学位論文要旨



No 117937
著者(漢字) 海老澤,模奈人
著者(英字)
著者(カナ) エビサワ,モナド
標題(和) 19世紀ドイツ、オーストリアにおけるミュージアム建築の展開に関する研究 : 1870年以降の多様化を中心として
標題(洋)
報告番号 117937
報告番号 甲17937
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5395号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 助教授 岸田,省吾
内容要旨 要旨を表示する

 本研究は、19世紀のドイツ、オーストリアで建設されたミュージアム(美術館・博物館)のための建築(以下、ミュージアム建築)を対象とする。ヨーロッパにおいて公共のミュージアムが成立するのは18世紀後半であり、19世紀以降、その専用建築が一つのビルディング・タイプとして発展していく。過去の遺産を収集、展示することにより、芸術・文化・社会の歴史を再評価しようとするミュージアムは、歴史が重視された19世紀を象徴する施設だと考えられる。その意味・機能を表現するためにどのような建築が構想され、その形式がいかに展開したかを、建設事例の分析を通して考察する。

 その際、包括的な研究のなされていない1870年以降を中心的な考察対象とした。この時期、ミュージアムの建設数は大幅に増加し、その対象とするコレクションは多様化する。そのような背景を整理しつつ、同時代の建築雑誌等に発表されたテキスト・図面などの分析を通して、19世紀終盤に向かって多様化し、変化していくミュージアム建築像を明らかにすることを試みた。

 本論の構成は次のようになる。まず、1870年頃までのミュージアム建築の展開を概観し、この時期に提示された諸形式を指摘する(第3章)。続いて、それまでの形式を継承し、発展したと見なせる1870年以降のミュージアム建築について、その展開の諸相を論じる(第4章)。最後に、19世紀終盤に見られる新しい形式について、その成立と展開を考察する(第5章)。なお、本論の記述・考察は、19世紀ドイツ、オーストリアの(芸術関連コレクションを対象とする)ミュージアム建築を網羅的に調査した成果に基づいている。その内容は、カタログとしてまとめた。

 考察に先立ち、第2章では展開の背景を整理した。まず2-1節で、コレクションの多様化に伴い分類される、ミュージアムのタイプ「芸術ミュージアム」「工芸ミュージアム」「文化史ミュージアム」を定義した。2-2節では、同時代の政治的・社会的背景を考慮しつつ、1870年以降増加するミュージアムの建設の様相を解説した。

■1870年頃までのミュージアム建築の展開

 I9世紀前半のミュージアムは、主に芸術遺産の蓄積された宮廷都市で建設された。その初期には、新古典主義の造型が率先して採用された。とりわけ、ベルリンのアルテス・ムゼウムは、ファサードの列柱ホールや内部のロトンダなどの表現を通して、芸術の神殿としてのミュージアムを具体化した。その理想は、次第にルネサンスの建築表現に受け継がれていく。その先駆であるミュンヘンのアルテ・ピナコテークは、展示室を連続させ、トップライトを主要採光源とするギャラリー型を確立した。その後1870年頃までのミュージアム建築の主流は、ルネサンス様式の宮殿型の建築であり、その代表例として、ドレスデンの絵画ギャラリーがある。18世紀以前の宮殿建築を連想させるその造型は、他の都市でも類例を生む。また、19世紀中盤以降、市民主体によるミュージアム建設も増加する。そこでも、ルネサンスの表現が主流となるが、コレクションの規模を反映して、正方形に近い小規模な平面が採用され、その中心に階段室などの記念碑的な空間を配置する形式が一般化した。

■1870年以降のミュージアム建築における既存の形式の継承と発展

 4-1節では、ウィーン宮廷ミュージアムの成立過程を、設計趣意書、審査評の分析を通して考察した。ドイツ語圏随一の芸術遺産を誇るウィーンでは、19世紀後半の都市拡張に伴いミュージアムの計画が始まる。四人の建築家による1867年の設計競技では、ミュージアムの都市的意義を考究し、明瞭なコンセプトに基づく建築の全体像を追求した実と、設計条件を遵守し、建築内部の個別的かつ実用的な問題を重視する案という二つの立場が提示された。実用性を優先した審査委員会により、後者に改良案が求められる。改良案の審査をしたゼンパーは、全体配置の中心に宮廷を据えるというコンセプトを提示し、宮廷と一体化したミュージアムの構想案を作製した。それは、実用性重視の方針では欠けていた建築の全体的な意味づけを明確化するものであり、同時に19世紀前半以来のミュージアム建築の伝統を大規模に発展させるものだったと解釈できる。また、一貫して都市との関係の中で展開したこのプロジェクトは、19世紀の首都におけるこのビルディングタイプの重要度を示す実例でもあった。

