学位論文要旨



No 117847
著者(漢字) 渡辺,尚貴
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,ナオキ
標題(和) 時間発展する電子状態のための第一原理シミュレーション法
標題(洋) Method of first-principles numerical simulation for time-evolbing electronic states
報告番号 117847
報告番号 甲17847
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4318号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 青木,秀夫
 東京大学 教授 ��山,一
 東京大学 助教授 渡邉,聡
 東京大学 教授 藤原,毅夫
 東京大学 教授 樽茶,清悟
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は時間発展する電子状態の第一原理数値シミュレーションのために開発した計算手法について報告する。次式に示す時間依存Schroedinger方程式は波動関数の時間発展を記述する基礎方程式である。この方程式を数値的に解くことで、原理的にはさまざまな動的現象を量子力学の立場から議論することができる。量子論の初等的な教科書にもある1次元ガウス波束のポテンシャル障壁での散乱のシミュレーションはRunge-Kutta法によるものだが、より計算規模の大きい現実の系をシミュレートするには精度、計算量、安定性などの面でさまざまな工夫が必要とされている。1990年代用盤に、多くの計算物理学者によってこの偏微分方程式の高精度で効率的な数値計算法がいくつか開発されてきた。しかしながら、さらなる改良の余地がまだ残されている。そこで我々はその計算法の構築に取り組み、より効率的で汎用な数値計算法を開発した。

 この方程式を数値的にシミュレーションする際に最も重視されることは、波動関数の絶対値の全空間での積分、つまり粒子の存在を表すノルムの値が時間発展の過程で厳密に1の値に保存され続けることである。この計算に通常用いられるEuler法やRunge-Kutta法ではノルムは厳密には保存されず、微小な誤差が含まれる。それはたとえ微小であっても長時間に渡る時間発展を追跡するとノルムや波動関数が爆発的に巨大化して発散するか、逆に縮小化して消滅する非物理的な計算結果に終る。コンピュータの進歩につれて系の規模や時間発展の追跡時間が長くなり、計算精度を決定づけるノルムを厳密に保存する計算法が必須となってきた。ノルムが保存されない原因は、その計算法で使われる近似された時間発展演算子がユニタリではないからである。数値計算では丸め誤差は避けられないが、方程式の近似の際の打ち切り誤差を含めても時間発展演算子は厳密にユニタリでなくてはならない。そのようなノルムを保存する計算法がいくつか提唱されており、我々が提唱する計算もノルムを厳密に保存する。

 電子状態の基底状態を求めるいわゆる通常の第一原理計算では、波動関数は平面波基底で表されることが普通である。平面波基底では必然的に系は結晶のような周期系となり、孤立分子や表面系などの非周期系はスーパーセルとして扱わざるを得ない。ハミルトニアンの行列要素の計算にはフーリエ変換が頻繁に必要とされ、高速フーリエ変換をもってしても計算量は少なくない。さらにその時間発展の計算ではハミルトニアンが密行列となるので平面波基底だけでは計算量が多すぎて対処できない。フーリエ変換を使って波動関数の表示を平面波基底から実空間の格子点基底に変換することで対処できるが、時間発展の計算の途中に頻繁に実空間とその逆空間の間を移動しなくてはならない。

 そこで我々は波動関数を実空間の格子点で表して、計算の全てを実空間で行うことを提案する。この表現は単純であり、電子密度も直ちに計算することができる。ハミルトニアンは疎な行列となりフーリエ変換は不要である。系の境界条件を自由に設定できるので周期系も非周期系も同様に扱える。この実空間表現にさまざまな計算技術を工夫して、時間依存Schroedinger方程式を解く新しい数値計算法を開発した。使用した技術のひとつは数値計算の分野で多用されている指数積展開法である。これは偏微分方程式の解を時間についての差分法で解くのではなく、解をハミルトニアンの指数演算子の形で形式的に表し、それを複数の指数の積で近似展開するものである。個々の指数演算子は系の特殊な時間発展を表し、それらは厳密に計算できるものである。 波動関数に対するラプラシアンなどの空間に関する2階偏微導関数は近接の3格子点で近似する差分法が一般的である。より高精度に計算するには5点の格子点で近似する高次差分法を使うのが当然と思われてきた。しかし我々は代わりに有限要素法を用いることを試みた。有限要素法から導かれる有限要素方程式には重なり行列が存在するため容易には解けないと従来は思われていた。ところが我々はこれをCayley形式と呼ばれる分数の形をした近似で扱うことでその問題を解決できることを見出した。見掛け上3格子点で計算しているにも関わらず計算精度は5点の差分法に匹敵する程に向上し、計算量は3点の差分法の場合と全く変わらず増えないのである。

