学位論文要旨



No 117797
著者(漢字) 岩谷,克也
著者(英字)
著者(カナ) イワヤ,カツヤ
標題(和) 多重極限走査型トンネル顕微鏡の開発とNiパイライト化合物の電子状態の研究
標題(洋)
報告番号 117797
報告番号 甲17797
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第433号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 深津,晋
 東京大学 教授 ��木,英典
 東京大学 助教授 花栗,哲郎
 東京大学 助教授 加藤,雄介
 東京大学 助教授 前田,京剛
内容要旨 要旨を表示する

 本研究は、様々な物性を調べる上で必要な極限環境(低温、強磁場、超高真空)に対応した走査型トンネル顕微鏡(STM)装置を立ち上げ、これを用いて、強相関電子系における金属・絶縁体(M-1)転移という現象がバンド幅制御、フィリング制御という異なるメカニズムによってどのようにナノスケールでの電子状態分布を変化させるのかを調べ、このM-1転移という現象を統一的に理解することを目的としたものである。

 本STM装置の基本仕様は、超高真空〜10-10%Torr、制御可能な温度範囲4.7K≦T≦100K、磁場≦11Tである。探針作製装置の開発および電界イオン顕微鏡(FIM)による探針先端の調整などを行なった結果、図1のような美しい原子像を得ることができた。また、低温において熱ドリフトがほとんどないため、長時間に渡る走査型トンネル分光(STS)測定が可能になった。

 フィリング制御型のM-1転移を起こす系として代表的なものは高温超伝導体である。このM-1転移近傍(つまり超伝導が発現するかしないかの境界付近(超不足ドープ領域))の電子状態を調べるためにオキシクロライド超伝導体Ca2-xNaxCuO2Cl2を対象として測定を行なった。この系は高温超伝導体の中でも超不足ドープ領域の試料作製が可能で、かつ劈開性がある唯一の物質であるため、STMのような試料の清浄な表面を必要とする測定に適している。図2(a)に得られたSTM像を示す。これから、四角格子を組んだ原子に重畳して特徴的なcorrugationが存在することがわかる。このcorrugationは自己相関関数の解析結果から格子定数の5倍〜20A程度の大きさをもつことがわかった。また詳細なSTS測定および仕事関数の場所依存性の測定を行ない、トンネル電流に含まれる仕事関数と試料・探針間踵離の寄与をすべて取り除き、純粋な局所状態密度(LDOS)を求めた結果が図2(b)である。STM像における最も明るい領域のLDOSを赤、最も暗い領域のLDOSを紫を表わしている。これから、明るい領域では擬ギャップ的な構造が発達しており、またゼロバイアスで有限のDOSをもち金属的な振舞いを示すことがわかる。一方、暗い領域ではゼロバイアスで状態がほぼゼロで絶縁体的な振舞いを示し、反強磁性絶縁体領域が局所的に存在している可能性があることを示している。このような〜20A程度の大きさで特徴づけられる不均一な電子状態はドーパントの遮蔽距離が〜0.7Aと非常に小さいことから、単なるドーパントによるポテンシャルの効果ではなくなんらかの強相関の効果が現われた結果と考えられる。

 次に、バンド幅制御型のM-I転移近傍の電子状態を調べるためにNiパイライト化合物NiS2-xSexに対する詳細なSTM/STS測定を行なった。NiS2-xSexは母物質であるNiS2のSの一部をSeで置換していくことによりx〜0.45-0.5付近で金属化する。図3にx=2.0、0.5のSTM像を示す。これから、原子がジグザグに配列していることがわかる。NiS2-xSexの結晶構造はNaCl型をとり、Na+の位置にNi2+、Cl-に(S,Se)2-が配置され(100)面で劈開することが知られている。劈開した際、S/Seの二量体の片方が最表面に現われ、この原子を観測していると考えると図3のSTM像はうまく説明できる。また、x=α5では明るくみえる原子と暗くみえる原子の2種類が観測された。x=1.0、0.7の結果も考慮に入れるとSe置換量が減るに従い、明るい原子の数が減少していく傾向があるので、明るくみえる原子はSe、暗い原子はSであるという結論に達した。さらに、x=0.45、x=0においてはジグザグ構造のない原子像が観測され、これらの像は(111)、(110)面を観察していると考えると原子配列の対称性などがうまく説明できることから、劈開によって試料表面では局所的に(100)面以外の面が現われる可能性があることを示した。

