学位論文要旨



No 117918
著者(漢字) 中野,泉
著者(英字)
著者(カナ) ナカノ,イズミ
標題(和) 鞭毛軸糸における微小管滑り運動のCa2+による制御の機構
標題(洋) Studies on the regulation of microtubule sliding by Ca2+in flagellar axonemes
報告番号 117918
報告番号 甲17918
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4389号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 真行寺,千佳子
 東京大学 教授 神谷,律
 東京大学 教授 馳澤,盛一郎
 東京大学 助教授 奥野,誠
 東京大学 助教授 稲葉,一男
内容要旨 要旨を表示する

序論

 真核生物の鞭毛の基本構造は「9+2」構造と呼ばれ,9本のダブレット微小管が中心の2本の微小管を囲むように配置されている.鞭毛の周期的屈曲運動は,この9本のダブレット微小管上に並ぶモータータンパク質ダイニンがATPを加水分解する時に生ずる化学エネルギーによって力を発生し,隣り合う微小管との間に滑りを引き起すことによって起こる.Ca2+は鞭毛・繊毛運動の制御に関与することが知られており,ウニ精子の鞭毛では,細胞内Ca2+濃度の上昇によって波形の非対称性が増大し,10-4MCa2+では片側の屈曲のみを残して運動が停止する.このようなCa2+による鞭毛・繊毛の波形変化は,細胞体の遊泳方向の制御に重要であると考えられているが,Ca2+がどのような機構によってダイニンの活性を変化させ,屈曲波形の変化を起こすのかは未だ解明されていない.

 これまでのCa2+によるダイニンの活性制御機構の研究では,軸糸から微小管が滑り出す際の速度や抽出したダイニンによる微小管の滑り速度が調べられてきたが,Ca2+は滑り速度に影響を与えないと報告されてきた.しかし近年,高濃度ATP存在下では中心小管がCa2+による滑り速度の制御に重要であると報告されている.しかし低濃度ATP存在下では,中心小管はCa2+による滑り運動の制御に必須ではないとの報告もあり,ATP濃度によりダイニンの活性の制御機構が異なっている可能性が考えられる.よって,Ca2+によるダイニン活性制御機構の解明においては,中心小管とATP濃度の関与を考慮することが重要であると考えられる.

 本研究は,Ca2+による軸糸ダイニンの活性の制御機構について解明することを目的とし,滑りの制御機構をある程度残していると考えられているelastase処理軸糸を用いて,in situに近い条件で実験を行った.本論文は二部から構成され,第一部では,「中心小管を介したCa2+による微小管滑り運動の制御機構」について,第二部では,「Ca2+による微小管滑り運動の制御に及ぼす外腕抽出の効果」について,その結果を報告する.

材料と方法

 第一部,第二部共に材料にはアカウニとタコノマクラの精子を用いた.除膜した精子は断片化し,頭部を除去して軸糸のみを用いた.一部の軸糸は,0.6 M KClで3分間室温で処理した後,0.75 M KClで1時間on iceで処理し,外腕ダイニン全てを抽出した.軸糸はrhodamimeでラベルして断片化し,5μlチェンバー内でelastase処理を行った.軸糸のsliding disintegrationの観察においては0.02mMまたは1mM ATPを,また重合微小管(MT)の滑り運動を観察する滑り解析系においては1mM ATPを加えてダブレット微小管の滑りを誘導した.観察は蛍光顕微鏡とSITカメラを用いて行った.第二部におけるATPase活性の測定では,0.75M KCl処理軸糸を更に低イオン強度のTris-EDTA溶液で2時間処理し,軸糸に残っている全ての内腕ダイニンを抽出し,ATPの加水分解量をマラカイトグリーンの呈色反応によって測定した.

結果と考察

 第一部:中心小管を介したCa2+による微小管滑り運動の制御機構

 Elastase処理軸糸に10-4 M Ca2+,1mM ATPの条件で滑りを誘導すると,軸糸内の滑りの制御を反映して1回の滑り運動が起こり,その結果軸糸は中心小管を含む太いダブレットのbundleと含まない細いダブレットのbundleとに分かれる(Yoshimura and Shingyoji,1999).このようにして得られた中心小管の有無が判別できるダブレットbundle上にMTを潅流し,bundleの端のダブレット上に露出したダイニンと相互作用したMTの動きを,Ca2+条件を変化させて解析することにより,中心小管の有無がCa2+によるダイニンの滑り活性の変化に関与するかを検討した.

 Ca2+濃度を<10-9 Mから10-4 Mの間で変化させてMTの滑り運動が観察される割合を観察した結果,中心小管を含まない細いbundle上で観察された滑り運動の起る頻度は30-40%でCa2+により変化しなかった.しかし,中心小管を含む太いbundle上で観察された滑り運動の起る頻度は,低濃度Ca2+条件では約20%と低く,さらに,10-4 M Ca2+では9%にまで低下した.このことから,ダブレット微小管上に並ぶダイニンによる滑り運動の起る頻度は,中心小管を介して高濃度Ca2+により抑制的に制御されていることが示唆された.さらに,滑り速度を調べた結果,10-7-10-4M Ca2+のいずれの濃度においても,中心小管を含む太いbundle上の微小管滑り速度が<10-9M Ca2+に比べ有意に低下した(Mann-Whitney U-test;p<0.05).しかし細いbundle上の滑り速度には変化は見られなかった.これらの結果は,高濃度のCa2+存在下で,中心小管がダイニンの活性を抑制的に制御していることを強く示唆する.

第二部:Ca2+による微小管滑り運動の制御に及ぼす外腕抽出の効果

 第一部において示された,Ca2+存在下での中心小管による軸糸内のダイニンの活性制御機構の仕組みをさらに明らかにするため,第二部では,外腕抽出軸糸を用いてCa2+により外腕ダイニン,内腕ダイニンの活性がどのように割御されるのかに注目し実験を行った.

 第一部と同様の方法で,MTの滑り運動の解析を,外腕ダイニンを抽出した内腕のみの軸糸を用いて行った.その結果,中心小管が存在する太いbundle上において,滑り運動の起こる頻度は,外腕が存在する軸糸と同様に高濃度Ca2+によって9%にまで低下した.しかし,Ca2+による滑り速度の低下は観察されなかった.このことは,Ca2+によるダイニンの滑り速度の低下には外腕ダイニンが重要であることを示唆する.

 上記の実験において,外腕抽出軸糸を用いて軸糸を2本のダブレットのbundleに分かれるように滑りを誘導する際に,注目すべき事実が観察された.外腕を抽出していない軸糸(intact軸糸)では10-4M Ca2+,1mM ATPの条件で2本のbundleに分かれるが,この条件では外腕抽出軸糸は滑りを示さず,2本のbundleに分かれるような滑りを誘導するには,Ca2+濃度を低下させる必要があった.これは,内腕ダイニンの活性のCa2+による制御を反映している可能性が高い.そこで,intact軸糸および外腕抽出軸糸を用いてCa2+及びATP条件を変えて滑りパターンを詳しく観察した.その結果,intact軸糸ではATP濃度に依存した滑りパターンが観察され,特に低濃度ATP条件下ではほとんどの軸糸が3回以上の滑りを起こして多数のダブレットに分かれる様子が観察されたが,Ca2+による影響は少なかった.一方外腕抽出軸糸においては,滑りパターンはCa2+濃度に強く依存し,高濃度Ca2+条件では,ATP濃度によらず90%以上の軸糸で滑り運動は観察されなかった.

 外腕ダイニンが存在する場合,ATP濃度の低下により高濃度ATP条件下よりも多くのダブレット間で滑りが誘導された.これは,軸糸内において滑りを起こしうるダイニンの活性がATP濃度により制御されていることを反映している可能性が高い.そこで,0.1mM ADP存在下で高濃度ATPを加える事により誘導される滑りを観察した.その結果,intact軸糸においては高濃度Ca2+,高濃度ATPで観察された1回のみの滑り,すなわち軸糸の大部分のダブレット間での滑りの抑制がADPにより解除され,多数のダブレット間で滑りの起る様子が観察された.一方外腕抽出軸糸では,低濃度Ca2+条件では,ADPを加えることにより滑り回数の増加が観察されたが,高濃度Ca2+条件下の強い滑りの抑制はADPにより解除されなかった.この結果は,内腕ダイニンにはCa2+による強い運動活性の抑制機構が存在していることを示唆する.

 そこで最後に,内腕ダイニンそのものにCa2+による活性制御機構が存在するかどうかを調べるため,外腕抽出軸糸から低イオン強度のTris-EDTA溶液で内腕ダイニンを抽出し,そのATPase活性に対するCa2+の効果を検討した.その結果,Ca2+濃度が低い条件で軸糸から抽出したダイニンは,測定時のCa2+濃度が低い場合も高い場合もATPase活性に変化は見られなかった.一方,10-4M Ca2+存在下で内腕ダイニンを軸糸から抽出し高濃度Ca2+条件でATPase活性を測定すると,ATPase活性の有意な低下が観察された.同様の測定を外腕ダイニンについても行ったが,Ca2+によるATPase活性の抑制はみられなかった.この結果は,内腕ダイニンの活性はCa2+により直接抑制され得ることを示唆する.

 以上の結果より,内腕ダイニンの活性はCa2+により抑制的に制御されており,中心小管がこの制御機構に関与している事が示された.一方,外腕ダイニンが存在するときには中心小管を介したCa2+による制御とは独立に,低濃度ATPやADPによるダイニン活性制御機構が存在するらしいことが示唆された.