 一般の偏微分方程式の数値計算では陽的解法よりも陰的解法の方が計算の精度や安定性で優れていると言われている。しかし、陰的解法には何らかの反復計算や逆行列の計算が必要であり、2次元系や3次元系での陰的解法は困難である。これを緩和する技術にADI法があり、これは陽的解法と陰的解法の中間の性質を持ったものである。ところが、時間依存Schroedinger方程式に限っては、ADI法よりも簡単に陰的でありながら計算に反復が不要な計算法があることを見出した。この方法では2次元系や3次元系は1次元系が多数集まっただけに過ぎず、問題が次元によって格段に複雑になるわけではない。

 そして、さまざまな条件下、例えば静電場、静磁場、あるいは時間変動する電場、磁場などの下での波動関数の時間発展をこの計算法が扱えるようにするため、指数積展開を効率良く用いて一連の新しい計算法を定式化した。その計算法では各々の場の効果が別々の指数演算子で表されるので、それらの演算子の組合せを変えるだけで柔軟にこれらの種々の系に対応できる。

 次に、我々はこの計算法を次式の時間依存Kohn-Sham方程式に応用することを試みた。この方程式は多電子系の時間発展を一電子軌道で記述する基礎方程式として注目されている。電子間の相互作用を表す有効ポテンシャルは電子密度の汎関数であり、それ自身が時間と共に変動する。この形式的な厳密解は時間順序付き指数演算子を用いて表されるが、これを精度良く計算するにはポテンシャルの時間依存性に十分注意を払わなくてはならない。従来は、この波動関数の時間発展とポテンシャルの時間発展のつじつまを合わせる複雑なセルフコンシステントループの手続きが必要と思われていた。時間ステップを進めるごとに反復計算を繰り返すことは労力の要る計算であった。

 より簡潔な計算法を得るために、我々はまずこの相互作用ポテンシャルが電子の密度に依存して時間変動するが、時間に陽に依存して変動しているわけではないことに着目した。波動関数の時間微分をLiouville演算子と呼ばれる特殊な演算子を用いて表すと、形式的な解は普通の指数演算子で表すことが可能になる。このLiouville演算子をその構成要素で指数積展開して、分解したLiouville演算子の指数演算子を処理することで、具体的な計算式が得られた。その結果、ポテンシャルをセルフコンシステントループで求める必要が無いことがわかった。そのため、時間依存Kohn-Sham方程式を反復計算無しで完全陽的に解く計算法を定式化することができた。

 本論文後半では、この計算を使ってさまざまな系の時間発展を試みた。一電子の運動のシミュレーションの例として、まず1次元系での波束の運動を従来法を含めたいくつかの方法で計算し、ここで提唱する計算法が安定かつ精度が良いことを示した。次に2次元系のメゾスコピック系における複雑な電流分布や静磁場下における電子の運動を観察した。3次元系の最初の計算としては水素原子を取り上げ、強力なレーザー光線の電場によって電子が助起される様子を観察した。同時にさまざまな非線形光学過程を反映した輝線スペクトルを観察した。

 多電子の運動のシミュレーションの例として、小さい分子にデルタ関数的な撃力を与えてその後の電子系の振動を観察して分子の光吸収スペクトルを求めた。さらに結晶中の電子が動くことで結晶の端に蓄積される表面電荷が作る反電場を考慮に入れ、結晶中の電子のプラズマ振動を観察した。より複雑な系の計算例として、時間とともに増加する磁場の下で誘導起電力によりカーボンナノチューブに渦電流が流れる様子を観察した。最後に、さらに多くの電子をもつ系において、この計算法で時間発展を安定に計算できるかを確認するため、フラーレン内の電子の振舞いを観察した。これらのシミュレーションを通じて、我々はこの計算法が十分有用であり大規模な計算にも耐え得ることを確認した。

 以上まとると、我々はさまざまな状況下での電子状態の時間発展を第一原理でシミュレートするための一連の数値計算法を開発した。この計算法にはさまざまな利点があり、将来、大規模な電子系の長時間に渡る量子系の電子動力学のシミュレーションに有効であろう。

審査要旨 要旨を表示する

 本学位論文は、固体物理学において電子状態の時間発展を第一原理的に計算機で求めるために開発された数値計算手法に関するものである。全6章からなり、第1章は序、第2章は一体問題に対する定式化、第3章は多体問題に対する定式化、第4章は一体問題に対する応用、第5章は多体問題に対する応用、そして第6章は結論である。

