く研究開発技術者のライフコースが、日本の産業社会の縮図として描き出されている。第5章では、地方圏のソフトウェア産業における情報技術者の職業キャリアを分析し、地方圏ソフトウェア産業の労働市場では、還流移動者が重要な位置を占めていることが示された。第6章では、九州に立地するインターネット関連企業の従業員の職業キャリアを分析した結果、こうした企業の従業員の2割程度は還流移動者であり、高学歴で情報サービス産業への勤務経験を有していることが判明した。第7章では、以上の分析の結果得られた知見の総括がなされ、社会経済的背景の変化に伴って、企業や地域を渡り歩くライフコースヘの移行が進んでいることが論じられた。

 以上のように、本研究は、これまで把握が困難であった個人のライフコースに関するデータを独自に収集し、組織人としての労働者から個人としての労働者へ、地方出身者の大都市圏集中から出身地定着へというライフコースの転換を、社会経済構造のマクロな変動と結び付けて提示した点で、大きな学術的貢献が認められる。

 よって本論文の提出者である中澤高志は、博士(学術)の学位を授与される資格があるものと認める。

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