学位論文要旨



No 117824
著者(漢字) 大野,真也
著者(英字)
著者(カナ) オオノ,シンヤ
標題(和) 窒素吸着銅(001)面上のナノスケール構造形成
標題(洋) Formation of nanoscale structures on nitrogen adsorbed Cu(001) surfaces
報告番号 117824
報告番号 甲17824
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4295号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 長谷川,修司
 東京大学 教授 家,泰弘
 東京大学 助教授 木下,豊彦
 東京大学 教授 塚田,捷
 東京大学 助教授 福谷,克之
内容要旨 要旨を表示する

 超高真空中に作成された清浄表面の研究において、表面上での個々の原子、分子のどのような運動過程を経て秩序化されたナノスケール構造が形成されるかを理解することは、表面研究における最も基礎的な課題の一つである。

 本研究では、Cu(001)-c(2×2)N表面における自己組織的パターン形成とこの表面上でのナノスケール構造の形成をテーマとした。吸着表面のパターン形成としてはCu(110)-(2×1)O表面のストライプパターンなど知られている例は少ない。これらの系では、パターン形成と弾性歪みとの相関の研究が重要な課題である。特に、Cu(001)-c(2×2)N表面上のパターンは金属やガス分子の吸着に対し安定であるため、ナノスケール構造を作成するための下地として利用できるという特徴をもつ。

 そこで、走査トンネル顕微鏡(STM)を用いることにより、この表面におけるナノスケール構造の形成を、吸着、拡散、置換等の素過程に基づいて理解することを目標とした。局所プローブ顕微鏡の代表であるSTMは、表面上で局所的に起こる素過程を定量的に測定するための最適な手法である。

 まず、Cu(001)-c(2×2)N表面の作成法と特徴を述べる。Cu(001)表面に窒素イオンを照射し、600Kで5分間程アニールし室温に戻すと、c(2×2)原子配列の窒素吸着構造が形成される。ここで、飽和面の窒素被覆量を0.50MLと定義する。窒素被覆量が0.3ML以下では、縦横の幅が平均5nmの方形の窒素吸着構造(パッチ構造)が形成される。これらは、[100]又は[010]方向に整列する傾向を持つ。特に、被覆量を0.25-0.30MLとすると、パッチ構造が格子状に配列しそれらを隔てる銅細線の幅は平均2nmとなる。この表面構造をグリッドパターンと呼ぶことにする。さらに被覆量を増した表面では、[110]または[110]方向にのび、約1.5nmの幅の単原子ステップの溝(トレンチ構造)が形成される。表面全体が窒素により被覆されると、ステップ構造とトレンチ構造のみが形成され、パッチ構造は完全に消失する。

 グリッドパターンの形成機構は定性的には次のように考えられている。Cu(001)表面のホローサイトに窒素が吸着すると、吸着された銅原子間の格子間隔を押し広げようとする応力が生じる。窒素吸着構造は局所的にはc(2×2)構造をとると安定であるが、吸着領域は無制限に大きくなることはできない。パッチ構造の平均サイズ(5×5nm2)構造を取ることによる安定化エネルギーと弾性歪みによるエネルギーの増大との競合によって決まる。グリッドパターンでは、銅細線格子の格子定数はCu(001)清浄表面のそれよりも縮むことにより、窒素吸着による弾性歪みを解消していると考えられている。

 これまで、この表面を用いて行われた研究は、(1)Cu(001)-c(2×2)N表面における吸着誘起再構成表面構造の形成過程を明らかにする研究、(2)同表面におけるナノスケール構造形成を明らかにする研究、(3)同表面におけるナノスケール構造の電子状態と磁性を明らかにする研究に大別される。本件究は、過去になされた研究又は平行してなれさた他研究グループの研究を発展させる目的で、(1),(2)に関してなされたものである。

 以下に研究の概要を述べる。

 これまで、Cu(001)-c(2×2)N表面のパターン形成について、表面における弾性歪みが主要な役割を果たしていると考えられてきた。しかしながら、窒素吸着したステップ近傍での格子緩和を除いて弾性歪みを直接的に観測したとする報告はなされていなかった。そこで、本研究ではパッチ構造とその近傍の弾性歪みの測定を行った。その結果、パッチ構造の窒素吸着サイトが弾性歪みが無いとした時のホローサイト位置から、格子が広がる向きに歪むこと、その変位がパッチ構造と清浄な銅表面側の格子歪みも観測された。