 量子力学の建設以来、固体物理学は目覚しい発展をみてきたが、理論的に主に扱われてきたのは、時間とともに変動しない静的な問題である。一方、量子力学的な系が外場などに駆動されたときにどのような時間発展をするか、という量子力学の動的現象は、基本的な課題であるにもかかわらず、意外にも今まではあまり系統的な研究は行われてこなかった。この主たる原因は、解くべき基礎方程式は時間依存Schrodinger方程式という明白に分かっているものであるが、この偏微分方程式は一般には数値的に解く必要があり、その際に微分方程式の通常の数値的解法(例えばRunge-Kuttaの差分法)を用いると、数値誤差が蓄積することにより波動関数のノルムが発散する、という困難が起きるためであった。1990年代中頃から、多くの計算物理学者によってこの困難を回避した数値計算法がいくつか開発されてきた。

 しかしながら、現在の固体物理学に要求されている様な大規模計算に対しては、特に本論文の主テーマである多体問題に対しては、さらなる改良が望ましい。そこで、本学位論文の前半では、効率的で汎用な新たな数値計算法が構築された。時間依存の偏微分方程式を数値積分する際に、波動関数のノルムを厳密に保存する計算法としては、厳密にユニタリであるCayley演算子を用いるCrank-Nicholson法が良く用いられてきた。これに対して、本学位請求者の開発した技法は2点ある。第一点は以下のようである。電子状態を求める通常の第一原理計算では、波動関数は平面波基底で展開されるが、これはフーリエ変換を多用する必要があるので計算量は多く、時間発展の計算ではネックとなる。そこで本論文では、波動関数を実空間の格子点で表して、計算の全てを実空間で行うことが提案されている。これは、フーリエ変換が不要という利点に加え、周期系も非周期系も同様に扱える。

 改良の第二点は、時間発展演算子に対する指数積展開法である。指数積展開法は統計力学の分野では常用されるが、波動関数に対するラプラシアンなどの空間に関する2階偏微分に関しては従来、3次元系への適用は面倒であり高次差分法も必要と思われていた。前者の点については、x,y,zの各方向への演算は交換するので困難はなく、後者の点については、上記の実空間法を用いれば有限要素法を(Cayley形式と共に)採用することができ、こうすれば低次差分法で高次に匹敵する精度を、計算量を増やすことなく達成できることが示された。これは、一般に偏微分方程式の数値計算では陰的解法の方が優れているが3次元系での陰的解法は困難である、と信じられてきたことへの反証を与えたことにもなる。

 具体的に、静電場、静磁場、あるいは時間変動する電場、磁場などの下でのメゾスコピック系や原子の波動関数の時間発展の計算例も与えられ、実際に精度が期待とおり良いことが実証された。

 本論文の主要部分である後半では、多体相互作用する電子系の時間発展をどのように計算するか、という問題が論じられる。一般に、静的な多電子系に対しては、電子間相互作用を電子密度の汎関数で表す、というKohn-Shamの理論が確立している。この理論を時間依存の問題に拡張した「時間依存Kohn-Sham方程式」と呼ばれる方法は、従来Gross等により試みられている。そこで本論文では、この時間依存Kohn-Sham方程式をいかに効率よく数値積分するか、という観点から研究された。電子間の相互作用を表す電子密度汎関数ポテンシャルは、時間依存問題では時間と共に変動する。この形式解は再び指数演算子を用いて表されるが、これを精度良く計算するにはポテンシャルの時間依存性に十分注意を払う必要がある。従来は、この波動関数の時間発展とポテンシャルの時間発展をコンシステントにするために複雑な反復計算が必要と思われていた。

 本論文では、この相互作用ポテンシャルが、時間に陽に依存して変動しているわけではないため、波動関数の時間微分をLiouville演算子と呼ばれるものを導入して表現すると、形式解は普通の指数演算として表すことができることを見出した。このLiouville演算子をその構成要素で指数積展開すると、セルフコンシステントな反復計算が不要となるので、計算は効率化される。

 本論文の最後では、この計算法を用いた時間依存Kohn-Sham方程式の具体例として、先ず、分子にパルス的な電場をかけ、その後の電子系の振動を観察して光吸収スペクトルを求めた。さらに結晶中の電子のプラズマ振動、時間とともに増加する磁場の中で炭素ナノチューブに渦電流が流れる様子、そしてパルス的な電場をかけたフラレンの電子の振舞いが計算された。これらのシミュレーションを通じて、この計算法が、少なくとも60個程度の原子をもつ系でも十分安定に作動することが確認された。

 以上のように、本学位論文は、電子状態計算の効率化を実現したことにより、固体物理学の中心的なテーマの一つである多体系の第一原理的な電子状態と、固体物理学において端緒についたばかりである量子力学的な時間発展の問題を融合させる路を拓いたものであり、量子系の動的シミュレーションとして学位に十分の価値をもつ仕事といえる。

 なお、本論文の一部は塚田捷氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究したものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって、審査員全員により、博士(理学)を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク