学位論文要旨



No 117801
著者(漢字) 原田,弦太
著者(英字)
著者(カナ) ハラダ,ゲンタ
標題(和) スピン分極ドナーの構造化とその物性
標題(洋)
報告番号 117801
報告番号 甲17801
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第437号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅原,正
 東京大学 教授 小島,憲道
 東京大学 教授 小林,啓二
 東京大学 助教授 村田,滋
 東京大学 助教授 松下,信之
内容要旨 要旨を表示する

 本研究では、分子にスピンを担わせ新しいスピン系を実現する「分子磁性」の特徴を生かしながら、スピン系に操作性を持たせることで、スピン分子素子研究の基盤を確立することを目指した。そのアプローチの一つとして、一電子酸化により基底三重項カチオンジラジカルを与えるスピン分極ドナーを取り上げ、ドナー部を構造化することにより、スピン多重度変換系としての拡張を行った。次いで、金ナノ粒子をコアに選び、導電性を持つコアをスピン分極させる試みに挑戦した。

 第2章「TTF型ポリラジカルドナーの合成と性質」においては、スピン多重度変換系として、高いドナー性を有するTTFをドナーコアに選び、スペーサーとしてのp-フェニルチオ基を介して、安定ラジカルであるニトロニルニトロキシドを、2個導入した誘導体(DTPN)および、4個導入した誘導体(TTPN)を合成した(Figure1)。なお、4置換体では、NNのメチル基の一つをヘキシル基に置換したことが、その合成に成功した鍵となっている。

 これらのドナーラジカルは、1電子酸化により、それぞれ基底4重項、基底6重項を与える可能性があり、可逆的なスピン変換系としての可能性を秘めている。ジラジカル(DTPN)のDPV(Differential Pulse Voltammetry)を測定したところ、1電子目のドナー部からの酸化波が、2波目の酸化波とほぼ完全に分離していることを見いだした(Figure2)。この結果より、目的とする1電子酸化種を、電位選択的に発生できることがわかった。

 テトララジカル(TTPN)についても対応する結果が得られているが、十分であり、1電子酸化種の電位選択的な発生は困難である。

 これらドナーラジカルの酸化種の同定のために、定電位電解装置(potentiostat)を用いて、ジラジカルの溶液に電位をかけて酸化しながら、吸収スペクトルの変化を観測した。この目的のために、吸収スペクトル測定用の石英セルを接続した小型の電解セルを自作した。このセルと電極を用いてジラジカルの溶液を酸化し、吸収スペクトルから1電子酸化種の生成を確認した。得られた1電子酸化種の溶液を無酸素雰囲気下でESR測定用チューブに移し、4KにおいてESRスペクトルを測定したが、多重項種と思われるシグナルは得られなかった。この結果は、2分子の1電子酸化種がダイマー化し、電荷移動によってカチオンラジカルとしての性質が消失したとして解釈されるまた、テトララジカルに関しては、溶液中では効率のよい不均化の過程が存在することが示唆された。

 一方、テトララジカルおよびジラジカルの盟酸化種を・室温でラジカルのTHF溶液に大過剰のヨウ素を加えることによって生成させ、凍結したマトリックス中でサンプルのESRスベクトルを測定したところ、それぞれのドナーラジカルにおいて、多重項種に由来するシグナルが観測された(Figure3)。両者において、多重項シグナルのピーク強度の温度依存性を測定したところ、Curie則に従った。この結果は、これらの酸化種が基底多重項であることを示している。

 第3章 「π-ラジカルテオールが化学吸着した金ナノ粒子(SPN-hex@Au)の合成と同定」においては、スピン分極ドナーを将来の単分子計測に向け、ドナー部の飛躍的な構造化を計画した。即ち、本来なら有機ドナー部を段階的に構造化するのが常法であるが、ここではコアとして、直径4nmの金ナノ粒子を用いることにした。このサイズの金ナノ粒子は、内部に伝導電子を有するので、ここにπ-ラジカルテオールを化学吸着させれば、伝導電子と有機ラジカルの不対電子との間に交換相互作用が生じ、特色あるスピン系が得られると期待されたからである。ここにおいても、メチル基の一つをヘキシル基で置換したNNを用いることで、平均粒径4nmの金ナノ粒子(Av.Au1750)に約100個の有機ラジカル配位子が、ほぼ最密に化学吸着した金ナノ粒子の合成法およびその精製法を確立することができた(Figure4)。この点は、本研究の大きな成果と考えている。

