学位論文要旨



No 117941
著者(漢字) 李,明善
著者(英字)
著者(カナ) イ,ミョンソン
標題(和) 韓国における建築文化財成立過程の研究
標題(洋)
報告番号 117941
報告番号 甲17941
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5399号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 助教授 早乙女,雅博
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、韓国における建築文化財概念の成立を探るべく、大きく2つの側面から考察を行った。第一に、植民地時代、60・70年代の文化財保存政策、とくに建築文化財概念の成立過程を追うことである。第二に、1970年代以後、韓国の地で新たに創造された文化財「民俗マウル」におけるその誕生過程と、その現代的意義を検討することである。

 本論文は、2部5章に構成されている。各章の論点を要約すると次のとおりである。

 第1章では、植民地時代の文化財保存政策について

 関野貞は、1909-1911年、3年間の古蹟調査で調査対象を甲乙丙丁の順に価値をつけ、なお保存の順位を決める作業を通して当時の行政側(統監府、朝鮮総督府)の要請による旧建築物の客舎、郡庁、郷校における「価値の無いものを選別する」作業と、関野貞の個人的な関心対象である寺院、石造物の「価値あるものを選別する」作業のためにデータベースを作りあげたことがわかった。これは調査を依頼した行政側、関野貞の個人、両方を満足させる結果でもあったと考えられる。

 1916年に制定された「遺物および古蹟保存規則」(以下、「保存規則」)は韓半島における遺蹟・遺物の把握に重点をおいたことを確認した。しかし、このときの「保存規則」には古建築物はその保存対象には挙がっていないことから、韓半島における文化財保存行政を統括する段階までは至らなかったといえよう。

 1933年の「朝鮮宝物古蹟名勝天然記念物保存令」(以下、「保存令」)は、その保存対象を宝物、古蹟、名勝、天然記念物に分類し、その指定事実を「朝鮮総督府官報」に告示するなど、体系的な保存管理を目指したと思われる。「保存規則」はいわゆる緊急措置の性格が強いといえる一方、「保存令」の場合、「保存規則」の特徴を引き継ぎながらも、当時日本で実行されていた「史蹟名勝天然紀念物保存法」、「国宝保存法」を参考にしたことがわかった。古建築物に関しては以前から朝鮮総督府による古蹟調査の対象ではあったが、「保存令」に基づき、古建築物を宝物に分類し、文化財として取り扱うようになったことが確認できた。とくに、関野貞が作成したと見られる、韓半島における文化財保存制度に関する構想についての文書から、儒学者の住宅を建築文化財として価値付けていることがわかった。つまり、朝鮮時代の儒学者の住宅が「由緒ある場所」として文化財に指定されていたことは、関野貞の物に対する価値基準と何らかの関係があると考えられる。

 植民地時代において社寺の古建築物は早い時期から文化財として社会的合意を得ていたと思われる。これは総督府の文化財保存政策が主導したと思われるが、植民地時代を通して始終変わることなかった。その一方、城門などに対しては管理、管轄当局側の認識程度によって残されるか、取り壊されるかが決められた。つまり、行政側の古建築物に対する認識の相違は、そのまま文化財のカテゴリーに反映され、その残り方にも影響を与えたと考えられる。

 第2章は、60・70年代における文化財保存政策について

 植民地時代における朝鮮総督府中心の文化財保存体制は、引き続き韓国政府における行政中心の文化財保存政策の抜本的な方向を示した。70年代に入ると、文芸中興5ヵ年事業が実施されたが、民族中興の実現が強調され、民族史観の定立と主体的な民族文化の育成が強調されたと考えられる。60・70年代の文化財、特に古建築物に対する保存事業の特徴は、原形保存を大前提にしながら、事業の目的と範囲は、緊急を要する文化財の補修に重点をおいていたことがあげられる。

 この期間を一貫して打ち出された韓国政府による文化政策は、「国難克服の民族史、創造性豊かな文化遺産などを強調し、国民一人一人が自負心を持ち、新しい歴史を創造する使命感と民族中興を指向し、自主的に努力する」ことを要求した。これは文化財保存の側面でも、克明に表れていると考えられるが、文化財補修3ヵ年事業(77-79年)がそれであろう。文化財補修3ヵ年事業は、特に歴史上人物のうち、名臣、儒学者、実学者、国学者などを選定し、彼らのゆかりの場を史蹟として重点的に整備した。

 つまり、このときの史蹟浄化事業は、国民教育機能という意味で、歴史的史実の投影を通して国民の教育道場に創り上げることを最大の目的とした、いわゆる史蹟の創造の意味が大きかったといえる。

