学位論文要旨



No 117830
著者(漢字) 坂口,淳
著者(英字)
著者(カナ) サカグチ,ジュン
標題(和) レーザー・マイクロ波分光による反陽子ヘリウム原子の超微細構造と極超微細構造の観測
標題(洋) Observation of hyperfine and superhyperfine structure of antiprotonic helium atom by laser-microwave spectroscopy
報告番号 117830
報告番号 甲17830
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4301号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 片山,一郎
 東京大学 助教授 櫻井,博儀
 東京大学 助教授 酒井,広文
 東京大学 教授 山崎,泰規
 東京大学 教授 蓑輪,眞
内容要旨 要旨を表示する

 反陽子ヘリウム原子(P-e-He2+)は通常のヘリウム原子の軌道電子の一つを反陽子で置換して造られるエキゾティック原子である。一般的に原子の軌道に捕らえられた反陽子はピコ秒以下の短い時間しか生き延びることが出来ず、核子と反応してたちどころに消滅してしまうが、反陽子ヘリウムは例外的に約3%の割合でマイクロ秒程度の極めて長い寿命を持つということが判明している。この長い寿命をもってすればレーザー等で分光することも可能であり、我々は反陽子ヘリウムを分光することによってそのエネルギー構造を調べてきた。特に2001年に我々は、従来レーザーのみでは精度よく測定することの難しかった反陽子ヘリウムの準安定準位の超微細構造を、レーザーとマイクロ波を組み合わせた分光を行うことで観測することに成功した。

 反陽子ヘリウム原子の超微細構造は反陽子が持つ磁気モーメントと1s軌道に残っている電子の持つ磁気モーメントとが相互作用することによって生まれる。準安定準位の反陽子はl〜37という高い軌道角運動量を持っており、これが電子のスピンSeと結合することで合成角運動量F=l+Seに依存した超微細構造が現れる。さらに反陽子固有のスピンs-pによる磁気モーメントがl及びSeと結合しすることで、準位は全角運動量J=F+S-pに応じより細かく分裂する(※図1参照)。我々が極超微細構造と呼んでいるこの分裂は超微細構造の分裂よりさらに2桁小さく、我々のレーザーの性能では全く見ることの出来なかったものである。この超微細構造を観測するために我々が考案したのがレーザー・マイクロ波3重共鳴実験である。この実験では周波数νM〜12.9GHzのマイクロ波電磁場を使って準安定準位(n,l)=(37,35)(nは反陽子の主量子数)の超微細準位間にM1遷移を起こしそれを観測する。通常図1の二つの準安定分裂準位F+(F=l+1/2)とF-(F=l-1/2)にはほぼ同数の反陽子原子が存在すると考えられるが、まず線幅の細いレーザーパルスを用いることによってそのうちの一方F+側の原子のみを隣接して存在する短寿命準位F'+((n,l,F)=(38,34,34+1/2))に遷移させ消去する。するとF+側とF-側の原子数に差が生じるので、マイクロ波の周波数が共鳴周波数(図1のνHF+またはνHF-)に一致すればF-側からF+側への占有数の移行が起こるはずである(※図2参照)。F’+側にいる原子の数は再度レーザーでF'+への遷移を起こし、消滅する原子の数を測定することで調べることができる。2回目のレーザー遷移によって誘引される反陽子ヘリウムの消滅の量を、マイクロ波の周波数を変えながら計測することにより我々はマイクロ波共鳴の有無そして共鳴の起こる周波数を知ることができる。

 我々は2001年の夏にCERNの反陽子減速器ADを用いて反陽子ヘリウムを生成し、8日間にわたってこのマイクロ波分光実験を行った。図3は実験の結果得られたマイクロ波遷移を示すスペクトルで、周波数12.896GHzと12.924GHzにおいて超微細構造間の遷移が起こっていることを示している。2つの共鳴周波数は極超微細構造を反映し、それぞれがνHF+とνHF-に相当している。これが反陽子ヘリウムについて初の極超微細構造の観測例である。

 一方で反陽子ヘリウム原子については量子3体系計算に基づく理論的な研究もなされており、2つのグループが共鳴周波数νHF+とνHF-を計算している(表1参照)。実験により求められた値と理論計算値の間、及び両計算値の間のずれは30ppm程度であり、測定誤差の範囲内で一致している。現在超微細構造に関する3体系計算の限界はおよそ50ppmと見積もられており、今回の実験ではこのオーダーまでの両計算の妥当性を検証することができたといえる。

