学位論文要旨



No 117881
著者(漢字) 町田,真一
著者(英字)
著者(カナ) マチダ,シンイチ
標題(和) 高分解能内殻光電子分光法を用いたSi(100)表面の構造及び反応性の研究
標題(洋)
報告番号 117881
報告番号 甲17881
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4352号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 吉信,淳
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 島田,敏宏
 東京大学 助教授 渡邊,聡
 東京大学 助教授 木下,豊彦
内容要旨 要旨を表示する

【序論】

 Si単結晶の(100)面では、最表面の原子はダングリングボンド密度を減らすために隣り合ったSi原子でダイマーを形成し、ダイマーが列をなした(2×1)再配列構造をとることが知られている。更にこのダイマーは、一方の原子に電荷が移動し非対称ダイマーになることによって更に安定化する(図1)。室温ではこのダイマーがフリップ-フロップ運動しており、走査トンネル顕微鏡(STM)や低速電子回折(LEED)では(2×1)構造が観測され、200K以下では熱振動による揺らぎが抑えられて非対称ダイマーが交互に並んだc(4×2)構造が現れることが知られている。しかし、近年極低温で対称ダイマー像が観測されたという低温STMを用いた研究結果が報告され、Si(100)表面の基底状態について議論が再燃している。

 本博士研究では高分解能内殻光電子分光(PES)を用いて、Si(100)表面のダイマーの基底状態が非対称ダイマー構造であることを明らかにした。また非対称ダイマーを構成するアップダイマー原子(Su)・ダウンダイマー原子(Sd)それぞれの化学的性質について、高分解能内殻PES及び価電子帯PESを用いて研究を行った。

【実験】

 実験は超高真空チャンバー(到達真空度〜4×10-11torr)を高エネルギー加速器研究機構・Photon Factory (PF) BL-16B(アンジュレータービームライン)に持ち込んで行った。光電子スペクトルの測定は半球型電子分光器で行った。Si 2p(結合エネルギー〜100eV)PESスペクトルを表面敏感な条件で行うには、一般的に130eV前後の励起光を用いるが、PFBL-16Bはこの波長領域の光源としては国内で最も輝度が高いビームラインである。本研究では高輝度な光源を用い、かつ電子分光器や試料の条件を最適化することによって、Si 2p PES測定では世界最高レベルの装置分解能ΔE〜40meVを達成した。

 測定試料はボロンドープのSi(100)基板(2.5〜3.5Ω・cm)を用いた。試料は通電加熱法で加熱し900Kで12時間デガスしたのち、数回〜十数回1500Kまでフラッシュして清浄化を行った。Si(100)表面に吸着させる分子はパルスガスドーザーを用いてチャンバー内に導入し、試料表面に再現性良く吸着させた。また、試料の冷却は液体ヘリウムまたは液体窒素で行い、液体ヘリウムを用いたときの測定試料の最低到達温度は30Kであった。

【Si(100)清浄表面の構造】

 Si(100)表面の最安定構造はc(4×2)構造だと考えられていた。しかし近年、低温STMを用いたSi(100)表面の研究において、80〜20Kでの温度範囲で対称ダイマー像が観測されたという報告があり、Si(100)表面の安定構造に関する議論が再燃している。スラブ模型における密度汎関数計算、量子モンテカルロ計算では非対称ダイマーが、クラスター模型についての電子相関を含めたab initio量子化学計算では対称ダイマーが最安定構造であると報告されている。

 本研究で行った高分解能Si 2p PESは、表面近傍のSi原子をケミカルシフトを用いて区別するのに充分な分解能がある。c(4×2)構造をとることが既に知られている140KでのSi 2p PESスペクトルを、過去の研究および表面敏感な条件、バルクに敏感な条件でのスペクトルを比較することによりピーク分離を行い、各コンポーネントの帰属を行った。

 次に室温(300K)及びサンプル温度をより低くした条件(90〜30K)で測定を行い、得られたスペクトルについてピーク分離を行った。得られたスペクトル及びピーク分離の結果を図2(a)-(d)に示す。

 30Kでのスペクトル(図2(d))に注目するとアップダイマー原子に由来するピークがはっきりと存在しており、温度が下がることによって減少することはなかった。ピーク分離の結果からサンプル温度を300Kから30Kまで変化させても、Si 2p PESスペクトルを構成する各コンポーネントのケミカルシフトはほとんど変化しないことがわかった(図3(a))。また図3(b)を見ると各コンポーネントの半値幅は温度の減少と共に単調に減少していることから、極低温においてフリップ-フロップ運動が再び起こるようなことはないと考えられる。