 第3章は、伝統的マウルの意味と調査について

 文化財管理局による伝統的マウルを対象とする調査は1960年代の全国民俗調査が最初の試みであり、このときの民俗調査内容は、伝統的マウル内の社会民俗、民間信仰、衣食住生活、民俗芸術、歳時風俗および口碑伝承分野などを中心に調査された。つまり、伝統的マウルは民俗調査の対象、民家の集団分布地域として価値付けられ、その民俗的価値が強調されたことに注目すべきである。

 伝統的マウルは、主に歴史学隣接分野である社会学、文化人類学から研究がなされてきたが、とくに70年代に地域社会に関する関心によって、伝統的マウルの諸様相について議論され始めた。この時期、文化財保存行政側からも、伝統的マウルに関する調査が着手されたが、主に民俗学者が中心となった調査であり、結局消滅の危機にさらされていた伝統的マウルを民俗の側面から価値付けたことがわかった。つまり、学術的に民俗資料の宝庫としてその価値が強調された伝統的マウルは、文化財保存行政側からも残すべきモノとして取り上げられるようになったと考えられる。その後、伝統的マウルは文化財「民俗マウル」としての価値が制度上で明確化されるようになったと考えられる。

 第4章は、文化財「民俗マウル」の形成過程について

 70年代に中央政府によって行われた民俗総合調査は、伝統的マウルに関して「有形無形民俗資料の集合の場」という文化財的価値を生み出したと考えられる。その価値は文化財制度圏内で「民俗マウル」を成立させたのであろう。

 済州道の場合、中央政府の文化財保存方針に従いながらも、伝統的マウルの保存について道独自な施策を施すなど、その保存に積極性を見せているが、その背景には、済州道が推進していた済州観光開発事業の一環として、伝統的マウルの活用が含まれていたことが考えられる。つまり伝統的マウルは、中央の文化財としての価値を保存しようとする政策方針と、済州道の観光開発事業に取り入れようとする両者の思惑が相俟って「民俗マウル」として再編制されたと考えられる。

 70年代始めの、「文化財保護法」には、伝統的マウルのような広域保存を扱うことができる条文が無かったことが確認できた。このとき、民俗資料保護区域制度が用いられたが、その後、集団民俗資料区域が重要民俗資料の指定基準に加わったことによって、文化財保存制度圏上の「民俗マウル」の位置は確立されたことがわかった。しかし、この両区域は行政側でも混用されており、その範囲を決めることにおいても決まった基準がないなど、「民俗マウル」の制度的定義を曖昧にさせる一つの原因として捉えることができよう。

 「民俗マウル」に関する混沌は、「民俗マウル」の文化財指定以前、行われた調査の報告書の記述でも確認できる。つまり、70年代の伝統的マウル調査の際、建築学者の金鴻植氏と張起仁氏は、伝統的マウルを文化財としてどう受け取るかに関しては、見解の食い違いを見せている。金の場合、「学術資料を確保すると同時に国民教育の場、さらに観光資源に活用」させることを「民俗マウル」の役割として挙げて、伝統的マウルの建物復元事業にも積極的な性格をみせていることが分かる。一方、張の場合、「有形無形の民俗資料を総合的に保存するには伝統的マウル全体を指定しなければならない」と指摘している。つまり、文化財に対する資料としての1次的価値と2次的な付加価値、どちらに重点をおくかは、両者にみられる根本的相違として挙げられる。また、両者ともに、文化財保存行政側と住民(地方白治団体含む)の間を恵択-補償の構図で解釈している。このような構図は、指定以後現在に至るまで続いており、保存行政側と住民の葛藤の根本的問題を引き起こしていると考えられる。

 第5章は、文化財「民俗マウル」の誕生以後の歩みについて

 1984年、国の指定を受けた後、行政側と住民の間に「民俗マウル」に対する意見の食い違いが浮き彫りになった。原形保存を重視する、つまり文化財としての「民俗マウル」の厳しい保存方針は、「民俗マウル」に関する数多くの民願申請事態を招いたが、特に民家の増改築と新築に対する要望が相次いでいたことがわかった。国指定以後「民俗マウル」の見直し調査の際、「民俗マウル」は地域観光開発事業の一環として扱われていることがわかった。いわゆる文化観光需要を民俗マウルが受け入れるべきという地方当局の認識は、近年伝統的マウルにおける広域保存の目的が観光地化に変質する最も大きな原因を提供しているともいえよう。「民俗マウル」のほか、「伝統的建造物保存地区」、「文化マウル」などの行政側における伝統的マウルの広域保存に対する試みは、既存「民俗マウル」の限界を行政側自らが認識し、その改善策として行われたと位置付けることができよう。