 また、詳細なSTS測定から、組成によって微分コンダクタンスd//d7(T〜5K)が図4のように変化することがわかった。これからx=0.45、0.5はともにM-I転移近傍にあるが、x=0.45は弱強磁性絶縁体、x=0.5は反強磁性金属に位置すると考えられる。また金属相(0.5≦x≦2.0)においては3本のピークが現われ、すべてのピークがx=2.0からx=0.5に近づくに従い(つまりM-1転移に近づくにつれ)、ゼロバイアス側にシフトしていく傾向がある。負バイアス側のピークは(-400〜-200mV)は角度分解光電子分光(ARPES)においても観測されているが[1]、STSに最も近いものをみている角度積分光電子分光(PES)では検出されていない[2]。また、正バイアス側のピークについても逆光電子分光(BIS)では報告されていない[3]。この原因として、装置の分解能の問題がまず考えられるが、ここではそれとは別に劈開による効果を提案した。つまり、STMとARPESはともに劈開によって清浄な表面を得ている。劈開するとNiとS/Se間の結合が切れるため、表面には未結合ボンドが存在する。これによって、それまで縮退していたS/Seの3本の砂混成軌道の縮退がとけ、これによる結合軌道、非結合軌道に起因するピークをSTMで観測したと考えた。このように考えると、負バイアス側のピークが同じように劈開した面をみているARPESだけに検出されていること、逆光電子分光ではSTMにおける正バイアス側のピークが観測されていないことが説明できる。

 次に、ゼロバイアス付近のピークは遍歴した電子のコヒーレンス性を反映したもので、M-I転移に近づくにつれ、ゼロバイアス側にシフトしていき、かつ鋭くなっていく傾向がある。これはキャリアの有効質量の増大を意味している。また、x=2.0、1.0といった金属相領域では電子状態が空間的にほぼ均一であるのに対し、M-I転移近傍の組成であるx=0.5、0.45では場所によって電子状態が大きく変化するという結果も得られた。このようにM-1転移近傍でのみ電子状態が不均一になるということはキャリアの局在性を反映した結果と考えることができる。

 以上の結果から、NiS2-xSexではフィリング制御型と比べて空間的に均一な電子状態をとること、転移近傍の組成のみ不均一な電子状態になることを明らかにした。また、この系におけるバンド幅制御型のM-1転移はこれまでバルク測定の結果[4]から提案されていた反強磁性磁気秩序に起因するギャップ形成のためのキャリア数の減少だけでなく、同時にキャリアの局在化も寄与していることを示した。

 今後の展望としては、同じNiパイライト型化合物のCo1-xNixS2およびCu1-xNixS2の測定を行ない、同じ系においてバンド幅制御とフィリング制御という異なるメカニズムによって金属・絶縁体転移近傍の電子状態がどのように変化するのかを調べることが挙げられる。

[1]A.Y.Matsuura,et al.,Phys.Rev.B58,3690(1998).

[2]K.Mamiya,et al.,Phys.RevB58,9611(1998).

[3]D.D.Sarma et al.,Phys.RevB57,6984(1998).

[4]S.Miyasaka,et al.,J.PhyS.Soc.Jpn.69,3166(2000).

図1 NbSe2のSTM像(T=4.4K)

図2 (a)Ca2-xNaxCuO2Cl2(x=0.08)のSTM像(T=7Kl,160A×160A)(b)局所状態密度の場所依存性(T=4.7K)

図3(a) NiS2-xSex、(x=2.0)のSTM像(T:=4.7K,93Ax93A)(b)NiS2-xSex(x=0.5)のSTM像(T=30K)

図4:T〜5Kにおけるd//dVの組成依存性

審査要旨 要旨を表示する

 強相関電子系とは、互いに強く排斥しあう電子の集団を意味し、昨今、物性物理分野において多くの研究者の注目を集めている。電子密度がある程度大きい条件でクーロン反発が十分大きくなると、電子は動かない(局在する)ことで安定化しようとする。電子が局在化すると、電子の「粒子」としての性質(スピン、軌道、電荷など)が現れるのに対し、電子集団がかろうじて動き出すようになると電子の「粒子性」と「波動性」の両方が顕在化し、高温超伝導や超巨大磁気抵抗などの現象が生じることが知られている。こうした質的変化は、局所的に不均一な電子状態と密接に関連していることが予想され、微視的なスケールでの電子状態を明らかにすることは、強相関電子系特有の物性の本質を理解する上できわめて重要である。提出された論文は、この要請に応えるべく、低温、強磁場、超高真空の多重の極限環境対応型の高性能走査型トンネル顕微鏡(STM)を新たに開発し、ナノスケールの空間分解トポグラフィと同時トンネル分光計測(STS)を駆使することで、強相関電子系における金属・絶縁体(M-1)転移を統一的に理解するための基盤の形成を目指すものである。

 本論文は4章118ページからなる。走査型トンネル顕微鏡概論、強相関電子系に関する導入説明に始まり、多重極限環境対応型STM装置の開発の詳細を経て、M-I転移メカニズムが異なる2種類の物質系における系統的なSTM/STS実験と、M-I転移と局所状態密度の相関に関する考察がなされ、最終章で総括が述べられている。