 以上の結果よりSi(100)表面の基底状態は非対称ダイマー構造であると結論づけた。従って低温STMで得られた対称ダイマー像は、STM測定によって誘起された現象であると考えられる。

【非対称ダイマーの反応性】

 Si(100)表面における非対称ダイマーでは、ダウンダイマー原子からアップダイマー原子側への電荷移動が起こっていることから、アップダイマー原子、ダウンダイマー原子はそれぞれそれぞれLewis塩基(電子供与性)、Lewis酸(電子受容性〉として振る舞うと予想される。そこでSi(100)表面にルイス酸分子やルイス塩基分子を吸着させて、高分解能内殻PES及び価電子帯PES光電子分光の測定を行い、吸着分子の吸着サイト選択性を調べた。本研究ではルイス酸分子として三フッ化ホウ素(BF3)、ルイス塩基分子としてピリジン、トリメチルアミン(TMA)を用いた実験を行った。

 BF3吸着面のSi2pスペクトルについてピーク分離を行ったところ、清浄表面で見られた5つのコンポーネントに加えて、新たに2つのコンポーネントが現れることがわかった(図4)。2つのコンポーネントのうちバルクに対するケミカルシフトが1.26eVのものは、Si-Fに由来するものと帰属することができる。またSi-F2、Si-F3に由来するコンポーネントは認められなかった。Si 2pスペクトルの各コンポーネントの吸着量依存性を図5に示す。吸着量を増すにつれてSuに由来するコンポーネントが減少し、Si-Fに由来するコンポーネントが増加することがわかる。Suの減少分とSi-Fの増加分の比は飽和吸着で約1.7:1であった。また、Si-F以外にBF3を吸着することによって現れたもう一方のコンポーネント(0.37eV)はSi-Fとほぼ同じ面積強度であることから、Si-BF2に由来するものと帰属した。これらの結果、およびSdは吸着量を増やしてもほとんど減少しないことからBF3はSi(100)表面上でFとBF2に解離し、約85%がSuサイトに選択的に吸着することがわかった。

 ピリジン、トリメチルアミンについて結果のみ記す。

 Si(100)表面でのピリジンの吸着状態は複数存在することが示唆された。その原因としてN原子のローンペアによるルイス塩基性だけでなく、芳香族性も寄与しているためと考えられる。本研究の結果から少なくとも3種類の構造が存在することが示唆された。

 ピリジンのローンペアが関与している配位結合による吸着は、Sdサイトで起こっていると考えられる。一方、芳香族的な性質もあるためπ電子とSiダイマーとの相互作用によるdi-σ結合も生成していると考えられる。di-σ結合の様式としては分子面が表面に対して立った状態(1組のdi-σ結合)と表面に対して寝た状態(2組のdi-σ結合)の2種類が存在することが示唆された。また、これらのdi-σ結合による吸着の場合、1つの結合はSi-N結合であると考えられる。

 Si(100)表面におけるTMAの吸着状態について、価電子帯PESスペクトル、Si 2p PESスペクトルの結果からTMAの吸着状態としてローンペアがSdサイトに配位結合しているものと、SuサイトでCH3とN(CH3)2に解離吸着しているものの2種類が存在することが示唆された。低温STMでTMAを吸着させた表面を観察すると、配位結合したTMAがSd側に、解離したメチル基、N(CH3)2が向き合ったダイマー列のSuサイトに対になって吸着している状態が観測されるかもしれない。

 TMAはSi(100)表面で解離しないことが過去の報告でなされていたため、Sdサイトにだけ配位結合することが期待されたが、Si 2p PESの結果からはSuサイトでも反応が起こっていることが示された。Suサイトでの反応は解離吸着によるものであり、解離吸着種はどちらもSuサイトに吸着していると考えられる。また、配位結合による吸着はSdサイトで起こっていると考えられる。

 以上の結果よりSi(100)表面における非対称ダイマーの反応性について、SuサイトとSdサイトのいずれかに選択的な反応をさせるためには、吸着分子のルイス酸・塩基的性質に加えて、次のようなことを考慮する必要がある。

(1)競合する反応を起こさない。

(2)解離せずに吸着する。あるいは解離種のいずれもが一方のサイトに選択的に吸着する。

 この2点を考慮した上で、ルイス酸・塩基的な性質を持つ分子を選択すれば、Si(100)c(4x2)表面においてサイト選択的な反応をさせて、ダイマー列方向に沿って分子を整列させるだけでなく、ダイマー1つおきに交互に入れ替わるような周期的な構造を作成することができると考えられる。

図1:Asymmetric dimer on Si(100) surface.

