学位論文要旨



No 117944
著者(漢字) 包,慕萍
著者(英字)
著者(カナ) ホウ,ボヘイ
標題(和) モンゴル地域フフホトにおける都市と建築に関する歴史的研究(1723年-1959年) : 周辺建築文化圏における異文化受容
標題(洋)
報告番号 117944
報告番号 甲17944
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5402号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 長澤,泰
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 助教授 藤井,恵介
内容要旨 要旨を表示する

 本論文はモンゴル地域1の都市と建築の歴史的な変容の過程を、フフホトを中心に述べるものである。当初、万里長城は、中華の農耕文化とモンゴルの遊牧文化の境界線であった。しかしながら18世紀〜19世紀になると、モンゴル地域における伝統的な遊牧都市と建築は、チベット仏教の導入と清朝の版図に編入に伴い、中華文化が境界を超えて流入、浸透することにより、定住的な都市へと変貌を遂げていくことになる。更に、19世紀後半〜20世紀にかけて、西洋の影響を受けることによって、西洋化と技術の近代化が進んでいく。以上のことを踏まえつつ、18世紀〜20世紀迄のモンゴル地域における都市と建築の歴史を系統的に研究し、その確立を行うことが本研究の目的である。

 本論文は、序章・本文・終章により構成される。

 序章では、モンゴル帝国時代の定住都市の中に遊牧要素を複合した都市圏について、先学の研究をもとに更に詳細に考察を加える。モンゴルの都市は、13・14世紀における城壁都市と遊牧生活スタイルと複合して「都市圏」を成立した。ここでは、この城壁都市のモンゴル史における意味と位置づけを明らかにする中で、モンゴルの都市建設活動の歴史的な連続性について言及する。

 4章よりなる本文は3つに大別できる。

 第1章では、まず遊牧都市とその建築の空間構成を明らかにした上で、チベット仏教の導入とその寺院建築について考察する。ここで、16世紀末にチベット仏教がどのようにモンゴルヘ導入されたのか、また、チベット仏教寺院がどのように遊牧都市に取り入れられ構造化し、17世紀に至り定着したことを探る。それをもとに、この時代のモンゴルにおける都市と建築の空間構造の変容過程を明らかにする。具体的には、1550年代〜1720年代のフフホトの都市構造の特徴は、以下のようになる。(1)元朝以来、再びモンゴルで城壁都市を建設したアルタン・ハーンの都城建設計画では、13世紀の元大都を手本に都市機能の整備が試みられた。(2)元朝以来、再びモンゴルに導入されたチベット仏教の寺院建築の発展は、モンゴル建築史において17世紀を代表するものであった。(3)モンゴル人と漢人がそれぞれ遊牧と定住の生活様式を持ち、フフホト城はこの両者を併存させる都市構造になっていた。城にはハーンの宮殿区オルド2があり、その周囲に遊牧民のゲルが張り巡らされ、更に半径3km程の周囲に漢人のバイシンが位置した。清朝の統治が入った1630年代以後、限られた少数の新たな漢人移民がラマ寺院の周囲に定住したが、以上の都市構造がこれによって変わることはなかった。(4)商業空間は市場が主になっていた。駱駝市場は城の中に位置し、北城門のすぐ裏に税局が設置され、そこで商業税が徴収された。

 本論では、この16世紀〜18世紀にかけてのモンゴル・ハーンの統治と仏教秩序の下で一部定住を含めた遊牧都市の形成された時期を、モンゴル地域の都市と建築の「近世」と位置づけた。