 一方、生成したπ-ラジカルテオール化学吸着型金ナノ粒子の粒径分布を明らかにすることは、本研究において重要な意味を持つ。そこで、この金ナノ粒子の、電解放射型透過型電子顕微鏡(FE-TEM)による観察を行った(Figure5(a),(b))。任意に200個抽出したサイズ分布のヒストグラムをFigure5(c)に示す。これより、平均粒子径は4.1nmと見積もられ、比較的サイズがそろっていることが分かった。また、得られたSPN-hex@Auは元素分析の結果から、金原子とラジカルの比は約14:1と見積もられた。これは金ナノ粒子粒径を4.1nmと仮定した場合、125個のラジルが化学吸着していることに相当し、ほぼ最密に吸着していることが分かった。

 TEMによる観察結果をより確実なものとするため、X線小角散乱を用いて、溶液中の金ナノ粒子のサイズ分布の評価を行った。X線小角散乱法を用いた場合、短時間で容易に、かつ平均的な粒径分布を決定することができる。SPN-hex@Auおよび、参照化合物としてのドデカンチオールが科学吸着した金ナノ粒子(DT@Au)のトルエン溶液を、0.7mmΦのガラスキャピラリに注入し、理学電機社製高分解能X線回折測定装置(ATX-E)を用いて、小角領域(2θ<8°)の散乱プロファイルを測定した。このプロファイルの非線形最小二乗プロファイルフィッティングにより、金ナノ粒子の平均粒径と分散とを見積もることに成功した(Figure6)。

 第4章「π-ラジカルテオールが化学吸着した金ナノ粒子(SPN-hex@Au)の性質」においては、SPN-hex@Auの物性についての測定結果および考察を述べる。ここでは、π-ラジカルテオールが化学吸着した金ナノ粒子における磁気的相互作用のみでなく、ジスルフィドを前駆体とし、チオール類と金表面に化学吸着させたときの電子構造にも注目した。その結果、チオール類が化学吸着した金ナノ粒子の電子状態について、メスバウアースペクトルで興味ある知見を得ることができた。

 さらに、π-ラジカルテオールが化学吸着した金ナノ粒子の、有機ラジカル配位子の不対電子と金ナノ粒子内の伝導電子との相互作用を、吸収スペクトル、ESRスペクトルの温度依存性により、詳細に評価した。この際、いくつかの比較化合物を用い測定を行ったところ、その吸収スペクトルからは、表面プラズモン共鳴吸収が粒径に依存するだけでなく、リガンドの誘電率の差により共鳴周波数の違いが生ずることが観測された。

 π-ラジカルテオールが化学吸着した金ナノ粒子の固体状態におけるESRスペクトルにおいてはPeak-to-peakの半値幅が30mTで、全体では360mTにも及ぶ、著しく広い吸収線が観測された(Figure7)。このような広い吸収線は、ニトロニルニトロキシド上の不対電子がπ-電子を通じ金の伝導電子を介して互いに相互作用することにより、著しく速い緩和過程を持つことに由来すると考えられる。実際、ピーク強度のマイクロ波パワー依存性の測定からこの傾向が確認された。

 最近、平尾らはメタンチオールが化学吸着した金表面の量子化学計算を行っている。この結果を基に考察し、ESRスペクトルで見いだされた吸収線の著しい広幅化の原因は、ジスルフィドの還元的解裂による化学吸着に伴い、金の5d10軌道に部分的にホールが生じ、軌道角運動量が発生し、これと有機配位子の不対電子とが相互作用したために、不対電子のESRの緩和時間が極めて速くなったことにあるとの解釈を得ている。

