学位論文要旨



No 117873
著者(漢字) 岡本,薫
著者(英字)
著者(カナ) オカモト,カオル
標題(和) 従来法、および光変調法を用いたX線吸収分光法による遷移金属錯体の構造変化の研究
標題(洋) Structural changes of transition metal complexes studied by conventional and light-modulated X-ray absorption spectroscopy
報告番号 117873
報告番号 甲17873
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4344号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 浜ロ,宏夫
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 梅沢,喜夫
 東京大学 教授 小林,昭子
内容要旨 要旨を表示する

1.序

 ある種の遷移金属錯体では、光励起や熱、酸化などにより、興味深い挙動を示すものがある。これに伴う電子状態や構造の変化についての知見は、機構解明の上でも重要な情報である。試料の形態によらず電子状態・局所構造を元素選択的に直接得ることのできるX線吸収微細構造(XAFS)分光法がこのような系に適用できれば極めて有効である。私は博士課程において、可視光励起によって生じる準安定励起状態のXAFSスペクトルを得る手法として光変調XAFS分光法を開発し、その適用可能性を検討した。また、XAFS法によって光合成のモデル化合物として注目されている酸素架橋ルテニウム二核錯体の高酸化状態における局所構造解析を行った。

2.光変調XAFS分光法の開発とその適用可能性の検討

 目的 光励起によって引き起こされる動的過程追跡手法としてのXAFS分光法は、近年エネルギー分散型XAFSや高速XAFSの分野で大きな進歩を遂げているものの、未だ発展途上にある。その理由として、吸収端位置が元素の種類によって決まるため、基底状態と励起状態のスペクトルが大きく重畳し、分離が困難であることが挙げられる。光変調法は、励起光に変調を与え、それに同期する吸収強度の変化分をロックインアンプで取り出すことによって差スペクトルを得る方法である。本研究では、光変調法をXAFSに適用し、通常のビームラインで比較的簡便な装置を用いて光励起に伴うスペクトル変化を得ることを目的とした。

 実験 蛍光X線収量法による光変調XAFS測定のセットアップの模式図を図1に示す。X線はI0チェンバーを通過後試料に導入し、照射に伴って発生した蛍光X線をLytle電離箱によって検出した。検出器からの信号をアンプによって増幅後分割して、ひとつは通常のIシグナルとし、もうひとつはロックインアンプに入力して可視光に変調をかけている光学チョッパーからの参照信号に同期する成分のみを取り出した。これをV/Fコンバータ、カウンターを経由してPCに取り込み、光変調XAFSスペクトルを得ることができた。可視光源にはXeランプ(350-700nm, 〜1W)およびNd添加固体レーザー(532nm,50mW)を用いた。

 得られるシグナルは非常に小さく、ノイズを取り除く種々の工夫を必要とした。まず検出器を防音効果のある箱に入れ、精密ラボジャッキとシリコーンゴム製の防振台に載せることで、音響ノイズと実験ステージからの振動ノイズを防いだ。また、アンプとの間の信号ケーブルにも低ノイズのものを用いた。さらに、X線の分光器が動いてから信号系が安定するまでにある程度の時間がかかることがわかったため、カウンターを外部回路によって制御し、エネルギーを変えてから一定時間待って計測を開始するようにした。これらの工夫によって、ノイズを大きく減らし、比較的短時間で光変調XAFSスペクトルを測定することができるようになった。

 Fe, Co-KXAFSの測定は、高エネルギー加速器研究機構物質構造科学研究所放射光研究施設(KEK-PF)BL-7C, 9A, 12C、および高輝度光科学研究センター大型放射光施設(SPring-8)BL01B1にて、透過法および蛍光X線収量法により行った。試料としては大きなスペクトル変化が期待される光および熱誘起スピン転移錯体二種を用い、低温低スピン相が光照射により高スピン状態ヘトラップされる現象を観測した。得られたスペクトルはすべてI0で割った後、光変調XAFSスペクトルについてはさらにロックインアンプでの増幅分を考慮した上で、エッジジャンプを1として規格化した。

 結果と考察 図2に、[Fe(2-pic)3]Cl2・C2H5OH(2-pic=2-aminomethyl-pyridine)のFe-K XANESおよび光変調XANESスペクトルを示す。上段の連続光照射下のスペクトルから予想されるものと同様の変化を、下段に示すように光変調法によっても得ることができている。この変化は吸収端近傍だけでなく、EXAFS領域にまでわたって見られ、微小な変化でも光変調XAFS分光法により観測が可能であることを示している。図3に、レーザーを光源とし、光変調XANESスペクトルの温度/変調周波数依存性を示す。変調周波数を速くしていくと、30Kでは光変調XANESスペクトルの強度が減少していくのに対し、60Kでは20Hz以上で変化がなく、速度の違う2つの成分が存在することを示唆している。この試料では、光照射によるスピン転移の原因として光と熱の両方があるため、60Kで見られる遅い成分は加熱に伴う熱転移、速い成分は光転移であると考えられる。光変調XAFS法により、これまで光照射下でのXAFS測定で常に問題になっていた試料温度の上昇に伴うスペクトル変化を分離できるだけでなく、緩和速度の異なる複数の成分も分離することが可能となった。