 サブナノメータの空間分解能を有し、電流一電圧特性を通じて局所状態密度を直接的に測定可能なSTM/STSは、強相関電子系の有効な評価手段となり得るにも拘わらず、現在までにSTMを用いて行われた強相関電子系の研究例は少ない。その理由は、(極)低温、強磁場といった特殊な計測環境、高いエネルギー分解能、近ゼロバイアス領域での探針安定性、試料の劈開性など、装置、試料に対する制約が強いからである。実際、強相関電子系におけるSTM研究の殆どは高温超伝導体(劈開容易なBi系)に限定されてきた。

 今回新たに開発された装置は、超高真空(10-10Torr)、低温(3K≦T≦100K)、磁場下(≦11T)の極限環境で動作可能なSTMであり、粗動機構ほか装置構成要素の改良に加えて、探針整形など測定を高度化するための多くの工夫が凝らされている。サブナノメータ分解能での原子像観測はもとより、低熱ドリフト特性を生かして、安定した走査型トンネル分光(STS)測定が可能となったことが、具体的事例とともに示されている。

 強相関電子系の観測では、M-1転移近傍における電子状態の変化に注目し、フィリング制御、バンド幅制御型に大別される転移メカニズムの異なる2種類の物質系を対象に、M-1転移近傍で組成を系統的に変化させた試料における局所状態密度測定を行っている。

 まず、フィリング制御型物質として、劈開性のあるオキシクロライド超伝導体Ca2-xNaxCuO2Cl2の超不足ドープ領域試料に注目し、STM/STS計測より原子の四角格子に重畳した、格子定数の5倍程度(〜20A)の大きさをもつ特徴的なcorrugationを見出している。詳細なSTS分光、仕事関数の空間分解測定から局所状態密度(LDOS〉を求め、擬ギャップ的な構造を同定するとともに、STM像のコントラストの差異に基づいて、ゼロバイアスで有限のDOSをもつ金属的な振舞いを示す領域と、状態密度がほぼゼロの絶縁体的な振舞いを示す反強磁性絶縁体的な領域が局所的に混在する可能性を見出している。そしてこのような不均一な電子状態が、まさに強相関効果の反映であることを指摘している。

 一方、バンド幅制御型の金属・絶縁体転移に関しては、Niパイライト化合物NiS2-xSexを観測対象に、系統的なSTM-/STS測定から異なる相聞の比較を行っている。この物質に関しても、原子像観察は本研究が最初のものであり、観測される原子が(100)劈開最表面のSとSeであること、これらの原子がジグザグに配列することを指摘している。また、詳細なSTS測定から、フィリング制御型のオキシクロライド超伝導体とは対照的に、電子状態が空間的に均一であることを明らかにしている。

 さらに、STS測定結果の解析から、従来のSe置換にともなうバンド幅制御型M-I転移機構に関する新たな知見を得ている。機構のモデルは主に2つあり、ひとつはx=0.5-1.0で現れる反強磁性金属相に起因し、その長距離秩序のためにギャップが形成されるせいで実効的にキャリア数が減少し、絶縁化するというものである。もうひとつは、Sの欠陥によるホール・ドーピングを考慮したモデルである。Nis2単結晶では、数%のS欠損が生じてホールがドープされるという報告があり、Se置換に伴って欠陥が増加することが予測されるものの、STM測定の結果は、少なくとも従来のドーピング・モデルを支持しないことを指摘している。

 また、STSで観測されるフェルミレベル(EF)付近の微分コンダクタンスのピークが、組成が金属・絶縁体転移に近づくにつれ、乃側にシフトするとともに先鋭化し、転移近傍の組成において電子状態が空間的に不均一になるという結果を得ている。これらは、キャリアの有効質量の増大とそれにともなう局在化を反映したものと解釈され、NiS2-xSexにおけるバンド幅制御型の金属・絶縁体転移では、バルク測定に基づいて提案されていた反強磁性磁気秩序に起因するキャリア数減少だけでなく、キャリアの有効質量増大が寄与することを指摘している。一方で、同様な傾向がフィリング制御型M-I転移を起こすペロブスカイト型チタン酸化物La1-xSrxTiO3でも報告されている事実に鑑み、キャリアの有効質量増大と局在化が、金属・絶縁体転移という現象自体に普遍的な特徴である可能性に言及している。

 以上のように、論文提出者は、本研究において新たに開発した多重極限環境対応の高性能STMを駆使することで、強相関電子系物質におけるM-1転移に関する数多くの新しい知見を見出すとともに、同物質系におけるナノスケール計測の有効性を実証することで、関係諸分野の今後の研究に新たな展開をもたらすべき大きな貢献を果たした。

 以上の内容を審査委員会で審査した結果、本申請論文は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定した。

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