学位論文要旨



No 117854
著者(漢字) 岡,顕
著者(英字)
著者(カナ) オカ,アキラ
標題(和) 大西洋深層循環の形成における海面水フラックスと海洋塩分輸送の役割
標題(洋) Role of freshwater forcing and salt transport in the formation of the Atlantic deep circulation
報告番号 117854
報告番号 甲17854
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4325号
研究科 理学系研究科
専攻 地球惑星科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 日比谷,紀之
 東京大学 教授 山形,俊男
 東京大学 教授 遠藤,昌宏
 東京大学 教授 木本,昌秀
 東京大学 助教授 安田,一郎
内容要旨 要旨を表示する

1.はじめに

 現在の海洋大循環を特徴づけるものとして、北大西洋深層水(NADW)と呼ばれる北大西洋高緯度域で形成される水塊と、それに伴う全球的な深層循環(大西洋深層循環)の存在があげられる。大西洋深層循環は、表層の流れに比べ流速としては非常にゆっくりとした流れであるが、その流量や熱容量は大きく、その循環による南北熱輸送は大気海洋系における熱輸送の多くを担っている。そのため、現在の気候の理解において、大西洋深層循環の形成維持メカニズムについての理解が不可欠である。

 海洋の深層は観測データが少なく、海洋の深層循環の研究には、現実の海洋をできるだけ少ない仮定のもとでシミュレートすることを目的に作られた海洋大循環モデル(OGCM)が非常に有効な手段となる。これまでの研究から、混合過程の強さのパラメータである鉛直拡散係数や、南大洋での風応力が、深層循環の上昇域での加熱過程に影響することで深層循環の強さや分布の決定に重要な役割をもっていることなどが指摘されている。一方、深層循環の下降域においては、現在は熱フラックスによる冷却により高密度水の形成が起こっているが、水フラックスによっては、高緯度域での淡水供給により海水は低塩分化し、現在の熱塩循環を阻害していると言える。現在の大西洋深層循環の沈み込みが北半球高緯度域で起こっているのは、そこである程度の高塩分場が保たれているからであると考えられる。よって、高緯度域での塩分場の決定が、現在の大西洋深層循環の形態を決定する上で大きな影響をもっていることが示唆される。しかしながら、現在の高緯度域での塩分場がどのようなバランスのもとで決定しているかという観点から、現在の大西洋深層循環の形成維持を定量的に議論することは十分には行われていないと言える。そこで、本研究では、OGCMを用いて高緯度域での塩分場の決定を定量的に議論し、その現実的な再現に必要なプロセスについての議論を行った。まず、前半部分では、OGCMにおいて現実的な海面水フラックスのもとで現実的な大西洋深層循環を再現するためには、高緯度域での海盆間を結ぶ狭い海峡での海水交換が適切に表現されている必要があることを示す。その上で、本研究の後半部分において、観測海面水フラックスデータを境界条件としたOGCM実験を行い、海面水フラックスデータの問題について議論を行う。

2.北半球高緯度域での海盆間の海水交換の重要性

 NADWの形成には、Greenland, Iceland and Norwegian (GIN) Seasで形成された高密度水が、Greenland-Iceland Ridge、Iceland-Faeroe Ridgeなどのridgeを越えて大西洋に流れ出ることが大きく寄与しているといわれている。しかしながら、従来の海洋大循環モデルではこれらの過程をうまく再現できないという問題があった。本研究ではNakano and Suginohara(2002)による海底境界層モデルの導入によりその問題を解決し、その上でGIN Seasでの高密度水形成と大西洋深層循環について議論する。

 用いた海洋大循環モデルはCOCO(CCSR Ocean Component Model)である。海面境界条件は、熱フラックスについては、海面短波放射や海面気温などの気候値データを用いて計算し、淡水フラックスについては観測海面塩分データに対する緩和型境界条件とした。水平分解能を2度として実験を行ったところ、得られた大西洋深層循環は、北大西洋高緯度域でNADW形成が起こる現実的な循環場となった。しかしながら、モデルで診断される海面淡水フラックスには、GIN Seasにおいて非現実的な淡水喪失が診断されていた。ここでの淡水喪失をなくすように修正した淡水フラックスを作成し、それを海面境界条件とした実験を行うと、NADW形成に伴う循環は維持されなくなった。これらの結果から、このモデル実験において形成されるNADWは、現実にはあり得ないGIN Seasにおける海面淡水喪失によって維持されていることが分かった。