 以上、スピン分極ドナーの構造化を目指した本研究では、TTF型ポリラジカルドナーおよびπ-ラジカルテオールが化学吸着した金ナノ粒子の合成、キャラクタリゼーション、物性評価について詳細な検討を行い、多くの新しい知見を得ることができた。現在、金の伝導電子と有機ラジカルの不対電子の相互作用はそれほど大きくはないが、将来、よりスピン分極の大きいリガンドを用いる、金属の種類を変えるなどの改良を行えば、金属ナノ粒子上に化学吸着した有機配位子のスピン間に、強磁性的な相互作用が生じる可能性があると考えている。もしこのようなナノ粒子が誕生すれば、将来の分子性スピン素子としての高い可能性を秘めた、極めて興味深いスピン系になると期待している。

Figure1 TTF型ポリラジカルドナー

Figure2 ジラジカル(DTPN)のDPVの測定結果

Figure3 ジラジカル(DTPN)の酸化種のESRスペクトル

Figure4 SPN-hex@Auの合成

Figure5 過型電子顕微鏡観察

Figure6 X線小角散乱法を用いた場合の粒径分布

Figure7 SPN-hex@AuのESRスペクトル

審査要旨 要旨を表示する

 近年、分子磁性と呼ばれる分野が急速な発展を遂げた。そこでは有機分子に不対電子を担わせることで、新しいスピン系を創成し、続々と顕著な成果が生みだされている。また、最近は第二世代の有機スピン系として、外的刺激(電子授受、外圧、光照射など)により、スピン系が変調しうる仕組みを組み込んだ、操作性のあるスピンシステムに関心が集まっている。その中にあって、申請者はスピン分極ドナー(一電子酸化により生成したπ-非局在スピンが、ラジカル部の不対電子と正の交換相互作用をもち、基底高スピン種を与えるドナー性ラジカル)をとりあげ、その特性を一層顕著にした新しいスピン系を開発することを研究目標として掲げた。本論文の第一章では、この目的に沿った研究対象として、次の二つの具体的スピン系を提起している。第一は、伝導電子を担いうるTTF骨格をドナー部とするTTF系スピン分極ドナーを対象とし、TTF骨格に複数の安定ラジカルを導入し、電子授受によりスピン多重度が大きく変化する系を設計・合成すること、第二は、上記研究を基盤としつつも、実際にスピン分極ドナーの機能をナノサイエンスの材料として活用することを念頭に置き、内部に伝導電子を有する金ナノ粒子をコアとし、これにスピン分極ドナー(π-ラジカルテオール)を化学吸着させることで、ナノメーターサイズの有機無機複合型スピン分極ナノコアを合成するというものである。通常、博士課程の研究としては、確実性を重要視し、連続的な展開を考えがちであるが、申請者は第一の課題に次いで飛躍的な新しい課題に挑戦する方向性を打ち出した意欲は注目に値しよう。

 第二章において申請者は、第一の目標に関する具体的分子設計として、TTF骨格にフェニルチオ部位を介して安定ラジカルであるニトロニルニトロキシド(NN)が2つ置換したジラジカルドナーDTPN、4つ置換したテトララジカルドナーTTPNを設計し、その合成と単離に成功している。注目すべきは、申請者が上記のテトララジカルの合成の問題点であった前駆体の溶解性の悪さを、予め長鎖アルキル基を導入しておくという新規な合成経路により克服し、さらに10段階以上に渡る合成経路の、各段階の最適条件を精査することで、標的化合物の合成に成功した点である。申請者により開発されたTTF型ポリラジカルドナーは、期待通り、良好な溶解性と化学的安定性を有していることがわかった。また、酸化種の挙動を詳細に追跡するため、吸収スペクトルを測定できる小型の電解セルを自作し、酸化種の電子構造について、詳細な知見を得ている。さらにその結果をもとに、低温マトリックス中で、ヨウ素酸化種の電子スピン共鳴(ESR)測定を行い、基底多重項種の検出に成功している。が混合原子価を持つイオンラジカル塩の合成により磁性金属を与える可能性を有しており、新規有機スピン系の構成要素としての今後の展開が期待される。

 第三章において申請者は、スピン分極ドナーのドナー部をさらに構造化するため、π-ラジカルジスルフィドを前駆体とし、還元的開裂により対応するチオール(スピン分極ドナー)を金ナノ粒子に化学吸着させた、スピン分極ナノコアの合成に挑戦している。金ナノ粒子は、1)バルクの金と比較して表面積が非常に大きい、2)表面に多くのアルカンチオールが化学吸着すると通常の有機溶媒に可溶となる、3)電子構造がナノ粒子のサイズに依存して変化し、特に4nm以上の金ナノ粒子は金属的伝導性を有する、といった特徴を有している。従って金表面にπ-ラジカルを化学吸着できれば、π-電子を介してラジカル部の不対電子が金内部の伝導電子と相互作用し、極めて興味深い電子構造が実現しうると期待される。このπ-ラジカルテオール化学吸着型金ナノ粒子の調製は、通常の有機化合物の合成と異なる多くの困難があったが、申請者はラジカル配位子に、長鎖アルキル基を導入するという改良を加えることで、有機溶媒に可溶なπ-ラジカルテオールが化学吸着した金ナノ粒子を確実に調製することに成功した。さらに、巧妙な溶媒選択により再沈を繰り返すことで、目的物のみを単離精製する方法を確立した。この辺りの工夫には、申請者のマテリアルケミストとしてのセンスが生かされており、審査員全員から高い評価を得た。

 π-ラジカルチオールが化学吸着した金ナノ粒子の、サイズ分布およびラジカルテオール配位子の吸着量を正確に知ることは、本研究において特に重要である。ここで申請者は、粒径分布の測定法として、従来用いられている透過型電子顕微鏡(TEM)による観察のみならず、X線小角散乱法による平均的な粒径分布解析を試みた。このX線小角散乱を用いた解析法の開発は理学電機株式会社との共同研究で行われたが、申請者の試料がこの解析にとって格好の材料であることを活かし、解析法の確立に至った点は特筆に値する。その結果、この金ナノ粒子の平均粒子径は約4.1nmであることが明らかとなった。さらに、ラジカルテオール配位子の吸着量を、元素分析および磁化率の温度依存性測定から求めたキュリー定数より明らかにし、平均4nmの金ナノ粒子に約100個(金表面をほぼ細密充填する量)の有機π-ラジカルが化学吸着しているとの結論を得ている。

 第四章において申請者は、得られたπ-ラジカルテオールが化学吸着した金ナノ粒子の物性について記述している。まず、溶液の吸収スペクトルの測定により、表面プラズモン共鳴吸収のピークが観測されたことから、この金ナノ粒子が金属的伝導性を持っていることが示された。

 さらに、固体状態におけるESRの共鳴線が、300mTにも及ぶ著しい広幅化を起こしていることを見出し、このような広い吸収線は、π-ラジカル上の不対電子がπ-電子を通じ、金の伝導電子を介して互いに相互作用することに由来すると推論している。

 さらに、その機構を考案するにあたり、申請者はジスルフィド型配位子が金表面に還元的開裂を伴って化学吸着する際、金表面の5d、6s電子にホールが生じうることを指摘し、メスバウアースペクトルの測定より得られた異性体シフトと四極子分裂の値から、そのことを実証した。その上で、広幅化の原因が、「金のd10電子構造内に生じたホールにより軌道角運動量が発生し、これが有機π-ラジカルの不対電子とスピン軌道相互作用したことにある」との結論を得ている。

 伝導電子と局在スピン間の交換相互作用の存在に関する確証を得るには、より詳細な実験結果を待たねばならないものの、以上の成果を審査委員会として総合的に判断し、本研究は「ナノメーターサイズの有機無機複合型磁性材料の中でも、金の伝導電子と有機スピンの相互作用を確認した初めての例であり、かつ両者の間に磁気的相互作用を導入しうる極めて重要な系を提供したもの」として高く評価することができるとの結論を得た。さらに以上の成果は、申請者の優れた合成能力と、注意深い実験・観察および、合理的な推論と検証実験の積み重ねによりもたらされたものと認めることが出来る。

 よって、本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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