学位論文要旨



No 117837
著者(漢字) 中平,武
著者(英字)
著者(カナ) ナカダイラ,タケシ
標題(和) 中性B中間子の荷電パイ中間子二体崩壊におけるCP対称の研究
標題(洋) Study of CP Asymmetry in the Neutral B Meson Decays to Two Charged Pions
報告番号 117837
報告番号 甲17837
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4308号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 徳宿,克夫
 東京大学 教授 柳田,勉
 東京大学 助教授 榎本,良治
 東京大学 教授 梶田,隆章
 東京大学 教授 駒宮,幸男
内容要旨 要旨を表示する

 20世紀の半ばまでほとんどの物理学者は、空間反転(P)や荷電共役(C)といった基本的な変換のもとで物理法則は不変であると信じていた。ところが、1950年代に弱い相互作用においては空間反転や荷電共役に関する対称性が破れていることが明らかになった。さらに1964年には、これらの合成変換であるCP変換に対する対称性の破れが、Christensonらの実験グループによってK中間子の崩壊において発見された。CP変換は粒子と反粒子を入れ替える変換であり、CP対称性の破れは、粒子と反粒子の間で物理現象に違いがあることを意味する。1973年,小林と益川は、クォークが3世代6種類以上存在すれば、素粒子物理学の標準模型の枠組みの中でCP対称性の破れの起源を説明できることを示した。この小林-益川模型は、当時u,d,sの3種類しか知られていなかったクォークが、6種類以上あることを予言する画期的なものであったが、その後実際にc,b,tクォークが発見されたことで、標準模型の一部として位置づけされるようになった。その一方で、K中間子系でのCP対称性の破れの大きさは小さく、また、それ以外の系ではCP対称性の破れが見つからなかったため、CP対称性の破れが小林-益川模型で説明されるものかどうかの検証は困難と考えられていた。

 小林-益川模型は、クォーク混合を記述する複素行列(CKM行列)が除去できない位相をもつことがCP対称性の破れの起源であるとしている。また、CKM行列要素の満たすべき条件は、複素平面上での三角形(ユニタリティトライアングル)として表される。したがって、小林-益川模型を検証するためには、ユニタリティトライアングルの各辺の長さと、3つの角の大きさ(φ1,φ2,φ3)を実験的に測定することが不可欠である。とくに、ユニタリティトライアングルの角の大きさを測定し、零でないことがわかれば、小林-益川模型のメカニズムでCP対称性の破れが起こっていることの証明になる。

 1980年,Carter,Bigiおよび三田らは、中性B中間子の特定の崩壊では大きなCP対称性の破れが現れ、さらにCKM行列要素間の位相差が求められることを示した。そして、2001年にB0→J/ψK0崩壊等により、φ1が零でないことが実験的に証明され、小林-益川模型のメカニズムでCP対称性の破れが起こっていることが確かめられた。これにより、CP対称性の物理は、B中間子系での発見を目指す段階から、他の崩壊モードのCP非対称性の測定等による小林-益川模型のより精密な検証の段階に至った。

 本研究では、B0→π+π-の崩壊モードを用いて、CP対称性の破れを測定する。この崩壊モードでのCP対称性の破れの測定は、既に測られているものとは別の角であるφ2を測定することになるので、既存の測定とは独立の制限を小林-益川模型に与える。この崩壊モードでは、高次のダイアグラムの効果が無視できないために、φ2の測定には理論的不定性が入ってしまうという不利な点はあるが、今までに発見されているもの("クォーク混合に誘導されたCP対称性の破れ")とは別の種類の"直接的なCP対称性の破れ"があらわれることが期待されるという大きな意義がある。

 B0→π+π-の崩壊では、CP対称性の破れは、B0とその反粒子であるB0との間での崩壊率とその時間依存性の違いとして現れる。実験的には、対生成されたB0B0の一方(Bcpと呼ぶ)がπ+π-状態に崩壊した時刻と、他方(Btagと呼ぶ)が崩壊した時刻との時間差Δtを測定する。BtagのフレーバーがB0であった場合とB0だった場合とのΔtの分布の相違から、CP非対称性が測定される。クォーク混合に誘導されたCP対称性の破れと直接的なCP対称性の破れによるCP非対称度の大きさをそれぞれSππとAππとしたとき、理論的に予想されるΔtの分布は、f(Δt;Btag=B0)=1/4exp(-|Δt|/τB0)[1+Aππcos(Δmd・Δt)+Sππsin(Δmd・Δt)] f(Δt;Btag=B0)=1/4exp(-|Δt|/τB0)[1-Aππcos(Δmd・Δt)-Sππsin(Δmd・Δt)]である。(τB0とΔmdはそれぞれ中性B中間子の寿命とB0-B0混合のパラメータである。)CPの破れが存在する場合には、図1(左)に示されるような非対称性があらわれる。この図において、実線と点線は、それぞれBtag=B0であった場合とBtag=B0の分布を示している。クォーク混合に誘導されたCP対称性の破れは、2つの分布の形状の違いとして現れ、直接的なCP対称性の破れは、2つの分布の形状および面積の違いとして現れる。CP対称性の破れがない場合には、2つの分布は一致する。

