学位論文要旨



No 117868
著者(漢字) 石井,邦彦
著者(英字)
著者(カナ) イシイ,クニヒコ
標題(和) 偏光敏感時間分解CARS分光法の開発と溶液内分子ダイナミクスヘの応用
標題(洋) Development of Polarization-sensitive Time-resolved CARS Spectroscopies and Their Applications to Molecular Dynamics in Solution
報告番号 117868
報告番号 甲17868
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4339号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 永田,敬
内容要旨 要旨を表示する

 ピコ秒(10-12s)の時間領域で起こる溶液内分子ダイナミクスは,電子状態間遷移,光電子・プロトン移動反応,分子内異性化反応,振動緩和,回転・並進拡散,熱拡散などを含み,溶液内化学反応および分子間動的相互作用の重要な研究対象である.振動スペクトルを用いて分子の個性を特定して反応・相互作用の詳細を議論する場合,不確定性関係のためピコ秒の時間領域が時間分解できる最短時間領域となる.一方,非線形ラマン分光はレーザー技術の成長とともに発展してきた比較的新しい振動分光法の一分野であり,従来の赤外吸収分光や自発ラマン分光で得られない情報を得る手段として活用されてきた.中でもCARS(Coherent Anti-Stokes Raman Scattering)分光法は発光バックグラウンドのため自発ラマン分光法が適用できない条件下での振動分光の有力な手段となっている.近年CARS分光法のピコ秒時間分解測定への応用も発展を見せており,発光性の励起状態をもつ分子の光励起ダイナミクスの研究において独自の地位を確立している.非線形ラマン分光法の最大の特徴は信号のコヒーレント性であり,信号光が指向性の高い,よく偏光の制御された光として得られるという特性を利用した高度な測定法が提案されている.本研究では,ストリークカメラを検出器として用いた既存のピコ秒時間分解CARS分光システムを基盤として,信号光の偏光特性を生かした新しい測定法を開発し,溶液内分子の回転拡散過程と超高速光励起ダイナミクスの研究に応用した.

【Anisotropic CARS分光法による溶液中のイオンラジカルの回転拡散過程の研究】

 溶液中の分子の時間分解CARS測定においては,しばしば過渡種の信号と溶媒や非励起分子の信号との干渉が問題となる.CARS信号の偏光性を利用すれば,励起光によって試料分子の配向分布に異方性を誘起し,その異方性を検出することによって,光励起に関与する分子の信号を選択的に測定できる.この信号の強度の時間変化は異方性の減衰,すなわち分子の回転拡散過程を反映する(Anisotropic CARS法).従来の蛍光や可視吸収を用いた測定法に比べ高選択性をもつ振動スペクトルを利用したこの回転拡散過程の測定法には,測定対象の拡大・複数の分子種の同時観測など他の手法にはない特性が期待できる.異方性に由来するCARS信号のみを選別して測定できる偏光配置を用い,約20ピコ秒の時間分解能で時間分解Anisotropic CARSスペクトルを測定することに初めて成功した.

 図1にこの方法を用いて測定したトランススチルベン/ブタノール溶液の時間分解Anisotropic CARSスペクトルを示す.溶媒分子は等方的な配向分布をもつため観測されず,トランススチルベンのS1状態および2光子吸収によって生成するトランススチルベンカチオンラジカルの信号のみが現れる.時間原点付近にS1状態に由来する幅広い信号が現れた後,〜1610cm-1にカチオンラジカルの信号が観測されている.このカチオンラジカルは数ナノ秒以上の寿命をもつため,スペクトルの時間変化に現れた信号強度の減衰は回転拡散による異方性の減衰に帰属される.このバンドの信号強度の減衰速度からいくつかのn-アルキルアルコール中でカチオンラジカルの回転拡散時間を見積もった(表1).同じ分子のS1状態と比較すると数倍遅い回転拡散時間が得られたことから,カチオンラジカルはその電子状態の特性すなわち電荷および不対電子の存在によりアルコール溶媒分子と強く相互作用することが示唆された.広く行われている蛍光異方性を用いた回転拡散時間の測定法はこのような基底状態イオンラジカルには適用できず,Anisotropic CARS法の有用性が示された.

【ピコ秒時間分解CARS分光法によるミセル中でのイオンラジカル種の動的挙動の研究】

 ミセルのような高次の構造をもつ分子集合体内での分子運動は生体内の物質輸送などに関連して興味深いが,ピコ秒の時間スケールで詳細に検討した例は少なく,超高速時間分解分光法を用いた研究による分子集合体特有のダイナミクスの解明に興味が持たれる.そこで,SDS(Sodium Dodecyl Sulfate)ミセル中に可溶化したトランススチルベンを光イオン化して生成させたカチオンラジカルの動的挙動を時間分解CARSスペクトルの等方成分,異方成分を観測して調べた.その結果,カチオンラジカルが(1)アルカン中と比べて長寿命であること,(2)非常に長い回転拡散時間をもつことが明らかになった.励起前のトランススチルベンがアルカン的な疎水部分に可溶化されていると考えると,これらの事実はイオン化後の分子がミセル中でより相互作用の強い親水部分に移動し,そこにとどまっていることを示している.等方成分の立ち上がりおよびバンド形変化が時間分解能以下で終了していることから,この移動は約30ピコ秒以下の短い時間で起こっていると考えられる.このような速い相間移動は並進拡散過程としては説明できず,カチオンラジカルとミセルの親水部分との間の引力が並進運動を加速している可能性がある.