図1:反陽子ヘリウムの準安定準位(n,l)=(37,35)と短寿命準位(38,34)の超微細構造を表すエネルギー準位図。

合成角運動量F≡l+SeとJ≡F+S-pの値に応じて超微細分裂νHF及び極超微細分裂νSHFが生じている。

図2:3重共鳴実験において、各超微細準位(及び短寿命準位)に属する反陽子ヘリウム原子の数の時間変化を表すダイアグラム。

(a)はマイクロ波遷移がない場合に、(b)は準位J-+から準位J++へのマイクロ波遷移があった場合に相当する。

図3:マイクロ波共鳴遷移のスペクトル。

遷移の強さを表す指数ηはR(第2レーザーによる反陽子ヘリウム消滅数と第1レーザーによる消滅数の比)を、マイクロ波をかけなかった場合の値で規格化したものである。

図4:理論計算によって求められた共鳴周波数の値と今回マイクロ波分光実験の結果を解析して求めた値。

現時点での計算精度の限界は5×10-5とされている。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文では反陽子(p)がHe原子軌道に捕獲されて形成される反陽子ヘリウム原子(pHe+)の準安定状態についてマイクロ波を用いた高精度の分光を行い、電子、ヘリウム原子核、反陽子が形成する三体系の最新理論の結果が検証されている。第1章では研究に至った背景と研究目的、第2章ではpHe原子とマイクロ波分光のレビュー、第3章はレーザー・マイクロ波・レーザーの3重共鳴法、第4章はデータ解析、第5章ではまとめ、の順に記述している。

 pHe原子の準安定状態は1991年日本のグループによって発見された。pがHeガス中に止められるとpはHeのls軌道電子の替わりに高励起準位に捉えられ、カスケード的に脱励起する。このときpの大部分はHe原子の残りの電子もオージェ過程により放出し、ピコ秒程度の速さでHe原子核の核子と対消滅する。しかし全体の約3%の割合でオージェ遷移を起こさず、残った電子とヘリウム原子核の系に高軌道角運動量を持った状態で束縛される寿命がマイクロ秒領域の準安定状態が実現する。同グループはpHeの精密分光のためヨーロッパ連合原子核研究機関(CERN)のpビームを用いた研究を開始し、1994年にこの準安定状態のカスケード的な電磁遷移についてレーザー共鳴に成功した。その後p準位の主量子数(n)と軌道角運動量(l)の(n,l)=(37,35)から(38,34)への共鳴について1.7GHz差のダブレット状態を観測した。この構造はpの軌道角運動量と電子スピンが結合して作られる超微細相互作用(HFI)によるものと解釈された。一方このpの関わるヘリウム原子の三体系は理論にとっても挑戦に値するエキゾチックな系として量子電磁気学(QED)に基づくいくつかの計算がなされた。そこではこの軌道角運動量と電子スピンが結合した状態がさらにpスピンの向きによってエネルギー的に分離する極超微細相互作用(SHFI)が計算されている。

 本論文ではこのHFIとSHFIに着目し、このマイクロ波共鳴に世界に先駆けて成功したことを論じている。この中でこのマイクロ波共鳴を行うに際してキーとなる以下の実験技術が開発された。

(1)pを効率良くHe気体中に止めかつマイクロ波共鳴が行える共振器の設計と製作、

(2)マイクロ波共鳴の周波数掃引を行うに際し高いQ値を保ったまま周波数変更が行うことのできる回路の設計と製作、

(3)マイクロ波共鳴条件を判定する150ナノ秒近い時間差を有するレーザーの二重パルス光の用意。

 当論文ではこのマイクロ波分光法により2001年8月に行われた延べ7日の実験について、各日ごとに得られたマイクロ波共鳴データを元にマイクロ波共鳴周波数の同定を行った。この中には実験的に最適条件として得たマイクロ波出力値24Wを1/3の出力にした場合の効果、Heガス圧の影響をみるために大部分の測定を行ったガス圧250mbarを540mbarとしたときの効果、等の結果も論じられている。

 以上の結果は(n,l)=(38,34)から(37,35)へのレーザー遷移vHF+とvHF-の値にまとめられ、Kino-Yamanaka,Korobov-Bakalovの理論計算と比較検討されている。理論はQED計算のαの2乗の精度となっており数値としては約5×10-5の精度となっているが、実験値はこの範囲でほぼ一致している。ただしVHF+の実験値は理論値精度の倍程度のばらつきを示す。すなわち現時点では理論がpの磁気モーメントを陽子のものに等しくとっている仮定の適否を判断することはできない。またガス圧力への依存性は明解ではないが僅かの依存性があることを否定できることにはなっていない。しかし本論文はpHe系のマイクロ波共鳴に初めて成功し、今後の精密分光研究の先端を拓いた上、現在最も精度の高い理論計算をほぼ検証することができている。

 本論文4章および5章はCERNの反陽子減速器(AD)での実験メンバーとの共同研究であるが、論文提出者は、上記の実験技術の開発(2)を中心とする実験遂行上の寄与を含め、データ解析の大部分を行うなど十分な貢献をしたと判断される。

 したがって博士(理学)の学位を授与できると認める。

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