 本研究は、高エネルギー加速器研究機構のBファクトリー実験において行った。Bファクトリーでは、世界最高のルミノシティを誇るKEKB加速器によって年間約1億個のB中間子対が電子陽電子衝突により生成されるので、崩壊分岐比がO(10-6)と極めて小さなB0→π+π-崩壊を観測することが可能である。この崩壊モードは、終状態がπ粒子2つのみからなるため、陽子反陽子衝突実験等では膨大な背景事象にうもれて観測するのが困難である。したがって、B0→π+π-崩壊の研究はBファクトリー実験に特徴的なものである。KEKB加速器は、非対称エネルギー衝突(電子:8GeV,陽電子:3.5GeV)により、B中間子をβγ=0.425で運動させて生成する。これにより、Δtは、二つのB中間子の崩壊点の間隔Δz=Δt・βγcとして測定可能となっている。B中間子の崩壊を測定するためのBelle検出器は、荷電粒子を検出する飛跡検出器,Δzを精密に測定するためのシリコン崩壊点検出器,電子と光子を検出するための電磁カロリメータ、B0→π+π-事象の背景事象となるB0→K+π-事象を判別したり、Btagのフレーバーを決定するのに重要な役割を果たす粒子識別のための測定器等からなる。我々は、B中間子の寿命やB0-B0混合の測定により、Belle検出器の崩壊点検出やBtagフレーバーの決定の性能を評価し、検出器の応答を理解した。検出器の性能を考慮して、実際に得られるΔt分布に現れると予想されるCP非対称性を、図1(右)に示した。

 我々は、2000年1月から2002年7月の間に,KEKBが生成した8.5×107個のB中間子対を解析し、ΔtとBtagのフレーバーを測定可能なB0→π+π-崩壊事象の候補を760個得た。このうちに含まれる信号事象の数は163+24-23個と見積もられ、それ以外の背景事象は、B0→K+π-崩壊やcontinuum事象e+e-→uu,dd,ss)として理解された。図2に、BtagのフレーバーごとのB0→π+π-事象のΔtの測定値の分布である。白丸点と三角点がそれぞれBtag=B0とBtag=B0のΔt分布を表す。この図において、背景事象からの寄与は差し引かれている。

 候補事象のΔt分布に対して、unbinned-maximum-likelihood-fit法を用いてCP非対称度の測定を行った。AππおよびSππをパラメータとして理論的予測と検出器の応答関数から、Δtの確率密度関数を構築し、最尤法によりデータにフィットし、AππおよびSππの値を決定した。確率密度関数は、信号事象である確率、Btagのフレーバー決定が間違っている確率および崩壊点の測定精度を、得られた候補事象ごと評価し、考慮に入れている。フィットの結果として得られた確率密度関数をBtagのフレーバーごとに図1に示した。実線および破線がそれぞれBtag=B0とBtag=B0の場合の確率密度関数を表す。フィットの結果は、実際のデータをよく反映している。得られたCP非対称度は、Aππ=+0.77±0.27(stat)±0.08(syst) Sππ=-1.23±0.41(stat)+0.08-0.07(syst)であった。統計誤差は、モンテカルロ法による模擬実験をくりかえすことにより評価した。系統誤差としては、背景事象の数の見積もりに起因するもの、崩壊点の再構成に起因するもの,非対称度の決定方法に起因するものが支配的であったが、いずれの成分も統計誤差にくらべて十分小さく抑えられている。なお、このフィットにおいてAππとSππの間の相関はなかった。

 我々は、この測定値の統計的有意性を、FeldmanとCousinsによって確立されたFrequentist-Approach法によって厳密に評価し、物理的に許される領域内での信頼区間を求めた。得られた信頼区間を図3に示す。また同じ方法により、「B0→π+π-崩壊でCPの破れが全くない(Aππ=Sππ=0)」という仮説を棄却する有意水準が、99.93%と求められた。また、「B0→π+π-崩壊でのCPの破れの原因は、クォーク混合に誘導されたCP対称性の破れのみである」という仮説は、98.1%で棄却された。