 図4に、プルシアンブルー類縁体K0.4Co1.3[Fe(CN)6]・4.2H2OのCo-K光変調XANESスペクトル、および連続光照射下で測定したXANESスペクトルの差分を取ったものを示す。低温では光照射による高スピン状態の寿命が長く、連続光照射によりきれいな差スペクトルを得ることができるが、試料温度を上げると寿命が短くなり、差スペクトルの形状は規格化の仕方に大きく依存する。それと比べると光変調XANESスペクトルは期待される形状をよく再現しており、数%程度の変化しかしないようなものに対しては光変調法の方が有用であると言える。

 現在のノイズレベルはプリアンプのあとで数十μVあり、これは先のCoFeプルシアンブルーの光変調スペクトルと同程度である。このため、位相や振幅に含まれる誤差が大きく、定量的な評価をするまでに至っていない。今後、ノイズをさらに軽減することが大きな課題であるが、位相シフトや振幅の変調周波数依存性を利用した新しい物性測定の可能性も検討していくべきだろう。

3.酸素架橋ルテニウム二核錯体の高酸化状態における局所構造解析

 目的 光合成において、水を光化学的に酸化して酸素と4個の電子を生成する機能を司るサイトがO架橋Mn4錯体であることは古くから知られていたが、その構造はつい最近明らかになったばかりで、反応機構の詳細は未だ解明されていない。そこで多くのモデル錯体についての研究が行われてきたが、構造と機能の両面において類似性を持っている錯体は非常に稀である。そのような錯体のひとつ、[Ru(bpy)2(H2O)]2O4+(図5)は、2つのRuが共に3価の状態から段階的に酸化を受け、4個の電子が取り去られたところで水を酸化してO2を生じ元に戻ることが知られている。この反応の過程を追跡することは、光合成機構の解明だけでなく、触媒や太陽電池などの開発にも非常に重要である。しかし、高酸化状態の構造情報はラマン分光の結果のみに限られ、特にRu-O-Ruの結合角は、反応が分子内・分子間のどちらで起こるのかを決める要素であるにも関わらず明らかになっていない。本研究では、XAFS分光法により高酸化状態のRu周辺の局所構造についての知見を得ることを目的とした。

 実験 Ru-K XAFS測定はKEK-PF BL-10BおよびSPring-8 BL01B1にて、透過法とLytle電離箱による蛍光X線収量法により行った。高酸化試料はCeIV(NH4)2(NO3)6により調製した。

 結果 図5に各酸化段階のRu-K XANESを示す。原料の[3,3](数字は2つのRuの酸化数を示す)から[3,4]、さらに高酸化状態へと、約1eVずつ吸収端が高エネルギー側にシフトしているものの、スペクトル形状はよく似ており、酸化された状態でも正八面体型の配位構造には大きな変化が生じていないことを示唆している。その一方で、高酸化状態では22100eV付近の肩構造がやや強い。これはラマン分光の予想通り、距離の短いRu=O結合が生成し、若干対称性が低くなっていることに由来すると思われる。

 図6にこれら3試料の粉末のEXAFSフーリエ変換を示す。1〜2Å付近にあるのがRuと第1配位のN/O、3.3Å付近に強く出ているのがRu-O-Ru由来のピークである。後者のピークを比較すると、[3,4]は[3,3]よりも強い振幅を持っている。これは、結晶構造解析で示されたように、1電子酸化によりRu-O-Ru角が広がって直線に近づいていることに対応している。このピークは高酸化試料でも強い振幅を保っていることから、同様にほぼ直線の架橋構造を持っていると考えられる。カーブフィッティングにより求められた高酸化状態のRu-O-Ru距離は3.69Åで、[3,4]と同程度であることがわかった。一方、Ru-O-Ru角度の解析ではR-factorによる比較が難しいため、配位数が正しい値1.0になる角度を求める方法を採用した。その結果(図7)[3,3],[3,4],高酸化状態でそれぞれ165゚,170゚,169゚となり、[3,3],[3,4]の値がいずれも結晶構造解析の結果とよく一致していることから、高酸化状態の169゚という値も信頼できると考えられる。これから、高酸化状態においても直線構造が保たれていることが明らかになった。

図1.光変調XAFS測定セットアップ。

図2.(上)30Kで測定したFe(2-pic)3Cl2・C2H50Hの暗時(実線)および光照射時(破線)のFe-KXANESスペクトルと、その差分(点線)。(下)同じ温度で測定した光変調XANESスペクトル。変調周波数5.2Hz。

図3.Fe(2-pic)3C12・C2H50Hの(a)30,(b)60KにおけるFe-KXANESスペクトルの変調周波数依存性。高遠Lytle電離箱を使用している。