 4-2節では、1870年以降のネオ・ルネサンスのミュージアム建築の展開に見られる、内部構成・外部造形両面での多様化を、その背景を考察しつつ論じた。まず、建築内部の新しい要素として、工芸ミュージアムで導入された「光の中庭」に注目した。ガラス天井を持つこのホールは、展示・採光などの実用面に加えて、記念碑的な空間としても発展し、ミュージアムの主要な構成要素として定着していく。さらに同時期、地方都市の小規模な事例では、用途や予算に応じて、「⊥」型などの新しい平面構成が提示されたことが確認された。外部の造型は、当初、イタリア・ルネサンスが中心的な規範として継承されたが、次第に折衷化、多様化する。19世紀終盤には、二つの新しい傾向が顕著になった。一つは、バロック風の堅牢な造型であり、その中には国家や州の記念碑としての性格をあわせ持つ例もあった。もう一つは、工芸・文化史ミュージアムで採用された、各地方のルネサンス建築を範とする造型であり、同時期のミュージアムにおける郷土性の高まりを象徴するものだと解釈できる。

 4-3節では、ベルリンを中心とした新古典主義のミュージアム建築の展開を再構成した。ベルリンの中心部には、シンケルや国王F.ヴィルヘルム4世の理想に基づき、1870年頃までに、古代ギリシアの建築表現を集積したミュージアム地区が形成されていた。その理想は、1870年以降の計画にも影響を与える。国家の芸術遺産を収容するために1880年代に開催されたミュージアム島設計競技では、古代ギリシア都市の発掘品収容を象徴するような「芸術のアクロポリス」の構想案も提示された。このような首都の計画の影響は、ブレスラウなどの近傍地域の1870年以降の計画にも見出せた。

■19世紀終盤に見られるミュージアム建築の新しい形式

 1890年代には、従来の左右対称の構成を放棄し、建築単位の集合からなる新しい形式のミュージアムが計画されるようになる。5-1節では、その形式を、当時用いられた「集積(Agglomeration)」という概念をもとに「集積型ミュージアム」と定義し、概要を述べた。この形式は、1890年から約20年間、文化史ミュージアムの新築計画に適用される。その特徴は、建築内部では、コレクションの種類や時代に対応した様々な造形の展示室が計画され、外観では、郷土の歴史的な建築表現による折衷主義的な造型が計画される点にあった。

 5-2節では、集積型の成立に影響を与えたニュルンベルクのゲルマニッシェス・ナツィオナルムゼウムの建築発展を考察した。建築家エッセンヴァインの館長時代に注目し、同時代の雑誌記事、彼の記述、ミュージアムの規約の分析を通して、どのような背景から、その建築の特徴が形成されたかを明らかにした。このミュージアムは、1857年に世俗化された修道院を居所とする。1866年に館長に就任したエッセンヴァインは、設立者が目指した「史料目録作成」を重視する基本方針を、「コレクション」重視の方針へと転換し、ミュージアムの拡大発展を試みた。コレクションの整備・拡大に伴い必要となった展示室は、1870年代から1880年代にかけて段階的に増築された。その過程において、展示室の設えとコレクションとの対応関係が次第に強化される。その結果、従来のミュージアムには見られなかった、建築内部・外部における集積的な構成が確立されていく。

 5-3節では、19世紀終盤から20世紀初頭のドイツにおける雑誌記事の分析を通して、集積型ミュージアムの展開過程を考察した。1890年代初めに、この形式はベルリンとミュンヘンの設計競技に導入された。その時点では、コレクションに対応した多様な展示室からなる建築内部の計画が重視され、外観には明確なイメージが示されなかった。1890年代後半には、この形式は複数の設計競技で適用されるなど、関心を集めていく。そして1900年のバイエリッシェス・ナツィオナルムゼウム(ミュンヘン)の竣工時には、建築内部の構成に加えて、外部の造型にも、郷土の歴史的な建築表現の集積という特性がアピールされるようになった。しかしその後、展示室の自由度の不足という点から、建築内部の構成手法に批判が加えられる。その状況下、1908年に開館したメルキッシェス・ムゼウム(ベルリン)では、上述した建築外部の造型的意義がより積極的に強調されていた。つまり、集積型は、新しいミュージアム建築の形式として関心を集めたが、展開過程を通して次第に、その基盤にあった建築内部の計画の汎用性が疑問視されていき、他方で、建築外部の造型が、評価の一つの拠り所になっていたことがわかる。このようにミュージアム建築の形式としての一般性が次第に失われていった点に、この形式の短命さの主要な要因があることを指摘した。