 さらに微斜面におけるパターン形成を調べたところ<110>方向に微傾斜した(0.5-1.1°)Cu(001)-Cu(001)-c(2×2)N表面において、「ラビリンス」(図1(a))と「ストライプ」(図1(b))の二種類のパターンが形成されることを見出した。これらのパターンでは、グリッドパターンの銅細線とは向きが45°異なる、[110]又は[110]方向で幅が約1nmの銅細線が形成される。ストライプパターンでは、ステップと平行な銅細線をもつドメインが優勢である。よって、ステップ<110>方向のステップが密であることがこれらのパターンが形成される必要条件であると考えられる。これらのパターン形成は、ステップでの弾性歪みを考慮することにより、現象論的な解釈が可能である。また、<100>方向に微傾斜した(2.0-2.4°)表面では、図1(c)に示すように幅が約5nmの狭いテラス上でパッチ構造が一次元配列すると安定であることを見出した。

 弾性歪みと吸着との関係を明らかにするために、グリッドパターン上に酸素を室温で20L曝露した。酸素の吸着構造は1nm以上の幅の銅細線において、窪みとして観測された。パッチ構造の中央付近では酸素吸着による構造変化は観測されなかった。また、幅が1nm以下の銅細線(ml)上には吸着せず、また四つのmlと連結した交差領域においては吸着が起こりにくいことが分かった。これらの結果から、窒素吸着した領域は、微量の酸素によって構造変化しにくいこと。銅の格子定数が相対的に広がっていると考えられる領域で、酸素が吸着し易いことが明らかにされた。ml上で吸着しにくい要因としては、窒素吸着による直接的な銅原子の電子状態の変化の影響も考えられる。この現象は、表面の局所的な弾性歪みと吸着バリアーとの相関を調べた数値計算の結果と定性的に一致する。

 グリッドパターン上における、金属の島のアレイ構造の形成過程を解明するため、鉄の島の成長の膜厚依存性、蒸着速度依存性(0.015ML/min,0.20ML/min,2.0ML/min)、鉄蒸着時の基板温度依存性(室温,100K)を詳細に調べた。表面磁性研究への応用の観点から、Cu(001)表面上における研究が豊富である鉄を選択した。グリッドパターン上に室温で2.0ML/minの蒸着速度で鉄を蒸着した時の膜厚依存性を図2に示す。矢印が示している黒い斑点は、鉄が表面の銅原子と置換して形成されたクラスター(埋め込み)を表す。膜厚0.003MLでは、図2(a)に示すように銅細線格子の交差領域の、パッチ構造との境界付近(領域XE)で1nm以上の鉄の埋め込みが形成され易いことが分かる。膜厚0.015MLの図2(b)では、微小な鉄の島が銅細線格子とパッチ構造の両方に形成される。前者の島に着目すると、領域XEで微小な鉄の島が形成され易いことが分かる。このことは、鉄の埋め込みが核形成中心として働くことを直接的に示す結果である。さらに、膜厚を増すと0.03ML(図2(c))と0.16ML(図2(d))に示すように大きさが4nm2以上の鉄の島は銅細線格子の交差領域でのみ選択的に成長する。

 銅細線格子の交差領域における鉄の島の成長機構は図3のようにまとめられた。すなわち、(a)鉄の埋め込みが領域XEで形成される。(b)微小な鉄の島が鉄の埋め込み上に形成される。(c)交差領域全体に島が成長する。交差領域における島の成長速度は他の場所と比べて格段に速い。これらの過程は、蒸着条件に依存しないことが確かめられた。

 また、原子交換と島の組成との関係を調べるため、交差領域で形成された鉄の島への銅原子の混入の割合を評価した。STM画像のコントラスト差から見積もられた値(2-3%)は、Cu(001)表面に鉄を室温で蒸着した場合に報告されている値(約17%)に比べて大きく減少している。このことは、Cu(001)-c(2×2)N表面のグリッドパターンでは、窒素吸着によりステップから供給される銅原子、置換により下地から供給される銅原子が共に減少することにより、定性的に理解される。

 本研究を総括すると、(1)Cu(001)-c(2×2)N表面における弾性歪みを定量的に解明したこと、(2)同表面における新たなパターン形成を発見しその形成機構を現象論的に説明したこと、(3)グリッドパターン上の酸素吸着構造を解明したこと、(4)グリッドパターン上の鉄の島の成長様式とその形成機構を解明したこと、とまとめられる。