【光カーゲートを用いたピコ秒時間分解CARS分光法の開発とレチナールの光励起中間体の観測】

 ピコ秒時間分解CARS分光法では,試料を励起する光(wexc),CARS信号を発生させるプローブ光(w1,w2)の合計3つの光パルスを測定に用いる.このうちwexcのみをサブピコ秒パルスとし,プローブ光にナノ秒パルスを用いてストリークカメラで時間分解検出(時間分解能〜15ピコ秒)を行う2次元マルチプレックス法が当研究室で開発され,すべての光をピコ秒パルス化する方法と比較して測定装置が単純になり,数十ピコ秒から数ナノ秒に至る広範な時間領域を同時に測定できるという利点が示されている.しかしながら,この方式を応用して10ピコ秒以下で起こる超高速現象を観測するためには,検出系の時間分解能向上が必須となる.そこで,光カーゲート法を用いてナノ秒の間発生し続けているCARS信号を時間的に切り出し,1ピコ秒の時間分解能で時間分解CARSスペクトルを測定するシステムを開発した.

 光カーゲート法ではカー媒質(CS2)中にゲート光が誘起するコヒーレンスが存在する時間のみCARS信号光はゲートを通過することができる.時間分解能はゲート光のパルス幅とカー媒質の非線形応答時間で決まり,本装置では約1ピコ秒であった.

 レチナールの光異性化はさまざまな光生物現象における反応初期過程のモデルとして,また最も単純な化学反応の1つとして重要である.これまでトランスーシス光異性化反応は光励起後S3状態を経由してできるS2状態から起こると考えられていた.ところがS2状態の寿命はブタノール中で約2ピコ秒と短く,また発光性の状態であるためラマンスペクトルの測定が不可能であった.そこで今回開発した方法でこの状態の時間分解CARSスペクトルの測定を行い,光異性化初期状態の構造に関する情報を得ることを試みた.

 本装置で測定した全トランスレチナール/ブタノール溶液の時間分解CARSスペクトルを示す(図2).励起直後,1580cm-1付近の基底状態のC=C伸縮振動バンド(1)が消えると同時に約100cm-1の幅をもつブロードなバンド(2)が現れている.その後10ピコ秒程度の時定数で基底状態と似た形状のバンド(3)が立ち上がっている.スペクトルシミュレーションを行った結果,観測されたスペクトル変化は以上の3つの成分で再現されることがわかり,それらをそれぞれ(1)基底状態,(2)S2状態,(3)異性化反応終了後のトランスおよびシス体の基底状態と三重項状態に帰属した.(2)のバンドの広いバンド幅はS3状態が分極しやすい電子構造をとっているためではないかと考えている.(3)のバンドは複数の成分が混合したものであるが,このバンドをより高い信号雑音比で観測しこれをバンド分解すれば,各異性化生成物の生成過程を個別に追跡することが可能となる.

 以上の一連の研究により,ピコ秒時間分解振動分光法の適用範囲を拡大する手法を発展させ,溶液内分子ダイナミクスの研究に対して実際に有用であることが示された.

表1 トランススチルベンカチオンラジカルとS1状態の回転拡散時間

図1 トランススチルベン/ブタノール溶液の時間分解Anisotropic CARSスペクトル

図2 全トランスレチナールの時間分解CARSスペクトル信号強度は規格化してある.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、時間分解CARS分光法に対する偏光を利用した新たな測定法の開発とそれを用いた溶液中での分子ダイナミクスの研究が主題とし、5章から構成されている。

 第1章では、ピコ秒領域での時間分解振動分光法の重要性とCARS分光法を含む非線形ラマン分光法の時間分解分光への展開が記述され、時間分解CARS分光法における新たな測定法の開発の意義が示されている。

 第2章は時間分解Anisotropic CARS法の開発と応用が主題である。この手法は時間分解CARS信号の偏光を解析することにより、光励起によって誘起された溶液内分子の異方性と、回転拡散によるその解消過程を観測するものである。著者は極微弱な異方性信号を捕らえることに成功し、この分光法の有用性を示した。芳香族イオンラジカルの異方性信号を測定して、アルコール中で異常に遅い回転拡散時間を示すことを見出し、これが溶質-溶媒間の強い相互作用によるものと結論した。

 第3章では開発した手法の応用として、ミセル中に可溶化された分子のイオン化ダイナミクスに注目した。時間分解CARSスペクトルのバンド形解析と回転緩和時間の測定から、SDSミセル中での芳香族分子のイオン化後の分子運動を調べ、不均一な秩序を持つミセル系でのイオン化ダイナミクスの描像を提案した。

 第4章は光カーゲート法を用いた時間分解CARS分光法の開発と応用が主題である。光カーゲート法による信号の時間分解により、時間分解能を従来の約15ピコ秒から約1ピコ秒まで飛躍的に高めた。この新しい測定法を全トランスレチナールの光励起ダイナミクスに応用し、異性化前駆体であると考えられるS2状態の振動スペクトルの測定に初めて成功した。

 第5章は本論文で得られた結論および今後の展望をまとめたものである。

 本論文において提出者は、時間分解CARS分光法の新たな測定法の開発を行い、溶液内で起こる動的現象の有力な研究手段として広範囲に適用が可能であることを示し、実際に溶液内ダイナミクスに関するいくつかの興味ある新知見を得た。本論文で示された業績は、分光学および溶液化学に対する深い知識に裏付けられたものであり、極めて高く評価される。

 本論文第4章はChemical Physics Letters誌に公表済み(濱口宏夫との共著)であるが、論文提出者が主体となって実験および解析を行なっており、その寄与が十分であるので、学位論文の一部とすることに何ら問題はないと判断する。

 以上の理由から、論文提出者石井邦彦に博士(理学)の学位を授与することが適当であると認める。

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