 韓国における文化財の種目上、伝統的マウルを構成している有形無形の要素は、民俗資料に分類されている。それ故に、伝統的マウルも同じく民俗資料として文化財のカテゴリに吸収されたと思われる。つまり70年代初頭、当時行政側において伝統的マウルは民俗資料、民家などが集中している、文化財の保存管理の側面で非常にいい対象であったことは推測できる。60年代末の民俗学側が中心となった調査から伝統的マウルに対する行政側の接近が始まったことは、民俗資料としての価値が最も重視された原因として考えられる。

 以上で、韓国における建築文化財概念は植民地時代、また60・70年の軍事政権を経ながら、それぞれの時代の当為性を付与するために用いられたことがわかった。その後、伝統的マウルにおける文化財「民俗マウル」の誕生とその変容過程を探ることによって、伝統的マウルに対する現代の価値基準が文化財として露わになっているといえよう。

 この一連の論議を通して、「文化財は価値あるもの」という大前提の裏には創造の過程が潜在している史実に注目する必要があり、その検証作業を通して、物(建築)に対する認識の一面をうかがうことができよう。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、「韓国における建築文化財成立過程の研究」と題されたもので、韓国においての建築文化財の成立過程を明らかにしようとしたものである。論文は2部で構成されている。第一部では、日本統治下の植民地時代における文化財の成立過程、および1960年代、70年代における文化財保護政策の展開過程を取り扱い、第二部では、1970年代以後、韓国内で新た創造された文化財「民族マウル」の誕生と、その文化財としての意味付け、価値付けの展開過程を取り扱う。それぞれの研究内容としては、まず歴史過程の叙述を行い、次に「文化財」としての概念を検討している。

 第一部では、第一章で、植民地時代の文化財保護政策を検討する。関野貞は1909-11年の古蹟調査で、調査対象を甲乙丙丁の4段階に価値を付けた。寺院・石造物は価値が認められ、客舎・郡庁・郷校などは多くが価値がないとされた。これは、関野貞の指向性と行政側(総督府など)の双方の利害を満足させるものであった。具体的な文化財保護施策は、1916年の「遺物および古蹟保存規則」の制定から始まるが、建造物は含まれておらず、1933年の「朝鮮宝物古蹟名勝天然記念物保存命」から建造物が含まれる。この法令は日本で施行されていた「史蹟名勝天然記念物法」「国宝保存法」に準拠している。関野貞は儒学者の住宅を文化財として認識していたことが確認されるが、城門は文化財とはみなされなかった。

 第二章では、1960、70年代の文化財保護政策を論じる。当時の政治課題の中心は、民族史観、民族文化の育成であり、それに従い、歴史上の人物、名臣、儒学者、実学者、国学者らのゆかりの場所を重点的に整備した。これは新しい史蹟の創造と考えられる。

 第二部では、第三章で、伝統的マウル、すなわち伝統的な村が文化財として評価される最初期の動向を探る。民俗学者が調査の主体であり、様々な民俗調査の一つとして民家の調査が実施された。そして、伝統的マウルは民家の集団分布地域と位置づけられた。

 第四章では、文化財としての「民族マウル」の形成過程について検討する。1970年代に政府によって実施された民俗総合調査によって、伝統的マウルには「有形無形民俗資料の集合の場」という新しい文化財的な価値が付され、それに「民俗マウル」という語が充てられた。この新しい文化財価値に対する立場は、2通りあった。一つは、学術史料、国民教育の場、さらに観光資源として活用する、建造物の復元も積極的に行うというもので、もう一つは、有形無形の民俗資料を総合的に保存することが重要で、マウル全体を保護すべきである、というものである。

 第五章は、文化財としての「民俗マウル」誕生以後の展開を検討する。1984年から文化財として「民俗マウル」が指定されるようになったが、原型保存という原則が厳守された。その結果、不自由となって民家の増築・改造の要望が強く出されるようになった。近年の見直し調査では、文化観光的な要素が強くなってきている。

 以上の検討を通して、著者は、韓国における建築文化財概念が、植民地時代以来、それぞれの時代の当為性を表現するために創出されてきた、さらに伝統的マウルの文化財化、「民俗マウル」の誕生においても、当該時代の価値基準が伝統的マウルに投影されたもの、とみている。

 本論は、韓国の文化財成立過程に関して、通史的な大きな枠組を示すと同時に、その準備段階での調査・研究の細部にまで踏み込み、内在的な価値創出の過程を明らかにしようとしたことに最大の特徴がある。従来の研究が、制度史に留まっていたものを、大きく前進させたことに価値がある。戦後の伝統的マウルの制度化、その後の保護施策の展開においても、注意深くその時々の概念形成の過程を抽出している。また、この視点は今後の韓国国内の文化財制度の策定にあたっても、充分検討されるべきものと評価できよう。

 よって、本論分は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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