 現実におけるGIN Seas付近の循環場は、Iceland-Scotland passageではNorth Atlantic Currentによる北上流があり、フラム海峡では南下するEast Greenland Currentと北上するWest Spitsbergen Currentの2つの強い流れが存在する。しかしながら、モデルでは、North Atlantic CurrentによるGIN Seasへの流入が弱く、フラム海峡では南下流のみが現れるという非現実的な流れ場となっていた。そのことにより、大西洋・GIN Seas・北極海での海盆間の現実的な塩分輸送が再現できず、それが非現実的な淡水喪失を診断した大きな原因であることが考えられた。そこで、それを改善するためモデル分解能を北半球高緯度域で高めた実験を行った。その結果、高分解能化するほどGIN Seasでの塩分場がより現実に近づき、海面での非現実的な淡水喪失に改善がみられた。高分解能化した実験においては、大西洋からGIN Seasへ高塩分水がIceland-Scotland passageを通して流れ込み、その高塩分水がGIN SeasにおいてNorwegian Atlantic Currentにより北上し、さらにWest Spitsbergen Currentによりフラム海峡へ移流される様子がより現実的に再現されていた。こういった流れ場とそれに伴うGIN Seasへの塩分輸送のより現実的な再現が、海面での非現実的な淡水喪失の改善につながっていたことが確かめられた。これらの結果は、大西洋深層循環を現実的な過程により形成維持するには、Iceland-Scotland passageやフラム海峡を通した海盆間の海水交換が適切に表現されている必要があることを示している。

3.観測海面淡水フラックスを境界条件とした実験

 海面塩分を観測値に緩和する境界条件のもとでの実験では、海盆間での塩分輸送が適切に表現されていなくても、大西洋深層循環そのものは現実的に形成されていた。しかしながら、現実的な海面淡水フラックスを境界条件とした場合、海盆間での塩分輸送の再現の問題は海面塩分の分布の再現に影響し、大西洋深層循環そのものの再現性にも大きく影響してくると考えられる。その影響を評価するため観測海面淡水フラックスを境界条件とした実験を行う。一方、観測海面淡水フラックスはデータ間の違いが大きく、現実的な値がよくわかっていないのが現状である。そこで、観測海面淡水フラックスのデータ間の違いが大西洋深層循環の再現性にどの程度影響するのかについても議論する。

 蒸発量と降水量のデータとしてNCEP再解析、河川流出のデータとしてPerry et al(1996)のデータを用いて作成した観測海面淡水フラックスを境界条件とした実験を行った。その結果、水平分解能2度の実験では再現される大酉洋深層循環は非現実的に弱くなってしまった。一方、北半球高緯度域での水平分解能を高めて実験を行うと、その流量は高分解能化するほど現実に近づいた。これらの結果は、観測海面淡水フラックスによって海洋大循環モデルを駆動するというより現実的な境界条件のもとでの実験においては、海盆間の海水交換の表現の違いが、大西洋深層循環そのものの再現性に大きく影響することを示している。

 次に、ECMWF再解析に基づいたRoske(2001)の海面観測淡水フラックスを境界条件とした実験を行った。その結果、全く同じ海洋モデルを用いた場合にも、観測海面淡水フラックスデータの違いによって、再現される大西洋深層循環の流量が大きく変わった。その違いがどのようにしてもたらされているのかを調べた結果、河川流量のデータ、とくに北極海、GIN Seas、北大西洋高緯度域での違いが結果に大きく影響していた。また、低緯度や南大洋における蒸発量・降水量データの違いによっても大西洋深層循環の再現性に違いが生じた。北半球高緯度域での河川流出データの量的な違いは、低緯度や南大洋での蒸発量・降水量データの違いに比べれば比較的小さかったのにも関わらず、大西洋深層循環の再現性に大きく影響した。この結果は、蒸発量、降水量のデータ以上に、河川流出のデータの精度によってその再現性が大きく影響されることを意味している。より信頼性のある大西洋深層循環の再現のためには、とくに北半球高緯度域でのより正確な河川流出量の観測データが望まれる。

4.結論

 大西洋深層循環における深層水形成を現実的な過程により再現するためには、大西洋・GIN Seas・北極海での海盆間の海水交換の現実的再現が必要である。とくに、大気海洋結合モデルのように現実的な海面淡水フラックスで海洋モデルを駆動する必要がある場合には、大西洋深層循環の再現性に大きく影響する。2度という水平分解能は、海洋深層循環の定常状態を対象とする研究において用いられてきた水平分解能としては決して粗くない。しかしながら、本研究の結果は、そのような分解能は海洋大循環モデルにおいて大西洋深層循環を現実的な過程により再現するためには不十分であることを示している。そういった問題を解決するには、少なくとも北半球高緯度域の深層水形成域においてのみでも、水平分解能を高くする必要がある。また、観測淡水フラックスデータの違いは、大西洋深層循環の再現性が大きく影響した。とくに、北半球高緯度域での河川流出量の違いが結果に大きく影響しており、大気海洋結合モデルにおいて大西洋深層循環を現実的に再現するためにも、再現される河川流出量に十分注意する必要があることが示唆される。