 1 18世紀の内モンゴル、外モンゴルを合わせた地域を指す。

 2 モンゴルの移動式の王宮である。

 第2章と第3章では、1723年〜1861年迄の間に、モンゴル地域の都市が多民族化したことによって、かつての遊牧都市がどのように定住都市へと変貌を遂げたか検証する。そこでは、2つの定住過程を明らかにする。1つは、1727年に清朝、ロシアとキャフタ貿易条約を結ぶことによって、中国、ロシア、中央アジアの貿易の中継地となったモンゴル地域に流入する漢人、回民(ムスリム)をはじめとした商業移民の手によって行われた、売買城の形成過程について明らかにする。もう1つは、同じ時代、清朝工部のもとで、モンゴルに新城すなわち満州人旗城が建設されたこと、モンゴルの官署や王府、チベット仏教寺院の空間構造が「中華式」の平面構成を持つ定住型の構造へと変質させられていくこと、を明らかにする。

 第2章では、具体的には、1723年〜1862年にかけて新たに形成された、フフホトの売買城の建築類型及びその空間構造を明らかにする。1760年代に帰化城が貿易都市として確立し、1820年代〜1860年代迄に、その商業の最盛期を迎え、国際的な中継貿易都市として成立する。これによって、モンゴルの仏教中心都市であったフフホトは、貿易都市へと変わっていくことになる。新たに誕生した売買城と呼ばれる都市空間の構造の特徴は次のようである。(1)モンゴル、漢、回民族の多民族が都市住民を構成し、それぞれの民族の宗教、政治施設を中心に民族ごとに棲み分ける形となった。(2)モンゴル人を管理する官署は前代と変わらず城内に位置していたが、この官署施設が、清朝工部の指令に従い「官式」に改築させられ、また、孔子廟、天壇を建設させられ、中華式の建築・都市へと変貌していく。(3)都市計画がなされなかった売買城の空間構造は一見混乱しているが、実は内在する規律を持って造られていた。街区の町割は方形を基本とし、道路は重要度に応じて3段階に幅を変え、更に袋小路を合わせる手法で開発され、商業地と住居地が隣接しながらも、それぞれ独自の町割、構成、雰囲気が生み出されていった。(4)半牧半農によって支えられてきた遊牧都市は、商業の隆盛により定住都市に変身した。しかしながら、商店街の成り立ちや、ラマ寺院の門前広場、都市の各所に、様々な種類の市場が位置することなどに、売買城の中に取り込まれた遊牧都市の空間構成要素を見て取ることができる。

 以上を更に要約すると、(1)遊牧を基盤とした都市から定住を基盤とした都市へと変容した。(2)遊牧生活をしていたモンゴル、チベット住民は全て、この時期から定住のみの生活様式へと変化した。彼らの官署、ラマ寺院、住居、その全てが定住式になった。しかしこの影響は、移民からのものではなく、清朝政府からものであった。(3)山西移民が売買城に山西地方の建築を持ち込み、新しい風土、商業方式に適用させた新たな建築類型を生み出し、北アジアの「チャイナ・タウン」を創出した。

 第3章では、フフホト城の北東約2.5kmの地に、1737年に着工、1739年に竣工した八旗城である綏遠城を通じて、八旗制度により計画されたこの都市及び建築の空間構造を明らかにする。具体的には、満洲八旗城の八旗方位の配置、建築配給における等級制度、八旗城の街区の構成と町割、を中心としてその都市と建築の空間構造を明らかにした。満州八旗城の全ての建物は、標準様式である「官式」に基づき、工部により建設された。

 従来、近代化は、西洋からの影響を中心に捉えられてきた。本論文では、売買城と八旗城という2つの定住への過程を明らかにすることで、西洋の影響より以前からモンゴル地域が受けていた異文化の影響をも踏まえて近代を捉える、つまり近世から近代を捉えるという新しい視点での研究が可能になることを示した。

 第4章では、1862年〜1959年迄の、西洋からの影響によって進む近代化の中で、モンゴル地域の都市と建築がどのように変容したかを考察する。この時期のモンゴル地域の都市と建築は、歴史的に2つに区分できる。すなわち、1860年〜1900年迄の西洋教会建築の流入期と、1900年代〜1959年迄の西洋で発明された近代技術の学習期である。

 19世紀後半〜20世紀初めにかけての、西洋人の教会建築を代表とする西洋建築文化がモンゴルヘの伝来は、外来文化の伝来としては、17世紀のチベット仏教建築文化、18世紀の山西地方及び北京を中心とする官式建築文化などの後に続くものであった。西洋教会建築は、先にモンゴルに定着していた山西民間建築の技術をもとに西洋様式を模倣し、西洋の教会堂空間を造り出した。1910年代〜1920年代にかけて、西洋建築は進んだものという見方がされ、近代技術への学習熱が高まり、民間では商業建築で洋風看板建築が流行していった。1930年代になると、西洋建築の表面的な模倣を脱し、本格的な勉強に基づいた成果が登場した。1930年代〜1940年代にかけて策定、実施されたフフホトの都市計画は、その代表的な例であった。建築家、建設業者の登録制度が始められ、建設活動への管理も政府機関の手で行われた。続いて、1950年代になると、ソ連の影響下に入り、政府建築、大学キャンパス計画、工業地建設などが次第に「ソ連式」になっていった。

 終章ではアジア周辺地域における近代の都市と建築を考察するにあたっての研究視点を述べ、アジアにとっての「近代」を再考した。まず、周辺という言葉を次の3つの意味で使うことを述べた。(1)清朝のアジアでの中心から周辺への統治構造、すなわち本部、藩部、土司、朝貢圏、互市圏といった同心円構造の中で周辺に位置すること。(2)地理的に中国から見て周辺地域に位置すること。この地理的な位置が、後に中国と西洋との貿易の中継地になる条件として必要であった。(3)文化を発信するよりは、むしろ受容する立場に置かれたという意味においての周辺を示すこと。外来文化を受容する立場にあった周辺地域では、17世紀以来、アジアの商業、農業移民を受け、また、後に西洋的な影響を受けたことで社会、都市が大きく変化させられたのである。

 このようなアジアの周辺地域では、近世都市・建築文化の根幹となる都市構造がどう変容したか、華人(漢人)商業移民によって都市と建築にどういった変容が起こったかを知り、その上で、西洋からの影響を検証することが、これらの地域の「近代の変容過程」を知る上で不可欠である。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文はモンゴル地域の都市と建築の歴史的な変容状況を、フフホトを中心に取り上げている。従来、万里長城は中華の農耕文化とモンゴルの遊牧文化の境界線であった。しかしながら、17世紀にモンゴルの遊牧都市は仏教都市へ、18世紀になると、北アジアの中継貿易都市へと変身し、19世紀の後半から西洋の影響を受け、20世紀30年代から日本の植民地都市になった。以上のことを踏まえつつ、18世紀から20世紀までのモンゴル地域における都市と建築の歴史を系統的に研究し、その確立を行うことが、本研究の目的となっている。

 まず、序章では、13,14世紀のモンゴル帝国時代の遊牧生活スタイルが含まれた城壁都市を考察し、モンゴル地域での都市建設活動の歴史的な連続性について言及している。

 第1章では、16世紀末にチベット仏教がどのようにモンゴルヘ導入されたのか、また、その寺院がどのように遊牧都市に取り入れられ構造化し、17世紀に至って定着したのかを探っている。チベット仏教寺院の発展は、モンゴル建築吏において17世紀の時代を代表するものであった。そして、本論では、16世紀から18世紀にかけて形成されたチベット仏教を中心する遊牧都市が、モンゴル地域の都市の「近世」と考えている。

 第2章では、1723年から1861年までの間に、如何に遊牧的宗教都市が定住かつ貿易都市へと変貌を遂げたかを検証している。1727年に清朝がロシアとキャフタ貿易条約を結んでモンゴル地域が中国、ロシア、中央アジアの貿易の中継地となった。1820年代から1860年代までに、その商業の最盛期を迎え、フフホトは国際的な中継貿易都市として成立していた。そして、モンゴル地域で漢人、回民をはじめとした商業移民の手によって売買城が形成されたが、新たに成長した売買城と呼ばれた都市空間の構造は幾つかの特徴にまとめられている。一つ目は、モンゴル、漢、回民族の多民族は都市住民を構成し、それぞれの民族の宗教、政治施設を中心に民族別に住み分ける都市構造に変容したこと。二つ目は、モンゴル人を管理する官署は前代と相変わらずフフホト城内に位置しているが、清朝工部の指令に従い「官式」に改築させられ、中華式の都市へと変貌していくこと。三つ目は、都市計画がなされなかった売買城の空間構造は、一見混乱しているが、実は内在する規律を持ってつくられてきたこと。街区の町割は方形にするのを基本とし、道路は重要度に応じて幅を変えて3段階に分けられ、更に袋小路を合せる手法で開発され、商業地と住居地が隣接しながらも、それぞれ独自の町割、構成、雰囲気が生み出されていったこと。四つ目には、遊牧都市は定住都市に変身したが、商店街の成り立ちや、ラマ寺院の門前広場、都市の各所に様々な種類の市場が位置するということなど、遊牧都市の空間構成が定住都市構造の中に取り込まれていることを示すことなどである。

 第3章では、フフホト城の北東約2.5キロのところに、1739年に竣工された八旗城である綏遠城を通じて、八旗制度により計画されたこの都市及び建築の空間構造を明らかにした。具体的に、八旗方位の配置、建築配給における等級制度、八旗城の街区の構成と町割、を中心してその都市と建築の空間構造を明かにした。これらの建設は、すべて清朝官署建築の標準様式である「官式」で、工部により行われた。

 第4章では、1862年から1959年までの、西洋からの影響によって進む近代化のなかで、モンゴル地域の都市と建築がどのように変容したのかを考察している。1860年から1900年までに西洋教会建築は、先にモンゴルに定着した山西民間建築の技術をベースにしてつくり出された。1900年代から1959年までが西洋で発明された近代技術への学習期となっていた。1910年代から20年代にかけて、民間では商業建築で洋風看板建築が最も流していた。1930年代になると、日本の植民地になり、建築家による都市計画と建設活動が登場した。フフホトでは、1930年代から1940年代にかけて策定、実施された都市計画はその代表的な例であった。続いて、1950年代になると、ソ連の影響下に入り、政府建築、大学キャンパス計画、工業地建設などが次第に「ソ連式」になっていったことを明らかにした。

 終章では、アジア周辺地域における近代の都市と建築を考察するにあたっての研究視点を述べ、アジアにとっての「近代」というものを再考した。まず、周辺という言葉を三つの意味で使うことを定義した。その一つ目は、清朝のアジアでの中心から周辺への統治構造、すなわち本部、藩部、土司、朝貢圏、互市圏といった同心円構造の中で周辺に位置すること。二つ目は、地理的に、中国から見ると周辺地域に位置すること。この地理的な位置が、後に中国と西洋との貿易の中継地になる客観的な条件であった。三つ目は、度重なる外来の都市と建築文化に影響され、自文化が大きな変容を遂げたこと。すなわち、外来文化を受容する立場にあった。このような周辺地域では、17世紀以来、アジアの商業、農業移民を受け、また、後に西洋的な影響を受けたことで社会、都市が大きく変化させられた。本論では、このアジアの周辺地域では、近世都市・建築文化の根幹となる都市構造が変容したかどうか、華人(漢人)商業移民による都市と建築がどういった変容が起きたか、その上に西洋からの影響を検証するのはこれらの地域の「近代的な変容過程」であると考えている。

 以上の通り、本研究では、18世紀から20世紀までのモンゴル地域の都市と建築の成立過程を始めて通史的に明らかにした。そして、アジア周辺地域の北部の例として、アジアの都市と建築の近代化の多様性を示し、今後のアジア近代都市・建築史研究における新たな展開を拓いたものと言えよう。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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