図4.CoPeプルシアンブルーCo-KXANESの光励起によるスペクトル変化。(a)30Kおよび(b)100Kで暗時と連続光照射時のスペクトルの差分をとったもの。(c)光変調法(100K、変調周波数4.2Hz)によるもの。

図5.(上)Ru2O錯体の構造。(下)Ru-KMNESスペクトル。2つのRuが共に3価の原料錯体[3,3](点線)I当量の酸化剤を加えたもの[3,4](破線)および高酸化状態の沈殿(実線)。挿入図は吸収端前の部分を拡大したもので、見やすいように上下をずらしてある。

図6.Ru20錯体の各酸化状態におけるRu-KEMFSフーリエ変換。

図7.(a)原料錯体、(b)一電子酸化された状態、(c)高酸化状態のカーブフィッティングにより得られた配位数の結合角依存性。配位数が1.0になるところが正しい結合角であると言える。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は5章から成っている。第1章は序論である。ここでは,いくつかの遷移金属化合物が光や,熱,圧力のような刺激によって興味ある振舞いをすることが知られており,それらについて様々な手法での研究が行われていること,しかしながら,中心金属の回りの構造がどのようになっているかについての研究が殆ど無い。一方,X線吸収微細構造(XAFS)分光法は局所構造を調べる有効な手法である事が述べられている。

 第2章では,著者らが開発した光変調XAFS分光法の詳細とその典型的な応用例について述べられている。従来のXAFS分光法は微量に混在した成分の回りの構造変化を知ることは非常に難しいが,今回開発した方法はXAFSスペクトルを測定しながら,励起光を一定の周波数で断続させ,それに追随する成分をロックインアンプで増幅検出するものであり,この方法により,原理的には光励起によって準安定状態に移った状態の電子状態,幾何構造を調べる事ができるはずである。さまざまなノイズ対策やデータ処理によって,従来の差分法に比べて約一桁感度を上げることができたことが述べられている。具体的な応用例として,光励起によってスピン転移が起こるプルシアンブルー類縁体,鉄ピコリルアミン錯体を選び,その有効性を例証している。特に後者の系については,変調周波数を変えることによって,追随する速い成分と遅い成分をより分けることができることを示し,このことが光変調XAFS法の有効性のひとつでもあることを強調している。

 第3章は鉄ピコリルアミン錯体の光誘起スピン転移の通常XAFSによる研究である。この系では160K附近が低スピン状態から高スピン状態への転移がおこるが,可視光照射によっても転移が起こる。しかし,ラマン分光法による研究では,光照射によって生じる準安定状態は熱転移によって生じたものと異なることを主張しており,これを確認する事が大きな課題となっていた。本論文では,温度変化(30K〜326K)とキセノンランプ,Nd-ドープ半導体レーザーを用いて,鉄原子から第一配位原子(N,及び,O)までの距離,及び,そのDebye-Waller因子の温度変化を詳細に調べた。その結果,低温の低スピン状態から高温の高スピン状態に移る事によって0.17Åの伸びが観測されるが,それは,光照射によっても全く同様の値である事,高スピン状態でのDebye-Waller因子の温度変化を低温30KのDebye-Waller因子に外捜した値は,誤差の範囲内で30Kで光照射したものと同じである事を調べ,これから光照射によって生じる準安定状態は高温での高スピン状態と同じである事を明らかにした。

 第4章はルテニウムビピリジル二核錯体の高酸化状態の構造のXAFS法による研究について述べられている。この系は二個のルテニウムイオンが三価-三価をとる低酸化状態から始まり,最終的には五価-五価の高酸化状態にまで到る系で水を酸化する錯体として有名なものである。この系については低酸化状態ではX線構造解析がなされているが,高酸化状態では単結晶が得られず,酸化によってどのような構造変化が起こるかが問題となっていた。XAFS法はこのような系の構造解析には威力を発揮するが,それでも系が複雑な為,非常に丁寧な実験と詳細な解析が必要とされる,まさに限界への挑戦であった。XANESスペクトルからは酸化の進行に伴ってピークが高エネルギー側にシフトし,同時にプリエッジピークが現われ,Ru-O結合が短くなって対称性が低下していくことを示している。詳細なEXAFSの解析から,高酸化状態においてもRu-O-Ruは169゚と,ほぼ共直線構造を維持している事,Ru=O結合が存在している事を明らかにした。また,これまで提案されていたような二量体が2つ繋がった構造ではないことも明かにした。

 第5章は結論と要約である.

 本論文はXAFSという研究手法を,光や酸化状態によって構造を変化を引き起こす興味ある金属錯体に適応して,その局所構造を明かにしたこと,さらに,光変調法をXAFSに初めて導入し,光誘起準安定構造の解析手法として確立し,有機金属化学,放射光科学に大きな貢献をしたものとして,その価値は高い。

 なお,本論文は太田,近藤,横山(分子研),神舘,松村らとの共同研究であるが,論文提出者が主体となって実験,解析,考察を行ったものであり,論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって,博士(理学)の学位を授与できると認める。

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