 本研究において,生理的ATP濃度である高濃度ATP条件においては,中心小管は軸糸内において内腕と外腕ダイニンの活性のCa2+による抑制的な制御機構に必須であることが明らかとなった.このことは,長い間謎とされてきたCa2+による鞭毛波形の変化の基本がダイニンの滑り活性の抑制にあることを示したという点で重要なばかりでなく,その役割が注目されている中心小管の機能をより深く理解する上で重要な発見であるということができる.

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は,Ca2+による鞭毛ダイニンの活性制御機構について解明することを目的とし,新しい実験系を用いて行われた.本論文は2部から構成され,第1部では,「中心小管を介したCa2+による微小管滑り運動の制御機構」について,第2部では,「Ca2+による微小管滑り運動の制御に及ぼす外腕抽出の効果」について述べられている.

 真核生物の鞭毛・繊毛運動は,外腕・内腕ダイニンによって起されるダブレット微小管間の滑り運動を原動力としている.Ca2+は鞭毛・繊毛運動の制御に関与することが知られているが,その機構は未だ解明されていない.これまでの研究から,滑りの制御には鞭毛軸糸の中央に位置する中心小管が重要な役割を果たしていると推測されている.本論文の共著者である吉村博士によって開発された新しい滑り解析系を用いた実験は,滑り速度の制御における中心小管の役割を明らかにできる実験系として注目される.しかし,Ca2+による制御と中心小管とのかかわりについては明確には示されていなかった.

 本研究の第1部では,Ca2+によるダイニン活性の制御における中心小管の役割を明らかにすることを目指した.まず滑り解析系の改良が行われ,その結果,より安定した微小管滑り運動の解析が可能となった.ウニ精子鞭毛の軸糸(外腕と内腕とを持つ)をエラスターゼ処理し,高濃度ATP,高濃度Ca2+の条件で滑りを誘導すると,軸糸は太い束と細い束の2本の束に別れるように滑る.太い束には中心小管が含まれていることを小林博士が示した.それぞれの束の端のダブレット上にはダイニンが露出している.重合微小管を環流してダイニンと相互作用した微小管の滑り速度を解析した結果,低濃度Ca2+では,細い束上でも太い束上でも約5μm/secで滑った.高濃度Ca2+では,細い束上の滑り速度は変化しなかったが,太い束上では有意に低下した.さらに,滑りの起こる頻度は,太い束上のみで高濃度のCa2+により低下した.これらの結果は,ダイニンの滑り活性が中心小管を介して高濃度Ca2+により抑制されることを直接的に示した初めての成果である.

 第2部では,外腕と内腕のCa2+による活性制御の機構を明らかにすることを目指した.第1部と同様の手法で,外腕を抽出して内腕のみとなった軸糸からえたダブレットの太い束と細い束上の微小管の滑りを解析した.いずれの束上においても滑り速度は一定でCa2+による変化が見られなかった.しかし,太い束上の滑り頻度は高濃度Ca2+により低下したので,内腕の滑り活性も中心小管を介して高濃度Ca2+による抑制を受けることが示された.また,2本の束に別れるような滑りを誘導する条件は,外腕の存在により変化することが見い出された.外腕と内腕が存在する場合には,低濃度ATPではCa2+濃度によらず複数のダブレット間で滑りが起こるが,高濃度ATPでは1ケ所または2ケ所のダブレットでのみ滑りが起こり軸糸は2本または3本に別れる.これに対し,内腕のみの軸糸に滑りを誘導すると,低濃度Ca2+では滑りが起こるが,高濃度Ca2+では滑りがほとんど起こらない.この滑りの抑制の原因は,内腕のATPase活性そのものが高濃度Ca2+状態では強く抑制されていることによるらしいことが示された.さらに,外腕と内腕を持つ軸糸において高濃度ATPによって起こされる2本の束に別れるような滑りは,ADPを加えると解除され,複数のダブレット間で滑りが起こるようになった.しかし,内腕のみの軸糸ではそのような滑りの抑制の解除は見られなかった.

 以上のように,中心小管を介した高濃度Ca2+による滑り速度の抑制には外腕が重要な働きをすること,内腕ダイニンの滑り活性もCa2+により抑制的に制御されており,中心小管がその制御機構に関与していることが示された.一方,外腕ダイニンが存在するときには中心小管を介したCa2+による制御とは独立に,低濃度ATPやADPによるダイニン活性制御機構が存在するらしいことが示唆された.

 本研究において,生理的ATP濃度(高濃度ATP条件)では,軸糸内の内腕・外腕ダイニンの活性がCa2+により抑制的に制御され,その制御機構に中心小管が必須であることが明らかとなった.このことは,長い間謎とされてきたCa2+による鞭毛波形の変化の基本が,ダイニンの滑り活性の抑制にあることを示したという点で重要なばかりでなく,その役割が注目されている中心小管の機能をより深く理解する上で重要な発見であるということができる.

 なお,本論文は,小林剛氏・吉村(渡辺)美幸子氏・真行寺千佳子氏との共著であるが,論文提出者が主体となって実験,解析を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する.

 したがって,博士(理学)の学位を授与できると認める.

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