図1:(a)ラビリンスパターン,(b)ストライプパターン,(c)パッチ構造の一次元配列

図2:グリッドパターン上に室温で2.0ML/minの蒸着速度で鉄を蒸着した時の膜厚依存性。矢印は、銅

表面への鉄の埋め込みを表す。(a)O.O03ML,(b)O.015ML,(c)0.03ML,(d)0.16ML

図3:銅細線格子の交差領域での鉄の島の初期成長のモデル。(a)鉄の埋め込みの形成,(b)微小な鉄の

島の形成,(c)鉄の島の成長

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、固体表面上に自発的に形成されるナノスケール構造体について、その原子尺度の構造および形成要因を実験的に明らかにした研究である。つまり、窒素が吸着した単結晶の銅表面上に形成されるナノスケール構造体を題材とし、走査トンネル顕微鏡法(STM)を駆使して、そのナノ構造の形成過程、および、そのナノ構造をテンプレートとする新たなナノ構造体の形成過程を詳細に解析し、表面近傍での弾性歪みとの関わりとして現象を理解することに成功した。これらの研究成果によって、固体表面上に自己組織的に成長するナノスケール構造体の形成原理の理解が飛躍的に進み、ナノサイエンス・テクノロジーの研究にとっても重要な知見を与える研究となっている。

 本論文は9つの章から構成されている。第1章では本研究の背景と関連するこれまでの研究を概観し、その中から生まれた問題意識および本研究の目的が述べられている。第2章では、本研究で使用した実験手法を説明している。第3章以下で、本研究の結果および考察が詳述されている。第3章では、窒素の吸着によって形成される銅単結晶表面上でのナノ構造の形成過程を弾性歪みの観点から明らかにしている。第4章では、微傾斜表面を用いた場合、今までに報告されていない新しいナノ構造パターンが形成されることを述べている。第5章では、第3章で議論されたナノ構造表面上に酸素を吸着させた場合の構造変化を調べている。第6、7、8章では、第3章のナノ構造をテンプレートとして、その上に鉄を蒸着した場合に形成される鉄ナノ微粒子アレイについて、その構造や組成、形成過程を詳細に調べている。第9章において本論文で明らかにされた結果、その意義、および今後の研究の展望をまとめている。

 最近の表面物理の分野での研究の進展は目覚しく、それは原子スケール・ナノメータスケールで観察・測定が可能な各種実験手法の進歩に負うところが大きい。その中で、本研究の中心的ツールとなったSTMは、試料の表面構造を原子レベルで観察・加工できる実験手法として、幅広い分野で利用されている。本論文は、銅単結晶表面上に、一定条件のもとで自発的に形成されるナノ構造パターンについて、STMを用いて詳細に研究した成果である。

 本研究の成果は大きく分けて二つある。

(1)窒素吸着誘起ナノ構造パターンの形成要因の解明:

 銅単結晶表面上の窒素誘起ナノ構造パターンの形成には、弾性歪みが重要であることが従来から予想されていたが、本研究では、原子分解能のSTM観察を行い、原子位置が実際に変位し、しかもその変位の方向や量が場所に依存して局所的に異なることを初めて見出した。それをもとに、ナノ構造パターンの形成モデルを定量的に構築することに成功した。さらに、微傾斜の銅単結晶表面を用いた場合、原子ステップによる弾性歪みの影響によって、新しいナノ構造パターンが形成されることを発見した。また、このように局所的に歪みが異なるナノ構造パターン上に酸素を吸着させた場合、格子が歪んでいる場所に優先的に酸素が吸着することも明らかとなった。これは、弾性歪みと吸着のためのポテンシャルバリアとを関連づけた理論と一致する結果であった。このように、ナノ構造パターンの形成の要因を弾性歪みとして定量的に解明した。

(2)ナノ構造パターンをテンプレートとして形成される鉄ナノ微粒子アレイ形成の解明

 上記の窒素吸着誘起ナノ構造パターンをテンプレートとして、磁性金属の微粒子を周期的に並べた構造の形成過程および磁性の研究が従来からなされてきた。本研究では、鉄微粒子について形成条件をさまざまに変えて詳細に調べた。その結果、鉄を上記ナノ構造パターン上に蒸着していくと、はじめに弾性ひずみが大きい領域で小さなクラスターが形成され、それを核形成中心として鉄ナノ微粒子が形成されることが判明した。しかも、その初期クラスターは、蒸着された鉄原子が、基板表面の銅原子と置換して埋め込まれた「埋め込みクラスター」であることもつきとめた。さらに、形成された鉄ナノ微粒子内には、わずかに基板からの銅原子が混入していることも明らかにした。

 以上のように、論文提出者は、固体結晶表面上に自発的に形成されるナノ構造パターンについて、その構造および形成過程を詳細に研究し、これらの現象を原子尺度で理解するための重要な知見を得た。このように本研究は、最先端の実験技術を駆使して初めてなされたものであり、その独創性が認められたため、博士(理学)の学位論文として十分の内容をもつものと認定し、審査員全員で合格と判定した。なお、本論文は、共同研究者らとの共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験の遂行や結果の解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

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