図2:Si 2p photoelectron spectra from the clean Si(100) surface at normal emission and the results of decompositions. (Su: up dimer, Sd: down dimer, SS: subsurface, B: Bulk, X: unknown)

図3:Temperature dependence of (a) chemical shift and (b)FWHM of each component in Si 2p PES spectra.

図4:Si 2p PES spectrum of Si(100)c(4x2) surface after exposure to 9 shots BF3 at l00K.

審査要旨 要旨を表示する

 シリコン単結晶の(100)表面は、半導体デバイスの作成でもっとも良く使われている表面である。表面の構造や化学反応性を原子レベルで解明することは、基礎科学だけでなくナノメートルスケールでの反応制御や構造の構築など応用面からも重要である。本論文は6章からなり、第1章は序論、第2章は実験法、第3章は測定法の基本原理、第4章は低温Si(100)表面における非対称ダイマーの実証、第5章はSi(100)表面の非対称ダイマーの反応性、そして第6章では結論が述べられている。

 第1章では、研究の背景を述べ、これまでに知られている実験的および理論的研究のレビューを行い、本研究の位置づけを行なった。

 第2章は、本論文で用いられた実験装置および実験条件について述べられている。実験は全て超高真空(UHV)チェンバー内で行われた。このUHVチェンバーには、光電子分光(PES)、低速電子回折(LEED)、残留ガス質量分析のための分析装置と試料ホルダー、ガス導入装置などが設置されている。特に、高分解能PESで用いる電子分光器、励起光源としてのシンクロトロン放射光、申請者が設計した冷却試料ホルダーについてはやや詳しく記述されている。また使用した化学物質についても記述している。

 第3章では、光電子分光の原理と解析方法について述べられている。

 第4章では、低温Si(100)表面のシリコンダイマーが非対称であることを高分解能Si2P光電子分光をもちいて実証した実験について詳しく述べられており、本博士論文のもっとも重要な成果である。Si(100)表面のシリコン原子はダイマーを形成することが既に実験的・理論的に確立している。このダイマーは、下部Si原子から上部Si原子に電荷移動がおこり構造が非対称で、200K以下の低温では非対称ダイマーが長周期的に規則配列しc(4x2)構造を形成するが、この温度より高い領域では規則不規則転移が起こり非対称ダイマーがランダムに配列することが知られていた。しかし最近、80K以下の低温領域で走査型トンネル顕微鏡(STM)を用いて観察すると、 ダイマーが対称に見えることが報告され、議論となっている。STM測定と異なる方法でSi(100)表面の構造・電子状態を調べることが不可欠であった。本論文では、高分解能Si2P光電子分光を用いて、試料温度を300Kから30Kまで変化させてスペクトルを測定し、ピークの位置・強度・形状について詳細に解析した。その結果、この温度領域においてダイマーの基底状態は非対称であることを実証した。

 第5章では、非対称ダイマーの化学反応性を調べるために、ルイス酸であるBF3、ルイス塩基であるピリジン、トリメチルアミンを表面に吸着させた実験について記述されている。高分解能Si2p光電子分光と価電子帯光電子分光により吸着状態を調べた。BF3はSi-BF2とSi-Fに解離吸着するが、非対称ダイマーの上部Si原子が優先的に反応することが解明された。また、ピリジンには複数の吸着状態があること、トリメチルアミンは解離吸着している可能性が高いことを示した。これらの結果から、非対称ダイマーの化学反応性について議論を行っている。

 第6章は結語であり、本論文によって実証されたSi(100)表面におけるダイマーの低温における電子状態と構造、非対称ダイマーの化学反応性についてまとめられている。

 本論文は、高分解能内殻光電子分光を主たる実験測定に用いて、Si(100)表面に存在するダイマーの構造と化学反応性について調べたものである。特に、30Kまでの低温領域でSi(100)表面のダイマーが非対称であることを分光学的に実証し、この問題に決着をつけたことは、極めて重要である。さらに、非対称ダイマーの電子状態の違いに着目して典型的なルイス酸・ルイス塩基分子を吸着させ、サイト選択的表面反応について新たな知見を得た点で、高い価値がある。

 なお、本論文の第2章、第4章、第5章は、吉信淳、山下良之、向井孝三、長尾昌志、山本達、掛札洋平との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験とその解析を行なったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって審査員全員により、博士(理学)の学位を授与できると認めた。

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