審査要旨 要旨を表示する

 北大西洋高緯度域での強い冷却による沈み込みにその端を発する大西洋深層循環は、表層循環に匹敵する流量や熱容量を伴い、大気海洋系の全球的な熱輸送に大きな影響を及ぼしている。したがって、その形成の力学機構を解明することは、現在の気候の成り立ちを理解する上でも極めて重要である。大西洋深層循環に代表される深層海洋大循環に関する研究は、その直接観測の困難さのため、主に、大気海洋結合モデルをはじめとする数値モデルを用いて行われてきた。しかしながら、大気海洋間のフラックスを人為的に調整する、いわゆる、フラックス調整の手法なしには現実的な北大西洋深層循環を数値的に再現できないという事実からもわかるように、大西洋深層循環の形成維持機構についての定量的な理解は未だ十分に得られていない。本論文は、大西洋深層循環の再現の鍵を握る北大西洋高緯度の沈み込み域における塩分場が、海洋中の塩分輸送と海面を通しての淡水フラックス(以下、海面淡水フラックス)とのバランスのもとで、どのように決定されているのかを海洋大循環モデルを用いて詳細に調べることにより、大西洋深層循環の形成維持機構に関しての定量的な理解を目指したものである。

 申請者は、論文の前半で、海洋循環モデル内における塩分輸送過程の再現性の問題を検討している。まず、数値モデル内の海面塩分を観測値に近づけるという緩和型境界条件を適用して数値実験を行うと、現実的な大西洋深層循環は再現されるものの、北大西洋高緯度の沈み込み域において診断される海面淡水フラックスが著しく非現実的な分布となってしまうことが明らかにされた。このことは、緩和型境界条件のもとで再現される大西洋深層循環が、現実と全く異なった塩分バランスのもとで形成維持されていることを示すものである。申請者は、この原因の1つとして、アイスランド-スコットランド海峡やフラム海峡など、狭い海峡を経由する沈み込み域への高塩分水の流入過程の再現性に問題があるためと同定し、これらの海峡付近でのモデルの水平分解能を局所的に高めることで、この問題を改善できることを明らかにしている。実際、申請者は、NCEP再解析の降水蒸発量データとPerry et al.(1996)の河川流出量データからなる海面淡水フラックスデータを境界条件とした数値実験を行い、北大西洋高緯度域でのモデル水平分解能の違いが、再現される大西洋深層循環の強さに大きく影響することを確認した。

 さらに、申請者は、論文の後半で、NCEPとPerry et al.(1966)による海面淡水フラックスの値を境界条件とした数値実験の結果と、Roske(2001)による海面淡水フラックスの値を境界条件とした数値実験の結果とを比較し、両データの北半球高緯度域における相違、低緯度域における大西洋・太平洋間の相違、南大洋における相違が、それぞれ、大西洋深層循環の強さにどのように反映されるかについて詳しく調べている。その結果、北大西洋高緯度域での海面淡水フラックスデータの相違、そのうちでも特に、河川流出量データの相違が、再現される大西洋深層循環の強さに最も大きな影響を与えることが明らかにされた。このことは、降水蒸発量のデータ以上に、北大西洋高緯度域での河川流出量のデータが大西洋深層循環の成否を決める重要な鍵となることを示している。

 以上、本論文は、海洋大循環モデルを駆動することにより、大西洋深層循環の再現の鍵を握る北大西洋高緯度の沈み込み域での塩分場が、どのようなバランスで決定されているのかを定量的に議論し、その現実的な再現には、狭い海峡を経由する高塩分水の流入過程の高精度化と、北大西洋高緯度域における河川流出量の正確な把握が必須のものであることを明らかにした。これは、フラックス調整という人為的調整の適用のため不可能であった、大西洋深層循環の形成維持機構に関する定量的議論を初めて可能にしたもので、今後の深層海洋大循環の研究を明確に方向づけたものとしてはかりしれない貢献をしたものといえる。

 なお本論文は、東京大学気候システム研究センターの羽角博康助手との共同研究による成果であるが、申請者が主体となって数値計算および解析を行ったものであり、その寄与が十分であると判断できる。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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