 我々の測定値によるユニタリティトライアングルの角の1つφ2に対する制限を、95.5%有意水準で、77°<φ2<151°と評価した。ここで、理論的に不定性の大きな高次ダイアグラムの効果の割合(|P/T|)は、現在の理論的予測値(約0.28)付近で0.18<|P/T|<0.48と仮定した。この予測値はモデルに依存した理論に基づいているので、このφ2に対する制限もモデルに依った制限である。

 以上の通り、我々はB0→π+π-崩壊において、CP対称性が破れている兆候を得た。これは、B中間子系で直接的なCP対称性の破れの兆候を示唆する初めての実験結果である。また、モデルに依存した方法ではあるが、小林-益川模型に対してこれまでとは独立な制限を与えた。

図1:Δt分布に現れるCP非対称性。

Sππ=0.7かつAππ=0.7の場合の理論的な分布(左)と検出器の性能を考慮して実験的に得られると予想される分布(右)

図2:BtagのフレーバーごとのB0→π+π-事象のΔtの測定値の分布とフィットによって得られた確率密度関数

図3:測定結果から得られる信頼区間

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、高エネルギー加速器研究機構に建設され稼動しているKEK-B加速器で生成された中性B中間子を用い、その荷電π中間子への2体崩壊過程からCP非対称性を調べたものである。

 空間反転(パリティ:P)と荷電共役(C)の合成変換であるCP変換に対する対称性の破れが1964年にK中間子の崩壊において発見された。CP対称性の破れは、宇宙の進化にあたって粒子反粒子のバランスを崩して現在我々が住むような粒子中心の世界を導くのに重要な役割を持つとされるが、つい最近まで、K中間子崩壊が、唯一のCP非対称性の観測例であった。この非対称性の起源として、1973年に小林と益川は、3世代6種類のクォーク間の混合を記述する複素ユニタリー行列(CKM行列)に残る位相成分からくるという提案をした。この場合、CP非保存はK中間子に特有のものではなく、他の粒子も起こることになり、特に中性B中間子の特定の崩壊ではCP非対称性が大きく観測できる可能性が提唱されていた。

 このような状況のもとに、日本の高エネルギー加速器研究機構と米国スタンフォード線形加速器センターでは、独立に、いわゆるBファクトリーと呼ばれる、B中間子を大量に作って非対称性を測定する電子・陽電子衝突型加速器を建設して実験を始めた。両実験とも2001年にはB中間子がJ/ψ粒子とKs中間子に崩壊する過程で大きなCP非対称性が発見され、CP非保存がCKM行列の位相起源とすることと無矛盾であることが示された。

 この結果をふまえて、現在、多くの崩壊過程でCP対称性を調べ、すべてがCKM行列内の1パラメータで説明できるかを調べることは重要な課題となっている。その過程を通じて、標準模型を越える現象からの寄与、例えば、超対称性粒子にからの寄与の可能性など、現在の加速器では生成不可能な重い粒子の影響を間接的に観測する可能性がある。

 本論文で取り上げた、荷電π中間子への2体崩壊事象では、直接的なCP対称性の破れと呼ばれる、B中間子と反B中間子での崩壊率自体の差が観測される可能性があり、重要な測定であった。

 測定は、荷電π中間子への2体崩壊事象の検出、対生成された片方のB中間子の種別同定、両方のB中間子の崩壊点の差の測定と、非常に難しい3つの測定の上で初めて可能となる難易度の高いものである。この実験手法の開発とその遂行をもとにしたこの論文は、博士論文としての資格を有すると判断する。

 160個の事象を捕え、この崩壊点の非対称性からCP非保存のパラメータを得た。その結果、CP対称性の大きな破れを観測し、B中間子崩壊で直接的なCP対称性の破れの兆候を示唆する初めての実験結果となった。モデルに依存するが、CKM行列要素に関する制限を与えた。この結果は、今後、CP非保存のさらに深い起源をさぐる上で重要であり、意義のある測定である。

 なお実験は東京大学の相原博昭氏をスポークスマンとする国際共同実験Belleグループとの共同研究であるが、この論文に関しては提出者が主体となって解析及び検証を行ったものである。また、実験の遂行にあたって、提出者は測定器の建設から参加し、とくにシリコンバーテックス検出器の開発と建設の中心的な役割を担っていることも特筆でき、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 以上により、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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