 部分の集合から全体を構成するという計画手法を提示した点では、集積型はその後のミュージアム計画の先駆となった。ただし、その建築表現の基盤が歴史の集積であった点は、19世紀のミュージアム建築の特性を強く示していた。20世紀のミュージアム計画では、19世紀に求められた歴史との関連性は次第に薄れ、平面構成や展示方法というミュージアム内部の問題が主題となっていく。

審査要旨 要旨を表示する

 本論の構成は次のようになる。まず、1870年頃までのミュージアム建築の展開を概観し、この時期に提示された諸形式を指摘する(第3章)。続いて、それまでの形式を継承し、発展したと見なせる1870年以降のミュージアム建築について、その展開の諸相を論じる(第4章)。最後に、19世紀終盤に見られる新しい形式について、その成立と展開を考察する(第5章)。なお、本論の記述・考察は、19世紀ドイツ、オーストリアの(芸術関連コレクションを対象とする)ミュージアム建築を網羅的に調査した成果に基づいている。その内容は、カタログとしてまとめられている。

 考察に先立ち、第2章では展開の背景を整理した。まず2-1節で、コレクションの多様化に伴い分類される、ミュージアムのタイプ「芸術ミュージアム」「工芸ミュージアム」「文化史ミュージアム」を定義した。2-2節では、同時代の政治的・社会的背景を考慮しつつ、1870年以降増加するミュージアムの建設の様相を解説されている。

 19世紀前半のミュージアムは、主に芸術遺産の蓄積された宮廷都市で建設された。その初期には、新古典主義の造型が率先して採用された。とりわけ、ベルリンのアルテス・ムゼウムは、ファサードの列柱ホールや内部のロトンダなどの表現を通して、芸術の神殿としてのミュージアムを具体化した。その理想は、次第にルネサンスの建築表現に受け継がれていく。その先駆であるミュンヘンのアルテ・ピナコテークは、展示室を連続させ、トップライトを主要採光源とするギャラリー型を確立した。その後1870年頃までのミュージアム建築の主流は、ルネサンス様式の宮殿型の建築であり、その代表例として、ドレスデンの絵画ギャラリーがある。18世紀以前の宮殿建築を連想させるその造型は、他の都市でも類例を生む。また、19世紀中盤以降、市民主体によるミュージアム建設も増加する。そこでも、ルネサンスの表現が主流となるが、コレクションの規模を反映して、正方形に近い小規模な平面が採用され、その中心に階段室などの記念碑的な空間を配置する形式が一般化した。

 4-1節では、ウィーン宮廷ミュージアムの成立過程を、設計趣意書、審査評の分析を通して考察した。ドイツ語圏随一の芸術遺産を誇るウィーンでは、19世紀後半の都市拡張に伴いミュージアムの計画が始まる。四人の建築家による1867年の設計競技では、ミュージアムの都市的意義を考究し、明瞭なコンセプトに基づく建築の全体像を追求した案と、設計条件を遵守し、建築内部の個別的かつ実用的な問題を重視する案という二つの立場が提示された。実用性を優先した審査委員会により、後者に改良案が求められる。改良案の審査をしたゼンパーは、全体配置の中心に宮廷を据えるというコンセプトを提示し、宮廷と一体化したミュージアムの構想案を作製した。それは、実用重視の方針では欠けていた建築の全体的な意味づけを明確化するものであり、同時に19世紀前半以来のミュージアム建築の伝統を大規模に発展させるものだったと解釈できる。また、一貫して都市との関係の中で展開したこのプロジェクトは、19世紀の首都におけるこのビルディングタイプの重要度を示す実例でもあった。

 4-2節では、1870年以降のネオ・ルネサンス様式のミュージアム建築の展開に見られる、内部構成・外部造形両面での多様化を、その背景を考察しつつ論じた。まず、建築内部の新しい要素として、工芸ミュージアムで導入された「光の中庭」に注目した。ガラス天井を持つこのホールは、展示・採光などの実用面に加えて、記念碑的な空間としても発展し、ミュージアムの主要な構成要素として定着していく。さらに同時期、地方都市の小規模な事例では、用途や予算に応じて、「⊥」型などの新しい平面構成が提示されたことが確認された。外部の造型は、当初、イタリア・ルネサンスが中心的な規範として継承されたが、次第に折衷化、多様化する。19世紀終盤には、二つの新しい傾向が顕著になった。一つは、バロック風の堅牢な造型であり、その中には国家や州の記念碑としての性格をあわせ持つ例もあった。もう一つは、工芸・文化史ミュージアムで採用された、各地方のルネサンス建築を範とする造型であり、同時期のミュージアムにおける郷土性の高まりを象徴するものだと解釈できる。

 4-3節では、ベルリンを中心とした新古典主義様式のミュージアム建築の展開を再構成した。ベルリンの中心部には、シンケルや国王F.ヴィルヘルム4世の理想に基づき、1870年頃までに、古代ギリシアの建築表現を集積したミュージアム地区が形成されていた。その理想は、1870年以降の計画にも影響を与える。国家の芸術遺産を収容するために1880年代に開催されたミュージアム島設計競技では、古代ギリシア都市の発掘品収容を象徴するような「芸術のアクロポリス」の構想案も提示された。このような首都の計画の影響は、ブレスラウなどの近傍地域の1870年以降の計画にも見出された。

 1890年代には、従来の左右対称の構成を放棄し、建築単位の集合からなる新しい形式のミュージアムが計画されるようになる。5-1節では、その形式を、当時用いられた「集積(Agglomeration)」という概念をもとに「集積型ミュージアム」と定義し、概要を述べた。この形式は、1890年から約20年間、文化史ミュージアムの新築計画に適用される。その特徴は、建築内部では、コレクションの種類や時代に対応した様々な造形の展示室が計画され、外観では、郷土の歴史的な建築表現による折衷主義的な造型が計画される点にあった。

 5-2節では、集積型の成立に影響を与えたニュルンベルクのゲルマニッシェス・ナツィオナルムゼウムの建築発展を考察した。建築家エッセンヴァインの館長時代に注目し、同時代の雑誌記事、彼の記述、ミュージアムの規約の分析を通して、どのような背景から、その建築の特徴が形成されたかを明らかにした。このミュージアムは、1857年に世俗化された修道院を居所とする。1866年に館長に就任したエッセンヴァインは、設立者が目指した「史料目録作成」を重視する基本方針を、「コレクション」重視の方針へと転換し、ミュージアムの拡大発展を試みた。コレクションの整備・拡大に伴い必要となった展示室は、1870年代から1880年代にかけて段階的に増築された。その過程において、展示室の設えとコレクションとの対応関係が次第に強化される。その結果、従来のミュージアムには見られなかった、建築内部・外部における集積的な構成が確立されていく。

 5-3節では、19世紀終盤から20世紀初頭のドイツにおける雑誌記事の分析を通して、集積型ミュージアムの展開過程が考察されている。1890年代初めに、この形式はベルリンとミュンヘンの設計競技に導入された。その時点では、コレクションに対応した多様な展示室からなる建築内部の計画が重視され、外観には明確なイメージが示されなかった。1890年代後半には、この形式は複数の設計競技で適用されるなど、関心を集めていく。そして1900年のバイエリッシェス・ナツィオナルムゼウム(ミュンヘン)の竣工時には、建築内部の構成に加えて、外部の造型にも、郷土の歴史的な建築表現の集積という特性がアピールされるようになった。しかしその後、展示室の自由度の不足という点から、建築内部の構成手法に批判が加えられる。その状況下、1908年に開館したメルキッシェス・ムゼウム(ベルリン)では、上述した建築外部の造型的意義がより積極的に強調されていた。つまり、集積型は、新しいミュージアム建築の形式として関心を集めたが、展開過程を通して次第に、その基盤にあった建築内部の計画の汎用性が疑問視されていき、他方で、建築外部の造型が、評価の一つの拠り所になっていたことがわかる。このようにミュージアム建築の形式としての一般性が次第に失われていった点に、この形式の短命さの主要な要因があることが指摘されている。

 部分の集合から全体を構成するという計画手法を提示した点では、集積型はその後のミュージアム計画の先駆となった。ただし、その表現の大きな拠り所が、歴史の集積であった点は、19世紀の特性を強く示していた。20世紀のミュージアム計画では、19世紀に求められた歴史との関連性は次第に薄れ、平面構成や展示方法というミュージアム内部の問題が主題となっていく。このような点を明らかにした本論文は、建築史学の発展に寄与するところが大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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